君と見た花火は、苦情だらけ
第13話 最後の花火企画、こっそり始動
その週の金曜日、夜のオフィスは、蛍光灯の白さがいつもより冷たく感じられた。
スターツホームズ本社の一角、地域活性チームの島。
定時をとうに過ぎ、ほとんどの席は空になっている。
コピー機の音も止まり、聞こえるのは空調の低い唸りだけだ。
一輝は、自分の席に深く腰を下ろし、モニターに表示された図面を見つめていた。
画面には、川辺センターのフロア図が映っている。
老朽化した棟をグレーに塗りつぶし、新しい交流棟の候補を薄い青で重ねてみる。
二階の廊下には、わざと違う色の線を引いてあった。
「……ここだけは、幅を変えたくないんだよな」
独り言のつもりが、思ったより大きな声になった。
誰もいないフロアに、言葉がすぐに吸い込まれていく。
図面の横には、エクセルの表。
「解体費」「新築費」「耐震補強」「交流機能維持コスト」。
数字の列の下に、別のタブで「廊下幅再現」「親子ひろば視線の抜け」など、普通なら見積書には載らない項目が並んでいる。
「ここを一メートル狭くすると、建築費は下がるけど……」
画面の中の線を少し動かしてみる。
詰めれば詰めるほど、数字はきれいになる。
その代わり、廊下の光景が頭の中から遠ざかっていく。
「二階の廊下で、人の一日が流れていくのを見るのが好き」
アンケート用紙に書かれていた言葉が、ふと蘇る。
その時の書き手の顔は思い出せないのに、字のクセとインクのにじみだけがやけに鮮明だ。
マウスを置き、キーボードに手を伸ばした。
別のエクセルファイルを開き、新しいシートの名前を入力する。
『renovation_plan_lastfireworks』
自分でも少し大げさだと思いながら、エンターキーを押す。
川辺センターを完全に壊すのではなく、「最後の花火」を合図に姿を変えていく場所として描き直す――そんなイメージを、数字の枠の中に押し込んでいく作業が始まった。
そのとき、背後からドアの開く音がした。
「おーい、まだいたのか」
永羽が、コンビニの袋を提げて入ってくる。
袋の中から、ペットボトルのお茶と、見慣れた銀色のシートがのぞいていた。
「課長こそ、まだいたんですか」
「健康診断で『夜更かしは控えましょう』って言われたばかりなのにな」
そう言いながら、胃薬を一粒取り出して飲み込む。
「……それ、毎回目の前で飲まれるとプレッシャーがすごいんですが」
「プレッシャー感じるだけ健康だよ」
永羽は、一輝のモニターを覗き込んだ。
「お。取り壊しじゃない線画いてるな」
一輝は、画面を少しスクロールさせる。
交流棟の図面、二階廊下の幅、親子ひろばの位置。
まだラフスケッチに毛が生えた程度だが、方向性は見える。
「リノベ案を、ちゃんと数字に乗せてみようと思いまして」
「『胃薬会議』の宿題か」
「そうです」
永羽は、コンビニ袋からもう一本ペットボトルを取り出し、無言で一輝の机に置いた。
「それ、差し入れ?」
「いや、『先送り禁止代』だ」
さも当然のように言って、会議室の方へ去っていく。
残されたペットボトルのラベルを見つめながら、一輝は小さく笑った。
「はいはい。先送りしませんよ」
画面に向き直り、「二階廊下」の行の横に小さくコメントを入れる。
『※現場の声:「ここを歩くと一日の終わりを感じる」』
数字と一緒に、言葉も残しておく。
どちらか片方だけだと、またどこかで自分をごまかしてしまいそうだから。
◇
同じ頃、川辺センターから少し離れたアパートの一室。
ワンルームの部屋のテーブルの上には、鍋と教科書と、紙の山が散らばっていた。
フリーペーパーの予備号、講座のプリント、そして白紙のアンケート用紙。
詩織は、マジックペンを握りしめ、用紙の上部にタイトルを書いていた。
『君と見た花火に、私がアツく語りたいこと』
ちょっと長い。
でも、短くする勇気は出なかった。
「姉ちゃん、そのタイトル、息継ぎする場所どこ?」
テーブルの向かいで宿題をしていた弟が、シャーペンを回しながら言う。
「『君と見た花火に』で一回息継ぎして、『私がアツく語りたいこと』で息を吐き切る感じ」
「体育の授業じゃん」
くだらないやり取りが、部屋の空気を少しだけやわらかくする。
用紙の中央には、「思い出したい花火の日」「そのとき隣にいた人」「そのとき言えなかったこと」という欄を作った。
右下には、「この街で、これからどんな花火を見たいですか」という質問。
「これ、配るのセンターだけ?」
「ううん。千妃呂さんと話して、商店街の店にも置いてもらうことになった。学校にも、何枚かお願いしてみる予定」
「じゃあ、俺の学校にも?」
「もちろん」
「じゃあさ」
弟は、ノートにシャーペンで円を描きながら言った。
「俺、ここに『姉ちゃんと見た花火、またどっかで見たいです』って書こうかな」
「やめなさい」
「なんで」
「編集者が身内みたいで、信頼性が疑われるから」
「固いなあ」
弟が笑う。
詩織も、マジックペンの先をくるくる回しながら笑った。
けれど、胸の奥には別の言葉が渦巻いている。
――君と見た花火。
――河川敷に置いてきた紙。
あの日書いた「いつかちゃんと話したい」という一文は、もう手元にはない。
けれど、その続きを考えるたびに、ペンを握る手が少しだけ強くなる。
「……よし」
数十枚分の用紙の上部に、タイトルを書き連ねる。
インクのにおいが部屋に充満し、少しだけ頭がぼうっとしてきたころ、スマホにメッセージが届いた。
『明日、センターで配布用の箱用意しておきます。
商店街の○○さんも、「うちのお客さんにも書いてもらおうかな」と言ってくれました。
――千妃呂』
続いて、別のメッセージ。
『学校にも数十枚置けると思います。
「君と見た花火」、絶対いい企画になりますよ。
――圭良』
その言葉に、胸の中の不安が少しだけ薄くなる。
「……企画企画って言ってる時点で、だいぶ本気なんだけどね」
誰に聞かせるでもなくつぶやき、用紙の束を丁寧に揃えてクリアファイルに収めた。
◇
翌日。
川辺センターのロビーは、開館直後からいつもと違う光景になっていた。
受付カウンターの横に、小さな机がもう一つ置かれている。
机の上には、「君と見た花火に、私がアツく語りたいこと」と書かれた用紙と、色とりどりのボールペン。
「おしゃれな投書箱ねえ」
喫茶コーナーのマスターが、紙の束を眺めながら言う。
「『アツく語りたい』って、こんなに堂々と書かれると、ちょっと照れるけど」
「そこが狙いです」
詩織は笑いながら、机の横に立てたボードを整える。
ボードには、「思い出したい花火の日」「そのとき隣にいた人」「言えなかったひと言」の説明。
「仕事としてのアンケートってより、『ちょっと暑苦しいポストカード』みたいな感じで書いてもらえたらって」
「暑苦しいのは得意だよ」
そう言って、マスターは自分用の用紙を一枚抜き取った。
午前中のうちに、何人かが机の前で足を止めた。
「花火かあ……」
新聞の男性が、「思い出したい花火の日」の欄に目を落とす。
「いつのにしようかな。昔のか、ここ最近のか」
「どっちでも、両方でも」
詩織が促すと、男性はうーんと唸ってからペンを取った。
『十年前、ここに引っ越してきた年の花火。
家族で見たのは、あれが最後になったけれど、今でも音だけは覚えている。』
読みながら、詩織の胸の中の何かがかすかに揺れた。
「……いいですね」
「言葉にしてみると、意外と重かったな」
男性は照れくさそうに笑い、用紙を箱に入れた。
「どこかで、ちゃんと読みますね」
「ほどほどにな」
昼が近づく頃には、用紙の箱の中に少しずつ紙がたまり始めていた。
◇
同じ時間、本社ビルでは、別の箱が静かに重くなっていた。
プリンターの排紙トレーに、リノベーション案の試算書が次々と積み重なっていく。
一輝は。その紙を揃えながら、行間に小さく赤ペンでコメントを書き込んでいた。
「二階廊下、現状より〇〇センチ広くすると、視線の抜けが変わる……」
数字だけでは伝わらない感覚を、どうやって会議室に持ち込むか。
胃薬会議の紙ナプキンに書いた丸印を思い出しながら、ペン先を動かす。
ふと、メールの通知が画面の端に表示された。
『君と見た花火アンケート、初日からそこそこ集まり始めました。
「隣にいた人」の欄に、自分の名前を書く人が想像以上に多くて、読んでいて少し照れます。
――詩織』
文面は淡々としているのに、「少し照れます」という一言だけが、何かをこぼしそうに揺れている。
返信画面を開き、キーボードに指を置いた。
『初日からの報告、ありがとうございます。
こちらも、川辺センターを「最後の花火で終わらせない」案を、少しずつ形にしています。
数字と一緒に、皆さんの文章も会議室に持っていけるように、考えてみます。』
書いているうちに、心臓の鼓動が早くなる。
「会議室」という単語を出すのは、まだ早いかもしれない。
それでも、隠したままでいることへの違和感の方が大きくなっていた。
少し迷ってから、もう一行だけ付け足す。
『仕事の話としてだけでなく、「自分も今年の花火をどんな顔で見たいか」考えてみます。
その話も、いつか直接できればと思います。』
「いつか」という言葉は、自分でも危ういとわかっている。
それでも、「近いうちに」と書く勇気は、まだ出なかった。
送信ボタンを押す。
画面の奥へと飛んでいく文字列を見送りながら、胸ポケットの中のボールペンを指先でつまんだ。
「……今年の花火、か」
あの河川敷で見上げた夜空。
途中で途切れた会話。
ベンチの上に置かれた、一行だけのメモ。
あの続きが、まだどこかに残っている気がしていた。
◇
夕方の川辺センター。
閉館前のロビーには、机の上の投書箱が一日分の重みを抱えていた。
「結構集まりましたね」
千妃呂が、箱を持ち上げてみて目を丸くする。
「見た目以上に重いです」
「中身が詰まってますからね」
詩織は、箱を事務室に運び入れ、机の上に広げた。
「友だちと見上げた」「一人で遠くから眺めた」「ここに来る途中に聞こえた音だけ」。
書かれているのは、派手なドラマではなく、どれも少しずつ生活に混ざった花火の記憶だった。
「ここの、『本当は隣にいてほしかった人』って欄、切ないなあ」
千妃呂が、一枚の用紙を指さす。
『そのとき、隣にいてほしかった人』の行に、名前の代わりに「未来の自分」と書いてある。
「……これ、書いた人、どういう気持ちでここに来てるんだろう」
「それを想像するのが、詩織さんの仕事でしょう」
千妃呂はからかうように笑い、用紙を丁寧に束ねた。
「明日、商店街にも追加で用紙を持っていきますね。『うちの店から花火は見えないけど、音だけは聞こえる』って言ってた人もいましたし」
「お願いします」
机の端に置いてあったフリーペーパーの見出しが目に入る。
「温もりを求める瞳・第二章」。
その文字の下に、「君と見た花火」の特集号が並ぶ日が、少しだけ現実味を増してきた。
◇
その夜。
川辺センターからのエレベーターを降りたところで、圭良がスマホをいじりながら立っていた。
「あ、一輝さん」
「今日も残業ですか」
「少しだけ。例のアンケートの集計、千妃呂さんが『数字の整理は若いのに任せる』って」
「こっちも似たようなこと言われましたよ。『リノベ案は若いのが走れ』って」
ふたりで苦笑する。
どこかで同じ方向を向いているようで、今はまだ微妙に距離がある。
「そういえば」
圭良が、スマホの画面を見せてきた。
そこには、詩織から送られてきたらしいメッセージの一部が映っている。
『君と見た花火の文章、どこまで本音を出しても大丈夫だと思いますか?
センターの講師としての顔と、ただの住民としての顔の間で、少し揺れています。』
「……見せていいんですか、それ」
「ここだけです。ちょっと相談受けたんで」
圭良は、スマホの画面を消しながら言った。
「たぶん、詩織さんも同じなんですよ。
川辺センターのために書いてる顔と、自分のために書きたい顔と。
どっちも本物なんだけど、どこまで出していいか迷ってる」
その言葉は、自分のことを言われているようでもあった。
「俺ら世代って、『ちゃんと責任取れる大人』のフリしながら、『ほんとは怖い』って思ってるところ隠すの、うまいじゃないですか」
「自慢になりませんね」
「なりませんね」
圭良は笑う。
「でも、どこかで誰かが、一回くらい本音をテーブルの真ん中に置かないと、ずっとフリだけで終わっちゃう」
「……本音か」
河川敷のベンチ。
置かれた紙。
「君と見た花火のこと、いつかちゃんと話したいです」という一文。
あれは、誰かが一度だけテーブルの真ん中に出した本音だったのかもしれない。
その紙を、都合よく折り畳んで持ち帰ったのは、自分だ。
「アンケートの結果、今度見せてもらっていいですか」
一輝は、ふと思いついて言った。
「数字としてだけじゃなくて、文章としても」
「もちろん」
圭良は、すぐにうなずいた。
「その代わり、リノベ案のほうも、数字だけじゃなくて、『どんな顔で花火を見上げてほしいか』って話、今度聞かせてください」
「……胃薬の消費量が増えそうですね」
「そのときは、永羽課長の隣で一緒に飲みましょう」
笑いながら、ふたりはそれぞれの方向へ歩き出した。
川辺センターの廊下。
本社の図面。
ロビーの投書箱。
別々の場所で、別々の夜に、同じ「最後の花火」に向けた準備が、少しずつ進んでいく。
スターツホームズ本社の一角、地域活性チームの島。
定時をとうに過ぎ、ほとんどの席は空になっている。
コピー機の音も止まり、聞こえるのは空調の低い唸りだけだ。
一輝は、自分の席に深く腰を下ろし、モニターに表示された図面を見つめていた。
画面には、川辺センターのフロア図が映っている。
老朽化した棟をグレーに塗りつぶし、新しい交流棟の候補を薄い青で重ねてみる。
二階の廊下には、わざと違う色の線を引いてあった。
「……ここだけは、幅を変えたくないんだよな」
独り言のつもりが、思ったより大きな声になった。
誰もいないフロアに、言葉がすぐに吸い込まれていく。
図面の横には、エクセルの表。
「解体費」「新築費」「耐震補強」「交流機能維持コスト」。
数字の列の下に、別のタブで「廊下幅再現」「親子ひろば視線の抜け」など、普通なら見積書には載らない項目が並んでいる。
「ここを一メートル狭くすると、建築費は下がるけど……」
画面の中の線を少し動かしてみる。
詰めれば詰めるほど、数字はきれいになる。
その代わり、廊下の光景が頭の中から遠ざかっていく。
「二階の廊下で、人の一日が流れていくのを見るのが好き」
アンケート用紙に書かれていた言葉が、ふと蘇る。
その時の書き手の顔は思い出せないのに、字のクセとインクのにじみだけがやけに鮮明だ。
マウスを置き、キーボードに手を伸ばした。
別のエクセルファイルを開き、新しいシートの名前を入力する。
『renovation_plan_lastfireworks』
自分でも少し大げさだと思いながら、エンターキーを押す。
川辺センターを完全に壊すのではなく、「最後の花火」を合図に姿を変えていく場所として描き直す――そんなイメージを、数字の枠の中に押し込んでいく作業が始まった。
そのとき、背後からドアの開く音がした。
「おーい、まだいたのか」
永羽が、コンビニの袋を提げて入ってくる。
袋の中から、ペットボトルのお茶と、見慣れた銀色のシートがのぞいていた。
「課長こそ、まだいたんですか」
「健康診断で『夜更かしは控えましょう』って言われたばかりなのにな」
そう言いながら、胃薬を一粒取り出して飲み込む。
「……それ、毎回目の前で飲まれるとプレッシャーがすごいんですが」
「プレッシャー感じるだけ健康だよ」
永羽は、一輝のモニターを覗き込んだ。
「お。取り壊しじゃない線画いてるな」
一輝は、画面を少しスクロールさせる。
交流棟の図面、二階廊下の幅、親子ひろばの位置。
まだラフスケッチに毛が生えた程度だが、方向性は見える。
「リノベ案を、ちゃんと数字に乗せてみようと思いまして」
「『胃薬会議』の宿題か」
「そうです」
永羽は、コンビニ袋からもう一本ペットボトルを取り出し、無言で一輝の机に置いた。
「それ、差し入れ?」
「いや、『先送り禁止代』だ」
さも当然のように言って、会議室の方へ去っていく。
残されたペットボトルのラベルを見つめながら、一輝は小さく笑った。
「はいはい。先送りしませんよ」
画面に向き直り、「二階廊下」の行の横に小さくコメントを入れる。
『※現場の声:「ここを歩くと一日の終わりを感じる」』
数字と一緒に、言葉も残しておく。
どちらか片方だけだと、またどこかで自分をごまかしてしまいそうだから。
◇
同じ頃、川辺センターから少し離れたアパートの一室。
ワンルームの部屋のテーブルの上には、鍋と教科書と、紙の山が散らばっていた。
フリーペーパーの予備号、講座のプリント、そして白紙のアンケート用紙。
詩織は、マジックペンを握りしめ、用紙の上部にタイトルを書いていた。
『君と見た花火に、私がアツく語りたいこと』
ちょっと長い。
でも、短くする勇気は出なかった。
「姉ちゃん、そのタイトル、息継ぎする場所どこ?」
テーブルの向かいで宿題をしていた弟が、シャーペンを回しながら言う。
「『君と見た花火に』で一回息継ぎして、『私がアツく語りたいこと』で息を吐き切る感じ」
「体育の授業じゃん」
くだらないやり取りが、部屋の空気を少しだけやわらかくする。
用紙の中央には、「思い出したい花火の日」「そのとき隣にいた人」「そのとき言えなかったこと」という欄を作った。
右下には、「この街で、これからどんな花火を見たいですか」という質問。
「これ、配るのセンターだけ?」
「ううん。千妃呂さんと話して、商店街の店にも置いてもらうことになった。学校にも、何枚かお願いしてみる予定」
「じゃあ、俺の学校にも?」
「もちろん」
「じゃあさ」
弟は、ノートにシャーペンで円を描きながら言った。
「俺、ここに『姉ちゃんと見た花火、またどっかで見たいです』って書こうかな」
「やめなさい」
「なんで」
「編集者が身内みたいで、信頼性が疑われるから」
「固いなあ」
弟が笑う。
詩織も、マジックペンの先をくるくる回しながら笑った。
けれど、胸の奥には別の言葉が渦巻いている。
――君と見た花火。
――河川敷に置いてきた紙。
あの日書いた「いつかちゃんと話したい」という一文は、もう手元にはない。
けれど、その続きを考えるたびに、ペンを握る手が少しだけ強くなる。
「……よし」
数十枚分の用紙の上部に、タイトルを書き連ねる。
インクのにおいが部屋に充満し、少しだけ頭がぼうっとしてきたころ、スマホにメッセージが届いた。
『明日、センターで配布用の箱用意しておきます。
商店街の○○さんも、「うちのお客さんにも書いてもらおうかな」と言ってくれました。
――千妃呂』
続いて、別のメッセージ。
『学校にも数十枚置けると思います。
「君と見た花火」、絶対いい企画になりますよ。
――圭良』
その言葉に、胸の中の不安が少しだけ薄くなる。
「……企画企画って言ってる時点で、だいぶ本気なんだけどね」
誰に聞かせるでもなくつぶやき、用紙の束を丁寧に揃えてクリアファイルに収めた。
◇
翌日。
川辺センターのロビーは、開館直後からいつもと違う光景になっていた。
受付カウンターの横に、小さな机がもう一つ置かれている。
机の上には、「君と見た花火に、私がアツく語りたいこと」と書かれた用紙と、色とりどりのボールペン。
「おしゃれな投書箱ねえ」
喫茶コーナーのマスターが、紙の束を眺めながら言う。
「『アツく語りたい』って、こんなに堂々と書かれると、ちょっと照れるけど」
「そこが狙いです」
詩織は笑いながら、机の横に立てたボードを整える。
ボードには、「思い出したい花火の日」「そのとき隣にいた人」「言えなかったひと言」の説明。
「仕事としてのアンケートってより、『ちょっと暑苦しいポストカード』みたいな感じで書いてもらえたらって」
「暑苦しいのは得意だよ」
そう言って、マスターは自分用の用紙を一枚抜き取った。
午前中のうちに、何人かが机の前で足を止めた。
「花火かあ……」
新聞の男性が、「思い出したい花火の日」の欄に目を落とす。
「いつのにしようかな。昔のか、ここ最近のか」
「どっちでも、両方でも」
詩織が促すと、男性はうーんと唸ってからペンを取った。
『十年前、ここに引っ越してきた年の花火。
家族で見たのは、あれが最後になったけれど、今でも音だけは覚えている。』
読みながら、詩織の胸の中の何かがかすかに揺れた。
「……いいですね」
「言葉にしてみると、意外と重かったな」
男性は照れくさそうに笑い、用紙を箱に入れた。
「どこかで、ちゃんと読みますね」
「ほどほどにな」
昼が近づく頃には、用紙の箱の中に少しずつ紙がたまり始めていた。
◇
同じ時間、本社ビルでは、別の箱が静かに重くなっていた。
プリンターの排紙トレーに、リノベーション案の試算書が次々と積み重なっていく。
一輝は。その紙を揃えながら、行間に小さく赤ペンでコメントを書き込んでいた。
「二階廊下、現状より〇〇センチ広くすると、視線の抜けが変わる……」
数字だけでは伝わらない感覚を、どうやって会議室に持ち込むか。
胃薬会議の紙ナプキンに書いた丸印を思い出しながら、ペン先を動かす。
ふと、メールの通知が画面の端に表示された。
『君と見た花火アンケート、初日からそこそこ集まり始めました。
「隣にいた人」の欄に、自分の名前を書く人が想像以上に多くて、読んでいて少し照れます。
――詩織』
文面は淡々としているのに、「少し照れます」という一言だけが、何かをこぼしそうに揺れている。
返信画面を開き、キーボードに指を置いた。
『初日からの報告、ありがとうございます。
こちらも、川辺センターを「最後の花火で終わらせない」案を、少しずつ形にしています。
数字と一緒に、皆さんの文章も会議室に持っていけるように、考えてみます。』
書いているうちに、心臓の鼓動が早くなる。
「会議室」という単語を出すのは、まだ早いかもしれない。
それでも、隠したままでいることへの違和感の方が大きくなっていた。
少し迷ってから、もう一行だけ付け足す。
『仕事の話としてだけでなく、「自分も今年の花火をどんな顔で見たいか」考えてみます。
その話も、いつか直接できればと思います。』
「いつか」という言葉は、自分でも危ういとわかっている。
それでも、「近いうちに」と書く勇気は、まだ出なかった。
送信ボタンを押す。
画面の奥へと飛んでいく文字列を見送りながら、胸ポケットの中のボールペンを指先でつまんだ。
「……今年の花火、か」
あの河川敷で見上げた夜空。
途中で途切れた会話。
ベンチの上に置かれた、一行だけのメモ。
あの続きが、まだどこかに残っている気がしていた。
◇
夕方の川辺センター。
閉館前のロビーには、机の上の投書箱が一日分の重みを抱えていた。
「結構集まりましたね」
千妃呂が、箱を持ち上げてみて目を丸くする。
「見た目以上に重いです」
「中身が詰まってますからね」
詩織は、箱を事務室に運び入れ、机の上に広げた。
「友だちと見上げた」「一人で遠くから眺めた」「ここに来る途中に聞こえた音だけ」。
書かれているのは、派手なドラマではなく、どれも少しずつ生活に混ざった花火の記憶だった。
「ここの、『本当は隣にいてほしかった人』って欄、切ないなあ」
千妃呂が、一枚の用紙を指さす。
『そのとき、隣にいてほしかった人』の行に、名前の代わりに「未来の自分」と書いてある。
「……これ、書いた人、どういう気持ちでここに来てるんだろう」
「それを想像するのが、詩織さんの仕事でしょう」
千妃呂はからかうように笑い、用紙を丁寧に束ねた。
「明日、商店街にも追加で用紙を持っていきますね。『うちの店から花火は見えないけど、音だけは聞こえる』って言ってた人もいましたし」
「お願いします」
机の端に置いてあったフリーペーパーの見出しが目に入る。
「温もりを求める瞳・第二章」。
その文字の下に、「君と見た花火」の特集号が並ぶ日が、少しだけ現実味を増してきた。
◇
その夜。
川辺センターからのエレベーターを降りたところで、圭良がスマホをいじりながら立っていた。
「あ、一輝さん」
「今日も残業ですか」
「少しだけ。例のアンケートの集計、千妃呂さんが『数字の整理は若いのに任せる』って」
「こっちも似たようなこと言われましたよ。『リノベ案は若いのが走れ』って」
ふたりで苦笑する。
どこかで同じ方向を向いているようで、今はまだ微妙に距離がある。
「そういえば」
圭良が、スマホの画面を見せてきた。
そこには、詩織から送られてきたらしいメッセージの一部が映っている。
『君と見た花火の文章、どこまで本音を出しても大丈夫だと思いますか?
センターの講師としての顔と、ただの住民としての顔の間で、少し揺れています。』
「……見せていいんですか、それ」
「ここだけです。ちょっと相談受けたんで」
圭良は、スマホの画面を消しながら言った。
「たぶん、詩織さんも同じなんですよ。
川辺センターのために書いてる顔と、自分のために書きたい顔と。
どっちも本物なんだけど、どこまで出していいか迷ってる」
その言葉は、自分のことを言われているようでもあった。
「俺ら世代って、『ちゃんと責任取れる大人』のフリしながら、『ほんとは怖い』って思ってるところ隠すの、うまいじゃないですか」
「自慢になりませんね」
「なりませんね」
圭良は笑う。
「でも、どこかで誰かが、一回くらい本音をテーブルの真ん中に置かないと、ずっとフリだけで終わっちゃう」
「……本音か」
河川敷のベンチ。
置かれた紙。
「君と見た花火のこと、いつかちゃんと話したいです」という一文。
あれは、誰かが一度だけテーブルの真ん中に出した本音だったのかもしれない。
その紙を、都合よく折り畳んで持ち帰ったのは、自分だ。
「アンケートの結果、今度見せてもらっていいですか」
一輝は、ふと思いついて言った。
「数字としてだけじゃなくて、文章としても」
「もちろん」
圭良は、すぐにうなずいた。
「その代わり、リノベ案のほうも、数字だけじゃなくて、『どんな顔で花火を見上げてほしいか』って話、今度聞かせてください」
「……胃薬の消費量が増えそうですね」
「そのときは、永羽課長の隣で一緒に飲みましょう」
笑いながら、ふたりはそれぞれの方向へ歩き出した。
川辺センターの廊下。
本社の図面。
ロビーの投書箱。
別々の場所で、別々の夜に、同じ「最後の花火」に向けた準備が、少しずつ進んでいく。