一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます



「……正直。エコー、見るまでは……『困る』『どうしよう』って、思いました」

私は、震える声で正直な気持ちを吐露した。

「でも……今、もう……学位なんて、どうだっていいって、思ってしまってるんです」


「この子が動いてるのを見たら……論文とか、キャリアとか、全部どうでもよくなっちゃって。……ただ、無事に会いたいって。それしか、考えられなくて」


涙を流しながら、私は彼の答えを待った。
きっと彼も同じ気持ちのはずだ。
「俺もだ」と言って、抱きしめてくれるはずだ。
だって、あんなに真剣な目でモニターを見ていたのだから。
しかし。

「…………」

長い、あまりにも長い沈黙が落ちた。
坂上先生は、私の方を見なかった。
膝の上で握りしめられた拳が、微かに震えている。

「……先生?」

不安になって呼びかけると、彼は苦渋に満ちた顔で、ゆっくりと口を開いた。

「……ごめん」

「え……」

「……俺は」

彼は言葉を詰まらせた。
喉仏が上下し、何かを飲み込もうとして、できずに吐き出す。

「お前みたいに……すぐに『どうでもいい』とは、切り替えられない」

「……っ」

冷水を浴びせられたようだった。
彼の脳裏に何が浮かんでいるのか、痛いほど分かってしまった。
あと少しで手に入る博士号。
教授からの期待。

そして──毎月送られてくる「0円」の明細書と、ギリギリの貯金残高。

彼は愛がないわけじゃない。
けれど、愛だけで飯が食えるほど、この世界が甘くないことを骨の髄まで知っているのだ。

「……産むってことは、育てるってことだ。……今の俺の、この状態で……無責任に『なんとかなる』なんて、言えない」

「先生……でも、私……」

「分かってる。……分かってるんだ」

彼は顔を覆った。
外科医としての責任感と、男としての甲斐性のなさが、彼を引き裂いている。

「……悪い」

彼は立ち上がった。
私を見ることもできず、逃げるように背を向けた。

「……考える、時間をくれ」
「あっ……!」

私が伸ばした手は空を切り、カーテンが揺れる音だけを残して、彼は病室を出て行った。
残されたのは、私と、沈黙だけ。
さっきまであんなに温かかったエコーの余韻が、急速に冷えていく。

(……そうだよね)

私はシーツを握りしめた。
御崎先生なら、笑って「産もう」と言ったかもしれない。
彼は坂上先生と同期だけれど、
もう助教というアカデミアのポストを手にしている。
33歳でその地位なら、間違いなく同期でもトップクラスの実力と経済力、そして名誉を手にしているということを意味する。

でも、坂上先生は違う。

彼は持たざる者で、崖っぷちで、だからこそ誰よりも現実を恐れている。

「……ごめんなさい……」

誰に対しての謝罪かも分からず、私は一人、広い病室で泣いた。
彼に「時間をくれ」と言わせてしまった、自分の無計画さが恨めしかった。


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