君と見た花火は、苦情だらけ

第15話 社長プレゼンと、友理香の本音

 プレゼン当日の朝、本社ビルのガラスは、まだ少し眠そうに街を映していた。
 一輝は、エレベーターホールの隅でネクタイを握り直す。指先に、うっすら汗がにじんでいた。

 「……きつくない、きつくない」

 自分に言い聞かせるように結び目を整え、胸ポケットを軽く叩く。
 中には、紙ナプキン一枚と、詩織から預かったままのボールペン。もう片方のポケットには、USBメモリ。
 川辺センターの図面と数字と、壁一面の言葉の写真と、河川敷の花火の写真。
 全部を小さなプラスチックの中に押し込んでいると思うと、心細さと可笑しさが同時にこみ上げる。

 エレベーターの扉が開いた。
 中から出てきた永羽が、紙コップ片手にため息をつく。

 「お、相沢。顔が会議室の蛍光灯みたいに真っ白だぞ」
 「課長こそ、健康診断帰りみたいな顔してますけど」
 「実際そうだから困る」

 永羽は、胸ポケットから銀色のシートを取り出した。
 お馴染みの胃薬を一粒押し出して飲み込む。

 「今日こそ一箱空きそうだな」
 「そのときは、僕も一緒に飲みますよ」
 「やめろ、若いのがそんなこと言うな」

 そんなやりとりで、少しだけ肩の力が抜ける。
 紙コップをゴミ箱に放り込んだ永羽が、小声で続けた。

 「相沢。お前がやりたい形を、ちゃんと見せてこい」
 「……はい」

 会議室の扉を開けると、空気はすでに冷房より冷たかった。
 長いテーブル。正面に社長と役員たち。その一角に、企画部の席。
 友理香は、資料の束を整えながら、こちらにちらりと視線を送ってきた。

 「では、川辺センター活用案について、相沢さんお願いします」

 司会の声に促され、一輝は立ち上がる。
 リモコンを押すと、スクリーンに一枚目のスライドが映し出された。

 ――数字ではなく、壁。

 川辺センターの廊下いっぱいに貼られた文章の写真。
 大きな字で「ここで救われた」と書いた紙。
 小さな手で「ママといっしょにおべんきょうした」と書いた紙。

 「最初に見ていただきたいのは、収支ではなく、文字です」

 会議室の視線が、一斉にスクリーンへ向く。

 「ここには、『温もりを求める瞳』が何に向いているかが、そのまま書かれています」

 クリック。
 次のスライドには、文章の一部と、ロビーで紙を貼っている人たちの写真。

 「老朽化した建物の中に、『ここじゃなきゃだめなんだ』と思っている人がどれだけいるのか。
  それを数字以外の形で残したのが、この壁です」

 数枚のスライドで、壁の写真とセンターの利用状況を重ねて説明する。
 会議室の空気が、少しだけやわらかくなった気がした。

 だが、次の瞬間。

 「一点、確認させてください」

 企画部の席から、はっきりした声が飛んだ。
 友理香が手を挙げ、冷静な目でこちらを見ている。

 「この案、数字の前提がかなりギリギリに見えます。
  テナントの一部転換と減免をしながら、収益性をどう確保するつもりですか?」

 会議室の空気が、きゅっと締まる。
 永羽の胃が、遠くで軋んだような気がした。

 「はい」

 一輝は、深く息を吸った。

 「今回の案では、『全部のテナントを守る』ことはしていません」

 クリック。
 スクリーンに、フロアごとの配置図と、リノベ後のゾーニング案が映る。

 「利用が落ちている区画は、交流スペースと市民講座用に転換します。
  その代わり、稼働率の高い教室やサロンには、今より広い面積を用意しました」

 次のスライド。
 売上予測とコスト削減のグラフ。

 「短期的な利益ではなく、五年から十年単位での安定を優先しています。
  川辺センターを『地域の玄関』として位置づけることで、周辺の土地の価値も一緒に底上げする狙いです」

 数字の説明をしながらも、頭の隅には河川敷の夜がよぎる。
 隣に立っていた、名前も知らなかった女性。
 ノートに走り書きされていた「君と見た花火」という言葉。

 「……それでもリスクはゼロではありません」

 最後のスライドで、川辺センターの外観と花火の写真を並べる。

 「ただ、一度壊してしまった場所には、もう『ここで救われた』という言葉は戻ってきません。
  川辺センターを『終わらせる場所』ではなく、『これからも人が集まる場所』として残すことに、会社として投資できるかどうか。
  今日は、その判断をいただきたいと思っています」

 言い終わった瞬間、会議室は静まり返った。
 数秒の沈黙。
 紙をめくる音だけが聞こえる。

 やがて社長が、口元に手を当ててうなずいた。

 「……よくまとめてあるね」

 その一言で、肩から余計な力が抜けていく。

 質疑応答が続き、数字の細部についていくつか指摘が入る。
 友理香も、追加で何問か投げた。どれも的確で、容赦がない。
 それでも、一輝は一つずつ言葉を選び、答え続けた。

 会議が終わるころ、永羽の胃薬はもう一粒減っていた。

 ◇

 エレベーターホールに出ると、友理香が壁にもたれかかって待っていた。

 「お疲れ」
 「……生きて戻ってきました」

 ぐったりした声を出すと、彼女はくすっと笑う。

 「ちゃんと、壁ごと会議室に連れてきたね」
 「はい。壁どころか、河川敷まで連れてきた気がします」
 「途中でちょっと泣きそうになったの、内緒にしといてあげる」

 からかうような口調のあとで、表情が少しだけ真面目になった。

 「さっきの質問、きつかった?」
 「……正直、胃にはきました」
 「だと思った」

 友理香は、腕を組んで天井を見上げる。

 「でもね、ああいう場で甘いこと言ったまま通っちゃうと、あとで全部あんたの首しめるから」
「はい」
 「数字も、人の話も、両方背負うって言ったのはそっちでしょ。
  だったら、『ちゃんと説明できる大人』になってもらわないと困る」

 言葉は厳しいが、声はどこか柔らかい。

 「……ありがとうございます」

 素直に頭を下げると、友理香は少しだけ目を丸くした。

 「珍しい。前はもっと皮肉で返してきたのに」
 「今日ばかりは、皮肉を言う余裕がないです」
 「そういうところも、まあ悪くないけどね」

 彼女はスマホをちらりと見て、一輝に画面を向けた。
 そこには、会議の速報が社内メールで届いている。

 『川辺センターリノベーション案 条件付きで前向き承認』

 「おめでとう。
  ……ここからが本番だけど」

 友理香は、口元だけで笑った。

 「相沢。どこにいても、あんたはたぶんやっていけるよ。
  だからこそ、場所を決めるのは自分でね。
  会社でも、川辺センターでも、その間でも」

 最後の一言だけは、親友のような、姉のような響きをしていた。

 エレベーターの扉が閉まる直前、一輝は小さく息を吐く。

 ――ここから先、誰かに決めてもらうわけにはいかない。

 胸ポケットのボールペンが、シャツ越しにひんやりと当たっていた。
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