一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
不思議と涙は出なかった。
ただ、胸の奥にすとんと落ちるような、静かな諦めだけがあった。
(……楽しかったな。夢を見られて)
瞼を閉じると、彼と過ごした日々が鮮やかに蘇る。
デートに行った場所でも、美味しい食事でもない。
あの、消毒用エタノールの匂いが充満する、狭くて薄暗い実験室の景色だ。
(一緒に、同じものを追いかけることができて)
今になって、思い出す。
研究室に入ってすぐの頃。
右も左も分からず、ただ彼の背中を追いかけていた春。
細胞培養なんてしたことがなくて、手技がおぼつかなくて。
培地を交換するたびに、インキュベーター(培養器)の中をカビさせては、よく怒られたこと。
『高橋、またコンタミさせたな!? 無菌操作が甘いんだよ!』
『すみません……っ』
PCRだってそうだ。
何度やっても陰性コントロールにバンドが出てしまって、コンタミばかりで。
泣きそうになりながら、深夜まで何度もやり直したっけ。
「お前、向いてないんじゃないか」
そう言われるのが怖くて、必死でピペットを握り続けた。
それでも。
季節が巡り、夏が過ぎる頃には。
私が徹夜で解析したグラフを渡した時。
彼はそれをじっと見つめて、ぶっきらぼうに、けれど確かな温度を持って言ったのだ。
『……ま。大分いいデータ出せるようになってきたな』
たったそれだけの一言が。
どんな甘い愛の言葉よりも、私の胸を震わせた。
認められた。
彼の役に立てた。
彼の隣で、一緒に戦えるパートナーになれた。
それが、何よりも嬉しかった。
(……だから、もう十分だよね)
私はそっと目を開けた。
私の存在が、彼のその「研究」の邪魔になるのなら。
私が身を引くことが、彼への最後の恩返しだ。