一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
ある日の昼下がり。
検査データを届けるために病棟へ上がった時のことだった。
長い廊下の向こうから、見慣れた背の高い影が歩いてくるのが見えた。
(……あ)
足が止まりそうになるのを、必死で堪える。
彼は若い病棟看護師と並んで歩いていた。
何か業務の確認をしているのか、それとも雑談か。看護師が楽しそうに笑い、彼もまた、あの人好きのする爽やかな笑顔を返している。
やっぱり、彼は目立つ。
白衣の着こなし、歩き方、周囲の空気まで自分のものにしてしまうようなオーラ。
遠目からでもわかるほどの圧倒的な「存在感」が、今はひどく眩しく、そして遠い世界の出来事のように感じられた。
すれ違う瞬間。
距離にして、わずか数メートル。
(……気づいた)
彼の肩がわずかに強張ったのを、私は見逃さなかった。
彼も、私に気づいている。
けれど。
彼の視線は、不自然なほど前方に固定されていた。
私の方を見ようともしない。会釈もしない。
まるで、そこに透明人間しかいないかのように。
そして、頑なに私と目を合わせようとはしなかった。
すれ違う風圧だけを残して、彼は私の横を通り過ぎていった。
背後から、看護師の「先生、それでですねー」という明るい声だけが聞こえてくる。
(……傷つかなくていい)
私はカルテを抱きしめる腕に力を込めた。
(……今までだって、そうだったじゃない)
私たちは秘密の関係だ。
職場で他人のふりをするのは、二人の間の暗黙のルール。
だから、これは「通常運転」。彼はルールを守っているだけ。
何も変わっていない。今まで通りだ。
……そう、頭では分かっているのに。
『時間をくれ』
彼の最後の言葉が、呪いのようにリフレインする。
このまま時間が過ぎて、彼が出した答えが「さよなら」だったら?
あの笑顔はもう二度と、私に向けられることはないのかもしれない。
あの背中は、もう私を守ってはくれないのかもしれない。
それでも、もしかしたらダメなのかもしれない。
そんな弱気な不安がふとよぎると、張り詰めていた理性の糸がプツリと切れた。
誰にも見られないように、深く俯いた拍子に。
自然と一滴、涙が溢れ出た。
「……っ」
それは音もなく床のPタイルに落ちて、病院の乾いた空気に吸われて消えた。
私は足を止めず、彼とは逆の方向へ──出口へと歩き続けた。
振り返って彼を目で追うことは、怖くてどうしてもできなかった。