君と見た花火は、苦情だらけ

第12話 永羽課長の胃薬会議

 火曜日の午前中、本社ビルの廊下には、いつもより少しだけゆっくりした足取りが一つ紛れ込んでいた。
 永羽が、健康診断センターの封筒を片手に歩いている。
 胸ポケットには診断結果の紙が差し込まれ、もう片方のポケットには、銀色の胃薬のシートが顔をのぞかせていた。
 「相沢」
 自席で資料を広げていた一輝の背中に、低い声が飛んでくる。
 「はい」
 「ちょっと付き合え。会議室だと息が詰まるから、今日は外の空気を吸いながら」
 意味ありげな誘い方だった。
 ◇
 本社のビルを出て、通りを一本挟んだところに、小さな喫茶店がある。
 昼には社員で賑わうが、開店直後の今は、まだカウンターに二人ほど客がいるだけだった。
 窓際のテーブルに腰を下ろし、注文したホットコーヒーが届く。
 永羽は、テーブルの上に診断結果の紙をばさりと広げた。
 「三年分のツケだそうだ」
 プリントには、「要精密検査」の文字がいくつか並んでいる。
 血圧、胃、肝機能。
 どれも、少しずつ基準値を超えていた。
 「この三年、検査行くたびに封筒を引き出しにしまってな。『忙しいから』って理由をくっつけて、見なかったことにしてきた」
 永羽は、苦笑ともため息ともつかない息を吐く。
 「今回、とうとう医者に捕まって、『先送りの天才ですね』って皮肉を言われた」
 「……それは、なかなか刺さりますね」
 「『健康診断を先送りにする人は、たいてい大事な話も先送りにしてますよ』だとよ」
 永羽はそう言って、胸ポケットから銀色のシートを取り出した。
 「で、これが新しい相棒。胃薬。今日からお前の目の前で飲む」
 錠剤を一粒、指先で押し出してコップの水で飲み込む。
 仕草自体は大げさではないのに、どこか儀式のように見えた。
 「……それ、わざわざ俺に見せる必要ありました?」
 「ある」
 永羽は、空になった水のコップをテーブルの端に寄せた。
 「俺の健康の話をしたいわけじゃない。先送りにしていた結果、こうなりましたっていう見本を見せたかった」
 「見本、ですか」
 「川辺センターのことだ」
 その言葉に、一輝の背筋が自然と伸びる。
 「取り壊し時の数字、よくできてた。銀行との交渉にも出せるレベルだ」
 「ありがとうございます」
 「だが、あれだけ先に整えると、他の選択肢が全部『おまけ』みたいに見えてくる」
 永羽は、テーブルの上に紙ナプキンを一枚広げ、ペンを取り出した。
 「ほら、ここが『取り壊し前提の数字』」
 紙ナプキンの真ん中に大きな丸を描き、「解体・新築」と書き込む。
 「で、こっちが『リノベ案』」
 少し離れたところに、もう一つ丸を描き、「改修・段階的」と記す。
 「さらに、ここが『現場の好き』」
 三つ目の丸には、「二階の廊下」「親子ひろば」「喫茶」と、思いつくままに書き込んでいく。
 「本当は、この三つを重ねて考えなきゃいけない。なのに、お前は真ん中の『解体・新築』ばかり太くしてる」
 言われてみれば、その通りだった。
 取り壊し案の表だけ紙が分厚く、他の案はまだメモ段階。
 「数字がきちんとしてない案は、会議室に持っていきにくいからな」
 一輝は、コーヒーのスプーンを指先で転がした。
 「どうしても、用意しやすいものから先に形にしてしまいます」
 「それが、先送りだ」
 永羽は、胃薬のシートを指でとん、と叩いた。
 「俺が健康診断の封筒を引き出しにしまってきたのと、構造は同じだ」
 「……耳が痛い例えですね」
 「医者に言われたんだよ。『先送りにすると、ほんとうに大事な話からも逃げ続けることになります』って」
 その言葉は、やけにすんなり喉を通って頭の中に入ってきた。
 「ほんとうに大事な話って、なんですかね」
 一輝は、自分でもわかりきっている問いを口にする。
 「俺の場合は、家族との話と、自分の体の話だな」
 永羽は、少し遠くを見るような目をした。
 「『忙しいから』って理由で、家での時間をごまかしてきたツケが、この胃に全部来てる気がする」
 軽口に見せかけた一言に、少し苦さがにじむ。
 「お前の場合は?」
 問われて、すぐには答えが出てこなかった。
 川辺センターの今後。
 自分の異動の話。
 詩織のこと。
 どれも「大事だ」と言えてしまう。
 「……川辺センターの将来の話と、自分の働く場所の話と」
 一拍置いてから、ようやく続きの言葉を出す。
 「それから、センターで出会った人たちとの距離の話、ですかね」
 「三つとも、先送りに向いてない話だな」
 永羽は、紙ナプキンに三本の矢印を描いた。
 「川辺センターの将来は、『決まらないと困る人』が山ほどいる。
 お前の異動の話も、会社が先にシナリオ描いちまう前に、お前自身がどうしたいか決めないと、ただ流されるだけになる。
 で、最後のやつ」
 ペン先が、紙ナプキンの端を軽くつつく。
 「距離の話は、放っておくとだいたい『離れたまま落ち着く』ってオチになる」
 「……身に覚えがありすぎて、反論できません」
 河川敷のベンチ。
 教室の扉。
 「同じ景色を見てると思ってた」という言葉。
 どの場面も、「あとでちゃんと話そう」と思っているうちに、違う形になってしまった。
 「というわけでだな」
 永羽は、紙ナプキンの端に大きく文字を書いた。
 『本日の議題:胃薬が減らない選び方』
 「……なんですか、それ」
 「胃薬会議だ」
 永羽は、いかにも楽しそうに宣言した。
 「この先、お前がどう動けば、俺の胃薬の消費量が増えずに済むかを検討する会議」
 「課長の胃を基準にしないでくださいよ」
 「する。上司の健康は部下の仕事ぶりにかかっている。って、昔誰かが言ってた」
 「聞いたことありません」
 「今、俺が作ったからな」
 くだらないやり取りなのに、肩の力が少し抜けた。
 紙ナプキンの上には、「解体・新築」「改修・段階的」「現場の好き」、そして「胃薬」という、一見バラバラな単語が並んでいる。
 「まず一つ目」
 永羽は、指を一本立てた。
 「リノベ案、ちゃんと形にしろ。数字も絵も、説明の順番も。『取り壊し案のおまけ』じゃなくて、並べて選べるレベルまで持っていく」
 「……はい」
 「二つ目」
 もう一本、指が増える。
 「本社の人事に、ちゃんと自分の希望を伝えろ。『会社が決めるなら従います』じゃなくて、『こういう形なら本社でも現場でも動けます』っていう土台を出す」
 「それは、かなり胃の痛い作業ですね」
 「だから俺の胃薬が出てくる」
 永羽は、シートを指でとんと叩いた。
 「三つ目」
 最後の一本が立つ。
 「川辺センターでの距離の話。これは……俺が口出しすると、セクハラで怒られるかもしれんから、あんまり細かくは言わん」
 「助かります」
 「ただ一つだけ。『仕事のついで』に話そうとするな」
 その一言に、思わず息を飲む。
 「お前、河川敷の約束も、センターの教室での話も、全部『仕事の延長』みたいな顔で予約してただろ」
 図星だった。
 自分の都合が悪くなれば、「仕事が長引きました」で逃げられる位置に、いつも話を置いてきた。
 「本当に大事な話をするときだけでいい。『仕事抜きで話したい』って、一度くらいは言ってもいいんじゃないか」
 コーヒーの表面に映る自分の顔が、少しだけ歪んで見えた。
 「……それを言って、断られたらどうするんですか」
 「そんときは、俺が一緒に胃薬飲んでやる」
 永羽は、あっけらかんと笑った。
 「嫌われ役を一人で背負うな、ってこのあいだ社長も言ってただろ。
 現場で嫌われても、本社で嫌われても、どっちか片方で誰かが味方してたら、人間なんとか歩ける」
 前に会議室で聞いた言葉と、今の言葉が、ゆっくりと繋がっていく。
 「……課長の胃薬、そんなに万能なんですか」
 「少なくとも、『お前が先送りしないで済むなら減ってもいい』くらいには万能だ」
 冗談とも本気ともつかない声音だった。
 「というわけで、この紙ナプキンは今日の議事録だ」
 永羽は、ペンで「出席者:永羽・相沢」と書き添えた。
 「机の引き出しにしまうなよ。ちゃんと鞄の一番手前に入れておけ」
 「封筒みたいに、三年放置しないように気をつけます」
 ◇
 会社に戻ると、一輝は自席に腰を下ろし、パソコンを開いた。
 まず、新しいフォルダを作る。
 名前をつける画面で、少しだけ迷う。
 『kawabe_renovation_draft』
 英字でそう入力して、エンターキーを押した。
 中に、空のエクセルファイルと、白紙のワードファイルを置く。
 一つは、リノベーション案の数字を詰めるため。
 もう一つは、会議室ではまだ口にしていない「現場の好き」を、言葉として整理するため。
 フォルダを作業フォルダの一番上にドラッグし、紙ナプキンをそっとその上に置いた。
 「胃薬会議」の議事録は、思ったよりも頼りない紙切れだ。
 それでも、自分の中では結果通知の封筒よりずっと重い。
 メールの受信ボックスに、新着メールが一通届いていた。
 件名には、「フリーペーパー次号企画案の共有」とある。
 送信元は、「川辺センター講座事務局」。
 本文を開くと、冒頭に「詩織」の署名があった。
 『次号の特集テーマとして、「最後の花火を、どこから見上げるか」を考えています。
 川辺センターが今後どうなっても、この街で花火を見る場所はきっと残ると思います。
 そのときに思い出す「今の景色」を、今のうちに記録しておきたいです。』
 文章は、仕事用に整えられた丁寧な言葉で始まり、最後に一文だけ、少しだけ柔らかい調子が混ざっていた。
 『もし可能であれば、スターツホームズとしての視点からも、「最後の花火」をどう捉えているか聞かせてください。
 数字だけでなく、「どんな顔で見上げたいか」という話も、いつかどこかで。』
 読み終えたとき、胸のあたりがじんと熱くなった。
 ――いつかどこかで。
 その言い方は、距離を置いたようにも聞こえるし、まだ完全に扉を閉じていないようにも聞こえる。
 紙ナプキンに書かれた、「本日の議題:胃薬が減らない選び方」という文字が目に入った。
 「先送りしない、か」
 机の引き出しには、まだ未開封の封筒がいくつも眠っている。
 人事からの異動候補一覧。
 銀行との交渉日程。
 それらとは別に、自分で封を切らなければならない話が一つ増えた。
 キーボードに手を置き、メールの返信ボタンを押す。
 『企画案、拝見しました。
 最後の花火について、会社としての視点と、自分自身の視点、両方を整理してみます。
 数字の話と一緒に、「どんな顔で見上げたいか」の話も、近いうちにきちんとお伝えできればと思います。』
 「近いうちに」という言葉を打ち込みながら、胸ポケットの中のボールペンが、シャツ越しに小さく当たった。
 胃薬会議の議事録と、フリーペーパーの企画メール。
 その二つの間に、まだ形になっていない何かが横たわっている。
 それをどう埋めるかを考えることが、これからしばらくの自分の仕事になるのだろう。
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