君と見た花火は、苦情だらけ
第2話 二階の教室と、返せないボールペン
昼休みを少し過ぎたオフィスは、コピー機の音とキーボードを叩く音だけが響いていた。
スターツホームズ地域活性チームの一角で、一輝は自分のデスクの引き出しを、そっと開ける。
灰色のファイルの横に、昨日から居候している細いボールペンが一本。
透明な軸の中で、インクがまだたっぷり残っている。
「……返しそびれたな」
小さくつぶやいた瞬間、背後から紙コップが机に置かれる音がした。
「戻ってこない視線を追ってみたら、犯人はそれか」
いつもの淡い色のシャツ姿の永羽が、インスタントコーヒーをひと口すすりながら立っている。
「犯人って」
「昨日の説明会の反省会をしてるのかと思ったら、文房具を見つめてるんだからな」
永羽は、ボールペンをつまんで光に透かした。
「テナントの誰かのか?」
「……川辺センター二階の講座の先生のです。花火のときに落としていったみたいで」
「ほう。花火とボールペン」
その組み合わせを転がすように言ってから、永羽は紙コップを指で弾いた。
「午後からまた川辺センター行くだろ。ついでに返してこい」
「行くことになってましたっけ」
「なってなかったか? じゃあ今、なった」
永羽は、机の上の案件リストを指さす。
「昨日の説明会で出た要望の整理。現地を見ながらの方が早い。ついでに施設長の顔色も見てこい。ついでに、その先生の顔色も見てこい」
「課長、ついでが渋滞してます」
「現場はいつだって渋滞してるんだ。ほら、早く行け。戻ってきたら、アンケートの集計な」
最後に胃のあたりを押さえつつ、自分の席へ戻っていく永羽の背中を見送りながら、一輝はボールペンを胸ポケットに差した。
川辺センターまでは、会社から徒歩十五分。
昼過ぎの商店街は、朝の慌ただしさが一段落して、店先に並んだ野菜や惣菜が陽に照らされている。
クリーニング店の前には、「花火大会の浴衣お急ぎ仕上げ」の紙がまだ残っていた。
センターの自動ドアが開くと、ひんやりした空気と、ほのかな消毒液の匂いが鼻をくすぐる。
一階ロビーでは、杖をついた高齢の男性がソファに腰掛け、受付の千妃呂と話していた。
「昨日の説明会、どうでした?」
カウンター越しに声をかけると、千妃呂は書類を仕分けしていた手を止め、軽く伸びをした。
「お疲れさまです。……途中で体操教室に呼ばれちゃって、全部は聞けませんでしたけど、最後の方は拍手してましたよね。あれ、珍しいですよ」
「珍しい、ですか」
「普段は、拍手より先に『次の回もやってくれ』って声が飛ぶんで」
千妃呂は、受付カウンターの端に置かれた花火大会のポスターを指で軽く叩いた。
「昨日の花火、どうでした?」
「苦情と一緒に打ち上がってました」
「それなら良かった。ここ、苦情も人も、全部いったん天井にたまってから抜けていきますから」
冗談とも本気ともつかない調子で言ってから、千妃呂は二階への階段を顎で示した。
「相沢先生なら、たぶん今、午後の講座の準備してますよ」
二階に上がると、廊下には「手芸サークル」「健康体操」「初心者ヨーガ」といった紙が並び、その真ん中に大きめのポスターが一枚貼られている。
マーカーで書かれたタイトルは、「市民講座『私がアツく語りたい』」。
その下には、細い字でこう書かれていた。
「自分の好きなことを、誰かに語ってみる教室です。上手さより、温度を大切にします」
扉の向こうから、椅子を動かす音が聞こえる。
ノックをしようとして、一輝の指先が扉の手前で止まった。
――顔を見ていると、質問が飛んできそうで。
昨夜、花火の下で彼女が笑いながら言った言葉が、ふっとよみがえる。
質問が飛んでくるのは、説明の側だけだと思っていた。
聞く側にも、覚悟がいるのかもしれない。
ノックを迷っているうちに、扉の隙間から声が漏れてきた。
「じゃあ、今日はここまでにしましょうか。続きは、来週の同じ時間に」
予定表には「午後講座」としか書かれていなかったが、どうやら前の時間のクラスが終わったところらしい。
ガタガタと椅子の音がして、数人の足音が近づいてくる。
慌てて扉から離れた一輝の前に、ノブが回って扉が開いた。
「失礼しまーす……あ」
出てきた女性が、一輝の胸元の名札を見て立ち止まる。
「昨日の、説明してた方ですよね」
「はい。スターツホームズの相沢です」
そう答えると、女性は小さく会釈をして、振り返った。
「先生、昨日の人、ここにいます」
呼びかけに応えるように、教室の奥から姿を現したのは、花火の光の中で見上げていたのと同じ横顔だった。
相沢詩織は、両手にホワイトボード用のペンを三本抱え、首からは小さな名札を提げている。
さっきまで話していた受講生たちが、彼女の後ろからぞろぞろと出てきて、「昨日はお疲れさまでした」と口々に声をかけていった。
人の流れが落ち着いたところで、ようやくふたりきりになる。
「こんにちは」
詩織は、教室の扉を半分開けたまま立ち、軽く頭を下げた。
「昨日は、いろいろ言ってしまって」
「こちらこそ。……あの」
タイミングを見計らって、胸ポケットからボールペンを取り出す。
「これ、落とされてました」
差し出されたペンを見て、詩織の表情が一瞬ぱっと明るくなった。
「よかった。探していたんです。ありがとうございます」
彼女は両手でボールペンを包むと、インクの残り具合を確認するように軸を回した。
「これ、受講生の方からもらったんです。『先生、これでまたいろいろ書いてください』って」
その言葉に、ペンの軽さが少し変わったような気がする。
「昨日の花火のメモも、それで書いてたんですか」
「はい。仕事柄、きれいな光を見ると、つい言葉で捕まえたくなるので」
詩織は笑いながら、教室の中を顎で示した。
「よければ、中、少しだけ見ますか? いつも、こんな感じでやっているので」
教室の中には、四人掛けのテーブルがいくつか置かれ、壁際には受講生たちの文章がクリップで留められている。
「祖父のラジオについて」「休日のパン屋巡り」「ひとりで歩いた山道」と、タイトルだけでもそれぞれの生活がにじんでいる。
一輝は、入口近くの一枚に目をとめた。
手書きの文字で、こう書かれている。
「温もりを求める瞳に、居場所を教えてもらった」
思わず読み上げると、詩織が隣に立った。
「その方、ここに通い始めてから、顔つきが柔らかくなったんですよ。最初は、『文章なんて書いたことないから無理』って言ってたのに」
「居場所、ですか」
「はい。自分の話をしていい場所って、意外と少ないので」
詩織は、壁の文章を指でなぞるように見つめたあと、一輝の方に向き直った。
「昨日おっしゃっていた、『現場の声』って言葉。あれ、いいなと思って」
「そうですか」
「ここも、小さいけれど現場のひとつなので。いつか、こういう声もまとめてお渡しできたらなって」
ふっと、永羽の顔が頭をよぎる。
「数字だけでなく、『現場の声』も一緒に持ってこい」と言われたこと。
あの時は、曖昧な指示だと思った。
今、壁一面の文字を前にすると、その意味が少しだけ見える。
「……とはいえ」
詩織は、自分の名札を指先で弾いた。
「私もまだまだです。人の話を聞くのは好きなんですけど、いざ自分のこととなると、うまく言葉にできなくて」
「昨夜のノートには、ちゃんと書かれていました」
思わず口にした瞬間、自分で自分の発言に気づく。
「すみません。また、文字を見てしまって」
「大丈夫です。あれは、誰かに読んでもらうつもりで書いていたので」
詩織は、机の上のノートを軽く叩いた。
「本当は、ああいう言葉を、ここで話してもらえるといいんですけどね。『君と見た花火』の話とか」
「……ここで?」
「はい。たとえば、『今年の花火を、誰と見たいか』とか、『去年の花火で、隣にいた人が誰だったか』とか」
彼女は少し考えてから、冗談めかした口調に切り替えた。
「よかったら、今度、ゲストとして話してみませんか。『説明する側』じゃなくて、『語る側』として」
「俺が、ですか」
「ええ。受講生たち、きっと興味ありますよ。不動産会社の人が、この街のどこを好きだと思ってるのか」
突然の誘いに、一輝は言葉を探した。
会社のプレゼンなら、用意すべき資料が浮かぶ。
だが、自分の「好き」を語れと言われると、頭の中のフォルダが一気に真っ白になる。
「……検討します」
ようやく出てきたのは、いつも会議で使う安全な言い回しだった。
詩織は、ほんの少しだけ肩を落としたあと、すぐに笑い直す。
「ですよね。いきなりは難しいですよね」
その笑いが、どこか申し訳なさそうに見えた。
自分の「検討します」が、相手の温度を下げてしまったようで、胸の奥が少しざわつく。
「ただ」
詩織が続ける。
「もし、数字だけじゃない話も必要になったら、そのときは声をかけてください。私は、ここで聞いた話をまとめることしかできませんけど」
「……わかりました」
そう返事をして教室を出ようとしたとき、彼女が慌てたように呼び止めた。
「あの、もうひとつだけ」
振り返ると、詩織はさっきのボールペンをかざした。
「これ、しばらく相沢さんに預けておいてもいいですか」
「え?」
「昨日、河川敷で落としたみたいに、またどこかに置き忘れそうで。ここに書いた話を、いつかそちらに渡す時まで、ちゃんと残しておきたいので」
その提案に、一輝は思わず眉を上げた。
「ペンを預けるって、普通逆じゃないですか」
「ふふ。預け先が不動産会社なら、安心かなと思って」
冗談を添えながらも、その目はまっすぐだった。
ほんの数秒の沈黙のあと、一輝はペンを受け取った。
「……預かります。ただし、インクが切れたら、ちゃんと報告してください」
「はい。インクが切れる頃には、話も出そろっているといいんですけど」
教室の扉が静かに閉まる。
廊下に出ると、窓の向こうには、昨日花火を上げていた河川敷が見えた。
昼間の光の下では、ただの広い空き地にしか見えない。
胸ポケットの中で、ボールペンがさっきより重く感じる。
その重さを確かめながら階段を降りたところで、携帯電話が震えた。
『本社から資料の催促。取り壊し前提のケースも作っておいてほしいってさ』
永羽からの短いメッセージ。
取り壊し前提。
文字の並びは、いつも通りの業務連絡だ。
けれど、その言葉が、さっきまで見ていた壁一面の文章とぶつかり合う。
川辺センターのロビーから外へ出ると、入口のガラスに自分の顔が映った。
ネクタイを締め直しながら、その映り込みに問いかける。
「現場の声を集めるって、どこまでやるつもりなんだ」
返事は当然返ってこない。
代わりに、胸ポケットの中でボールペンが、コツンと動いた。
スターツホームズ地域活性チームの一角で、一輝は自分のデスクの引き出しを、そっと開ける。
灰色のファイルの横に、昨日から居候している細いボールペンが一本。
透明な軸の中で、インクがまだたっぷり残っている。
「……返しそびれたな」
小さくつぶやいた瞬間、背後から紙コップが机に置かれる音がした。
「戻ってこない視線を追ってみたら、犯人はそれか」
いつもの淡い色のシャツ姿の永羽が、インスタントコーヒーをひと口すすりながら立っている。
「犯人って」
「昨日の説明会の反省会をしてるのかと思ったら、文房具を見つめてるんだからな」
永羽は、ボールペンをつまんで光に透かした。
「テナントの誰かのか?」
「……川辺センター二階の講座の先生のです。花火のときに落としていったみたいで」
「ほう。花火とボールペン」
その組み合わせを転がすように言ってから、永羽は紙コップを指で弾いた。
「午後からまた川辺センター行くだろ。ついでに返してこい」
「行くことになってましたっけ」
「なってなかったか? じゃあ今、なった」
永羽は、机の上の案件リストを指さす。
「昨日の説明会で出た要望の整理。現地を見ながらの方が早い。ついでに施設長の顔色も見てこい。ついでに、その先生の顔色も見てこい」
「課長、ついでが渋滞してます」
「現場はいつだって渋滞してるんだ。ほら、早く行け。戻ってきたら、アンケートの集計な」
最後に胃のあたりを押さえつつ、自分の席へ戻っていく永羽の背中を見送りながら、一輝はボールペンを胸ポケットに差した。
川辺センターまでは、会社から徒歩十五分。
昼過ぎの商店街は、朝の慌ただしさが一段落して、店先に並んだ野菜や惣菜が陽に照らされている。
クリーニング店の前には、「花火大会の浴衣お急ぎ仕上げ」の紙がまだ残っていた。
センターの自動ドアが開くと、ひんやりした空気と、ほのかな消毒液の匂いが鼻をくすぐる。
一階ロビーでは、杖をついた高齢の男性がソファに腰掛け、受付の千妃呂と話していた。
「昨日の説明会、どうでした?」
カウンター越しに声をかけると、千妃呂は書類を仕分けしていた手を止め、軽く伸びをした。
「お疲れさまです。……途中で体操教室に呼ばれちゃって、全部は聞けませんでしたけど、最後の方は拍手してましたよね。あれ、珍しいですよ」
「珍しい、ですか」
「普段は、拍手より先に『次の回もやってくれ』って声が飛ぶんで」
千妃呂は、受付カウンターの端に置かれた花火大会のポスターを指で軽く叩いた。
「昨日の花火、どうでした?」
「苦情と一緒に打ち上がってました」
「それなら良かった。ここ、苦情も人も、全部いったん天井にたまってから抜けていきますから」
冗談とも本気ともつかない調子で言ってから、千妃呂は二階への階段を顎で示した。
「相沢先生なら、たぶん今、午後の講座の準備してますよ」
二階に上がると、廊下には「手芸サークル」「健康体操」「初心者ヨーガ」といった紙が並び、その真ん中に大きめのポスターが一枚貼られている。
マーカーで書かれたタイトルは、「市民講座『私がアツく語りたい』」。
その下には、細い字でこう書かれていた。
「自分の好きなことを、誰かに語ってみる教室です。上手さより、温度を大切にします」
扉の向こうから、椅子を動かす音が聞こえる。
ノックをしようとして、一輝の指先が扉の手前で止まった。
――顔を見ていると、質問が飛んできそうで。
昨夜、花火の下で彼女が笑いながら言った言葉が、ふっとよみがえる。
質問が飛んでくるのは、説明の側だけだと思っていた。
聞く側にも、覚悟がいるのかもしれない。
ノックを迷っているうちに、扉の隙間から声が漏れてきた。
「じゃあ、今日はここまでにしましょうか。続きは、来週の同じ時間に」
予定表には「午後講座」としか書かれていなかったが、どうやら前の時間のクラスが終わったところらしい。
ガタガタと椅子の音がして、数人の足音が近づいてくる。
慌てて扉から離れた一輝の前に、ノブが回って扉が開いた。
「失礼しまーす……あ」
出てきた女性が、一輝の胸元の名札を見て立ち止まる。
「昨日の、説明してた方ですよね」
「はい。スターツホームズの相沢です」
そう答えると、女性は小さく会釈をして、振り返った。
「先生、昨日の人、ここにいます」
呼びかけに応えるように、教室の奥から姿を現したのは、花火の光の中で見上げていたのと同じ横顔だった。
相沢詩織は、両手にホワイトボード用のペンを三本抱え、首からは小さな名札を提げている。
さっきまで話していた受講生たちが、彼女の後ろからぞろぞろと出てきて、「昨日はお疲れさまでした」と口々に声をかけていった。
人の流れが落ち着いたところで、ようやくふたりきりになる。
「こんにちは」
詩織は、教室の扉を半分開けたまま立ち、軽く頭を下げた。
「昨日は、いろいろ言ってしまって」
「こちらこそ。……あの」
タイミングを見計らって、胸ポケットからボールペンを取り出す。
「これ、落とされてました」
差し出されたペンを見て、詩織の表情が一瞬ぱっと明るくなった。
「よかった。探していたんです。ありがとうございます」
彼女は両手でボールペンを包むと、インクの残り具合を確認するように軸を回した。
「これ、受講生の方からもらったんです。『先生、これでまたいろいろ書いてください』って」
その言葉に、ペンの軽さが少し変わったような気がする。
「昨日の花火のメモも、それで書いてたんですか」
「はい。仕事柄、きれいな光を見ると、つい言葉で捕まえたくなるので」
詩織は笑いながら、教室の中を顎で示した。
「よければ、中、少しだけ見ますか? いつも、こんな感じでやっているので」
教室の中には、四人掛けのテーブルがいくつか置かれ、壁際には受講生たちの文章がクリップで留められている。
「祖父のラジオについて」「休日のパン屋巡り」「ひとりで歩いた山道」と、タイトルだけでもそれぞれの生活がにじんでいる。
一輝は、入口近くの一枚に目をとめた。
手書きの文字で、こう書かれている。
「温もりを求める瞳に、居場所を教えてもらった」
思わず読み上げると、詩織が隣に立った。
「その方、ここに通い始めてから、顔つきが柔らかくなったんですよ。最初は、『文章なんて書いたことないから無理』って言ってたのに」
「居場所、ですか」
「はい。自分の話をしていい場所って、意外と少ないので」
詩織は、壁の文章を指でなぞるように見つめたあと、一輝の方に向き直った。
「昨日おっしゃっていた、『現場の声』って言葉。あれ、いいなと思って」
「そうですか」
「ここも、小さいけれど現場のひとつなので。いつか、こういう声もまとめてお渡しできたらなって」
ふっと、永羽の顔が頭をよぎる。
「数字だけでなく、『現場の声』も一緒に持ってこい」と言われたこと。
あの時は、曖昧な指示だと思った。
今、壁一面の文字を前にすると、その意味が少しだけ見える。
「……とはいえ」
詩織は、自分の名札を指先で弾いた。
「私もまだまだです。人の話を聞くのは好きなんですけど、いざ自分のこととなると、うまく言葉にできなくて」
「昨夜のノートには、ちゃんと書かれていました」
思わず口にした瞬間、自分で自分の発言に気づく。
「すみません。また、文字を見てしまって」
「大丈夫です。あれは、誰かに読んでもらうつもりで書いていたので」
詩織は、机の上のノートを軽く叩いた。
「本当は、ああいう言葉を、ここで話してもらえるといいんですけどね。『君と見た花火』の話とか」
「……ここで?」
「はい。たとえば、『今年の花火を、誰と見たいか』とか、『去年の花火で、隣にいた人が誰だったか』とか」
彼女は少し考えてから、冗談めかした口調に切り替えた。
「よかったら、今度、ゲストとして話してみませんか。『説明する側』じゃなくて、『語る側』として」
「俺が、ですか」
「ええ。受講生たち、きっと興味ありますよ。不動産会社の人が、この街のどこを好きだと思ってるのか」
突然の誘いに、一輝は言葉を探した。
会社のプレゼンなら、用意すべき資料が浮かぶ。
だが、自分の「好き」を語れと言われると、頭の中のフォルダが一気に真っ白になる。
「……検討します」
ようやく出てきたのは、いつも会議で使う安全な言い回しだった。
詩織は、ほんの少しだけ肩を落としたあと、すぐに笑い直す。
「ですよね。いきなりは難しいですよね」
その笑いが、どこか申し訳なさそうに見えた。
自分の「検討します」が、相手の温度を下げてしまったようで、胸の奥が少しざわつく。
「ただ」
詩織が続ける。
「もし、数字だけじゃない話も必要になったら、そのときは声をかけてください。私は、ここで聞いた話をまとめることしかできませんけど」
「……わかりました」
そう返事をして教室を出ようとしたとき、彼女が慌てたように呼び止めた。
「あの、もうひとつだけ」
振り返ると、詩織はさっきのボールペンをかざした。
「これ、しばらく相沢さんに預けておいてもいいですか」
「え?」
「昨日、河川敷で落としたみたいに、またどこかに置き忘れそうで。ここに書いた話を、いつかそちらに渡す時まで、ちゃんと残しておきたいので」
その提案に、一輝は思わず眉を上げた。
「ペンを預けるって、普通逆じゃないですか」
「ふふ。預け先が不動産会社なら、安心かなと思って」
冗談を添えながらも、その目はまっすぐだった。
ほんの数秒の沈黙のあと、一輝はペンを受け取った。
「……預かります。ただし、インクが切れたら、ちゃんと報告してください」
「はい。インクが切れる頃には、話も出そろっているといいんですけど」
教室の扉が静かに閉まる。
廊下に出ると、窓の向こうには、昨日花火を上げていた河川敷が見えた。
昼間の光の下では、ただの広い空き地にしか見えない。
胸ポケットの中で、ボールペンがさっきより重く感じる。
その重さを確かめながら階段を降りたところで、携帯電話が震えた。
『本社から資料の催促。取り壊し前提のケースも作っておいてほしいってさ』
永羽からの短いメッセージ。
取り壊し前提。
文字の並びは、いつも通りの業務連絡だ。
けれど、その言葉が、さっきまで見ていた壁一面の文章とぶつかり合う。
川辺センターのロビーから外へ出ると、入口のガラスに自分の顔が映った。
ネクタイを締め直しながら、その映り込みに問いかける。
「現場の声を集めるって、どこまでやるつもりなんだ」
返事は当然返ってこない。
代わりに、胸ポケットの中でボールペンが、コツンと動いた。