君と見た花火は、苦情だらけ
第18話 書類の不備と、夜の大掃除
リノベーション案が役員会を通過したのは、金曜日の午後だった。
会議室の扉が閉まり、役員たちがぞろぞろと出ていく。
「……通った、のか」
一輝が小さく息を吐くと、隣で永羽が胃のあたりをさすりながらうなずいた。
「条件付き、だがな。
詳細な契約とスケジュールを、来週の月曜までに銀行に正式提出」
「月曜まで……今日入れて三日ですね」
「余裕だろ?」
そう言いながら、永羽は胸ポケットから銀色のシートを取り出す。
胃薬を一粒押し出し、紙コップの水で飲み下した。
「課長の『余裕』って言葉、信用していいんですか」
「俺が言うと説得力がないな」
ふたりは顔を見合わせ、同時に苦笑した。
◇
その夜。
本社のフロアには、いつもより多くの明かりが残っていた。
会議室のテーブルには、契約書類とチェックリスト、ノートパソコン。
壁際には、段ボール箱がいくつも積まれている。
「川辺センター関係」「担保資料」「昔の計画書(要整理)」と雑なラベリング。
「課長、この『要整理』って書いてある箱が一番怖いんですけど」
「見なかったことにしたい箱ほど、大事なものが入ってるんだよ」
永羽が遠い目をする。
そこへ、テンションだけは元気な足音が近づいてきた。
「おじゃましまーす」
圭良が、缶コーヒーの袋をぶら下げて現れる。
「差し入れ持ってきました。夜勤の皆さんへの愛です」
「君は営業のはずなんだが」
「営業先からそのまま応援に来たんですよ。
だって、『川辺センターの書類が山』って聞いたら、見に来たくなるじゃないですか」
続いて、エレベーターから千妃呂も顔を出した。
「健康サロンのメンバーとストレッチしてから来ました。
長期戦っぽいので、腰はほぐしておいたほうがいいですよ」
「なんでこんなに人が集まってるんだ」
永羽は頭を抱えつつも、どこか嬉しそうだった。
◇
作業は、意外なところからつまずいた。
「……あれ?」
銀行に提出する契約書のコピーを確認していた事務担当が、小さく声を上げる。
「この地番、少し違うかもしれません」
指先が示した行には、『担保物件:川辺センター旧館(地番:〇〇番〇)』とある。
「何が違うんですか?」
一輝が身を乗り出す。
「現行の登記だと、『〇〇番〇の二』になってます。
昔の増築のときに変わったみたいで……」
「ということは、このまま出したら?」
「最悪、差し戻しです」
事務担当の顔が青ざめる。
永羽は、胃のあたりを押さえながら空を仰いだ。
「ほら見ろ、『要整理』って書いてある箱をちゃんと整理しておかなかったツケだ」
「今から整理すれば、まだ間に合います」
千妃呂が、腕まくりをする。
「こういうの、得意ですよ。
失敗ノートで鍛えられてますから」
「失敗ノートで契約書を救う人、初めて見ましたよ」
圭良が笑い、段ボールを一つ抱え上げる。
そこから始まったのは、ほとんど「夜の大掃除」だった。
古い図面や過去の契約書、よくわからないメモ。
「とりあえず取っておこう」で押し込まれた紙たちが、テーブルの上に広げられていく。
「課長、昭和の計画書出てきました。フォントが懐かしいです」
「それはさすがに捨てていい」
「でも、欄外に『ここに屋上庭園を作りたい』って手書きしてありますよ。
誰かの夢が眠ってます」
「そういうロマンは写真に撮ってから捨てろ」
千妃呂は、ラベリングをし直しながら、必要な書類だけをファイルに挟んでいく。
圭良は、銀行とのやり取りの記録を確認しながら、足りない書類のリストを作成した。
「相沢、一回センターにも連絡入れたほうがいいな。
フリーペーパーのバックナンバーで、古い図面が写ってる号があっただろ」
永羽の言葉に、一輝はスマホを取り出した。
「詩織さん、今大丈夫ですか」
電話の向こうで、紙をめくる音がする。
『今、原稿の直し中です。……何かあったんですか?』
「古い地番の確認で、センターにある資料が必要で。
明日、そっちの書庫を一緒に見せてもらえますか」
『もちろん。書庫の「見なかったことにしたい棚」、ご案内します』
皮肉交じりの返事に、思わず笑ってしまう。
◇
翌日。
センターの書庫でも、同じような「大掃除」が始まった。
古いファイルをめくりながら、詩織がぼそりとつぶやく。
「こうやって見ると、『そのうち片づけよう』って先送りにしてきたもの、多いですね」
「会社も家も、似たようなものですね」
一輝が返すと、詩織は苦笑した。
「でも、こうやって一緒に片づければ、いつか笑い話になりますよね」
「そうですね。
『あのとき地番間違えて、夜通し書類探したよね』って」
「そのときの見出しは、『胃薬が足りない夜』ですかね」
後ろから、永羽のくしゃみが聞こえた。
「おい、勝手に見出しをつけるな」
◇
最終的に、地番の違いは、過去の増築時の手続きの名残だと判明した。
必要な訂正書類を作り、銀行への説明文を添え、月曜の午前中にはすべてが揃う。
提出を終えた帰り道、ビルの外に出ると、朝の光がまぶしかった。
「終わりましたね」
「終わったというより、また始まっただけだがな」
永羽は、ポケットから胃薬の空シートを取り出して見せる。
「これで一箱終わりか……」
「新しい箱は、センターの喫茶コーナーで買ってきます」
「喫茶コーナーで胃薬売るな」
くだらないやりとりをしながら、一輝は思う。
――誰かの「見なかったことにしたい箱」を一緒に開けて、
笑いながら片づけていく。
それはきっと、川辺センターのリノベーションそのものなのだ。
会議室の扉が閉まり、役員たちがぞろぞろと出ていく。
「……通った、のか」
一輝が小さく息を吐くと、隣で永羽が胃のあたりをさすりながらうなずいた。
「条件付き、だがな。
詳細な契約とスケジュールを、来週の月曜までに銀行に正式提出」
「月曜まで……今日入れて三日ですね」
「余裕だろ?」
そう言いながら、永羽は胸ポケットから銀色のシートを取り出す。
胃薬を一粒押し出し、紙コップの水で飲み下した。
「課長の『余裕』って言葉、信用していいんですか」
「俺が言うと説得力がないな」
ふたりは顔を見合わせ、同時に苦笑した。
◇
その夜。
本社のフロアには、いつもより多くの明かりが残っていた。
会議室のテーブルには、契約書類とチェックリスト、ノートパソコン。
壁際には、段ボール箱がいくつも積まれている。
「川辺センター関係」「担保資料」「昔の計画書(要整理)」と雑なラベリング。
「課長、この『要整理』って書いてある箱が一番怖いんですけど」
「見なかったことにしたい箱ほど、大事なものが入ってるんだよ」
永羽が遠い目をする。
そこへ、テンションだけは元気な足音が近づいてきた。
「おじゃましまーす」
圭良が、缶コーヒーの袋をぶら下げて現れる。
「差し入れ持ってきました。夜勤の皆さんへの愛です」
「君は営業のはずなんだが」
「営業先からそのまま応援に来たんですよ。
だって、『川辺センターの書類が山』って聞いたら、見に来たくなるじゃないですか」
続いて、エレベーターから千妃呂も顔を出した。
「健康サロンのメンバーとストレッチしてから来ました。
長期戦っぽいので、腰はほぐしておいたほうがいいですよ」
「なんでこんなに人が集まってるんだ」
永羽は頭を抱えつつも、どこか嬉しそうだった。
◇
作業は、意外なところからつまずいた。
「……あれ?」
銀行に提出する契約書のコピーを確認していた事務担当が、小さく声を上げる。
「この地番、少し違うかもしれません」
指先が示した行には、『担保物件:川辺センター旧館(地番:〇〇番〇)』とある。
「何が違うんですか?」
一輝が身を乗り出す。
「現行の登記だと、『〇〇番〇の二』になってます。
昔の増築のときに変わったみたいで……」
「ということは、このまま出したら?」
「最悪、差し戻しです」
事務担当の顔が青ざめる。
永羽は、胃のあたりを押さえながら空を仰いだ。
「ほら見ろ、『要整理』って書いてある箱をちゃんと整理しておかなかったツケだ」
「今から整理すれば、まだ間に合います」
千妃呂が、腕まくりをする。
「こういうの、得意ですよ。
失敗ノートで鍛えられてますから」
「失敗ノートで契約書を救う人、初めて見ましたよ」
圭良が笑い、段ボールを一つ抱え上げる。
そこから始まったのは、ほとんど「夜の大掃除」だった。
古い図面や過去の契約書、よくわからないメモ。
「とりあえず取っておこう」で押し込まれた紙たちが、テーブルの上に広げられていく。
「課長、昭和の計画書出てきました。フォントが懐かしいです」
「それはさすがに捨てていい」
「でも、欄外に『ここに屋上庭園を作りたい』って手書きしてありますよ。
誰かの夢が眠ってます」
「そういうロマンは写真に撮ってから捨てろ」
千妃呂は、ラベリングをし直しながら、必要な書類だけをファイルに挟んでいく。
圭良は、銀行とのやり取りの記録を確認しながら、足りない書類のリストを作成した。
「相沢、一回センターにも連絡入れたほうがいいな。
フリーペーパーのバックナンバーで、古い図面が写ってる号があっただろ」
永羽の言葉に、一輝はスマホを取り出した。
「詩織さん、今大丈夫ですか」
電話の向こうで、紙をめくる音がする。
『今、原稿の直し中です。……何かあったんですか?』
「古い地番の確認で、センターにある資料が必要で。
明日、そっちの書庫を一緒に見せてもらえますか」
『もちろん。書庫の「見なかったことにしたい棚」、ご案内します』
皮肉交じりの返事に、思わず笑ってしまう。
◇
翌日。
センターの書庫でも、同じような「大掃除」が始まった。
古いファイルをめくりながら、詩織がぼそりとつぶやく。
「こうやって見ると、『そのうち片づけよう』って先送りにしてきたもの、多いですね」
「会社も家も、似たようなものですね」
一輝が返すと、詩織は苦笑した。
「でも、こうやって一緒に片づければ、いつか笑い話になりますよね」
「そうですね。
『あのとき地番間違えて、夜通し書類探したよね』って」
「そのときの見出しは、『胃薬が足りない夜』ですかね」
後ろから、永羽のくしゃみが聞こえた。
「おい、勝手に見出しをつけるな」
◇
最終的に、地番の違いは、過去の増築時の手続きの名残だと判明した。
必要な訂正書類を作り、銀行への説明文を添え、月曜の午前中にはすべてが揃う。
提出を終えた帰り道、ビルの外に出ると、朝の光がまぶしかった。
「終わりましたね」
「終わったというより、また始まっただけだがな」
永羽は、ポケットから胃薬の空シートを取り出して見せる。
「これで一箱終わりか……」
「新しい箱は、センターの喫茶コーナーで買ってきます」
「喫茶コーナーで胃薬売るな」
くだらないやりとりをしながら、一輝は思う。
――誰かの「見なかったことにしたい箱」を一緒に開けて、
笑いながら片づけていく。
それはきっと、川辺センターのリノベーションそのものなのだ。