幼馴染の影と三年目の誤解 ――その笑顔は、私に向かない
第15章 『隼人の“触れられない理由”
深夜になっても、
リビングの灯りは消えなかった。
書類を閉じた隼人は、
ゆっくりと息を吐いた。
由奈はソファの隅でうつむき、
静かに本を閉じている。
視線が交わることはない。
けれどお互いがお互いを意識しているのは、
痛いほど分かる。
(……どうしてだろう。
こんなに近くにいるのに、届かない)
隼人は立ち上がり、
キッチンへ向かった。
冷たい水をコップに注ぎながら、
小さく呟く。
「……由奈」
呼びたいのに、
名前を呼んだだけで胸が締めつけられる。
――さっきの“震えてた”姿が、
頭の中から離れない。
(あいつの前で震えて……
泣きそうになって……
……俺の前でも、あんな顔をしてたのか?)
思い出すだけで苦しくなる。
もし自分が原因なら――
そんなこと、絶対に許せない。
だけど。
もし違うなら――
それもまた、耐えられない。
コップを置く音が、静かに響く。
隼人は自分の手を見つめた。
大きくて、強くて――
人を守るために必要な手。
なのに。
この手で由奈を抱きしめることが、
時々、怖くなる。
(……もしまた、由奈が震えたら。
もし……泣かせたら)
胸がぎゅっと痛んだ。
祐真のことを思い出す。
――泣く女って一番嫌いなんだよ。
――お前じゃ、支えられない。
由奈があの言葉を心のどこかに刻んでしまっていることに、
隼人はまだ気づいていない。
ただ、
“由奈が自分の前で泣くことを極端に恐れている”
という事実だけは、
日々の中で嫌というほど感じていた。
由奈は泣かない。
泣きそうになっても、笑おうとする。
困っても謝る。
苦しくても隠す。
(俺が……追い詰めている?)
そんな最悪の想像が胸をよぎり、
隼人は拳を握った。
⸻
そのときだった。
リビングのソファで
うたた寝してしまった由奈が、
小さく肩を震わせた。
「……っ」
短い息の詰まるような音。
隼人は思わず駆け寄りそうになった。
――が。
足が、止まる。
距離は、あと二歩。
手を伸ばせば、届く。
抱きしめれば、温度に気づく。
名前を呼べば、起きる。
でも。
(……由奈を、泣かせたらどうする……?)
ぎり、と奥歯を噛む。
触れたいのに。
手が震えるほど触れたいのに。
由奈は眠ったまま、
短く息を呑むように胸を上下させている。
(苦しい夢……見てるのか?)
手が伸びそうになる。
でも――
触れた瞬間、
由奈が“自分を怖がるかもしれない”
という恐怖が、
隼人の胸を深く掴んだ。
そして、また……
あの日の光景が、
隼人の脳裏を刺す。
――由奈が泣くと、
自分は何もできなくなる。
あの日、何も言えず、何も救えなかった自分がいる。
「……由奈」
やっとの思いで名前を呼ぶ。
その声に由奈は目を覚まし、
ゆっくりと顔を上げた。
「……ごめんなさい。
寝てしまって……」
謝る必要なんてないのに。
けれど由奈はいつも謝る。
隼人は喉を詰まらせたように言う。
「……由奈。
無理してないか?」
「む、無理なんて……してない……です……」
由奈の声はかすかに震えていた。
隼人は前に出ようとした。
けれど――
また足が止まる。
触れたら壊れてしまいそうで。
触れたら泣かせてしまいそうで。
(どうして……俺はこんなに……
由奈を抱きしめるのが怖い?)
視界が滲むほどの葛藤。
胸の奥が痛んで仕方がない。
その痛みに気づかぬまま、
由奈はそっと微笑んだ。
「大丈夫です。
隼人さんが帰ってくると……安心するから」
隼人は息を飲んだ。
(……どうして。
そんなに俺を信じるんだよ)
その笑顔に、
触れたい。
抱きしめたい。
守りたい。
ただそれだけなのに。
手が震えて、
触れられない。
隼人は目をそらし、
小さく呟いた。
「……ごめん。
今日は……もう休むよ」
由奈も立ち上がり、
そっと頭を下げる。
「……おやすみなさい」
ふたりは同じ家にいながら、
同じ方向を向けないまま夜が更けていく。
――触れたいのに触れられない夫。
――触れてほしいのに言えない妻。
その理由はまだ言葉にならない。
けれど確かに、
ふたりの心の奥で何かが軋み始めていた。
リビングの灯りは消えなかった。
書類を閉じた隼人は、
ゆっくりと息を吐いた。
由奈はソファの隅でうつむき、
静かに本を閉じている。
視線が交わることはない。
けれどお互いがお互いを意識しているのは、
痛いほど分かる。
(……どうしてだろう。
こんなに近くにいるのに、届かない)
隼人は立ち上がり、
キッチンへ向かった。
冷たい水をコップに注ぎながら、
小さく呟く。
「……由奈」
呼びたいのに、
名前を呼んだだけで胸が締めつけられる。
――さっきの“震えてた”姿が、
頭の中から離れない。
(あいつの前で震えて……
泣きそうになって……
……俺の前でも、あんな顔をしてたのか?)
思い出すだけで苦しくなる。
もし自分が原因なら――
そんなこと、絶対に許せない。
だけど。
もし違うなら――
それもまた、耐えられない。
コップを置く音が、静かに響く。
隼人は自分の手を見つめた。
大きくて、強くて――
人を守るために必要な手。
なのに。
この手で由奈を抱きしめることが、
時々、怖くなる。
(……もしまた、由奈が震えたら。
もし……泣かせたら)
胸がぎゅっと痛んだ。
祐真のことを思い出す。
――泣く女って一番嫌いなんだよ。
――お前じゃ、支えられない。
由奈があの言葉を心のどこかに刻んでしまっていることに、
隼人はまだ気づいていない。
ただ、
“由奈が自分の前で泣くことを極端に恐れている”
という事実だけは、
日々の中で嫌というほど感じていた。
由奈は泣かない。
泣きそうになっても、笑おうとする。
困っても謝る。
苦しくても隠す。
(俺が……追い詰めている?)
そんな最悪の想像が胸をよぎり、
隼人は拳を握った。
⸻
そのときだった。
リビングのソファで
うたた寝してしまった由奈が、
小さく肩を震わせた。
「……っ」
短い息の詰まるような音。
隼人は思わず駆け寄りそうになった。
――が。
足が、止まる。
距離は、あと二歩。
手を伸ばせば、届く。
抱きしめれば、温度に気づく。
名前を呼べば、起きる。
でも。
(……由奈を、泣かせたらどうする……?)
ぎり、と奥歯を噛む。
触れたいのに。
手が震えるほど触れたいのに。
由奈は眠ったまま、
短く息を呑むように胸を上下させている。
(苦しい夢……見てるのか?)
手が伸びそうになる。
でも――
触れた瞬間、
由奈が“自分を怖がるかもしれない”
という恐怖が、
隼人の胸を深く掴んだ。
そして、また……
あの日の光景が、
隼人の脳裏を刺す。
――由奈が泣くと、
自分は何もできなくなる。
あの日、何も言えず、何も救えなかった自分がいる。
「……由奈」
やっとの思いで名前を呼ぶ。
その声に由奈は目を覚まし、
ゆっくりと顔を上げた。
「……ごめんなさい。
寝てしまって……」
謝る必要なんてないのに。
けれど由奈はいつも謝る。
隼人は喉を詰まらせたように言う。
「……由奈。
無理してないか?」
「む、無理なんて……してない……です……」
由奈の声はかすかに震えていた。
隼人は前に出ようとした。
けれど――
また足が止まる。
触れたら壊れてしまいそうで。
触れたら泣かせてしまいそうで。
(どうして……俺はこんなに……
由奈を抱きしめるのが怖い?)
視界が滲むほどの葛藤。
胸の奥が痛んで仕方がない。
その痛みに気づかぬまま、
由奈はそっと微笑んだ。
「大丈夫です。
隼人さんが帰ってくると……安心するから」
隼人は息を飲んだ。
(……どうして。
そんなに俺を信じるんだよ)
その笑顔に、
触れたい。
抱きしめたい。
守りたい。
ただそれだけなのに。
手が震えて、
触れられない。
隼人は目をそらし、
小さく呟いた。
「……ごめん。
今日は……もう休むよ」
由奈も立ち上がり、
そっと頭を下げる。
「……おやすみなさい」
ふたりは同じ家にいながら、
同じ方向を向けないまま夜が更けていく。
――触れたいのに触れられない夫。
――触れてほしいのに言えない妻。
その理由はまだ言葉にならない。
けれど確かに、
ふたりの心の奥で何かが軋み始めていた。