君と見た花火は、苦情だらけ
第10話 信用が崩れる日
金曜の昼下がり、印刷会社の受付カウンターにはインクと紙の混ざった匂いが漂っていた。
「こちらで最終確認お願いします」
担当者が両手で抱えてきた束を、カウンター越しにそっと置く。
フリーペーパー最新号の色校正。
表紙には、「温もりを求める瞳・第二章」と大きく打たれている。
「……見出し、ちゃんと出てますね」
詩織は、一枚目を光にかざした。
二階の廊下の写真。
朝の柔らかい光が床に落ちる様子が、思っていたよりもきちんと色になっている。
「ここの文字、もう少しだけ太くできますか?」
「大丈夫ですよ。見出しのウェイト、一段階上げておきます」
担当者は慣れた手つきでモニターを操作しながら答える。
色と文字の確認を終え、詩織は署名欄にサインをして原稿を預けた。
印刷会社を出ると、外の空気は少し湿り気を帯びている。
空には厚い雲。
夕方には雨になるかもしれない。
「センターに戻る前に……」
手帳をちらりと見て、詩織は歩く方向を変えた。
本社ビルは、印刷会社と川辺センターのちょうど中間くらいにある。
フリーペーパーの納品先一覧の確認を、ついでに総務担当に伝えておきたかった。
ガラス張りのエントランスに入ると、空調の冷気が肌にまとわりつく。
自動ドアの向こうで、社員証を首からさげた人たちが足早に行き交っていた。
「……やっぱり、ここの空気、まだ慣れないな」
受付カウンターで来客用のカードを受け取り、「総務フロアに」と告げる。
エレベーターを待つあいだ、ふと視界の端に何かが落ちているのが見えた。
白い紙束が、ロビーのソファの横に半分はみ出すように置かれている。
誰かが席を立つときに、資料を落としたのだろう。
「すみません、これ……」
受付に持っていこうと、詩織は紙束を拾い上げた。
表紙の文字が、視界に飛び込んでくる。
『川辺センター 取り壊し時収支シミュレーション(詳細案)』
心臓が、ひとつ強く跳ねた。
指先が勝手にページの右下へ動く。
作成者欄。
そこに書かれていた名前を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが流れ込んだ。
『作成:スターツホームズ 地域活性担当 相沢一輝』
「……」
手の中の紙が、少しだけ重くなる。
中身を見るつもりはなかった。
けれど、視界の端に飛び込んできた数字とグラフが、勝手に意味をつなぎ始める。
『既存建物解体費』『新築工事費』『テナント単価想定』『分譲収入見込み』。
ページの上部には、小さく「住民説明時の想定シナリオ(案)」という文字も見えた。
――取り壊し「前提」の、詳細な計画。
――その作成者欄に、自分が名前を呼んできた人の署名。
昨日、喫茶コーナーで聞いた言葉が頭をよぎる。
「ここを離れて本社に戻るのか、それとも、もう少し現場に留まるのか」
「全部を新しくしてしまうのではなく、『ちょうどいい』と感じている人たちの視点を残したい」
視点を残したい、と言ったその人が、ここでは「取り壊し時」の数字を、抜け漏れなく整えている。
足音が近づいてきた。
スーツ姿の男性が、慌てた様子で詩織の目の前まで来る。
「あ、それ、すみません! 僕の資料です」
「落ちていたので……」
詩織は、とっさに表紙を伏せて両手で差し出した。
男性は礼を述べながら紙束を受け取り、ページをぱらぱらと確認する。
「いやー、これ落としてたら殺されるところでしたよ。川辺の案件、今うちの会社でもトップクラスで注目されてて」
「そうなんですね」
自分の声が、どこか遠くで響いているように聞こえた。
「これ通ったら、相沢さんも本社戻り確定なんじゃないですかね」
男性は半分独り言のように言い、足早にロビーを後にする。
取り残された場所で、詩織はしばらく動けなかった。
――これ通ったら、相沢さんも本社戻り。
さっきの一言が、頭の中で何度もリピートされる。
昨日、喫茶で聞いた「まだ腹をくくれていない」という言葉との距離が、一気に遠ざかった気がした。
「……知らないところで、話、進んでるじゃない」
誰に向けたのかわからない声が、喉の奥から漏れた。
◇
その夜。
川辺センター二階の教室には、いつもより強めの蛍光灯の光が落ちていた。
ホワイトボードには、「住民ヒアリング まとめ案」と書かれた紙が貼られている。
丸テーブルの上には、今日の講座で集めたアンケート用紙が並んでいた。
詩織は、その一枚一枚をファイルに綴じながら、何度も同じフレーズを目でなぞった。
『この廊下の幅が好きです』
『古くても、ここに来ると落ち着く』
『なくなったら寂しい』
ペンを動かす手が、わずかに止まる。
――取り壊し時収支シミュレーション。
――相沢一輝。
頭の中で、昼に見た文字が浮かんでは消える。
教室のドアが軽くノックされた。
「入っていいですか」
聞き慣れた声。
詩織は反射的に背筋を伸ばした。
「どうぞ」
ドアが開き、一輝が顔を出す。
ネクタイは少し緩み、手には資料の入った青いファイル。
「ヒアリングのまとめ、進んでますか」
「はい。今日の分はひと通り整理しました」
口調はいつも通り。
けれど、自分の声の温度が、いつもより数度低いことを自覚していた。
一輝も、それを感じ取ったのか、教室の真ん中まで来てから足を止める。
「……何か、ありましたか」
真正面からそう聞かれ、詩織はファイルから視線を上げた。
「昼に、本社に行きました」
「印刷会社の帰りに、ですね」
「知ってたんですか」
「総務から、『川辺センターのフリーペーパーの入稿担当が来る』と連絡があったので」
「そうですか」
詩織は、机の端に置いた自分の手帳をぎゅっと握った。
「ロビーで、資料を拾いました」
一輝の表情が、わずかに固くなる。
「川辺センター取り壊し時の収支シミュレーション。作成者欄に――」
「……僕の名前があった」
言葉を継ぐように、一輝がうなずいた。
「そうです」
教室の空気が、ふっと重くなる。
蛍光灯の音だけが、天井のどこかで鳴っていた。
「どうして、何も言わなかったんですか」
詩織の声は、静かだった。
静かすぎて、自分で少し驚く。
「取り壊し前提の資料を作っていること。
この数字が通ったら、本社に戻る話が進むかもしれないこと」
一輝は、手に持った青いファイルを胸の前で持ち直した。
「言うタイミングを待っていました」
「タイミング」
「はい。段階案やリノベ案の数字も揃えてから、まとめて話したほうがいいと思って」
「『いいと思って』」
詩織は、机の端から一枚の紙を取り上げた。
今日のヒアリングで配った用紙のコピー。
「ここに書いてくれた人たちは、自分の言葉をその場で差し出してくれました。
『ここが好き』『なくなったら寂しい』って。
怖がりながらも、その場で口にしてくれたんです」
紙の文字を指先でなぞる。
「それなのに、一輝さんは、自分のしていることを隠してました」
「隠していたつもりは」
「じゃあ、なんですか」
声が、少しだけ上ずる。
「守ってくれてたんですか? 私が知ったら傷つくと思って」
一輝は黙り込んだ。
沈黙そのものが、答えみたいに思えた。
「……卑怯だと思いました」
自分の口から出た言葉に、詩織自身も息をのむ。
けれど、一度口を開いてしまった思いは、もう戻らない。
「会議室では、『ちょうどいいを残したい』って言ってくれて。
このセンターの『好き』を集めたいって、私にも力を貸してくれて。
その裏で、『全部壊したときの数字』をきっちり整えてる」
机の上のアンケート用紙が、視界の端で滲んだ。
「どっちが本当なんですか」
「どっちも、本当です」
一輝は、低い声で言った。
「会社の人間として、取り壊し案の数字を出すことも僕の仕事です。
現場の人間として、『好き』を拾い集めることも、僕がやりたいことです」
「じゃあ、どうしてそれをそのまま言ってくれなかったんですか」
「……言っても、理解されないかもしれないと思ったからです」
「誰に」
「会社にも、現場にも」
答えながら、自分でも苦笑したような表情を浮かべている。
「どっちの顔も本物だと言っても、『都合のいいことを言っている』と受け取られるかもしれない。
だから、数字を出すときは数字の顔だけ、現場にいるときは現場の顔だけ、見せるようにしていました」
「……それ、結局『どっちにも本気じゃない』って思われませんか」
詩織の声に、かすかに震えが混じる。
「私、ずっと嬉しかったんです」
視界が、少しぼやけた。
「会議室で『ただいまが言いやすい場所』の話をしてくれたことも。
二階の廊下の話をわざわざ本社に持って行ってくれたことも。
仕事としてだけじゃなくて、『好き』って気持ちをちゃんと見てくれてるんだって」
一輝が、何か言おうとして口を開く。
けれど、その前に言葉がこぼれた。
「なのに、取り壊しの資料の作成者欄に、当たり前みたいに名前があって。
『これ通ったら、本社戻りだな』って、ロビーで聞いて」
喉の奥に、熱いものと冷たいものが同時に詰まる。
「私たち、同じ景色を見てると思ってたんです」
教室の空気が、一瞬止まる。
「二階の廊下の話をしたときも。
『温もりを求める瞳』の特集を一緒に考えてくれたときも。
このセンターの『ちょうどいい』を守りたいって言ったときも。
同じ方向を見てるって、勝手に思ってました」
涙が、視界の端で重力に負ける。
慌てて袖で拭うが、追いつかない。
「でも、一輝さんは、私の見えないところで別の景色を見てたんですね」
一輝は、一歩踏み出した。
けれど、その先の足が床に貼りついたように動かない。
「違います。別の景色を見ていたわけじゃなくて……」
「だったら、どうして河川敷に来なかったんですか」
詩織の言葉に、一輝は息を飲んだ。
「昨日、メッセージくれましたよね。
『仕事の話も、そうじゃない話も、ちゃんとしたい』って」
河川敷のベンチ。
折りたたんだ紙。
「君と見た花火」の文字。
「会議が長引いたのはわかります。
でも、『遅れる』って一言送ることはできたはずです」
スマホの画面。
点滅していた通知。
言い訳しようと思えば、いくつも言葉が見つかる。
「それも、『タイミングを待っていた』ですか」
言葉が、喉の奥で固まる。
教室の蛍光灯が、いつもより白く眩しく感じられた。
「……ごめんなさい」
一輝は、かろうじてそう絞り出した。
「河川敷に行ったとき、詩織さんはいませんでした。
ベンチに、紙が一枚だけ置いてあって」
「紙?」
「『君と見た花火のこと、いつかちゃんと話したい』って書いてありました」
詩織の肩が、小さく揺れる。
「僕は、その紙を持ち帰りました。本当は、元の場所に戻すべきだったのかもしれないのに」
「……なんで持って帰ったんですか」
「自分の都合のいいタイミングで、ちゃんと話を聞こうとしていたからです」
言いながら、自分で自分にうんざりする。
「川辺センターの数字も、『好き』の言葉も、詩織さんの気持ちも、全部『後でちゃんとやる』っていう箱に入れてたんだと思います」
詩織は、涙でにじんだ視界の向こうに、一輝の顔をぼんやりと見た。
「……それ、信用していいって、どうやって思えばいいんですか」
言ったあとで、胸のどこかが少しだけ軽くなった。
代わりに、教室の空気がひりつく。
「ごめんなさい。今日は、これ以上話しても、たぶん私、ちゃんと聞けないです」
詩織は、ノートとペンをかき集め、椅子を引いた。
足元が少しふらつく。
「詩織さん」
一輝が呼び止める。
「僕は、ここを守りたいと思っています。本当に」
「その『本当に』を信じるための時間が、今は足りないです」
それだけ言い残し、教室のドアを開けた。
◇
廊下に出た瞬間、涼しい風の代わりに、別の気配にぶつかった。
「おっと」
資料の束を抱えた千妃呂が、慌てて身を引く。
「ごめん、ぶつかっちゃったね」
「いえ、こちらこそ……」
詩織は、視線を落としたまま頭を下げる。
千妃呂は、一瞬で状況を察したのか、廊下の端のベンチを指した。
「そこ、座る?」
「大丈夫です。まだ講座の資料も残ってるので」
「資料なら、明日でも片づけられるよ」
千妃呂は穏やかな声で言った。
「でも、その顔は、今日のうちにどこかに置いていったほうがいい」
詩織は、ベンチに腰を下ろした。
膝の上で、ノートとペンをぎゅっと握りしめる。
「……私、同じ景色を見てるって、勝手に思ってました」
「相沢さんと?」
「はい」
千妃呂は、資料の束を自分の膝に乗せ直した。
「同じ景色を見てるって思いたくなる人がいるのは、悪いことじゃないよ」
「でも、違ったみたいで」
「違う景色を見てる部分もあった、ってことじゃない?」
詩織は、答えられずに黙り込んだ。
廊下の先の窓から、うっすらと夜の川が見える。
「信用ってさ」
千妃呂が、言葉を選びながら口を開く。
「『同じ景色を見てる』って思うことで育つ部分と、『違う景色を見てるのを知っても、まだ隣にいていいと思える』ことで育つ部分と、両方あると思うんだよね」
「……今は、その両方がぐちゃぐちゃです」
「ぐちゃぐちゃなら、まだいいよ」
千妃呂は小さく笑った。
「なにも感じなくなったら、そのときこそ、信用が本当に壊れたときだから」
詩織は、膝の上のノートを見つめた。
河川敷のベンチに置いたメモのことを思い出す。
――君と見た花火のこと、いつかちゃんと話したい。
その「いつか」が、今日ではなかったことだけは、はっきりしている。
◇
一方、教室にひとり残された一輝は、ホワイトボードの前で立ち尽くしていた。
足元には、今日のヒアリングで使った椅子が丸く並んでいる。
昼間は賑やかな声で満たされていた空間が、今は機械のような蛍光灯の音だけを響かせていた。
机の上には、青いファイルと、住民アンケートの束。
「好き」の文字が、やけにまぶしく目に入る。
ドアがノックもなく開いた。
「お邪魔します」
圭良が、紙コップ片手に入ってくる。
「さっき、廊下で千妃呂さんと詩織さん見ました」
「見てましたか」
「見えちゃいました」
圭良は、教室の真ん中まで歩いてきて、一輝の隣に立った。
「だいぶ、派手に崩れましたね。信用」
「……見てましたか」
「音でだいたいわかります」
圭良は、紙コップを軽く傾けながら言った。
「怒鳴り声が聞こえなかったのは、むしろちょっと怖いですけど」
一輝は、ホワイトボードに貼られた紙を見上げた。
「川辺センターの『好き』」
「変わっても残してほしいこと」。
「僕は、何をしてるんでしょうね」
「仕事してますよ」
「仕事だけ、してますかね」
圭良は、紙コップを机の端に置いた。
「相沢さんには、顔が二つあるじゃないですか」
「会社の顔と、現場の顔ですか」
「そうそう」
窓の外の川面が、教室のガラスにうっすら映っている。
「どっちの顔も本物なんだと思いますよ」
圭良は、静かに続けた。
「会社の会議室で数字を守ってる相沢さんも。
二階の廊下で『好き』を聞いてる相沢さんも」
「本物なら、どうしてこうなるんですかね」
「どっちも隠してるからじゃないですか」
あまりにもあっさりと言われ、一輝は思わず顔を向けた。
「会社には、『好き』を隠してる。
現場には、『取り壊し時の数字』を隠してる。
どっちの顔も見せてない相手から、『信じてください』って言われたら、そりゃ困ります」
「……それをしたくないから、タイミングを見計らってたつもりだったんですけど」
「タイミングを見てるあいだに、信用って勝手に動きますからね」
圭良は、ホワイトボードの端に寄りかかった。
「こっちが準備できたときには、相手のほうがもう別の場所まで行ってたりする」
河川敷のベンチ。
置き去りのメモ。
今日の教室。
どれも、「準備ができるのを待っているあいだ」に、別の形をしてしまった。
「どうすればよかったんでしょう」
「知らないです」
圭良は、あっさりと言い切った。
「ただ、ひとつだけ言えるのは――」
彼は、机の上のアンケート用紙を一枚手に取った。
『二階の廊下で、人の一日が流れていくのを見るのが好き』と書かれた紙。
「こういう『好き』を集めるって決めたなら、自分の『好き』と『怖い』も、同じテーブルの上に出さないと、誰も信用してくれないってことです」
一輝は、紙から目を離せなかった。
――自分の『好き』と『怖い』。
会社に嫌われるのが怖い。
現場に裏切り者だと思われるのが怖い。
何より、「本社に戻る」という選択を自分が望んでいるかどうかを、はっきり認めるのが怖い。
圭良は、紙をそっと元の場所に戻し、一輝の肩を軽く叩いた。
「まだ、終わったわけじゃないですよ。
信用が崩れた日って、あとから振り返ると、『ここからちゃんと向き合い始めた日』になることもあるんで」
「保証は」
「ありません」
即答だった。
「でも、保証があるとしたら、それは『次に何をするか』だけですよね」
教室の蛍光灯が、少しだけ暖かく感じられた。
外の川には、街灯の光が揺れている。
信用が崩れた日。
同じ景色を見ていると思っていた人と、違う風景を抱えていることが浮き彫りになった日。
そこから先に、何を積み上げるのか。
一輝は、胸ポケットの中のボールペンを握りしめた。
詩織から預かったままのペン。
インクは、まだ残っている。
「こちらで最終確認お願いします」
担当者が両手で抱えてきた束を、カウンター越しにそっと置く。
フリーペーパー最新号の色校正。
表紙には、「温もりを求める瞳・第二章」と大きく打たれている。
「……見出し、ちゃんと出てますね」
詩織は、一枚目を光にかざした。
二階の廊下の写真。
朝の柔らかい光が床に落ちる様子が、思っていたよりもきちんと色になっている。
「ここの文字、もう少しだけ太くできますか?」
「大丈夫ですよ。見出しのウェイト、一段階上げておきます」
担当者は慣れた手つきでモニターを操作しながら答える。
色と文字の確認を終え、詩織は署名欄にサインをして原稿を預けた。
印刷会社を出ると、外の空気は少し湿り気を帯びている。
空には厚い雲。
夕方には雨になるかもしれない。
「センターに戻る前に……」
手帳をちらりと見て、詩織は歩く方向を変えた。
本社ビルは、印刷会社と川辺センターのちょうど中間くらいにある。
フリーペーパーの納品先一覧の確認を、ついでに総務担当に伝えておきたかった。
ガラス張りのエントランスに入ると、空調の冷気が肌にまとわりつく。
自動ドアの向こうで、社員証を首からさげた人たちが足早に行き交っていた。
「……やっぱり、ここの空気、まだ慣れないな」
受付カウンターで来客用のカードを受け取り、「総務フロアに」と告げる。
エレベーターを待つあいだ、ふと視界の端に何かが落ちているのが見えた。
白い紙束が、ロビーのソファの横に半分はみ出すように置かれている。
誰かが席を立つときに、資料を落としたのだろう。
「すみません、これ……」
受付に持っていこうと、詩織は紙束を拾い上げた。
表紙の文字が、視界に飛び込んでくる。
『川辺センター 取り壊し時収支シミュレーション(詳細案)』
心臓が、ひとつ強く跳ねた。
指先が勝手にページの右下へ動く。
作成者欄。
そこに書かれていた名前を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが流れ込んだ。
『作成:スターツホームズ 地域活性担当 相沢一輝』
「……」
手の中の紙が、少しだけ重くなる。
中身を見るつもりはなかった。
けれど、視界の端に飛び込んできた数字とグラフが、勝手に意味をつなぎ始める。
『既存建物解体費』『新築工事費』『テナント単価想定』『分譲収入見込み』。
ページの上部には、小さく「住民説明時の想定シナリオ(案)」という文字も見えた。
――取り壊し「前提」の、詳細な計画。
――その作成者欄に、自分が名前を呼んできた人の署名。
昨日、喫茶コーナーで聞いた言葉が頭をよぎる。
「ここを離れて本社に戻るのか、それとも、もう少し現場に留まるのか」
「全部を新しくしてしまうのではなく、『ちょうどいい』と感じている人たちの視点を残したい」
視点を残したい、と言ったその人が、ここでは「取り壊し時」の数字を、抜け漏れなく整えている。
足音が近づいてきた。
スーツ姿の男性が、慌てた様子で詩織の目の前まで来る。
「あ、それ、すみません! 僕の資料です」
「落ちていたので……」
詩織は、とっさに表紙を伏せて両手で差し出した。
男性は礼を述べながら紙束を受け取り、ページをぱらぱらと確認する。
「いやー、これ落としてたら殺されるところでしたよ。川辺の案件、今うちの会社でもトップクラスで注目されてて」
「そうなんですね」
自分の声が、どこか遠くで響いているように聞こえた。
「これ通ったら、相沢さんも本社戻り確定なんじゃないですかね」
男性は半分独り言のように言い、足早にロビーを後にする。
取り残された場所で、詩織はしばらく動けなかった。
――これ通ったら、相沢さんも本社戻り。
さっきの一言が、頭の中で何度もリピートされる。
昨日、喫茶で聞いた「まだ腹をくくれていない」という言葉との距離が、一気に遠ざかった気がした。
「……知らないところで、話、進んでるじゃない」
誰に向けたのかわからない声が、喉の奥から漏れた。
◇
その夜。
川辺センター二階の教室には、いつもより強めの蛍光灯の光が落ちていた。
ホワイトボードには、「住民ヒアリング まとめ案」と書かれた紙が貼られている。
丸テーブルの上には、今日の講座で集めたアンケート用紙が並んでいた。
詩織は、その一枚一枚をファイルに綴じながら、何度も同じフレーズを目でなぞった。
『この廊下の幅が好きです』
『古くても、ここに来ると落ち着く』
『なくなったら寂しい』
ペンを動かす手が、わずかに止まる。
――取り壊し時収支シミュレーション。
――相沢一輝。
頭の中で、昼に見た文字が浮かんでは消える。
教室のドアが軽くノックされた。
「入っていいですか」
聞き慣れた声。
詩織は反射的に背筋を伸ばした。
「どうぞ」
ドアが開き、一輝が顔を出す。
ネクタイは少し緩み、手には資料の入った青いファイル。
「ヒアリングのまとめ、進んでますか」
「はい。今日の分はひと通り整理しました」
口調はいつも通り。
けれど、自分の声の温度が、いつもより数度低いことを自覚していた。
一輝も、それを感じ取ったのか、教室の真ん中まで来てから足を止める。
「……何か、ありましたか」
真正面からそう聞かれ、詩織はファイルから視線を上げた。
「昼に、本社に行きました」
「印刷会社の帰りに、ですね」
「知ってたんですか」
「総務から、『川辺センターのフリーペーパーの入稿担当が来る』と連絡があったので」
「そうですか」
詩織は、机の端に置いた自分の手帳をぎゅっと握った。
「ロビーで、資料を拾いました」
一輝の表情が、わずかに固くなる。
「川辺センター取り壊し時の収支シミュレーション。作成者欄に――」
「……僕の名前があった」
言葉を継ぐように、一輝がうなずいた。
「そうです」
教室の空気が、ふっと重くなる。
蛍光灯の音だけが、天井のどこかで鳴っていた。
「どうして、何も言わなかったんですか」
詩織の声は、静かだった。
静かすぎて、自分で少し驚く。
「取り壊し前提の資料を作っていること。
この数字が通ったら、本社に戻る話が進むかもしれないこと」
一輝は、手に持った青いファイルを胸の前で持ち直した。
「言うタイミングを待っていました」
「タイミング」
「はい。段階案やリノベ案の数字も揃えてから、まとめて話したほうがいいと思って」
「『いいと思って』」
詩織は、机の端から一枚の紙を取り上げた。
今日のヒアリングで配った用紙のコピー。
「ここに書いてくれた人たちは、自分の言葉をその場で差し出してくれました。
『ここが好き』『なくなったら寂しい』って。
怖がりながらも、その場で口にしてくれたんです」
紙の文字を指先でなぞる。
「それなのに、一輝さんは、自分のしていることを隠してました」
「隠していたつもりは」
「じゃあ、なんですか」
声が、少しだけ上ずる。
「守ってくれてたんですか? 私が知ったら傷つくと思って」
一輝は黙り込んだ。
沈黙そのものが、答えみたいに思えた。
「……卑怯だと思いました」
自分の口から出た言葉に、詩織自身も息をのむ。
けれど、一度口を開いてしまった思いは、もう戻らない。
「会議室では、『ちょうどいいを残したい』って言ってくれて。
このセンターの『好き』を集めたいって、私にも力を貸してくれて。
その裏で、『全部壊したときの数字』をきっちり整えてる」
机の上のアンケート用紙が、視界の端で滲んだ。
「どっちが本当なんですか」
「どっちも、本当です」
一輝は、低い声で言った。
「会社の人間として、取り壊し案の数字を出すことも僕の仕事です。
現場の人間として、『好き』を拾い集めることも、僕がやりたいことです」
「じゃあ、どうしてそれをそのまま言ってくれなかったんですか」
「……言っても、理解されないかもしれないと思ったからです」
「誰に」
「会社にも、現場にも」
答えながら、自分でも苦笑したような表情を浮かべている。
「どっちの顔も本物だと言っても、『都合のいいことを言っている』と受け取られるかもしれない。
だから、数字を出すときは数字の顔だけ、現場にいるときは現場の顔だけ、見せるようにしていました」
「……それ、結局『どっちにも本気じゃない』って思われませんか」
詩織の声に、かすかに震えが混じる。
「私、ずっと嬉しかったんです」
視界が、少しぼやけた。
「会議室で『ただいまが言いやすい場所』の話をしてくれたことも。
二階の廊下の話をわざわざ本社に持って行ってくれたことも。
仕事としてだけじゃなくて、『好き』って気持ちをちゃんと見てくれてるんだって」
一輝が、何か言おうとして口を開く。
けれど、その前に言葉がこぼれた。
「なのに、取り壊しの資料の作成者欄に、当たり前みたいに名前があって。
『これ通ったら、本社戻りだな』って、ロビーで聞いて」
喉の奥に、熱いものと冷たいものが同時に詰まる。
「私たち、同じ景色を見てると思ってたんです」
教室の空気が、一瞬止まる。
「二階の廊下の話をしたときも。
『温もりを求める瞳』の特集を一緒に考えてくれたときも。
このセンターの『ちょうどいい』を守りたいって言ったときも。
同じ方向を見てるって、勝手に思ってました」
涙が、視界の端で重力に負ける。
慌てて袖で拭うが、追いつかない。
「でも、一輝さんは、私の見えないところで別の景色を見てたんですね」
一輝は、一歩踏み出した。
けれど、その先の足が床に貼りついたように動かない。
「違います。別の景色を見ていたわけじゃなくて……」
「だったら、どうして河川敷に来なかったんですか」
詩織の言葉に、一輝は息を飲んだ。
「昨日、メッセージくれましたよね。
『仕事の話も、そうじゃない話も、ちゃんとしたい』って」
河川敷のベンチ。
折りたたんだ紙。
「君と見た花火」の文字。
「会議が長引いたのはわかります。
でも、『遅れる』って一言送ることはできたはずです」
スマホの画面。
点滅していた通知。
言い訳しようと思えば、いくつも言葉が見つかる。
「それも、『タイミングを待っていた』ですか」
言葉が、喉の奥で固まる。
教室の蛍光灯が、いつもより白く眩しく感じられた。
「……ごめんなさい」
一輝は、かろうじてそう絞り出した。
「河川敷に行ったとき、詩織さんはいませんでした。
ベンチに、紙が一枚だけ置いてあって」
「紙?」
「『君と見た花火のこと、いつかちゃんと話したい』って書いてありました」
詩織の肩が、小さく揺れる。
「僕は、その紙を持ち帰りました。本当は、元の場所に戻すべきだったのかもしれないのに」
「……なんで持って帰ったんですか」
「自分の都合のいいタイミングで、ちゃんと話を聞こうとしていたからです」
言いながら、自分で自分にうんざりする。
「川辺センターの数字も、『好き』の言葉も、詩織さんの気持ちも、全部『後でちゃんとやる』っていう箱に入れてたんだと思います」
詩織は、涙でにじんだ視界の向こうに、一輝の顔をぼんやりと見た。
「……それ、信用していいって、どうやって思えばいいんですか」
言ったあとで、胸のどこかが少しだけ軽くなった。
代わりに、教室の空気がひりつく。
「ごめんなさい。今日は、これ以上話しても、たぶん私、ちゃんと聞けないです」
詩織は、ノートとペンをかき集め、椅子を引いた。
足元が少しふらつく。
「詩織さん」
一輝が呼び止める。
「僕は、ここを守りたいと思っています。本当に」
「その『本当に』を信じるための時間が、今は足りないです」
それだけ言い残し、教室のドアを開けた。
◇
廊下に出た瞬間、涼しい風の代わりに、別の気配にぶつかった。
「おっと」
資料の束を抱えた千妃呂が、慌てて身を引く。
「ごめん、ぶつかっちゃったね」
「いえ、こちらこそ……」
詩織は、視線を落としたまま頭を下げる。
千妃呂は、一瞬で状況を察したのか、廊下の端のベンチを指した。
「そこ、座る?」
「大丈夫です。まだ講座の資料も残ってるので」
「資料なら、明日でも片づけられるよ」
千妃呂は穏やかな声で言った。
「でも、その顔は、今日のうちにどこかに置いていったほうがいい」
詩織は、ベンチに腰を下ろした。
膝の上で、ノートとペンをぎゅっと握りしめる。
「……私、同じ景色を見てるって、勝手に思ってました」
「相沢さんと?」
「はい」
千妃呂は、資料の束を自分の膝に乗せ直した。
「同じ景色を見てるって思いたくなる人がいるのは、悪いことじゃないよ」
「でも、違ったみたいで」
「違う景色を見てる部分もあった、ってことじゃない?」
詩織は、答えられずに黙り込んだ。
廊下の先の窓から、うっすらと夜の川が見える。
「信用ってさ」
千妃呂が、言葉を選びながら口を開く。
「『同じ景色を見てる』って思うことで育つ部分と、『違う景色を見てるのを知っても、まだ隣にいていいと思える』ことで育つ部分と、両方あると思うんだよね」
「……今は、その両方がぐちゃぐちゃです」
「ぐちゃぐちゃなら、まだいいよ」
千妃呂は小さく笑った。
「なにも感じなくなったら、そのときこそ、信用が本当に壊れたときだから」
詩織は、膝の上のノートを見つめた。
河川敷のベンチに置いたメモのことを思い出す。
――君と見た花火のこと、いつかちゃんと話したい。
その「いつか」が、今日ではなかったことだけは、はっきりしている。
◇
一方、教室にひとり残された一輝は、ホワイトボードの前で立ち尽くしていた。
足元には、今日のヒアリングで使った椅子が丸く並んでいる。
昼間は賑やかな声で満たされていた空間が、今は機械のような蛍光灯の音だけを響かせていた。
机の上には、青いファイルと、住民アンケートの束。
「好き」の文字が、やけにまぶしく目に入る。
ドアがノックもなく開いた。
「お邪魔します」
圭良が、紙コップ片手に入ってくる。
「さっき、廊下で千妃呂さんと詩織さん見ました」
「見てましたか」
「見えちゃいました」
圭良は、教室の真ん中まで歩いてきて、一輝の隣に立った。
「だいぶ、派手に崩れましたね。信用」
「……見てましたか」
「音でだいたいわかります」
圭良は、紙コップを軽く傾けながら言った。
「怒鳴り声が聞こえなかったのは、むしろちょっと怖いですけど」
一輝は、ホワイトボードに貼られた紙を見上げた。
「川辺センターの『好き』」
「変わっても残してほしいこと」。
「僕は、何をしてるんでしょうね」
「仕事してますよ」
「仕事だけ、してますかね」
圭良は、紙コップを机の端に置いた。
「相沢さんには、顔が二つあるじゃないですか」
「会社の顔と、現場の顔ですか」
「そうそう」
窓の外の川面が、教室のガラスにうっすら映っている。
「どっちの顔も本物なんだと思いますよ」
圭良は、静かに続けた。
「会社の会議室で数字を守ってる相沢さんも。
二階の廊下で『好き』を聞いてる相沢さんも」
「本物なら、どうしてこうなるんですかね」
「どっちも隠してるからじゃないですか」
あまりにもあっさりと言われ、一輝は思わず顔を向けた。
「会社には、『好き』を隠してる。
現場には、『取り壊し時の数字』を隠してる。
どっちの顔も見せてない相手から、『信じてください』って言われたら、そりゃ困ります」
「……それをしたくないから、タイミングを見計らってたつもりだったんですけど」
「タイミングを見てるあいだに、信用って勝手に動きますからね」
圭良は、ホワイトボードの端に寄りかかった。
「こっちが準備できたときには、相手のほうがもう別の場所まで行ってたりする」
河川敷のベンチ。
置き去りのメモ。
今日の教室。
どれも、「準備ができるのを待っているあいだ」に、別の形をしてしまった。
「どうすればよかったんでしょう」
「知らないです」
圭良は、あっさりと言い切った。
「ただ、ひとつだけ言えるのは――」
彼は、机の上のアンケート用紙を一枚手に取った。
『二階の廊下で、人の一日が流れていくのを見るのが好き』と書かれた紙。
「こういう『好き』を集めるって決めたなら、自分の『好き』と『怖い』も、同じテーブルの上に出さないと、誰も信用してくれないってことです」
一輝は、紙から目を離せなかった。
――自分の『好き』と『怖い』。
会社に嫌われるのが怖い。
現場に裏切り者だと思われるのが怖い。
何より、「本社に戻る」という選択を自分が望んでいるかどうかを、はっきり認めるのが怖い。
圭良は、紙をそっと元の場所に戻し、一輝の肩を軽く叩いた。
「まだ、終わったわけじゃないですよ。
信用が崩れた日って、あとから振り返ると、『ここからちゃんと向き合い始めた日』になることもあるんで」
「保証は」
「ありません」
即答だった。
「でも、保証があるとしたら、それは『次に何をするか』だけですよね」
教室の蛍光灯が、少しだけ暖かく感じられた。
外の川には、街灯の光が揺れている。
信用が崩れた日。
同じ景色を見ていると思っていた人と、違う風景を抱えていることが浮き彫りになった日。
そこから先に、何を積み上げるのか。
一輝は、胸ポケットの中のボールペンを握りしめた。
詩織から預かったままのペン。
インクは、まだ残っている。