一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
しかしプロポーズの余韻が残る中、頭の中には現実的な問題が入り混じりはじめた。
「……でも……先生、実際どうするんですか……?」
感情論だけでは、生活は回らない。私は冷静に現状を分析した。
「私は、修士は正直もう論文書いて、口頭諮問さえパスできれば取れますけど……。先生はあと少なくとも一年あるし……博士課程は英文ジャーナルへの査読を通すことが必須ですよね?」
学位取得のハードルは、圧倒的に彼の方が高い。
今の無給に近い大学院生の身分で、子育てをしながら、インパクトファクターのつく論文を通すなんて、物理的に不可能に近い。
けれど、彼は私の不安を遮るように、短く言い放った。
「大学なんて、今すぐに辞めてやるよ」
「……っ!?」
私は息を飲んだ。
大学を辞める。
それは、彼が何年もかけて、睡眠時間を削り、青春の全てを捧げて追いかけてきた「博士号」も、「留学」も、「教授への道」も──全て捨てるということだ。
今の「大学院生(無給医)」という身分を捨て、市中の一般病院に就職すれば、確かに給料は今の何十倍にもなる。
生活には困らない。裕福な暮らしができるだろう。
でも、それは彼の「夢」の終わりを意味する。
「金なら心配するな。当直でも外勤でも何でも入れて、死ぬ気で稼いでやる」
彼の目は、血走っていた。
それは野心ではなく、悲壮な決意の光だった。
「……馬車馬のように働いて、お前と子供くらい、絶対に不自由なく食わせてやるから」
「で、でも……っ! それじゃあ先生のD論は……キャリアはどうなるんですか!?」
「知ったことか」
彼は吐き捨てるように言った。
「論文なんぞ、紙切れだ。……お前と、腹の中の命より優先されるべきものなんて、俺の中には無い」
あまりにも潔い、究極の選択。
彼は本気だ。私のために、自分の人生の半分を切り捨てて、ただの「労働力」になろうとしている。
その覚悟が嬉しくて、愛おしくて──そして、涙が出るほど申し訳なかった。
私が、彼の翼をもいでしまう。
そんな未来、私が耐えられるわけがない。
「……馬鹿です、先生は」
私は震える声で告げた。
「大馬鹿野郎です」
「あ?」
「……そんなこと、私がさせるわけないじゃないですか」