君と見た花火は、苦情だらけ
第14話 ビルの壁いっぱいの言葉たち
土曜日の朝、川辺センターのロビーは、いつもと違う匂いがしていた。
コピー機のインクとも、喫茶のコーヒーとも違う匂い。
紙とマジックペンと、養生テープのにおいが混ざった、ちょっとだけ文化祭めいた空気だ。
「よし、ここはこんな感じでどうですかね」
脚立の上で、圭良がA4の紙を壁に貼りつけている。
紙には太い文字で、「私がアツく語りたいこと」と書かれていた。
その下には、昨日までに集まった「君と見た花火」のアンケートから抜き出した文章が、ひとつずつ印刷されている。
『十年前、ここに引っ越してきた年の花火。
家族で見たのはあれが最後だったけれど、今でも音だけは覚えている。』
『センターの二階の窓から、打ち上げ場所は見えないのに、子どもたちの歓声だけが聞こえてきた日。
その声が、私にとっての花火です。』
詩織は、少し離れたところからその光景を見上げていた。
白い壁に、黒い文字が増えていく。
それだけなのに、ロビーの空気がじわじわと厚みを増していく。
「圭良さん、テープはもう少し下の方まで貼ってください。子どもたちが触っても剥がれにくいように」
「了解です。ここ、昨日も走り回ってましたもんね」
脚立の下では、千妃呂が養生テープの芯をくるくる回していた。
足もとには、まだ貼られていない紙が十数枚、慎重に重ねて置かれている。
「これ、全部『温もりを求める瞳』の人たちの文章なんですよね」
「そうです」
詩織は、一枚の紙を手に取る。
『このセンターの自動ドアが開くとき、外の熱い空気から中のひんやりした空気に変わる瞬間が好きです。
そのとき、自分の心も少し楽になる気がします。』
「なんか、読んでるだけで胸熱くなりません?」
千妃呂が、わざと少し大げさに言う。
「『私がアツく語りたい』ってそういうことなんだなあって」
「この文章を書いた人たちを、直接取材したいくらいですよね」
「それ、次の講座のテーマにしましょうか。『自分の文章をアツく語る会』」
「絶対、照れて誰も来ませんよ」
そんな冗談を交わしながら、三人で壁への貼り付け作業を進めていく。
ロビーの左側の壁には、「私がアツく語りたいこと」。
右側の壁には、「温もりを求める瞳」という見出しをそれぞれ掲げ、下に文章を並べていく。
真ん中の柱には、手書きの小さな案内が貼られた。
『ここに貼られているのは、川辺センターで集めた言葉たちです。
どの一枚にも、誰かの「好き」と「少しの勇気」が詰まっています。
立ち止まって、ゆっくり読んでみてください。』
「……これ、考えた人、誰ですか」
圭良が脚立から降りてきて、柱の紙を覗き込む。
「千妃呂さんと私の合作です」
詩織は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「『少しの勇気』って言葉、千妃呂さんが出してくれました」
「だってさ」
千妃呂は、テープの芯を指で弾きながら言う。
「『なくなったら寂しい』って書くのって、結構勇気いると思うんですよ。
だって、それって『今、怖いです』って認めることでもあるじゃないですか」
「……そうですね」
詩織の胸に、あの日の教室での自分の言葉がよぎる。
「卑怯だと思いました」と言ってしまった声。
「同じ景色を見ていると思っていた」という一言。
自分もまた、「なくなったら怖い」と思っているのに、それをうまく言葉にできなかった。
そこへ、新聞を抱えた常連の男性がロビーに入ってきた。
「おや、模様替えかね」
「おはようございます」
三人がそろって頭を下げる。
「何だ何だ、壁に落書きでもされたのかと思ったら、これは……」
男性は、眼鏡を少しずらして壁に近づく。
紙に書かれた文字を、ひとつひとつ追っていく。
途中で、自分の文章を見つけたらしい。
『二階の廊下で、人の一日が流れていくのを見るのが好きです。』
その一行を読んだ瞬間、男性の口元が少しだけゆるんだ。
「これ、わしが書いたやつだ」
「はい。とても印象的だったので、許可をいただいて貼らせてもらいました」
詩織が答える。
「こんな立派に貼られるとは思わなかったなあ。
えーと、どれどれ……お、親子ひろばのお母さんのやつもあるじゃないか」
男性は、ほかの紙にも目をやった。
その横を、小さな男の子が走り抜ける。
「わー、かべにいっぱい紙!」
「○○くん、走るのはここまで。紙は見るだけね」
母親が慌てて追いかける。
「『おかあさんと見たはなび』……これ、だれの?」
「それはね、お姉さんのお友だちが書いたやつだよ」
ロビーの真ん中には、小さな人だかりができ始めていた。
誰かが一枚を読み終えると、また別の紙に移る。
笑い声と、ため息と、ひそひそ声が混ざり合う。
「これ、思った以上にすごいですね」
千妃呂が、小声で言った。
「ただ紙を貼ってるだけなのに、ロビーがなんか、別の場所みたい」
「このビルが、『言葉の展示室』になった感じですね」
詩織も、小さく息を飲む。
養生テープの端から、ひゅっと少しだけ剥がれる音がした。
一枚の紙の角が、ぴらりと浮いている。
「あ、ちょっと待ってください」
詩織が慌てて指で押さえる。
紙には、こう書かれていた。
『このセンターで初めて一人暮らしの相談をしたとき、受付の人が「大丈夫ですよ」と笑ってくれた。
その言葉が、今でも私の背中を押してくれています。』
紙の角をそっと押さえながら、胸の奥のどこかがきゅっと鳴った。
「……ここに貼ってあるの、全部『背中を押してくれた何か』なんですね」
思わず口にすると、隣で千妃呂がうなずく。
「だから、剥がれないようにちゃんと貼らないと」
そのとき、ロビーの自動ドアが開いた。
「お邪魔します」
スーツ姿の一輝が、資料の入った鞄を肩にかけて立っていた。
「今日は打ち合わせ、午後からですよね?」
詩織の声は、少しだけ硬い。
それでも、前みたいに完全に視線を避けることはしなかった。
「はい。その前に、どうしても一度見ておきたくて」
一輝は、ロビーの壁をぐるりと見渡した。
「私がアツく語りたいこと」と、「温もりを求める瞳」。
両側の壁一面に、文字の波が広がっている。
足を一歩踏み出し、一番端の紙から読み始めた。
『ここで、仕事を辞めたことを初めて誰かに打ち明けました。
「よく頑張りましたね」と言われたとき、泣きそうになりました。』
『このビルの階段を、一段ずつ上るときの音が好きです。
しんどいときほど、その音が「今日もここまで来られたね」と言ってくれる気がします。』
一枚ごとに、胸の奥のどこかが静かに揺れていく。
「……すごいですね」
ようやく絞り出した声は、それだけだった。
「住民の皆さんの文章です」
詩織が説明する。
「講座やアンケートで集めたものから選んで、貼らせていただきました」
「この壁、いつまで貼っておけますか」
一輝は、壁から目を離さないまま聞いた。
「養生テープが持つ限りは」
千妃呂が答える。
「しばらくは、ここを通る人たちに見てもらおうと思ってます」
「……社長に見せたいです」
思わず漏れた一言に、三人の視線が向く。
「社長、ですか」
「はい」
一輝は、少しだけ表情を引き締めた。
「川辺センターの将来を決める会議が、近いうちにあります。
そのとき、数字や図面だけじゃなくて、ここに書かれている言葉も一緒に見てもらいたい」
「写真、ですか?」
圭良が尋ねる。
「写真も撮ります」
一輝はうなずいた。
「できれば、動画も。人がこの壁の前で立ち止まっている様子も含めて、本社に届けたい」
詩織は、胸の中のどこかで何かがほどける感覚を覚えた。
「取り壊し時の収支シミュレーションに、こういうものをぶつけるつもりです」
あえて、あの言葉を口にした。
詩織の目が、一瞬だけ鋭くなる。
「……『ぶつける』」
「はい」
一輝は、壁の紙を一枚指で示した。
『ここがなくなったら困る、という言葉を、数字の横にちゃんと並べたいんです』
自分でも、少し無茶を言っている自覚はある。
会社の会議では、だいたい「数字」が先に並べられ、「気持ち」はその後ろをちょろちょろとついていく。
「でも、今回だけは順番をひっくり返したい」
そう言って、胸ポケットから例の紙ナプキンを取り出した。
「胃薬会議」の議事録。
「……それ、まだ持ってるんですか」
千妃呂が吹き出しそうになる。
「課長から、『机の引き出しにしまうな』って言われたので」
一輝は、紙ナプキンをそっと開いた。
そこには、「解体・新築」「改修・段階的」「現場の好き」という丸の図が描かれている。
「この『現場の好き』の丸の部分を、もっと太くしないといけない。
そうしないと、会議室の中で埋もれてしまいます」
「そのための壁、ってことですか」
圭良が言う。
「はい。僕にとっては、ここが切り札です」
詩織は、壁を見上げた。
貼られているのは、自分の文章ではない。
けれど、この壁を作る過程で、何度も胸の中を通り過ぎた気持ちは、自分のものでもあった。
「……勝手に切り札にされるのは、正直怖いです」
思わず本音がこぼれる。
三人が、はっとして詩織を見る。
「この壁を使って本社を説得しようとして、もしうまくいかなかったら。
『やっぱり気持ちだけじゃだめですね』って笑われるのは、ここに言葉を出してくれた人たちですから」
その懸念は、ずっと胸の奥にあった。
一輝は、しばらく黙ってから、壁の紙にそっと手を添えた。
「だからこそ、数字も本気で整えます」
静かな声だった。
「この壁を『お飾り』にしないように。
解体案と同じか、それ以上に説得力のあるリノベ案を作ります。
そのうえで、『それでも残したい』って言葉を並べたいんです」
「それでも、って?」
「はい」
一輝は、詩織の目を見る。
「取り壊したほうが短期的には得かもしれない。
それでも、ここで積み重ねてきた言葉や表情を考えたら、別の選択肢があるはずだ、と。
そう言い切れるだけの準備を、ちゃんとします」
言いながら、自分の胃のあたりが少しきゅっとなる。
永羽に「胃薬会議」と名付けられた理由が、ようやく身にしみる。
詩織は、視線を壁に戻した。
一枚一枚の紙が、蛍光灯の光を受けて、わずかに影をつくっている。
「……この壁の前で、社長さんたちにも立ち止まってもらえるといいですね」
ぽつりと出た言葉に、一輝は息を吐いた。
「連れてきたいです。本当は」
「本当は?」
「会議室で写真や動画を見せるだけじゃなくて、実際にここに立ってもらいたい。
二階の廊下も歩いてもらって、喫茶でコーヒー飲んでもらって、親子ひろばの前も通ってもらって」
「それ、全部やったら、課長の胃薬が一箱なくなりますね」
千妃呂が、空気をやわらげるように茶化す。
「そのときは、僕も一緒に飲みます」
一輝は、ふっと笑った。
壁の前には、新しい紙がまた一枚貼られていく。
今日、ロビーで書いてくれたばかりの文章だ。
『この壁に自分の言葉が貼られているのを見て、ちょっとだけ誇らしくなりました。
このビルがどうなっても、この誇らしさはどこかに残っていてほしいです。』
詩織は、その一行を読みながら、自分の胸の中にも似たような感覚があることに気づいた。
――このビルがどうなっても。
その先の未来がまだぼやけていても、今ここで紙に書かれた言葉たちは、確かに存在している。
「じゃあ、私たちもちゃんと責任取らないとですね」
詩織は、壁から少し離れ、ロビー全体を見渡した。
「この壁を切り札にするなら、この壁に貼られている人たちに恥をかかせないように」
「はい」
一輝は、まっすぐうなずいた。
「その責任、僕も一緒に負わせてください」
ロビーの自動ドアがまた開く。
新しい来館者が入り、足を止め、壁を見上げる。
ビルの壁いっぱいに貼られた言葉たちが、今日もまた誰かの足を止め、少しだけ心の温度を変えていく。
その光景を見つめながら、一輝は心の中で静かに決めた。
――次の社長プレゼンでは、この壁から始めよう。
数字ではなく、ここに貼られた「好き」から。
コピー機のインクとも、喫茶のコーヒーとも違う匂い。
紙とマジックペンと、養生テープのにおいが混ざった、ちょっとだけ文化祭めいた空気だ。
「よし、ここはこんな感じでどうですかね」
脚立の上で、圭良がA4の紙を壁に貼りつけている。
紙には太い文字で、「私がアツく語りたいこと」と書かれていた。
その下には、昨日までに集まった「君と見た花火」のアンケートから抜き出した文章が、ひとつずつ印刷されている。
『十年前、ここに引っ越してきた年の花火。
家族で見たのはあれが最後だったけれど、今でも音だけは覚えている。』
『センターの二階の窓から、打ち上げ場所は見えないのに、子どもたちの歓声だけが聞こえてきた日。
その声が、私にとっての花火です。』
詩織は、少し離れたところからその光景を見上げていた。
白い壁に、黒い文字が増えていく。
それだけなのに、ロビーの空気がじわじわと厚みを増していく。
「圭良さん、テープはもう少し下の方まで貼ってください。子どもたちが触っても剥がれにくいように」
「了解です。ここ、昨日も走り回ってましたもんね」
脚立の下では、千妃呂が養生テープの芯をくるくる回していた。
足もとには、まだ貼られていない紙が十数枚、慎重に重ねて置かれている。
「これ、全部『温もりを求める瞳』の人たちの文章なんですよね」
「そうです」
詩織は、一枚の紙を手に取る。
『このセンターの自動ドアが開くとき、外の熱い空気から中のひんやりした空気に変わる瞬間が好きです。
そのとき、自分の心も少し楽になる気がします。』
「なんか、読んでるだけで胸熱くなりません?」
千妃呂が、わざと少し大げさに言う。
「『私がアツく語りたい』ってそういうことなんだなあって」
「この文章を書いた人たちを、直接取材したいくらいですよね」
「それ、次の講座のテーマにしましょうか。『自分の文章をアツく語る会』」
「絶対、照れて誰も来ませんよ」
そんな冗談を交わしながら、三人で壁への貼り付け作業を進めていく。
ロビーの左側の壁には、「私がアツく語りたいこと」。
右側の壁には、「温もりを求める瞳」という見出しをそれぞれ掲げ、下に文章を並べていく。
真ん中の柱には、手書きの小さな案内が貼られた。
『ここに貼られているのは、川辺センターで集めた言葉たちです。
どの一枚にも、誰かの「好き」と「少しの勇気」が詰まっています。
立ち止まって、ゆっくり読んでみてください。』
「……これ、考えた人、誰ですか」
圭良が脚立から降りてきて、柱の紙を覗き込む。
「千妃呂さんと私の合作です」
詩織は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「『少しの勇気』って言葉、千妃呂さんが出してくれました」
「だってさ」
千妃呂は、テープの芯を指で弾きながら言う。
「『なくなったら寂しい』って書くのって、結構勇気いると思うんですよ。
だって、それって『今、怖いです』って認めることでもあるじゃないですか」
「……そうですね」
詩織の胸に、あの日の教室での自分の言葉がよぎる。
「卑怯だと思いました」と言ってしまった声。
「同じ景色を見ていると思っていた」という一言。
自分もまた、「なくなったら怖い」と思っているのに、それをうまく言葉にできなかった。
そこへ、新聞を抱えた常連の男性がロビーに入ってきた。
「おや、模様替えかね」
「おはようございます」
三人がそろって頭を下げる。
「何だ何だ、壁に落書きでもされたのかと思ったら、これは……」
男性は、眼鏡を少しずらして壁に近づく。
紙に書かれた文字を、ひとつひとつ追っていく。
途中で、自分の文章を見つけたらしい。
『二階の廊下で、人の一日が流れていくのを見るのが好きです。』
その一行を読んだ瞬間、男性の口元が少しだけゆるんだ。
「これ、わしが書いたやつだ」
「はい。とても印象的だったので、許可をいただいて貼らせてもらいました」
詩織が答える。
「こんな立派に貼られるとは思わなかったなあ。
えーと、どれどれ……お、親子ひろばのお母さんのやつもあるじゃないか」
男性は、ほかの紙にも目をやった。
その横を、小さな男の子が走り抜ける。
「わー、かべにいっぱい紙!」
「○○くん、走るのはここまで。紙は見るだけね」
母親が慌てて追いかける。
「『おかあさんと見たはなび』……これ、だれの?」
「それはね、お姉さんのお友だちが書いたやつだよ」
ロビーの真ん中には、小さな人だかりができ始めていた。
誰かが一枚を読み終えると、また別の紙に移る。
笑い声と、ため息と、ひそひそ声が混ざり合う。
「これ、思った以上にすごいですね」
千妃呂が、小声で言った。
「ただ紙を貼ってるだけなのに、ロビーがなんか、別の場所みたい」
「このビルが、『言葉の展示室』になった感じですね」
詩織も、小さく息を飲む。
養生テープの端から、ひゅっと少しだけ剥がれる音がした。
一枚の紙の角が、ぴらりと浮いている。
「あ、ちょっと待ってください」
詩織が慌てて指で押さえる。
紙には、こう書かれていた。
『このセンターで初めて一人暮らしの相談をしたとき、受付の人が「大丈夫ですよ」と笑ってくれた。
その言葉が、今でも私の背中を押してくれています。』
紙の角をそっと押さえながら、胸の奥のどこかがきゅっと鳴った。
「……ここに貼ってあるの、全部『背中を押してくれた何か』なんですね」
思わず口にすると、隣で千妃呂がうなずく。
「だから、剥がれないようにちゃんと貼らないと」
そのとき、ロビーの自動ドアが開いた。
「お邪魔します」
スーツ姿の一輝が、資料の入った鞄を肩にかけて立っていた。
「今日は打ち合わせ、午後からですよね?」
詩織の声は、少しだけ硬い。
それでも、前みたいに完全に視線を避けることはしなかった。
「はい。その前に、どうしても一度見ておきたくて」
一輝は、ロビーの壁をぐるりと見渡した。
「私がアツく語りたいこと」と、「温もりを求める瞳」。
両側の壁一面に、文字の波が広がっている。
足を一歩踏み出し、一番端の紙から読み始めた。
『ここで、仕事を辞めたことを初めて誰かに打ち明けました。
「よく頑張りましたね」と言われたとき、泣きそうになりました。』
『このビルの階段を、一段ずつ上るときの音が好きです。
しんどいときほど、その音が「今日もここまで来られたね」と言ってくれる気がします。』
一枚ごとに、胸の奥のどこかが静かに揺れていく。
「……すごいですね」
ようやく絞り出した声は、それだけだった。
「住民の皆さんの文章です」
詩織が説明する。
「講座やアンケートで集めたものから選んで、貼らせていただきました」
「この壁、いつまで貼っておけますか」
一輝は、壁から目を離さないまま聞いた。
「養生テープが持つ限りは」
千妃呂が答える。
「しばらくは、ここを通る人たちに見てもらおうと思ってます」
「……社長に見せたいです」
思わず漏れた一言に、三人の視線が向く。
「社長、ですか」
「はい」
一輝は、少しだけ表情を引き締めた。
「川辺センターの将来を決める会議が、近いうちにあります。
そのとき、数字や図面だけじゃなくて、ここに書かれている言葉も一緒に見てもらいたい」
「写真、ですか?」
圭良が尋ねる。
「写真も撮ります」
一輝はうなずいた。
「できれば、動画も。人がこの壁の前で立ち止まっている様子も含めて、本社に届けたい」
詩織は、胸の中のどこかで何かがほどける感覚を覚えた。
「取り壊し時の収支シミュレーションに、こういうものをぶつけるつもりです」
あえて、あの言葉を口にした。
詩織の目が、一瞬だけ鋭くなる。
「……『ぶつける』」
「はい」
一輝は、壁の紙を一枚指で示した。
『ここがなくなったら困る、という言葉を、数字の横にちゃんと並べたいんです』
自分でも、少し無茶を言っている自覚はある。
会社の会議では、だいたい「数字」が先に並べられ、「気持ち」はその後ろをちょろちょろとついていく。
「でも、今回だけは順番をひっくり返したい」
そう言って、胸ポケットから例の紙ナプキンを取り出した。
「胃薬会議」の議事録。
「……それ、まだ持ってるんですか」
千妃呂が吹き出しそうになる。
「課長から、『机の引き出しにしまうな』って言われたので」
一輝は、紙ナプキンをそっと開いた。
そこには、「解体・新築」「改修・段階的」「現場の好き」という丸の図が描かれている。
「この『現場の好き』の丸の部分を、もっと太くしないといけない。
そうしないと、会議室の中で埋もれてしまいます」
「そのための壁、ってことですか」
圭良が言う。
「はい。僕にとっては、ここが切り札です」
詩織は、壁を見上げた。
貼られているのは、自分の文章ではない。
けれど、この壁を作る過程で、何度も胸の中を通り過ぎた気持ちは、自分のものでもあった。
「……勝手に切り札にされるのは、正直怖いです」
思わず本音がこぼれる。
三人が、はっとして詩織を見る。
「この壁を使って本社を説得しようとして、もしうまくいかなかったら。
『やっぱり気持ちだけじゃだめですね』って笑われるのは、ここに言葉を出してくれた人たちですから」
その懸念は、ずっと胸の奥にあった。
一輝は、しばらく黙ってから、壁の紙にそっと手を添えた。
「だからこそ、数字も本気で整えます」
静かな声だった。
「この壁を『お飾り』にしないように。
解体案と同じか、それ以上に説得力のあるリノベ案を作ります。
そのうえで、『それでも残したい』って言葉を並べたいんです」
「それでも、って?」
「はい」
一輝は、詩織の目を見る。
「取り壊したほうが短期的には得かもしれない。
それでも、ここで積み重ねてきた言葉や表情を考えたら、別の選択肢があるはずだ、と。
そう言い切れるだけの準備を、ちゃんとします」
言いながら、自分の胃のあたりが少しきゅっとなる。
永羽に「胃薬会議」と名付けられた理由が、ようやく身にしみる。
詩織は、視線を壁に戻した。
一枚一枚の紙が、蛍光灯の光を受けて、わずかに影をつくっている。
「……この壁の前で、社長さんたちにも立ち止まってもらえるといいですね」
ぽつりと出た言葉に、一輝は息を吐いた。
「連れてきたいです。本当は」
「本当は?」
「会議室で写真や動画を見せるだけじゃなくて、実際にここに立ってもらいたい。
二階の廊下も歩いてもらって、喫茶でコーヒー飲んでもらって、親子ひろばの前も通ってもらって」
「それ、全部やったら、課長の胃薬が一箱なくなりますね」
千妃呂が、空気をやわらげるように茶化す。
「そのときは、僕も一緒に飲みます」
一輝は、ふっと笑った。
壁の前には、新しい紙がまた一枚貼られていく。
今日、ロビーで書いてくれたばかりの文章だ。
『この壁に自分の言葉が貼られているのを見て、ちょっとだけ誇らしくなりました。
このビルがどうなっても、この誇らしさはどこかに残っていてほしいです。』
詩織は、その一行を読みながら、自分の胸の中にも似たような感覚があることに気づいた。
――このビルがどうなっても。
その先の未来がまだぼやけていても、今ここで紙に書かれた言葉たちは、確かに存在している。
「じゃあ、私たちもちゃんと責任取らないとですね」
詩織は、壁から少し離れ、ロビー全体を見渡した。
「この壁を切り札にするなら、この壁に貼られている人たちに恥をかかせないように」
「はい」
一輝は、まっすぐうなずいた。
「その責任、僕も一緒に負わせてください」
ロビーの自動ドアがまた開く。
新しい来館者が入り、足を止め、壁を見上げる。
ビルの壁いっぱいに貼られた言葉たちが、今日もまた誰かの足を止め、少しだけ心の温度を変えていく。
その光景を見つめながら、一輝は心の中で静かに決めた。
――次の社長プレゼンでは、この壁から始めよう。
数字ではなく、ここに貼られた「好き」から。