君と見た花火は、苦情だらけ
第19話 解体の日と、屋上の約束
朝九時。
川辺センターの前の歩道には、いつもと違う車が並んでいた。
白いヘルメットをかぶった作業員たち。
トラックの荷台から降ろされる足場の部材。
ビルの正面には黄色と黒のテープが張られ、「立入禁止」の看板が立てられている。
その少し外側で、住民たちが小さな輪になって立っていた。
喫茶コーナーのマスター、学習塾の講師、親子ひろばのお母さんたち、フリーペーパーの常連読者。
「とうとう始まるんですねえ」
マスターが、紙コップのコーヒーを両手で包みながらつぶやく。
「全部なくなるわけじゃないですよ」
圭良が、腕章を直しながら答える。
「ここは、外側を着替えるだけです」
「外側を着替えるって、あんたそう簡単に言うけどね」
親子ひろばのお母さんが、子どもの手を握りながら笑う。
「こっちは『いつもの顔』が変わるの、結構ドキドキしてるんだから」
少し離れたところで、詩織はカメラを構えていた。
ファインダー越しに、足場が組まれていく様子と、見上げる人たちの表情を切り取る。
「これも、『記憶のアルバム』に入れるんですよね?」
隣で千妃呂が、クリップボードを抱えながら聞いた。
「『解体の日の朝』っていう特集、きっと誰かの記憶になるから」
「うん。
『このビルがどうなっても、この誇らしさはどこかに残っていてほしい』って書いてくれた人がいたから」
詩織は、以前ロビーで読んだ一文を思い出す。
シャッターを切るたび、胸の奥でも何かが小さく区切られていく気がした。
◇
少し遅れて、一輝と永羽も現場に到着した。
スーツの上から簡易のヘルメットをかぶり、腕章には「管理担当」の文字。
「やっぱり、こうして見ると年季入ってるな」
永羽が、外壁を見上げる。
薄いベージュのタイルにはところどころひびが入り、増築部分との境目には微妙な段差がある。
「この『味』を完全に消しちゃうのは、もったいないですね」
一輝が言うと、マスターが笑った。
「そうそう。
新しいビルになっても、『ここは昔からちょっとイビツだったんだぞ』って言えるところ、ひとつぐらい残しといてよ」
「設計担当に伝えておきます」
そんな会話をしているうちに、作業員が合図を送った。
足場が組まれ、古い外壁の一部が覆われていく。
「じゃあ、そろそろ中は立ち入り制限ですね」
圭良が腕時計を見て言う。
「詩織さん、必要な撮影は大体終わりました?」
「はい。あとは、夜に少し」
その言い方に、一輝は首をかしげたが、あえて深くは聞かなかった。
◇
夜。
川辺センターの非常階段を、二人分の足音が静かに登っていた。
一輝と詩織。
「ほんとはダメなんですけどね、こういうの」
「『管理担当』が一緒なので、ギリギリセーフってことで」
一輝が苦笑すると、詩織も小さく笑う。
屋上の扉を開けると、ひんやりとした夜風が頬をなでた。
半分ほど足場とシートで覆われた空。
それでも、川沿いの街の灯りは、昔と同じように瞬いている。
「ここ、最初に来たときは、ただの古いビルの屋上だと思ってました」
一輝は、縁の安全バーにもたれながら言った。
「今は?」
「『君と見た花火』の舞台の一部です」
詩織が、少しだけ目を見開き、それから照れ隠しのように空を見上げた。
「今年の花火、どうなるんでしょうね」
「安全基準の話とか、再開発のスケジュールとかで、規模は小さくなるかもしれません」
一輝は、ポケットから手帳を取り出す。
余白には、先日ノートに書いた「まぜこぜ案」の項目が、簡単に転記されている。
「でも、たとえ規模が小さくなっても」
ページの端に、小さく書き足した。
『・新しい屋上ができたら、一番最初に一緒に上がる』
「これだけは、なんとか実現したいです」
詩織は、その文字を覗き込んで笑う。
「屋上の予約、早いですね」
「抽選倍率、高そうなので」
軽口を交わしながらも、胸の奥は真剣だった。
「次の花火は、ちゃんと隣で見たいです」
一輝は、言葉を選びながら続ける。
「前みたいに、仕事に逃げたり、怖さに飲まれたりしないで」
詩織は、少しうつむいてから顔を上げた。
「じゃあ、そのときまでに、私も自分の生活をもう少し整えておきます」
家族会議の夜のことがよぎる。
唐揚げだらけのテーブルと、ぎこちないけれど温かい会話。
「完璧にはできないと思うけど。
ぐちゃぐちゃなところを、『一緒に片づけてくれる人』がいるなら、頑張ってみてもいいかなって」
「それ、応募条件としてはだいぶハードル高いですね」
「面接で落ちたら、ごめんなさい」
冗談めかした言葉に、一輝は頭を下げるふりをした。
「不採用にならないように、書類だけは整えておきます」
「さっき山ほど間違い見つかった人のセリフとは思えないですね」
笑い声が、夜風に乗って広がる。
足場に覆われた古い屋上で、ふたりは新しい約束を交わした。
川辺センターの前の歩道には、いつもと違う車が並んでいた。
白いヘルメットをかぶった作業員たち。
トラックの荷台から降ろされる足場の部材。
ビルの正面には黄色と黒のテープが張られ、「立入禁止」の看板が立てられている。
その少し外側で、住民たちが小さな輪になって立っていた。
喫茶コーナーのマスター、学習塾の講師、親子ひろばのお母さんたち、フリーペーパーの常連読者。
「とうとう始まるんですねえ」
マスターが、紙コップのコーヒーを両手で包みながらつぶやく。
「全部なくなるわけじゃないですよ」
圭良が、腕章を直しながら答える。
「ここは、外側を着替えるだけです」
「外側を着替えるって、あんたそう簡単に言うけどね」
親子ひろばのお母さんが、子どもの手を握りながら笑う。
「こっちは『いつもの顔』が変わるの、結構ドキドキしてるんだから」
少し離れたところで、詩織はカメラを構えていた。
ファインダー越しに、足場が組まれていく様子と、見上げる人たちの表情を切り取る。
「これも、『記憶のアルバム』に入れるんですよね?」
隣で千妃呂が、クリップボードを抱えながら聞いた。
「『解体の日の朝』っていう特集、きっと誰かの記憶になるから」
「うん。
『このビルがどうなっても、この誇らしさはどこかに残っていてほしい』って書いてくれた人がいたから」
詩織は、以前ロビーで読んだ一文を思い出す。
シャッターを切るたび、胸の奥でも何かが小さく区切られていく気がした。
◇
少し遅れて、一輝と永羽も現場に到着した。
スーツの上から簡易のヘルメットをかぶり、腕章には「管理担当」の文字。
「やっぱり、こうして見ると年季入ってるな」
永羽が、外壁を見上げる。
薄いベージュのタイルにはところどころひびが入り、増築部分との境目には微妙な段差がある。
「この『味』を完全に消しちゃうのは、もったいないですね」
一輝が言うと、マスターが笑った。
「そうそう。
新しいビルになっても、『ここは昔からちょっとイビツだったんだぞ』って言えるところ、ひとつぐらい残しといてよ」
「設計担当に伝えておきます」
そんな会話をしているうちに、作業員が合図を送った。
足場が組まれ、古い外壁の一部が覆われていく。
「じゃあ、そろそろ中は立ち入り制限ですね」
圭良が腕時計を見て言う。
「詩織さん、必要な撮影は大体終わりました?」
「はい。あとは、夜に少し」
その言い方に、一輝は首をかしげたが、あえて深くは聞かなかった。
◇
夜。
川辺センターの非常階段を、二人分の足音が静かに登っていた。
一輝と詩織。
「ほんとはダメなんですけどね、こういうの」
「『管理担当』が一緒なので、ギリギリセーフってことで」
一輝が苦笑すると、詩織も小さく笑う。
屋上の扉を開けると、ひんやりとした夜風が頬をなでた。
半分ほど足場とシートで覆われた空。
それでも、川沿いの街の灯りは、昔と同じように瞬いている。
「ここ、最初に来たときは、ただの古いビルの屋上だと思ってました」
一輝は、縁の安全バーにもたれながら言った。
「今は?」
「『君と見た花火』の舞台の一部です」
詩織が、少しだけ目を見開き、それから照れ隠しのように空を見上げた。
「今年の花火、どうなるんでしょうね」
「安全基準の話とか、再開発のスケジュールとかで、規模は小さくなるかもしれません」
一輝は、ポケットから手帳を取り出す。
余白には、先日ノートに書いた「まぜこぜ案」の項目が、簡単に転記されている。
「でも、たとえ規模が小さくなっても」
ページの端に、小さく書き足した。
『・新しい屋上ができたら、一番最初に一緒に上がる』
「これだけは、なんとか実現したいです」
詩織は、その文字を覗き込んで笑う。
「屋上の予約、早いですね」
「抽選倍率、高そうなので」
軽口を交わしながらも、胸の奥は真剣だった。
「次の花火は、ちゃんと隣で見たいです」
一輝は、言葉を選びながら続ける。
「前みたいに、仕事に逃げたり、怖さに飲まれたりしないで」
詩織は、少しうつむいてから顔を上げた。
「じゃあ、そのときまでに、私も自分の生活をもう少し整えておきます」
家族会議の夜のことがよぎる。
唐揚げだらけのテーブルと、ぎこちないけれど温かい会話。
「完璧にはできないと思うけど。
ぐちゃぐちゃなところを、『一緒に片づけてくれる人』がいるなら、頑張ってみてもいいかなって」
「それ、応募条件としてはだいぶハードル高いですね」
「面接で落ちたら、ごめんなさい」
冗談めかした言葉に、一輝は頭を下げるふりをした。
「不採用にならないように、書類だけは整えておきます」
「さっき山ほど間違い見つかった人のセリフとは思えないですね」
笑い声が、夜風に乗って広がる。
足場に覆われた古い屋上で、ふたりは新しい約束を交わした。