幼馴染の影と三年目の誤解 ――その笑顔は、私に向かない

第16章 『麗華の仕掛けた罠』

翌日の午後。
会議室の窓から差し込む日差しが、
書類の白さを際立たせていた。

由奈は資料整理をしながら、
隼人との“昨夜の沈黙”を何度も思い返していた。

(隼人さん……
怒っては、いなかった……
でも……優しくもなかった)

触れたいのに触れられない距離。
話したいのに話せない空気。

心がきゅうっと痛んだ。

そんなときだった。

ガチャ、と会議室の扉が開く。

「片岡さん、少しいいかしら?」

麗華。

その笑顔は完璧に整っていて、
まるで善意のかたまりのように見えた。

由奈の胸がわずかに縮こまる。

「……はい」

麗華は資料棚に寄りかかり、
顎に指を当てる仕草をしながら言った。

「さっきね……隼人から相談されたの」

由奈の指が止まった。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。

(……わ、私の……こと……?)

麗華は眉を下げ、
困ったような微笑みを浮かべた。

「隼人ね……“由奈の距離が最近おかしい”って
すごく悩んでたわよ」

由奈は息を呑む。

(距離……おかしい……?
隼人さん、そんなふうに……)

「あなた、なにかした?
祐真くんとの再会……隼人かなり気にしてたもの」

胸が締めつけられる。

「ち、違います……
私、隼人さんを怒らせたくなくて……
むしろ……“離れないように”って……」

麗華は、あたかも慰めるように
由奈の肩に手を置いた。

「かわいそうに……
隼人、あなたの気持ちに気づいてないのよ」

その言葉は優しいのに、
後ろに刃が潜んでいる。

そして、麗華は少し声を潜めて
核心を刺してきた。

「……隼人、こうも言ってたわ」

由奈の喉が苦しくなる。

「“由奈は、俺を避けてる気がする”って」

「……っ」

由奈の目にうっすら涙がにじむ。

(避けてなんて……
そんなつもり……ひとつもない……)

でも――
隼人から見たら、
そう思われても仕方がない行動ばかりだった。

麗華は由奈の表情を確認しながら、
ゆっくりと追い打ちをかける。

「隼人ね……
“距離を置いたほうがいいのかもしれない”
って言ったの」

ガタン。

資料が手から落ちた。

由奈の顔から血の気が引く。

(距離……を置く……?
隼人さんが……?
私と……?)

麗華は落ちた資料を拾いながら、
わざとらしいため息をつく。

「気にしなくていいのよ?
隼人、優しいから……
嫌いになったとかじゃないと思うの」

麗華はそこでいったん言葉を区切った。

「ただ……ほら。
夫婦って、重い気持ちを押しつけると
男は逃げたくなるものだから」

――重い。

その言葉は、
祐真に言われた“重い女”の記憶と
重なって胸を貫いた。

(私……また……
同じことしてる……?)

麗華は優しく、しかし確実に導く。

「もし距離を置いたほうがいいなら……
隼人のためにも、少し離れた方がいいかもね?」

(離れたほうが……いい……?)

頭が真っ白になる。

麗華は小さく微笑む。

「隼人の心が戻るよう、
私からもフォローしておくわ。ね?」

その“ね?”が決定的だった。

善意を装いながら、
隼人と由奈の心を引き裂く言葉。

由奈は震える声で、
ほとんど聞こえないほどの小ささで答えた。

「……はい」

その瞬間、
麗華の口元がわずかに吊り上がる。

成功を確信したような、
ほんの一秒の“素顔”だった。



夕方。
隼人が「帰る」とメッセージをくれたが、
由奈は怖くて素直に喜べなかった。

(……隼人さんは、距離を置きたいって……
麗華さんに……相談したんだ……)

胸がぐるぐると重くなる。

隼人が帰宅すると、
由奈は笑顔を作って迎えた。

「おかえりなさい……」

「ただいま。由奈……」

隼人は言いかけて止まった。

由奈の表情が不自然なほど固かったからだ。

(……話したい。でも……
距離を置いたほうがいいって……麗華さんが……
隼人さんが……)

知らないうちに、
自分自身が隼人から距離を取ってしまう。

隼人は戸惑いと不安を隠せない。

「由奈……どうした?
なにかあったのか?」

「い……いえ……
なんでも、ありません……」

また“嘘”をつく。

また“隠す”。

麗華の罠に、
由奈の心はもう完全に絡め取られていた。

――夫婦の距離は、
今がいちばん遠い。

その事実に、
隼人も由奈も気づけないまま
夜が深く落ちていった。
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