君と見た花火は、苦情だらけ
第11話 離れてわかる、それぞれの穴
月曜日の朝、川辺センターのロビーは、いつも通りに開館時間を迎えた。
自動ドアがゆっくり開き、新聞とエコバッグを抱えた常連たちが、いつもの順番でやってくる。
受付カウンターには千妃呂が立ち、笑顔で来館者カードを受け取っていた。
ただ、一つだけ違うものがある。
カウンターの端に積まれた、薄い冊子の山だ。
「新しいフリーペーパー、届きました」
千妃呂が、表紙を指で弾く。
「温もりを求める瞳・第二章。今回は、二階廊下の特集だそうです」
その冊子の一部は、本社にも送られていた。
◇
スターツホームズ本社の、部署共有スペース。
コーヒーメーカーの横に、川辺センターのフリーペーパーが無造作に置かれている。
どこからともなく運ばれてきたそれを、誰が最初に読み始めたのか、はっきりとはわからない。
「相沢、これ」
昼休み、カップ麺にお湯を入れようとしていた一輝の背中から、声が飛んだ。
「はい?」
「川辺のやつ、届いてたぞ。お前の現場のフリーペーパー」
同僚がひらひらと冊子を振る。
表紙には、見慣れた廊下の写真。
その上に、「温もりを求める瞳・第二章 君と歩いた二階の通路」と書かれていた。
湯気の立つカップ麺を棚に置き、一輝はフリーペーパーを受け取る。
巻頭には、詩織の署名。
『ここは、ただの廊下かもしれません。
でも、ここを歩いた人の足音を聞いていると、誰かの一日が始まったり、終わったりしていることが、静かに伝わってきます。』
読み進めるうちに、知っている名前が何度も出てくる。
新聞の男性のコメント。
親子ひろばの母親たちの声。
喫茶コーナーのマスターの、「二回目の顔割引」の話。
ページの端には、小さくこう書かれていた。
『※本稿の一部は、「私がアツく語りたい」講座で出た話を、許可を得て使用しています。』
詩織の文章は、以前よりも少しだけ硬くなっていた。
比喩は控えめで、具体的な描写が多い。
言葉の選び方は丁寧なのに、どこか「何かを飲み込んでいる」ような息苦しさが混ざっている。
同僚が、覗き込むようにして言った。
「これ、お前もどっかに出てくるんじゃないの?」
「いや、さすがにそれは」
そう言いつつ、ページをめくる指先の速度が、ほんの少しだけ速くなる。
最後のページ。
特集の締めくくりの一文が目に入った。
『あの日、説明会のあと、河川敷で花火を見上げていた人がいました。
彼は、仕事の都合で、ここにある「好き」を揺らす決定に関わる立場にいます。
それでも彼は、この廊下の話を会議室に持っていきました。
そのことを、私は忘れたくありません。
――だからこそ、ここから先、私も自分の言葉に責任を持たなければならないと思っています。』
主語はどこまでも曖昧で、名前は出てこない。
それでも、自分のことだとわかってしまう書き方だった。
読み終えたとき、カップ麺の麺はすっかり伸びていた。
「……昼休みが、半分終わりました」
ぼそりとつぶやく一輝に、同僚が肩をすくめる。
「そんな真剣な顔でフリペ読むやつ、初めて見たわ」
「現場の資料ですから」
「はいはい。じゃ、午後の会議、伸びた麺抱えて頑張れ」
からかわれながらも、フリーペーパーだけは丁寧にカバンへ入れた。
◇
それから数日間。
一輝と詩織は、意識していなくても、自然と顔を合わせない時間が続いた。
本社での打ち合わせはオンラインが増え、川辺センターとつなぐ会議も、画面の向こうに映るのは永羽や千妃呂ばかりだ。
講座の日程を調整するメールにも、「相沢一輝」の名前は宛先の中にあるのに、送信元の署名は「事務局・千妃呂」でそろえられている。
センターでの現地対応は、圭良や他の担当が担うことが多くなった。
一輝は数字を本社でまとめ、現地では「別の誰か」が説明の矢面に立つ。
川辺センターの出勤簿に、一輝の名前が書き込まれない日が続いた。
◇
そのころ、詩織は自宅の机で、原稿の下書きの山と向き合っていた。
部屋の一角には、入稿待ちのフリーペーパーの予備号。
机の上には、取材メモと録音の書き起こし。
「……甘い」
パソコンの画面に映る文章を眺めながら、思わず出た言葉だった。
新しい特集のテーマは、「最後の花火を、どこから見上げるか」。
川辺センターの廃止が現実味を帯びる中で、「もしこの場所がなくなったら、あなたはどこで花火を見ますか?」という問いかけを軸に、住民の声を集めている。
最初に書いた原稿は、ほとんど願望で埋め尽くされていた。
『ここがなくなっても、きっとどこかで温もりは見つかるはず』
『私たちは、この街で新しい居場所を見つけていく』
一見すると前向きな言葉。
しかし読み返すたびに、その軽さが自分の胸を刺す。
「私、そんなに器用じゃない」
ノートの端に、そう書き込む。
フリーペーパーの編集担当からも、さっきメールが届いた。
『詩織さんの文章、読みやすいし、温かいです。
ただ、今回の特集、少しだけ「本音」を削りすぎていませんか?
読んでいて、どこか「誰かを安心させるために書いている」感じがしました。
本当は、もう少しざらっとした気持ちもあるのでは。』
図星だった。
ざらっとした気持ち――。
センターがなくなるかもしれない不安。
家族の病気のこと。
川辺センターと関わることで、弟に負担をかけているかもしれない罪悪感。
そして、河川敷で置き去りになった「君と見た花火」の続き。
「……それを全部書いたら、仕事にならないんだよなあ」
思わず天井を仰ぐ。
原稿で自分の気持ちを出しすぎれば、「講師としてどうなのか」と言われる。
出さなければ、「甘い」と言われる。
ふと、机の端に置いたフリーペーパーを手に取った。
さっき本社で見たのと同じ号。
自分の文章なのに、他人が書いたもののように感じる。
最後のページの、自分の締めの一文を指でなぞる。
『――だからこそ、ここから先、私も自分の言葉に責任を持たなければならないと思っています。』
「責任、ね」
あの日の教室で、自分が投げた言葉が頭をよぎる。
――卑怯だと思いました。
――どっちが本当なんですか。
感情に任せてぶつけた一言。
それ自体は嘘ではない。
でも、「卑怯だ」と言った瞬間、自分もまた「安全な場所から石を投げている」側に回った気がしてならない。
ノートに、新しい見出しを書き込む。
『本当は怖い、でも言葉にしてみる』
書いてから、「タイトルとしてどうなんだろう」と自分で突っ込みを入れた。
「さすがにそのままは出せないか」
それでも、さっきまでよりは少しだけ前に進んだ気がした。
◇
一方、本社では。
夕方のフロアに低く鳴り響くのは、プリンターと電話の音。
オフィスの窓からは、細い雨が街を斜めに横切って見えた。
「相沢」
永羽からの内線が鳴った。
「はい、相沢です」
『ちょっと会議室、来られるか』
小さな会議室に入ると、机の上には書類の山と、胃薬の箱が置かれていた。
「課長、これは」
「今日の健康診断の結果だ」
永羽は、自分の腹を軽く叩きながら言った。
「見事に、要再検査だとよ」
「……お大事にしてください」
「お大事にしてこなかった結果がこれだ。笑えないけど笑っとくか」
冗談めかしながらも、永羽の目の下には少しクマができている。
「でな」
胃薬の箱を指でつつきながら、永羽は言った。
「医者に、『先送りしすぎると、小さな問題が大きくなりますよ』って説教された」
「健康管理は大事ですから」
「健康だけじゃない。仕事も、人間関係もだ」
永羽は、一輝の顔をじっと見た。
「河川敷の件も、教室の件も、圭良から大体聞いた」
「……話すの、早いですね」
「ここ、そういう会社だからな」
どこかで聞いたような言い回しに、思わず苦笑が漏れる。
「先送りしたくなる気持ちはわかる。俺も、健康診断の封筒を見るたびに引き出しにしまってきたからな」
「自慢になりません」
「だろ?」
永羽は、書類の山から一枚の紙を取り出した。
川辺センターのリノベーション案の叩き台。
手書きのメモが、何度も上書きされている。
「お前、ここまでまとめておいて、まだ『タイミングを見てる』って言うつもりか」
一輝は、紙に目を落とした。
自分の字で書かれた「交流機能の維持」「廊下の再現」「花火大会との連携案」。
「……言えませんね」
「言えないなら、やるしかない」
永羽は、胃薬のシートを一粒押し出して飲み込んだ。
「健康診断も、センターの話も、どっかで覚悟を決めないといけない。誰かに嫌われる覚悟と、自分が嫌われても残したいものを決める覚悟だ」
「自分が嫌われても残したいもの」
その言葉は、会議室の白い壁にじわりと染み込んでいくようだった。
「それがもし、『川辺センター』じゃなくて『この街で誰かと見た花火の記憶』なんだとしたら」
永羽は、少しだけ柔らかい声になった。
「それはそれで、別に笑えない話じゃないと思うぞ」
「課長、どこまで聞いてるんですか」
「お前の顔と、詩織さんの顔を交互に見てりゃ、大体の筋書きはわかる」
その言い方が可笑しくて、思わず吹き出しそうになった。
けれど、笑いきれないものが胸のどこかに残る。
「離れてるとさ」
永羽が、ふっと窓の外に目を向ける。
「自分の生活から抜けたピースがどこかにあるのが、わかりやすいだろ」
「ピース、ですか」
「朝のメールの文面とか、センターからの報告書の行間とか。
『あ、ここ、前は誰かのひと言が挟まってたな』っていう穴」
言われてみれば、ここ数日の報告書はどこか均一だった。
必要な情報は過不足なく揃っているのに、行間に少しの遊びがない。
詩織から届くメールも、丁寧で、簡潔で、仕事としては完璧だ。
なのに、あの夜の喫茶コーナーで交わした無駄話のようなものが、一切挟まれていない。
「……思っていた以上に、穴だらけです」
「それに気づけてるうちは、まだ間に合う」
永羽は、椅子を立ち上がりながら言った。
「間に合わなくなる前に、自分で埋めるか、そのままにしておくか、決めろ」
◇
その夜。
詩織はセンターの教室ではなく、自宅の狭いキッチンで鍋のふたを開けていた。
弟がテーブルで宿題をしながら、鍋の中を覗き込む。
「今日、なんか静かだね、姉ちゃん」
「静かなのはいいことだよ。人間関係が荒れてるときは、だいたい音量でバレるから」
「……センターの人とケンカした?」
弟の勘の鋭さに、少し笑ってしまう。
「ケンカというか、まあ、意見のぶつかり合いというか」
「お互い、生きてる証拠じゃん」
「簡単に言うね」
「簡単じゃないの?」
弟は、シャーペンをくるくる回しながら言う。
「病院で先生が言ってたよ。『何も感じなくなったら、それはそれで危ないから』って」
どこかで聞いたような言葉だった。
千妃呂も、似たようなことを廊下で言っていた。
「姉ちゃん、センター辞める?」
「え?」
「この前、母さんと電話で話してたの、聞こえちゃった。『東京に戻ってこようか』とか」
詩織は、鍋の火を少し弱めた。
「……今すぐどうこうって話じゃないよ」
「でも、選択肢としてはあるんでしょ」
「そうだね」
認めると、弟は少しだけ真剣な顔になる。
「だったらさ」
シャーペンの芯をノートに軽く押しつけながら、弟が続けた。
「辞めるにしても、続けるにしても、姉ちゃんの『本音』で決めてほしい」
「本音」
「誰かに期待されてるから、とか、誰かが傷つくから、とかじゃなくてさ。
姉ちゃんが、『ここでまだやりたいことある』って思ってるなら、体しんどくても、何とかする方法考える。
もし、『もう十分』って思ってるなら、それはそれで、俺も納得する」
思わず、鍋つかみを握りしめる。
弟の言葉は、妙にまっすぐで、逃げ場をくれない。
「……まだ、やりたいことがある気がしてる」
ようやく出た言葉は、とても小さな声だった。
「ここで、書きたいことも、伝えたいことも、まだ全部はできてないと思う」
弟は「ふーん」と言いながら、ノートに何かを書き込んだ。
「じゃあ、それでいいんじゃない?」
「簡単に言うね、ほんとに」
「俺、病院の先生と千妃呂さんと同じこと言ってるだけだよ」
笑いながらも、胸の奥が少しだけ軽くなる。
鍋から立ちのぼる湯気の向こうに、川辺センターの廊下がぼんやりとよぎった。
そこを歩く人たちの「好き」。
そして、今はそこにいない誰かの、欠けた足音。
「……離れてるからこそ、わかることもあるのかもしれないな」
そうつぶやいてから、自分でも驚く。
あの人がいない打ち合わせは、静かで、効率的で、どこか物足りない。
その物足りなさに気づいてしまった自分を、どう扱えばいいのか。
答えはまだ出ない。
ただ一つ、はっきりしているのは――。
次に「君と見た花火」の話をするとき、半分仕事で、半分個人的な気持ちで話せるように、今は自分の言葉を磨き直すしかない、ということだった。
自動ドアがゆっくり開き、新聞とエコバッグを抱えた常連たちが、いつもの順番でやってくる。
受付カウンターには千妃呂が立ち、笑顔で来館者カードを受け取っていた。
ただ、一つだけ違うものがある。
カウンターの端に積まれた、薄い冊子の山だ。
「新しいフリーペーパー、届きました」
千妃呂が、表紙を指で弾く。
「温もりを求める瞳・第二章。今回は、二階廊下の特集だそうです」
その冊子の一部は、本社にも送られていた。
◇
スターツホームズ本社の、部署共有スペース。
コーヒーメーカーの横に、川辺センターのフリーペーパーが無造作に置かれている。
どこからともなく運ばれてきたそれを、誰が最初に読み始めたのか、はっきりとはわからない。
「相沢、これ」
昼休み、カップ麺にお湯を入れようとしていた一輝の背中から、声が飛んだ。
「はい?」
「川辺のやつ、届いてたぞ。お前の現場のフリーペーパー」
同僚がひらひらと冊子を振る。
表紙には、見慣れた廊下の写真。
その上に、「温もりを求める瞳・第二章 君と歩いた二階の通路」と書かれていた。
湯気の立つカップ麺を棚に置き、一輝はフリーペーパーを受け取る。
巻頭には、詩織の署名。
『ここは、ただの廊下かもしれません。
でも、ここを歩いた人の足音を聞いていると、誰かの一日が始まったり、終わったりしていることが、静かに伝わってきます。』
読み進めるうちに、知っている名前が何度も出てくる。
新聞の男性のコメント。
親子ひろばの母親たちの声。
喫茶コーナーのマスターの、「二回目の顔割引」の話。
ページの端には、小さくこう書かれていた。
『※本稿の一部は、「私がアツく語りたい」講座で出た話を、許可を得て使用しています。』
詩織の文章は、以前よりも少しだけ硬くなっていた。
比喩は控えめで、具体的な描写が多い。
言葉の選び方は丁寧なのに、どこか「何かを飲み込んでいる」ような息苦しさが混ざっている。
同僚が、覗き込むようにして言った。
「これ、お前もどっかに出てくるんじゃないの?」
「いや、さすがにそれは」
そう言いつつ、ページをめくる指先の速度が、ほんの少しだけ速くなる。
最後のページ。
特集の締めくくりの一文が目に入った。
『あの日、説明会のあと、河川敷で花火を見上げていた人がいました。
彼は、仕事の都合で、ここにある「好き」を揺らす決定に関わる立場にいます。
それでも彼は、この廊下の話を会議室に持っていきました。
そのことを、私は忘れたくありません。
――だからこそ、ここから先、私も自分の言葉に責任を持たなければならないと思っています。』
主語はどこまでも曖昧で、名前は出てこない。
それでも、自分のことだとわかってしまう書き方だった。
読み終えたとき、カップ麺の麺はすっかり伸びていた。
「……昼休みが、半分終わりました」
ぼそりとつぶやく一輝に、同僚が肩をすくめる。
「そんな真剣な顔でフリペ読むやつ、初めて見たわ」
「現場の資料ですから」
「はいはい。じゃ、午後の会議、伸びた麺抱えて頑張れ」
からかわれながらも、フリーペーパーだけは丁寧にカバンへ入れた。
◇
それから数日間。
一輝と詩織は、意識していなくても、自然と顔を合わせない時間が続いた。
本社での打ち合わせはオンラインが増え、川辺センターとつなぐ会議も、画面の向こうに映るのは永羽や千妃呂ばかりだ。
講座の日程を調整するメールにも、「相沢一輝」の名前は宛先の中にあるのに、送信元の署名は「事務局・千妃呂」でそろえられている。
センターでの現地対応は、圭良や他の担当が担うことが多くなった。
一輝は数字を本社でまとめ、現地では「別の誰か」が説明の矢面に立つ。
川辺センターの出勤簿に、一輝の名前が書き込まれない日が続いた。
◇
そのころ、詩織は自宅の机で、原稿の下書きの山と向き合っていた。
部屋の一角には、入稿待ちのフリーペーパーの予備号。
机の上には、取材メモと録音の書き起こし。
「……甘い」
パソコンの画面に映る文章を眺めながら、思わず出た言葉だった。
新しい特集のテーマは、「最後の花火を、どこから見上げるか」。
川辺センターの廃止が現実味を帯びる中で、「もしこの場所がなくなったら、あなたはどこで花火を見ますか?」という問いかけを軸に、住民の声を集めている。
最初に書いた原稿は、ほとんど願望で埋め尽くされていた。
『ここがなくなっても、きっとどこかで温もりは見つかるはず』
『私たちは、この街で新しい居場所を見つけていく』
一見すると前向きな言葉。
しかし読み返すたびに、その軽さが自分の胸を刺す。
「私、そんなに器用じゃない」
ノートの端に、そう書き込む。
フリーペーパーの編集担当からも、さっきメールが届いた。
『詩織さんの文章、読みやすいし、温かいです。
ただ、今回の特集、少しだけ「本音」を削りすぎていませんか?
読んでいて、どこか「誰かを安心させるために書いている」感じがしました。
本当は、もう少しざらっとした気持ちもあるのでは。』
図星だった。
ざらっとした気持ち――。
センターがなくなるかもしれない不安。
家族の病気のこと。
川辺センターと関わることで、弟に負担をかけているかもしれない罪悪感。
そして、河川敷で置き去りになった「君と見た花火」の続き。
「……それを全部書いたら、仕事にならないんだよなあ」
思わず天井を仰ぐ。
原稿で自分の気持ちを出しすぎれば、「講師としてどうなのか」と言われる。
出さなければ、「甘い」と言われる。
ふと、机の端に置いたフリーペーパーを手に取った。
さっき本社で見たのと同じ号。
自分の文章なのに、他人が書いたもののように感じる。
最後のページの、自分の締めの一文を指でなぞる。
『――だからこそ、ここから先、私も自分の言葉に責任を持たなければならないと思っています。』
「責任、ね」
あの日の教室で、自分が投げた言葉が頭をよぎる。
――卑怯だと思いました。
――どっちが本当なんですか。
感情に任せてぶつけた一言。
それ自体は嘘ではない。
でも、「卑怯だ」と言った瞬間、自分もまた「安全な場所から石を投げている」側に回った気がしてならない。
ノートに、新しい見出しを書き込む。
『本当は怖い、でも言葉にしてみる』
書いてから、「タイトルとしてどうなんだろう」と自分で突っ込みを入れた。
「さすがにそのままは出せないか」
それでも、さっきまでよりは少しだけ前に進んだ気がした。
◇
一方、本社では。
夕方のフロアに低く鳴り響くのは、プリンターと電話の音。
オフィスの窓からは、細い雨が街を斜めに横切って見えた。
「相沢」
永羽からの内線が鳴った。
「はい、相沢です」
『ちょっと会議室、来られるか』
小さな会議室に入ると、机の上には書類の山と、胃薬の箱が置かれていた。
「課長、これは」
「今日の健康診断の結果だ」
永羽は、自分の腹を軽く叩きながら言った。
「見事に、要再検査だとよ」
「……お大事にしてください」
「お大事にしてこなかった結果がこれだ。笑えないけど笑っとくか」
冗談めかしながらも、永羽の目の下には少しクマができている。
「でな」
胃薬の箱を指でつつきながら、永羽は言った。
「医者に、『先送りしすぎると、小さな問題が大きくなりますよ』って説教された」
「健康管理は大事ですから」
「健康だけじゃない。仕事も、人間関係もだ」
永羽は、一輝の顔をじっと見た。
「河川敷の件も、教室の件も、圭良から大体聞いた」
「……話すの、早いですね」
「ここ、そういう会社だからな」
どこかで聞いたような言い回しに、思わず苦笑が漏れる。
「先送りしたくなる気持ちはわかる。俺も、健康診断の封筒を見るたびに引き出しにしまってきたからな」
「自慢になりません」
「だろ?」
永羽は、書類の山から一枚の紙を取り出した。
川辺センターのリノベーション案の叩き台。
手書きのメモが、何度も上書きされている。
「お前、ここまでまとめておいて、まだ『タイミングを見てる』って言うつもりか」
一輝は、紙に目を落とした。
自分の字で書かれた「交流機能の維持」「廊下の再現」「花火大会との連携案」。
「……言えませんね」
「言えないなら、やるしかない」
永羽は、胃薬のシートを一粒押し出して飲み込んだ。
「健康診断も、センターの話も、どっかで覚悟を決めないといけない。誰かに嫌われる覚悟と、自分が嫌われても残したいものを決める覚悟だ」
「自分が嫌われても残したいもの」
その言葉は、会議室の白い壁にじわりと染み込んでいくようだった。
「それがもし、『川辺センター』じゃなくて『この街で誰かと見た花火の記憶』なんだとしたら」
永羽は、少しだけ柔らかい声になった。
「それはそれで、別に笑えない話じゃないと思うぞ」
「課長、どこまで聞いてるんですか」
「お前の顔と、詩織さんの顔を交互に見てりゃ、大体の筋書きはわかる」
その言い方が可笑しくて、思わず吹き出しそうになった。
けれど、笑いきれないものが胸のどこかに残る。
「離れてるとさ」
永羽が、ふっと窓の外に目を向ける。
「自分の生活から抜けたピースがどこかにあるのが、わかりやすいだろ」
「ピース、ですか」
「朝のメールの文面とか、センターからの報告書の行間とか。
『あ、ここ、前は誰かのひと言が挟まってたな』っていう穴」
言われてみれば、ここ数日の報告書はどこか均一だった。
必要な情報は過不足なく揃っているのに、行間に少しの遊びがない。
詩織から届くメールも、丁寧で、簡潔で、仕事としては完璧だ。
なのに、あの夜の喫茶コーナーで交わした無駄話のようなものが、一切挟まれていない。
「……思っていた以上に、穴だらけです」
「それに気づけてるうちは、まだ間に合う」
永羽は、椅子を立ち上がりながら言った。
「間に合わなくなる前に、自分で埋めるか、そのままにしておくか、決めろ」
◇
その夜。
詩織はセンターの教室ではなく、自宅の狭いキッチンで鍋のふたを開けていた。
弟がテーブルで宿題をしながら、鍋の中を覗き込む。
「今日、なんか静かだね、姉ちゃん」
「静かなのはいいことだよ。人間関係が荒れてるときは、だいたい音量でバレるから」
「……センターの人とケンカした?」
弟の勘の鋭さに、少し笑ってしまう。
「ケンカというか、まあ、意見のぶつかり合いというか」
「お互い、生きてる証拠じゃん」
「簡単に言うね」
「簡単じゃないの?」
弟は、シャーペンをくるくる回しながら言う。
「病院で先生が言ってたよ。『何も感じなくなったら、それはそれで危ないから』って」
どこかで聞いたような言葉だった。
千妃呂も、似たようなことを廊下で言っていた。
「姉ちゃん、センター辞める?」
「え?」
「この前、母さんと電話で話してたの、聞こえちゃった。『東京に戻ってこようか』とか」
詩織は、鍋の火を少し弱めた。
「……今すぐどうこうって話じゃないよ」
「でも、選択肢としてはあるんでしょ」
「そうだね」
認めると、弟は少しだけ真剣な顔になる。
「だったらさ」
シャーペンの芯をノートに軽く押しつけながら、弟が続けた。
「辞めるにしても、続けるにしても、姉ちゃんの『本音』で決めてほしい」
「本音」
「誰かに期待されてるから、とか、誰かが傷つくから、とかじゃなくてさ。
姉ちゃんが、『ここでまだやりたいことある』って思ってるなら、体しんどくても、何とかする方法考える。
もし、『もう十分』って思ってるなら、それはそれで、俺も納得する」
思わず、鍋つかみを握りしめる。
弟の言葉は、妙にまっすぐで、逃げ場をくれない。
「……まだ、やりたいことがある気がしてる」
ようやく出た言葉は、とても小さな声だった。
「ここで、書きたいことも、伝えたいことも、まだ全部はできてないと思う」
弟は「ふーん」と言いながら、ノートに何かを書き込んだ。
「じゃあ、それでいいんじゃない?」
「簡単に言うね、ほんとに」
「俺、病院の先生と千妃呂さんと同じこと言ってるだけだよ」
笑いながらも、胸の奥が少しだけ軽くなる。
鍋から立ちのぼる湯気の向こうに、川辺センターの廊下がぼんやりとよぎった。
そこを歩く人たちの「好き」。
そして、今はそこにいない誰かの、欠けた足音。
「……離れてるからこそ、わかることもあるのかもしれないな」
そうつぶやいてから、自分でも驚く。
あの人がいない打ち合わせは、静かで、効率的で、どこか物足りない。
その物足りなさに気づいてしまった自分を、どう扱えばいいのか。
答えはまだ出ない。
ただ一つ、はっきりしているのは――。
次に「君と見た花火」の話をするとき、半分仕事で、半分個人的な気持ちで話せるように、今は自分の言葉を磨き直すしかない、ということだった。