君と見た花火は、苦情だらけ
第9話 告白未遂と、置き去りのメモ
金曜日の午後、川辺センターの二階教室は、珍しく静かだった。
いつもなら、白板の前で誰かが身振り手振りを交えながら話し、廊下には椅子を引く音や笑い声が漏れてくる時間帯だ。
今日は偶然、講座と講座のあいだにぽっかりと空白ができていた。
教室の窓際の席で、詩織はノートパソコンと紙のノートを並べ、あごに手を当てていた。
「……『君と見た花火』、か」
画面には、次号のフリーペーパーの原稿が開かれている。
特集タイトルは、「温もりを求める瞳・第二章」。
サブタイトル案として、「君と見た花火を、もう一度語ろう」と打ち込んだ文字が、点滅するカーソルの前で待っていた。
最初の段落には、川辺センターの廊下や喫茶スペースで聞いた「好き」の言葉が並んでいる。
『川辺センターの二階の廊下が好きです。
朝、親子ひろばに向かう足音。
昼、講座のプリントを抱えて小走りする人の息遣い。
夕方、仕事帰りに本を返しに来た誰かの、少しだけ緩んだ肩。
温もりを求める瞳が、一日に何度もここを通り過ぎていきます。』
そこまで書いて、詩織は一度手を止めた。
「……問題は、ここからだ」
この廊下のことを、誰よりも鮮明に語っていた人の顔が浮かぶ。
安全性だの収支だのと言いながら、ふとした拍子に、朝と昼と夕方の光の角度まで言葉にしてしまった人。
――一輝さん。
名前を心の中で呼んだ瞬間、胸のあたりがきゅっと縮んだ。
「特集は、センターの話。恋文じゃない」
自分に言い聞かせるように、ノートの端にメモを書く。
『この街で、誰かの「好き」を守ろうとしている人がいる。
仕事として。
それなのに、時々仕事を忘れてしまいそうになるくらい、表情が揺れる人がいる。』
ペン先がそこで止まった。
「仕事を忘れてしまいそうになる」という表現が、どこか自分にも突き刺さる。
「だめだ。完全に人のこととして書けてない」
ノートを閉じようとしたとき、机の隅に畳まれた紙が目に入った。
弟がこのあいだ渡してくれた、健康雑誌の切り抜きだ。
「ストレスを言葉にしてみると、少しだけ軽くなる」という見出しの下に、簡単な記入欄がある。
『最近、頭から離れないこと』
『本当はどうしたいのか』
「……じゃあ、試しに」
詩織は、切り抜きを裏返し、白い面にペンを走らせた。
『最近、頭から離れないこと
――川辺センターのこと。
――弟の検査のこと。
――「君と見た花火」と書いたノートを、勝手に会議室に連れていった人のこと。』
最後の一行を書いた瞬間、耳まで熱くなった。
『本当はどうしたいのか
――この街の「温もりを求める瞳」を手放したくない。
――川辺センターの二階の廊下を、もう少し歩いていたい。
――その廊下で、ときどき同じ方向を見てくれる人がいてくれたら嬉しい。』
「好きです」と書く勇気は、やはり出てこなかった。
それでも、ペン先は微妙に震えている。
「……こういうのは、本人には見せられないなあ」
苦笑しながら紙を半分に折りたたみ、手帳のポケットに滑り込ませる。
そのとき、机の上のスマホが震いた。
『今日の夕方、少しお時間いただけますか。
河川敷で、例の説明会をやったあたりで。
仕事の話も、そうじゃない話も、ちゃんとしたいです。
相沢一輝』
画面の文字が、じわじわと視界に広がっていく。
「……ちゃんとしたい、って」
そこまで読んだところで、千妃呂からのメッセージも飛び込んできた。
『今日の夜、何か約束してます?
もし空いてたら、センターの電気の件でちょっとだけ相談したくて。』
詩織は、一瞬だけ迷い、すぐに返信を打った。
『夜は、少しだけ予定があります。
電気の件、夕方までに寄れそうなら寄ります。』
送信ボタンを押してから、一輝のメッセージに返信を書く。
『今日の夕方、河川敷、行けると思います。
仕事の話も、そうじゃない話も、聞かせてください。』
「話をする」とだけ書いた。
その先の言葉は、河川敷に置いておくことにした。
◇
同じ頃、本社ビルの会議室では、別の資料がテーブルの上に積み重なっていた。
プロジェクターの光が消え、ブラインド越しの昼の明かりだけが部屋を照らしている。
机の上には、「川辺エリア再構成 追加検討資料」と印字された紙束。
「――というわけで、段階的な再整備案は一度棚上げにして、まずは取り壊し前提の収支を固めてほしい」
財務担当役員が、眼鏡を外してこめかみを押さえた。
「住民の声は理解している。だが、銀行との交渉の場に持ち込めるのは、やはり数字だ。最終的に段階案を選ぶにせよ、いったん『全部壊した場合の絵』を出しておかないと話が進まない」
「……わかりました」
一輝は、手元のメモに「取り壊し前提・収支パターン」と書き込む。
その横に、別のペンで小さく一行。
『※説明の際には、「好き」の声も同時に伝えること。』
都市開発担当役員が、資料をめくりながら言う。
「現場の顔ぶれは、引き続き君たちに任せる。ただし、退去打診のタイミングについては事前に本社と共有してくれ」
「はい」
打ち合わせが終わると、友理香が椅子の背にもたれかかった。
「……ねえ相沢」
「はい」
「今日の夕方、何か予定ある?」
一輝は、腕時計をちらりと見た。
スマホの画面には、先ほど詩織から届いた返信が残っている。
『今日の夕方、河川敷、行けると思います。
仕事の話も、そうじゃない話も、聞かせてください。』
「夕方は、川辺センターのほうに戻ります」
「ふうん。じゃあ、資料の叩き台は明日の朝までにメールで送ってくれる?」
「今日中ですか」
「上が急いでる。数字の枠だけでもいいから、取り壊し前提のパターンをもう一本作っておいて」
友理香は、タブレットを閉じながら、ごく当たり前の調子で言った。
「あんたならできるでしょ。そういうところ、昔から器用なんだから」
褒め言葉とも、追い打ちともつかない一言だった。
「……やってみます」
会議室を出て廊下を歩きながら、胸ポケットのペン先がシャツ越しに当たる。
詩織から預かったボールペン。
河川敷で「ちゃんとしたい」と言ったメッセージ。
取り壊し前提の収支資料。
全部を一日に詰め込もうとしている自分を、少しだけ笑いたくなる。
◇
夕方、川辺センター。
事務室の机の上で、プリンターが低い音を立てながら紙を吐き出していた。
「川辺センター 取り壊し時収支シミュレーション」。
モノクロのグラフと数字が並ぶ。
「……重たいタイトルですね」
圭良が、プリントアウトされた紙束を手に取り、表紙をめくった。
「でも、こういうの、ないと話が進まないですもんね」
「そうです」
一輝は、インク残量の表示を確認しながら答える。
「ただ、これをそのまま現場の人に見せるつもりはありません」
「安心しました」
圭良は、机に腰を乗せた。
「で、今夜は例の河川敷ですか」
図星すぎて、思わず咳払いをする。
「どこで聞いたんですか」
「千妃呂さんのところ。『相沢さん、河川敷で仕事の話とそうじゃない話をするらしい』って」
「情報が一周早いですね、このビル」
「ここ、そういうところですから」
圭良は、どこかで聞いた台詞をそのまま返して笑った。
「告白ですか」
「違います」
「じゃあ、告白の下準備ですか」
「……仕事の話もしないといけません」
圭良は、「はいはい」と肩をすくめた。
「仕事の話とそうじゃない話って、だいたい同じ場所で混ざりますからね。うまく仕分けてください」
「仕分けが得意なら、今こんなに悩んでません」
時計を見ると、すでに十八時を回っている。
夏の終わりの空は、まだうっすらと明るいが、川沿いには涼しい風が吹いている頃だろう。
「じゃあ、俺はこれを課長の机に置いて帰ります。河川敷、行ってきてください」
圭良が、プリントを揃えてファイルに挟む。
「ありがとう。頼みます」
事務室を出ようとしたとき、デスクの電話が鳴った。
「スターツホームズ、川辺センター担当の相沢です」
『相沢君? 本社の財務の××だ。さっきの会議の件で、もう少し数字を詰めておきたくてね』
受話口から聞こえてきたのは、さっきまで会議室にいた役員の声だった。
『今から十五分だけでいいから、オンラインでつなげるか? 向こうの担当もいるから』
「今からですか」
『悪いね。先方の都合もあって。ちょっとした確認だから、すぐ終わるよ』
時計の針は、十八時十五分を指している。
詩織との待ち合わせは、十九時。
川辺センターから河川敷までは歩いて十分。
十五分で電話が終われば、間に合う。
少しでも長引けば、微妙な時間になる。
「……わかりました。すぐ準備します」
受話器を置き、急いでノートパソコンを立ち上げる。
画面に映る数字の列が、河川敷への道を薄く覆っていくような気がした。
◇
十九時ちょうど。
川辺センターから少し離れた河川敷では、街灯のオレンジ色が川面に細い筋を描いていた。
詩織は、手すりの近くにあるベンチに腰を下ろし、足もとで揺れる草をぼんやり眺めていた。
待ち合わせにしては、少し早めに来すぎた。
十八時半には、すでにここにいた。
「さすがに、早すぎたかな」
自分で苦笑しながら、カバンからノートを取り出す。
さっき書きかけた原稿の続きを、ここで少しだけ進めようと思ったのだ。
ページを開くと、例の切り抜きの裏に書いたメモがひらりと落ちた。
『――その廊下で、ときどき同じ方向を見てくれる人がいてくれたら嬉しい。』
河川敷の風が、紙の端を揺らす。
「……まるで、告白の練習みたいだ」
小さくため息をついたとき、背後から聞き覚えのある声がした。
「先生、こんなところで暗闇に向かってうなだれてると、いろんな人に心配されますよ」
振り向くと、買い物袋をぶら下げた千妃呂が立っていた。
「千妃呂さん」
「待ち合わせ?」
「はい。ちょっと、仕事の話と、そうじゃない話を」
「仕事の話と、そうじゃない話ねえ」
千妃呂はベンチの背にもたれ、空を見上げた。
「昔、ここで花火を見たときも、何かそんな顔してましたよね」
「そんな顔って、どんな顔ですか」
「『これは記事になるのか、それとも自分の話になるのか』って顔」
図星を突かれ、詩織はノートを閉じた。
「……今日は、ちゃんと自分の話もするつもりです」
「いいですね」
千妃呂は腕時計を見た。
「じゃあ、私はこれで。約束の時間、過ぎても許してあげてくださいね。あの人、たぶんどこかで数字と戦ってるから」
「戦ってる……」
「そういう顔してセンター出ていきました」
千妃呂が去っていく背中を見送り、詩織はベンチに座り直した。
十九時を少し過ぎた。
スマホの画面には、新しい通知はない。
――十五分くらいの遅刻なら、きっと走ってくる。
そういうイメージが、自然と浮かぶ。
胸ポケットからペンを取り出し、ノートの隅に小さく文字を書く。
『もし、この人がここに来なかったら』
その先がどうしても書けない。
十九時十五分。
鴨が水面をすべる音が、やけに大きく聞こえる。
十九時二十分。
川沿いの遊歩道を、犬の散歩をする親子が通り過ぎる。
スマホの画面は、静かなままだった。
ちょうどその頃。
◇
「……申し訳ありませんが、その条件だと、やはり収支は合いません」
川辺センターの事務室では、ノートパソコンの前で一輝がメモを取っていた。
画面越しの会議は、当初の予定の十五分をとうに過ぎている。
『もう少し、テナントの募集単価を上げられないかな』
『いや、地域の家賃相場があるからね』
スピーカーから、財務の担当者と本社の別部署の声が交互に聞こえてくる。
時計は十九時を回っていた。
河川敷まで十分。
もう、どう考えても、時間通りには着かない。
途中で一度メッセージを送ろうとしたが、会議中にスマホをいじる余裕がなく、タイミングを逃してしまった。
『とりあえず、今日のところはここまでにしよう。データだけ共有しておいてくれればいい』
「承知しました」
画面が暗くなり、事務室に静けさが戻る。
すぐにスマホを取り出して画面を確認するが、新しい通知はなかった。
「……っ」
言い訳を考えるより先に、椅子を蹴るように立ち上がる。
資料を机の上に置きっぱなしにし、事務室を飛び出した。
階段を駆け下り、センターを抜けて川沿いへ向かう。
夜風がネクタイをあおり、胸ポケットのボールペンがシャツ越しに跳ねた。
◇
十九時三十分。
河川敷のベンチの上には、詩織のノートが広げられていた。
その横に、折りたたんだ紙切れが一枚。
「……そろそろ、病院にも電話しなきゃ」
スマホの画面には、母からのメッセージが点滅している。
『今日の検査結果、先生から話があるって。明日でもいいって言われたけど、姉ちゃんはどうする?』
病院の面談時間を考えると、今夜電話で概要だけでも聞いておきたい。
そうしないと、明日の予定を立てられない。
「ごめんね」
誰に向かって言ったのかわからない言葉が、川面に落ちていく。
ノートのページを破り、一行だけ書いた。
『君と見た花火のこと、いつかちゃんと話したいです。
――河川敷にて。』
書き終えた紙を二つ折りにして、ベンチの端に置く。
風で飛ばないように、小石をひとつ上に載せた。
「これくらいなら、仕事の話でも、そうじゃない話でもない、かな」
自分への言い訳みたいな言葉を残して、詩織はベンチから立ち上がった。
川沿いの道を、センターとは反対方向へ歩き出す。
病院の方角へ。
◇
十九時四十分。
息を切らしながら河川敷にたどり着いた一輝は、あたりを見回した。
ベンチ。
街灯。
川面。
そこにいるはずの人の姿は、どこにもなかった。
「……遅すぎた」
自分でも驚くほど乾いた声が出る。
胸の中に、いくつもの「言えなかったこと」がつかえていた。
苦情だらけの説明会のこと。
花火を見上げた夜のこと。
会議室で「好き」を持ち込んだ日のこと。
そのどれもが、一拍遅れでしか思い出せない。
ふと、ベンチの端に目がいった。
街灯の光に照らされて、小さな紙切れと石が見える。
一輝は近づき、紙を手に取った。
石が転がり落ちる。
『君と見た花火のこと、いつかちゃんと話したいです。
――河川敷にて。』
文字を追う指先が、かすかに震えた。
「……未遂、か」
声に出してみると、どこか滑稽な響きになる。
告白とも、仕事の相談ともつかない、宙ぶらりんな一文。
紙の下の方には、にじんで読めない部分があった。
たぶん、最後に何か書こうとして、途中でペンを止めたのだろう。
もしくは、風で揺れるあいだに、インクが少し滲んだのかもしれない。
どちらにしても、この紙は「置き去りにされた何か」の証拠だった。
胸ポケットから自分のペンを取り出し、紙の裏に小さく書き足す。
『いつか、ちゃんと聞かせてください。
そのときは、仕事の話も一緒に持っていきます。』
書いたあと、しばらく迷った。
このメモをそのままベンチに戻すか、持ち帰るか。
結局、紙を丁寧に折りたたみ、手帳のポケットに収めた。
「置き去りのままのほうが、きれいなのかもしれないけどな」
皮肉めいたひとり言が、夜風に紛れていく。
手帳を閉じて空を見上げると、雲の切れ間から小さな星がひとつだけのぞいていた。
あの日の花火ほど派手ではない。
けれど、目を凝らせばちゃんとそこにある光。
「……次は、時間通りに来よう」
誰にともなくそう誓い、川辺センターの方角に歩き出した。
◇
その夜遅く。
詩織は自宅の机の上で、病院からの説明メモと、原稿用のノートを並べていた。
弟の検査結果は、「今すぐどうこうではないが、生活リズムに気をつける必要がある」というものだった。
安心と不安が、半分ずつ。
「……この街で、暮らし方を整えるって、どういうことなんだろう」
ぼんやりとそんなことを考えながら、ふと手帳のポケットに手を伸ばす。
河川敷のベンチに置いてきたはずの紙が、そこにはなかった。
「あれ?」
小さく首をかしげる。
川風で飛ばされたのか、それとも誰かが拾ったのか。
「まあ、いいか」
自分でそう言い聞かせる。
あの紙は、あの場所に置いてきた。
そう思い込んだ方が、胸の中が少しだけ軽く感じられた。
代わりにノートを開き、原稿の一行目を見つめる。
『温もりを求める瞳が集まる場所で、今日もまた、誰かが「まだ言えない話」を胸に抱えて歩いている。』
それは、自分自身のことでもあり、川辺センターの誰かのことでもあった。
いつもなら、白板の前で誰かが身振り手振りを交えながら話し、廊下には椅子を引く音や笑い声が漏れてくる時間帯だ。
今日は偶然、講座と講座のあいだにぽっかりと空白ができていた。
教室の窓際の席で、詩織はノートパソコンと紙のノートを並べ、あごに手を当てていた。
「……『君と見た花火』、か」
画面には、次号のフリーペーパーの原稿が開かれている。
特集タイトルは、「温もりを求める瞳・第二章」。
サブタイトル案として、「君と見た花火を、もう一度語ろう」と打ち込んだ文字が、点滅するカーソルの前で待っていた。
最初の段落には、川辺センターの廊下や喫茶スペースで聞いた「好き」の言葉が並んでいる。
『川辺センターの二階の廊下が好きです。
朝、親子ひろばに向かう足音。
昼、講座のプリントを抱えて小走りする人の息遣い。
夕方、仕事帰りに本を返しに来た誰かの、少しだけ緩んだ肩。
温もりを求める瞳が、一日に何度もここを通り過ぎていきます。』
そこまで書いて、詩織は一度手を止めた。
「……問題は、ここからだ」
この廊下のことを、誰よりも鮮明に語っていた人の顔が浮かぶ。
安全性だの収支だのと言いながら、ふとした拍子に、朝と昼と夕方の光の角度まで言葉にしてしまった人。
――一輝さん。
名前を心の中で呼んだ瞬間、胸のあたりがきゅっと縮んだ。
「特集は、センターの話。恋文じゃない」
自分に言い聞かせるように、ノートの端にメモを書く。
『この街で、誰かの「好き」を守ろうとしている人がいる。
仕事として。
それなのに、時々仕事を忘れてしまいそうになるくらい、表情が揺れる人がいる。』
ペン先がそこで止まった。
「仕事を忘れてしまいそうになる」という表現が、どこか自分にも突き刺さる。
「だめだ。完全に人のこととして書けてない」
ノートを閉じようとしたとき、机の隅に畳まれた紙が目に入った。
弟がこのあいだ渡してくれた、健康雑誌の切り抜きだ。
「ストレスを言葉にしてみると、少しだけ軽くなる」という見出しの下に、簡単な記入欄がある。
『最近、頭から離れないこと』
『本当はどうしたいのか』
「……じゃあ、試しに」
詩織は、切り抜きを裏返し、白い面にペンを走らせた。
『最近、頭から離れないこと
――川辺センターのこと。
――弟の検査のこと。
――「君と見た花火」と書いたノートを、勝手に会議室に連れていった人のこと。』
最後の一行を書いた瞬間、耳まで熱くなった。
『本当はどうしたいのか
――この街の「温もりを求める瞳」を手放したくない。
――川辺センターの二階の廊下を、もう少し歩いていたい。
――その廊下で、ときどき同じ方向を見てくれる人がいてくれたら嬉しい。』
「好きです」と書く勇気は、やはり出てこなかった。
それでも、ペン先は微妙に震えている。
「……こういうのは、本人には見せられないなあ」
苦笑しながら紙を半分に折りたたみ、手帳のポケットに滑り込ませる。
そのとき、机の上のスマホが震いた。
『今日の夕方、少しお時間いただけますか。
河川敷で、例の説明会をやったあたりで。
仕事の話も、そうじゃない話も、ちゃんとしたいです。
相沢一輝』
画面の文字が、じわじわと視界に広がっていく。
「……ちゃんとしたい、って」
そこまで読んだところで、千妃呂からのメッセージも飛び込んできた。
『今日の夜、何か約束してます?
もし空いてたら、センターの電気の件でちょっとだけ相談したくて。』
詩織は、一瞬だけ迷い、すぐに返信を打った。
『夜は、少しだけ予定があります。
電気の件、夕方までに寄れそうなら寄ります。』
送信ボタンを押してから、一輝のメッセージに返信を書く。
『今日の夕方、河川敷、行けると思います。
仕事の話も、そうじゃない話も、聞かせてください。』
「話をする」とだけ書いた。
その先の言葉は、河川敷に置いておくことにした。
◇
同じ頃、本社ビルの会議室では、別の資料がテーブルの上に積み重なっていた。
プロジェクターの光が消え、ブラインド越しの昼の明かりだけが部屋を照らしている。
机の上には、「川辺エリア再構成 追加検討資料」と印字された紙束。
「――というわけで、段階的な再整備案は一度棚上げにして、まずは取り壊し前提の収支を固めてほしい」
財務担当役員が、眼鏡を外してこめかみを押さえた。
「住民の声は理解している。だが、銀行との交渉の場に持ち込めるのは、やはり数字だ。最終的に段階案を選ぶにせよ、いったん『全部壊した場合の絵』を出しておかないと話が進まない」
「……わかりました」
一輝は、手元のメモに「取り壊し前提・収支パターン」と書き込む。
その横に、別のペンで小さく一行。
『※説明の際には、「好き」の声も同時に伝えること。』
都市開発担当役員が、資料をめくりながら言う。
「現場の顔ぶれは、引き続き君たちに任せる。ただし、退去打診のタイミングについては事前に本社と共有してくれ」
「はい」
打ち合わせが終わると、友理香が椅子の背にもたれかかった。
「……ねえ相沢」
「はい」
「今日の夕方、何か予定ある?」
一輝は、腕時計をちらりと見た。
スマホの画面には、先ほど詩織から届いた返信が残っている。
『今日の夕方、河川敷、行けると思います。
仕事の話も、そうじゃない話も、聞かせてください。』
「夕方は、川辺センターのほうに戻ります」
「ふうん。じゃあ、資料の叩き台は明日の朝までにメールで送ってくれる?」
「今日中ですか」
「上が急いでる。数字の枠だけでもいいから、取り壊し前提のパターンをもう一本作っておいて」
友理香は、タブレットを閉じながら、ごく当たり前の調子で言った。
「あんたならできるでしょ。そういうところ、昔から器用なんだから」
褒め言葉とも、追い打ちともつかない一言だった。
「……やってみます」
会議室を出て廊下を歩きながら、胸ポケットのペン先がシャツ越しに当たる。
詩織から預かったボールペン。
河川敷で「ちゃんとしたい」と言ったメッセージ。
取り壊し前提の収支資料。
全部を一日に詰め込もうとしている自分を、少しだけ笑いたくなる。
◇
夕方、川辺センター。
事務室の机の上で、プリンターが低い音を立てながら紙を吐き出していた。
「川辺センター 取り壊し時収支シミュレーション」。
モノクロのグラフと数字が並ぶ。
「……重たいタイトルですね」
圭良が、プリントアウトされた紙束を手に取り、表紙をめくった。
「でも、こういうの、ないと話が進まないですもんね」
「そうです」
一輝は、インク残量の表示を確認しながら答える。
「ただ、これをそのまま現場の人に見せるつもりはありません」
「安心しました」
圭良は、机に腰を乗せた。
「で、今夜は例の河川敷ですか」
図星すぎて、思わず咳払いをする。
「どこで聞いたんですか」
「千妃呂さんのところ。『相沢さん、河川敷で仕事の話とそうじゃない話をするらしい』って」
「情報が一周早いですね、このビル」
「ここ、そういうところですから」
圭良は、どこかで聞いた台詞をそのまま返して笑った。
「告白ですか」
「違います」
「じゃあ、告白の下準備ですか」
「……仕事の話もしないといけません」
圭良は、「はいはい」と肩をすくめた。
「仕事の話とそうじゃない話って、だいたい同じ場所で混ざりますからね。うまく仕分けてください」
「仕分けが得意なら、今こんなに悩んでません」
時計を見ると、すでに十八時を回っている。
夏の終わりの空は、まだうっすらと明るいが、川沿いには涼しい風が吹いている頃だろう。
「じゃあ、俺はこれを課長の机に置いて帰ります。河川敷、行ってきてください」
圭良が、プリントを揃えてファイルに挟む。
「ありがとう。頼みます」
事務室を出ようとしたとき、デスクの電話が鳴った。
「スターツホームズ、川辺センター担当の相沢です」
『相沢君? 本社の財務の××だ。さっきの会議の件で、もう少し数字を詰めておきたくてね』
受話口から聞こえてきたのは、さっきまで会議室にいた役員の声だった。
『今から十五分だけでいいから、オンラインでつなげるか? 向こうの担当もいるから』
「今からですか」
『悪いね。先方の都合もあって。ちょっとした確認だから、すぐ終わるよ』
時計の針は、十八時十五分を指している。
詩織との待ち合わせは、十九時。
川辺センターから河川敷までは歩いて十分。
十五分で電話が終われば、間に合う。
少しでも長引けば、微妙な時間になる。
「……わかりました。すぐ準備します」
受話器を置き、急いでノートパソコンを立ち上げる。
画面に映る数字の列が、河川敷への道を薄く覆っていくような気がした。
◇
十九時ちょうど。
川辺センターから少し離れた河川敷では、街灯のオレンジ色が川面に細い筋を描いていた。
詩織は、手すりの近くにあるベンチに腰を下ろし、足もとで揺れる草をぼんやり眺めていた。
待ち合わせにしては、少し早めに来すぎた。
十八時半には、すでにここにいた。
「さすがに、早すぎたかな」
自分で苦笑しながら、カバンからノートを取り出す。
さっき書きかけた原稿の続きを、ここで少しだけ進めようと思ったのだ。
ページを開くと、例の切り抜きの裏に書いたメモがひらりと落ちた。
『――その廊下で、ときどき同じ方向を見てくれる人がいてくれたら嬉しい。』
河川敷の風が、紙の端を揺らす。
「……まるで、告白の練習みたいだ」
小さくため息をついたとき、背後から聞き覚えのある声がした。
「先生、こんなところで暗闇に向かってうなだれてると、いろんな人に心配されますよ」
振り向くと、買い物袋をぶら下げた千妃呂が立っていた。
「千妃呂さん」
「待ち合わせ?」
「はい。ちょっと、仕事の話と、そうじゃない話を」
「仕事の話と、そうじゃない話ねえ」
千妃呂はベンチの背にもたれ、空を見上げた。
「昔、ここで花火を見たときも、何かそんな顔してましたよね」
「そんな顔って、どんな顔ですか」
「『これは記事になるのか、それとも自分の話になるのか』って顔」
図星を突かれ、詩織はノートを閉じた。
「……今日は、ちゃんと自分の話もするつもりです」
「いいですね」
千妃呂は腕時計を見た。
「じゃあ、私はこれで。約束の時間、過ぎても許してあげてくださいね。あの人、たぶんどこかで数字と戦ってるから」
「戦ってる……」
「そういう顔してセンター出ていきました」
千妃呂が去っていく背中を見送り、詩織はベンチに座り直した。
十九時を少し過ぎた。
スマホの画面には、新しい通知はない。
――十五分くらいの遅刻なら、きっと走ってくる。
そういうイメージが、自然と浮かぶ。
胸ポケットからペンを取り出し、ノートの隅に小さく文字を書く。
『もし、この人がここに来なかったら』
その先がどうしても書けない。
十九時十五分。
鴨が水面をすべる音が、やけに大きく聞こえる。
十九時二十分。
川沿いの遊歩道を、犬の散歩をする親子が通り過ぎる。
スマホの画面は、静かなままだった。
ちょうどその頃。
◇
「……申し訳ありませんが、その条件だと、やはり収支は合いません」
川辺センターの事務室では、ノートパソコンの前で一輝がメモを取っていた。
画面越しの会議は、当初の予定の十五分をとうに過ぎている。
『もう少し、テナントの募集単価を上げられないかな』
『いや、地域の家賃相場があるからね』
スピーカーから、財務の担当者と本社の別部署の声が交互に聞こえてくる。
時計は十九時を回っていた。
河川敷まで十分。
もう、どう考えても、時間通りには着かない。
途中で一度メッセージを送ろうとしたが、会議中にスマホをいじる余裕がなく、タイミングを逃してしまった。
『とりあえず、今日のところはここまでにしよう。データだけ共有しておいてくれればいい』
「承知しました」
画面が暗くなり、事務室に静けさが戻る。
すぐにスマホを取り出して画面を確認するが、新しい通知はなかった。
「……っ」
言い訳を考えるより先に、椅子を蹴るように立ち上がる。
資料を机の上に置きっぱなしにし、事務室を飛び出した。
階段を駆け下り、センターを抜けて川沿いへ向かう。
夜風がネクタイをあおり、胸ポケットのボールペンがシャツ越しに跳ねた。
◇
十九時三十分。
河川敷のベンチの上には、詩織のノートが広げられていた。
その横に、折りたたんだ紙切れが一枚。
「……そろそろ、病院にも電話しなきゃ」
スマホの画面には、母からのメッセージが点滅している。
『今日の検査結果、先生から話があるって。明日でもいいって言われたけど、姉ちゃんはどうする?』
病院の面談時間を考えると、今夜電話で概要だけでも聞いておきたい。
そうしないと、明日の予定を立てられない。
「ごめんね」
誰に向かって言ったのかわからない言葉が、川面に落ちていく。
ノートのページを破り、一行だけ書いた。
『君と見た花火のこと、いつかちゃんと話したいです。
――河川敷にて。』
書き終えた紙を二つ折りにして、ベンチの端に置く。
風で飛ばないように、小石をひとつ上に載せた。
「これくらいなら、仕事の話でも、そうじゃない話でもない、かな」
自分への言い訳みたいな言葉を残して、詩織はベンチから立ち上がった。
川沿いの道を、センターとは反対方向へ歩き出す。
病院の方角へ。
◇
十九時四十分。
息を切らしながら河川敷にたどり着いた一輝は、あたりを見回した。
ベンチ。
街灯。
川面。
そこにいるはずの人の姿は、どこにもなかった。
「……遅すぎた」
自分でも驚くほど乾いた声が出る。
胸の中に、いくつもの「言えなかったこと」がつかえていた。
苦情だらけの説明会のこと。
花火を見上げた夜のこと。
会議室で「好き」を持ち込んだ日のこと。
そのどれもが、一拍遅れでしか思い出せない。
ふと、ベンチの端に目がいった。
街灯の光に照らされて、小さな紙切れと石が見える。
一輝は近づき、紙を手に取った。
石が転がり落ちる。
『君と見た花火のこと、いつかちゃんと話したいです。
――河川敷にて。』
文字を追う指先が、かすかに震えた。
「……未遂、か」
声に出してみると、どこか滑稽な響きになる。
告白とも、仕事の相談ともつかない、宙ぶらりんな一文。
紙の下の方には、にじんで読めない部分があった。
たぶん、最後に何か書こうとして、途中でペンを止めたのだろう。
もしくは、風で揺れるあいだに、インクが少し滲んだのかもしれない。
どちらにしても、この紙は「置き去りにされた何か」の証拠だった。
胸ポケットから自分のペンを取り出し、紙の裏に小さく書き足す。
『いつか、ちゃんと聞かせてください。
そのときは、仕事の話も一緒に持っていきます。』
書いたあと、しばらく迷った。
このメモをそのままベンチに戻すか、持ち帰るか。
結局、紙を丁寧に折りたたみ、手帳のポケットに収めた。
「置き去りのままのほうが、きれいなのかもしれないけどな」
皮肉めいたひとり言が、夜風に紛れていく。
手帳を閉じて空を見上げると、雲の切れ間から小さな星がひとつだけのぞいていた。
あの日の花火ほど派手ではない。
けれど、目を凝らせばちゃんとそこにある光。
「……次は、時間通りに来よう」
誰にともなくそう誓い、川辺センターの方角に歩き出した。
◇
その夜遅く。
詩織は自宅の机の上で、病院からの説明メモと、原稿用のノートを並べていた。
弟の検査結果は、「今すぐどうこうではないが、生活リズムに気をつける必要がある」というものだった。
安心と不安が、半分ずつ。
「……この街で、暮らし方を整えるって、どういうことなんだろう」
ぼんやりとそんなことを考えながら、ふと手帳のポケットに手を伸ばす。
河川敷のベンチに置いてきたはずの紙が、そこにはなかった。
「あれ?」
小さく首をかしげる。
川風で飛ばされたのか、それとも誰かが拾ったのか。
「まあ、いいか」
自分でそう言い聞かせる。
あの紙は、あの場所に置いてきた。
そう思い込んだ方が、胸の中が少しだけ軽く感じられた。
代わりにノートを開き、原稿の一行目を見つめる。
『温もりを求める瞳が集まる場所で、今日もまた、誰かが「まだ言えない話」を胸に抱えて歩いている。』
それは、自分自身のことでもあり、川辺センターの誰かのことでもあった。