一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
夕暮れ
それからの1週間は、文字通り嵐のように過ぎた。
泣いている暇も、迷っている暇もなかった。
私は研究室のデスクを整理し、必要な手続きリストを作成すると、一つずつ機械的に、けれど確実に潰していった。
まず、技師長に妊娠を報告した。
「……そうか。おめでとう」
技師長は驚いた顔をした後、すぐに管理職の顔に戻った。
「今の配置だと、夜勤も緊急呼び出しもある。母体に触るといけないから、すぐに人事と調整して検体検査へ異動できるように手配しよう」
業務的な対応が、逆にありがたかった。
それから、研究室の教授にも。
ここが一番の鬼門だった。
「……そうか。で、修士論文はどうするつもりだ」
教授の冷ややかな視線にも、私は怯まなかった。
「データは揃っています。あとは執筆だけですので、自宅で進めます。……今後の有機溶剤を使う実験からは外れます」
私のキャリアがここで停滞することを意味する宣言。
それでも、私は頭を下げて了承を取り付けた。
『堕ろす』という選択肢は、まるで浮かばなかった。
あのエコーの映像。力強く動いていた心臓。
あれを見てしまった以上、私の頭の中は完全に『どうやったら安心して産めるか』ということだけでいっぱいだった。
キャリア? 博士号? 世間体?
そんなものは、この子の命の前では紙切れ同然だ。
夜、静まり返った自室。
ふとスマートフォンの画面を見る。通知はない。
坂上先生から連絡がなかったことに対して、不安がなかったと言えば嘘になる。
「時間をくれ」と言ったまま、彼は逃げてしまうのではないか。
一人で産んで、一人で育てることになるのではないか。
それでも。
「……よし」
私はスマホを伏せ、パソコンに向き直った。
そんな不安に駆られている暇はないのだと、自分に言い聞かせた。
彼がどういう答えを出そうと、私はもう「母親」なのだから。
私がしっかりしなきゃ、誰がこの子を守るのよ。
キーボードを叩く音が、部屋に響く。
それはまるで、自分自身を鼓舞する行進曲のようだった。