君と見た花火は、苦情だらけ
第17話 ふたりで描き直す将来の設計図
川辺センターの窓に、夜の川面の光が薄く映っていた。
閉館時間を少し過ぎた二階の廊下は、昼とは別の顔をしている。
足音を立てると、白い壁に自分の影が長く伸びた。
「……来ちゃったな」
一輝は、「私がアツく語りたい」と書かれた紙の前で立ち止まる。
ガラス越しに、教室の中の明かりが見えた。
ノックをしようとして、指先が数センチ手前で止まる。
社長プレゼンのときより緊張している自覚がある。
「会社の役員より、講師ひとりのほうが緊張するって、どういうことだろうな」
小さく自分にツッコミを入れてから、ようやく扉を叩いた。
「どうぞ」
聞き慣れた声が返る。
◇
教室には、詩織が一人で座っていた。
机の上にはノートとペン、横にコンビニのコーヒーカップ。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。……社長プレゼン、無事に生還したって聞きました」
詩織が席を立ち、お茶のペットボトルを差し出す。
「ありがとうございます」
一輝は受け取りながら、教室を見回した。
ホワイトボードの隅には、「これからの話」とだけ書かれている。
「それ、今日のテーマですか」
「はい。
せっかくなので、ついでにふたり分やろうかなと」
詩織は、いたずらっぽく笑いながら席に戻った。
「社長プレゼン、どうでした?」
「数字の話で胃が縮みましたけど、なんとか通りました。
条件付きですけど」
「条件付き?」
一輝は、コーヒーカップを手に取りながら説明する。
契約書類の整備、銀行との調整、スケジュールの見直し。
それを来週までに形にしなければならないこと。
「『若いのが走れ』って、課長が言ってました」
「千妃呂さんから聞きました、それ」
詩織が吹き出した。
「でも、ちゃんと走ったんですね」
「はい。
そのぶん、これからもずっと走ることになりそうですけど」
言葉に苦笑を添えると、詩織は少しだけ真面目な表情になった。
「それで……」
彼女はノートをくるりと回転させ、白紙のページを開く。
「『川辺センターのこれから』だけじゃなくて、『私たちのこれから』も、ちゃんと話したほうがいいかなと思って」
一輝の喉が、小さく鳴った。
「……はい」
詩織は、ノートの中央に縦線を引く。
左に「詩織案」、右に「一輝案」と書き込んだ。
「先に言っておきますけど、絵心はあまりないです」
「僕も同レベルです」
「じゃあ、仲良く迷子になりましょう」
ボールペンの先が、左側の欄をなぞる。
「まず、私の案」
詩織は、ぽつりぽつりと書き始めた。
『・しばらくは家族と同居を続ける
・仕事は、フリーのままだけど、川辺センターの比重を増やす
・弟の体調が安定したら、一人暮らしも視野に入れる』
文字の横に、小さく「怖い」と書き添えられる。
「正直に書きました」
「正直すぎるくらいですね」
次に、一輝の欄。
『・本社と川辺センター、しばらくは行き来する
・昇進や転勤の話は、今回のリノベが一段落するまで保留
・その間に、自分がどこにいたいのかちゃんと考える』
書きながら、自分で苦笑する。
「こっちも、だいぶ迷子ですね」
「いいんです。迷子同士の地図なので」
詩織は、中央の線の上に小さな丸をいくつか描いた。
「ここから『まぜこぜ案』を作りましょう」
「まぜこぜ案?」
「はい。
どっちかに合わせるんじゃなくて、お互いの『譲れないところ』と『動かせるところ』を混ぜて、仮の設計図にする」
ふたりは、丸の横に項目を書き込んでいった。
『・川辺センターには、当面ふたりとも関わり続ける
・本社との行き来は、一輝が担当
・通院や家族の用事が入ったら、「怖い」「申し訳ない」を一人で抱えないで共有する
・将来の暮らし方(結婚を含む)は、「いつか」ではなく、「リノベ後のセンターが落ち着く頃に、もう一度話す」と期限を決める』
「最後に、もうひとつ」
詩織がペン先を持ち上げ、ノートの下のほうに書き足す。
『・今年の花火は、それぞれの今の生活を持ったまま、一緒に見上げる場所を探す』
最後の一行を書いたとき、ふたりの手が少しだけぶつかった。
「……今年の花火」
詩織が、その文字をそっとなぞる。
「ここ、すごく大事な気がします」
「僕も、そう思います」
河川敷の夜。
置き去りになったメモ。
「あのときの『君と見た花火』を、もう一回描き直すためにも」
一輝は、ボールペンを指の間で転がした。
「今年は、『途中で仕事に逃げない』『途中で怖さに飲まれない』って決めて、その上で一緒に見上げたいです」
詩織は、ゆっくりとうなずく。
「じゃあ、今年の花火は、『まぜこぜ案』の確認日ですね」
「確認日?」
「はい。
それまでに、リノベ案の進み具合とか、私の仕事とか、家族の状況とか。
全部まぜこぜのまま、それでも『一緒に見てよかった』って思えたら、この設計図をもう少し先まで延ばしてみる」
教室の窓に、ふたりの姿がうっすら映る。
隣り合って座り、ノートを挟んで同じページを見ている。
「……なんか、すごく難しい図面描いてますね」
「ですね。建築士さんに見せたら怒られそうです」
「でも、ちょっとだけワクワクしてます」
詩織の言葉に、一輝も小さく笑った。
ノートの片隅に、「君と見た花火 改訂版」と小さく書き足される。
その文字は、これからのふたりの合図みたいに、ページの上で静かに光っていた。
閉館時間を少し過ぎた二階の廊下は、昼とは別の顔をしている。
足音を立てると、白い壁に自分の影が長く伸びた。
「……来ちゃったな」
一輝は、「私がアツく語りたい」と書かれた紙の前で立ち止まる。
ガラス越しに、教室の中の明かりが見えた。
ノックをしようとして、指先が数センチ手前で止まる。
社長プレゼンのときより緊張している自覚がある。
「会社の役員より、講師ひとりのほうが緊張するって、どういうことだろうな」
小さく自分にツッコミを入れてから、ようやく扉を叩いた。
「どうぞ」
聞き慣れた声が返る。
◇
教室には、詩織が一人で座っていた。
机の上にはノートとペン、横にコンビニのコーヒーカップ。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。……社長プレゼン、無事に生還したって聞きました」
詩織が席を立ち、お茶のペットボトルを差し出す。
「ありがとうございます」
一輝は受け取りながら、教室を見回した。
ホワイトボードの隅には、「これからの話」とだけ書かれている。
「それ、今日のテーマですか」
「はい。
せっかくなので、ついでにふたり分やろうかなと」
詩織は、いたずらっぽく笑いながら席に戻った。
「社長プレゼン、どうでした?」
「数字の話で胃が縮みましたけど、なんとか通りました。
条件付きですけど」
「条件付き?」
一輝は、コーヒーカップを手に取りながら説明する。
契約書類の整備、銀行との調整、スケジュールの見直し。
それを来週までに形にしなければならないこと。
「『若いのが走れ』って、課長が言ってました」
「千妃呂さんから聞きました、それ」
詩織が吹き出した。
「でも、ちゃんと走ったんですね」
「はい。
そのぶん、これからもずっと走ることになりそうですけど」
言葉に苦笑を添えると、詩織は少しだけ真面目な表情になった。
「それで……」
彼女はノートをくるりと回転させ、白紙のページを開く。
「『川辺センターのこれから』だけじゃなくて、『私たちのこれから』も、ちゃんと話したほうがいいかなと思って」
一輝の喉が、小さく鳴った。
「……はい」
詩織は、ノートの中央に縦線を引く。
左に「詩織案」、右に「一輝案」と書き込んだ。
「先に言っておきますけど、絵心はあまりないです」
「僕も同レベルです」
「じゃあ、仲良く迷子になりましょう」
ボールペンの先が、左側の欄をなぞる。
「まず、私の案」
詩織は、ぽつりぽつりと書き始めた。
『・しばらくは家族と同居を続ける
・仕事は、フリーのままだけど、川辺センターの比重を増やす
・弟の体調が安定したら、一人暮らしも視野に入れる』
文字の横に、小さく「怖い」と書き添えられる。
「正直に書きました」
「正直すぎるくらいですね」
次に、一輝の欄。
『・本社と川辺センター、しばらくは行き来する
・昇進や転勤の話は、今回のリノベが一段落するまで保留
・その間に、自分がどこにいたいのかちゃんと考える』
書きながら、自分で苦笑する。
「こっちも、だいぶ迷子ですね」
「いいんです。迷子同士の地図なので」
詩織は、中央の線の上に小さな丸をいくつか描いた。
「ここから『まぜこぜ案』を作りましょう」
「まぜこぜ案?」
「はい。
どっちかに合わせるんじゃなくて、お互いの『譲れないところ』と『動かせるところ』を混ぜて、仮の設計図にする」
ふたりは、丸の横に項目を書き込んでいった。
『・川辺センターには、当面ふたりとも関わり続ける
・本社との行き来は、一輝が担当
・通院や家族の用事が入ったら、「怖い」「申し訳ない」を一人で抱えないで共有する
・将来の暮らし方(結婚を含む)は、「いつか」ではなく、「リノベ後のセンターが落ち着く頃に、もう一度話す」と期限を決める』
「最後に、もうひとつ」
詩織がペン先を持ち上げ、ノートの下のほうに書き足す。
『・今年の花火は、それぞれの今の生活を持ったまま、一緒に見上げる場所を探す』
最後の一行を書いたとき、ふたりの手が少しだけぶつかった。
「……今年の花火」
詩織が、その文字をそっとなぞる。
「ここ、すごく大事な気がします」
「僕も、そう思います」
河川敷の夜。
置き去りになったメモ。
「あのときの『君と見た花火』を、もう一回描き直すためにも」
一輝は、ボールペンを指の間で転がした。
「今年は、『途中で仕事に逃げない』『途中で怖さに飲まれない』って決めて、その上で一緒に見上げたいです」
詩織は、ゆっくりとうなずく。
「じゃあ、今年の花火は、『まぜこぜ案』の確認日ですね」
「確認日?」
「はい。
それまでに、リノベ案の進み具合とか、私の仕事とか、家族の状況とか。
全部まぜこぜのまま、それでも『一緒に見てよかった』って思えたら、この設計図をもう少し先まで延ばしてみる」
教室の窓に、ふたりの姿がうっすら映る。
隣り合って座り、ノートを挟んで同じページを見ている。
「……なんか、すごく難しい図面描いてますね」
「ですね。建築士さんに見せたら怒られそうです」
「でも、ちょっとだけワクワクしてます」
詩織の言葉に、一輝も小さく笑った。
ノートの片隅に、「君と見た花火 改訂版」と小さく書き足される。
その文字は、これからのふたりの合図みたいに、ページの上で静かに光っていた。