君と見た花火は、苦情だらけ
第3話 温もりを求める瞳が集まる場所
土曜日の午前十時、川辺センター一階ロビー。
待ち合わせ時間ぴったりに自動ドアが開くと、紙袋を両腕に抱えた詩織が、少し息を弾ませながら入ってきた。
「お待たせしました」
「いえ。ちょうど来たところです」
一輝は腕時計をさりげなく確認する。秒針は、約束の時刻を三十秒ほど過ぎたところで止まっていた。
「今日は、取材の同行でしたよね」
「はい。フリーペーパーの特集で、ここを使っている人たちの話を集めたいんです」
詩織は紙袋を受付カウンターに置き、中からクリップボードとICレコーダーを取り出した。
「タイトルは、『温もりを求める瞳』にしようと思っていて」
その言葉に、一輝は無意識に周囲を見回す。
ロビーのソファには、血圧を測り終えた高齢の男性が紙コップのお茶を飲み、壁際では子どもが掲示物のイラストに指を伸ばしている。
確かに、視線の先にはそれぞれ微妙に違う「温度」があった。
「で、相沢さんには、顔を覚えてもらうために一緒に回っていただけたらと」
詩織がそう言うと、受付の中で書類整理をしていた千妃呂が、くるりと椅子を回した。
「営業活動も兼ねて、ですね」
「……まあ、そういう側面もあります」
一輝が曖昧に笑うと、千妃呂はにやりと口角を上げる。
「じゃあ、最初の取材相手は、あの人がいいんじゃないですか」
千妃呂が顎で示した先には、ロビーの隅で新聞を広げている男性がいた。
白いシャツにベージュのベスト、足元には買い物袋。
「毎朝ここで新聞読む人です。センターが休館の日は、コンビニの駐車場で所在なさそうに立ってるって、有名ですよ」
「なるほど。『温もりを求める瞳』って感じがします」
詩織は、クリップボードを持ち直しながらうなずく。
「行きましょうか」
ふたりでロビーの隅に向かう途中、圭良が一輝の横に並んだ。
「課長から、『今日は口を挟みすぎるなよ』ってメッセージ来てましたよ」
「……言われなくても気をつけます」
「一応、通訳としてついて行きますから。『利便性の向上』を『ちょっと便利になります』に訳す係として」
「その訳し方、雑すぎませんか」
新聞の男性の前まで行くと、詩織が軽く会釈をした。
「こんにちは。市民講座で文章の教室をしている相沢と言います。いつもこちらで新聞を読んでいらっしゃいますよね」
「ああ、あんたか。廊下に貼ってあった顔写真、見たことあるよ」
男性は新聞を半分折りたたみながら、椅子に座ったまま笑った。
「今度、センターを特集する小さな冊子を作ろうと思っていて、もしよければ、ここでの過ごし方を少し教えていただけませんか」
「わしの話なんかでよけりゃ」
詩織が椅子を引き寄せると、一輝もその隣に立つ。
「こちら、センターを運営している側の相沢さんです」
「スターツホームズの相沢です。本日は、施設利用者のニーズの把握と――」
そこまで言ったところで、圭良に脇腹をつつかれた。
「シンプルに」
「……センターのことを、もっと知りたくてご一緒させてもらっています」
言い直すと、男性は「ほう」と目を細めた。
「ここに来るとき、どんな気持ちでいらっしゃるんですか」
詩織が問いかける。
「気持ちねえ」
男性は顎に手を当て、少し考えるように天井を見上げた。
「家にいると、黙ってテレビ見てるだけだからな。ここに来ると、人がいる」
「人がいる」
「うん。新聞読むふりして、誰が来てるか眺めてると、ああ、まだ生きてるなって気がするんだよ」
その言葉を聞きながら、詩織はペンを走らせる。
一輝は、胸ポケットのボールペンの存在を意識しつつ、男性の表情を見ていた。
「施設の機能面で、改善してほしいところはありますか」
口が勝手にそう動いた瞬間、男性が「機能面?」と首をかしげる。
「たとえば、設備の老朽化による快適性の低下とか――」
「おっと、課長の幽霊が乗り移ったな」
圭良が小声でつぶやく。
「ええと……どこか壊れてて困ってるところ、とかです」
言い換えると、男性は「ああ」と大きくうなずいた。
「トイレの鏡がちょっと曇ってるかな。でも、あんまりピカピカになっても、わしの顔がくっきり映って嫌だしな」
「それは、どっちがいいんでしょう」
「そこはまあ、どっちでもいいや。ここは、そこそこ古くてちょうどいい」
笑いながら答える男性を前に、一輝は控えめにメモを取る。
快適性の低下、と書きかけた字を消し、「鏡が曇っているけれど、それでいい」と書き直した。
次に向かったのは、二階奥の和室。
今日は午前中、「親子ひろば」の日で、畳の上にはカラフルなマットとおもちゃが広げられている。
ハイハイする子どもを追いかける母親たちの笑い声が、障子の隙間から廊下に漏れていた。
「おじゃまします」
千妃呂が先に顔を出し、「取材です」と一言添えて中に入る。
和室の中央では、若い女性が輪になった親子に絵本を読み聞かせていた。
「今日の絵本は、『あったかい手』です」
柔らかな声がそう告げると、子どもたちが一斉に前のめりになる。
「ここ、いいですよね」
詩織が小声でつぶやく。
「瞳の向きが全部そろってて」
読み聞かせがひと段落したところで、詩織は絵本を読んでいた女性に声をかけた。
「いつも、こちらで読み聞かせをされているんですか」
「はい。子ども図書室の職員です」
「今回、センターを特集する記事を書いていて。ここで過ごす親子の姿を、ぜひ紹介したくて」
「うれしいです」
女性は少し照れながら、畳の上に正座した。
「ここで過ごす時間って、どんな時間ですか」
「そうですね……」
女性は輪になっている親子を見回しながら言葉を探す。
「外だと、泣き声が気になったり、人の目を気にしちゃうお母さんが多いんです。でも、ここだと、お互いさまって感じでいられるから」
「お互いさま」
「はい。誰かの子が泣いてても、『あ、今日はうちじゃない』って笑ったりして」
その言葉に、周りの母親たちもくすくす笑った。
「ここに来ると、自分の子どもの顔だけじゃなくて、他の子の表情も見られるんですよね。『ああ、この子、こんな顔で笑うんだ』って」
詩織は、「瞳」とノートに書き添えた。
一輝は、畳の縁の模様をぼんやり眺めながら、さっきの男性の「まだ生きてるなって気がする」という言葉を思い出す。
「センターが新しくなったら、どんな場所になってほしいですか」
また、口が勝手に動いた。
女性は少し驚いたように瞬きをし、それから考え込む。
「安全で、きれいで、使いやすくて……って、きっと答えるべきなんでしょうけど」
「い、いえ、自由にお話しください」
「本音を言うと、『土足で駆け込んでも怒られない場所』であってほしいです」
「土足、ですか」
「はい。今は畳だから、靴を脱ぐのに時間がかかって……その間に『泣かせてすみません』って謝っちゃうお母さんもいるので」
女性は、マットの上で転がっている子どもを見ながら言う。
「新しくなったら、それこそ耐震とかバリアフリーとか、いろいろ整うと思うんです。でも、『すみません』より『ただいま』が先に出る場所だといいなって」
その一言に、和室の空気が少しだけあたたまる。
母親のひとりが、「わかる」と小さくうなずいた。
「すみません、これも一応聞いておきたいんですが」
一輝が手帳を開きながら口を挟む。
「現状の設備について、具体的なご不便は――」
「出た、『ぐたい』」
圭良がすかさず小声でつぶやき、畳の上で三歳くらいの子どもがなぜか真似して「ぐたいー」と叫んだ。
和室が笑いに包まれ、一輝は苦笑いで頭を下げる。
「ええと……ベビーカー置き場がもう少し広いと助かります。でも、それ以外は、ここに来るだけで十分なので」
女性はフォローするように笑った。
午前中の取材を終え、センター一階の休憩スペースで、三人はテーブルを囲んだ。
紙コップのコーヒーから立ちのぼる湯気が、少しずつ形を変えていく。
「……なんか、俺ばっかり滑ってませんか」
一輝がため息混じりに言うと、圭良がストローの袋をくるくる丸めた。
「いいじゃないですか。滑る担当、必要ですよ。お笑いも、ツッコミだけじゃ成り立たないんで」
「慰めになっているようないないような」
詩織は、クリップボードを見つめながらペン先で紙をトントンと叩いた。
「相沢さんの質問、悪くはないんです」
「そう、ですか」
「ただ、答える人の『今の温度』と、ちょっとずれていることが多いかなって」
「温度」
「はい。たとえば、『新しくなったらどうなってほしいですか』って質問。あれ、自分でもよく使いますけど、今日みたいに、今この瞬間の表情が一番よく見えているときは、もったいない気がして」
詩織は、さっきの男性と親子ひろばの様子を、ノートの隅に小さく描いた。
新聞の影からこちらをちらりと見ていた目。
絵本に釘付けになっていた子どもたちの瞳。
「さっきの方、『ここはそこそこ古くてちょうどいい』って言ってましたよね」
「ええ」
「ああいう言葉を、もっと掘り下げたいんです。『ちょうどいい』って、どういう感じなのかとか」
「……それは、確かに気になります」
一輝は紙コップのふたを指で回しながら言った。
「でも、僕が掘り下げようとすると、『老朽化』とか『危険性』とか、どうしてもそっちの方向に行ってしまって」
「それはそれで、大事な仕事ですよね」
詩織は、少しだけ優しい声になる。
「ただ、『ちょうどいい』って言った人が、本当に危ないときに避難できるようにするには、『今の好き』も一緒に覚えておかないといけない気がして」
「今の好き」
「はい。たとえば、『新聞を読むふりをして、人を見ている時間が好き』とか、『土足で駆け込める場所が好き』とか。そういうのが、私の言う『温もりを求める瞳』なんです」
言いながら、詩織は自分の紙コップを両手で包んだ。
その指先にも、少し頼りなげな温度が宿る。
「……俺が聞き出せているのは、『危ないかどうか』ばかりかもしれません」
「それも、きっと誰かのためになってます」
詩織は即座に否定しなかった。
「ただ、せっかく一緒に回るなら、役割を分けてもいいかもしれないですね」
「役割、ですか」
「相沢さんは、『この建物をどう守るか』『どう変えるか』っていう未来の話を聞く係。私は、『今ここで何を大事にしているか』っていう、今日の話を聞く係」
「今日と未来」
「そうです。どっちかだけだと、きっと誰かが置いていかれちゃうので」
その提案に、一輝は少し黙り込んだ。
未来の話だけを聞いてきたつもりはない。
ただ、今目の前で笑っている人たちの「好き」を、数字に置き換えようとしていたのかもしれない。
「……それなら、もう少し質問の仕方を、教えてもらってもいいですか」
自分でも意外な言葉が口をついて出る。
詩織は目を瞬かせ、それからゆっくりとうなずいた。
「じゃあ、午後の取材で、ひとつ実験してみましょうか」
「実験?」
「はい。次に会う相手には、最初の質問を相沢さんにお願いしてもいいですか」
午後の取材先は、センター三階の一角にある小さな喫茶スペースだった。
カウンターの向こうでエプロン姿の女性が、コーヒー豆の袋を並べている。
「ここのマスター、元は会社員で。早期退職してから、自分で店を持った人なんです」
詩織が小声で説明する。
「いらっしゃい」
女性――いや、この店では「マスター」と呼ばれているらしい――が笑顔で迎えた。
「今日は、コーヒーの話? それともセンターの話?」
「両方聞けたらうれしいです」
詩織が答えると、マスターは楽しそうに手を叩いた。
「じゃあ、最初の質問は……」
詩織が一輝の方を見る。
視線でバトンを渡された一輝は、少しだけ息を吸った。
「こちらの喫茶コーナーは、いつから――」
そこまで言いかけて、喉の奥で言葉を飲み込む。
開店日や売上傾向よりも、さっき詩織に言われた「今の好き」の方が気になった。
「……ここに立っているとき、一番うれしい瞬間は、どんな時ですか」
マスターが目を見開き、すぐに笑った。
「それはまた、急にまっすぐな球が来たわね」
「すみません。変でしたか」
「ううん。いい質問だと思う」
マスターは、カウンターの中で少しだけ考えた。
棚のカップが静かに並んでいる。
「一番うれしいのは、初めて来た人が二回目に来たときかな」
「二回目、ですか」
「そう。『この前おいしかったから』って、同じ席に座ってくれると、ああ、ここを覚えていてくれたんだって思えるから」
その答えに、詩織が「いいですね」とうなずき、ノートに大きく丸をつける。
「一回目と二回目の間には、どんな気持ちの違いがあるんですか?」
「一回目は、みんな様子見よ。『高いんじゃないか』とか『美味しくなかったらどうしよう』とかね。でも二回目は、もうちょっとだけ気が抜けてる」
マスターは、自分の胸の前で手を組み、ほどく仕草をした。
「そういう顔を見るのが、たまらなく好き」
カウンターの向こう側で、コーヒーの香りがふわりと広がる。
その香りに包まれながら、一輝は、初めて花火を見た夜のことを思い出した。
隣に立っていた詩織の横顔。
ノートに書かれていた、「君と見た花火」という文字。
「ちなみに、センターが新しくなったら、どんな喫茶コーナーになってほしいですか」
思わず出たその質問に、マスターは肩をすくめた。
「正直ねえ、新しくなってもならなくても、わたしは『二回目の顔』が見られればいいのよ」
「二回目の顔」
「そう。椅子が新しくなろうが、カウンターの色が変わろうが、人の顔のほうが大事」
その言葉に、詩織が満足そうにペンを置いた。
「今日だけで、もう十分すぎるくらいの言葉をいただきました」
喫茶コーナーを出て廊下を歩きながら、詩織がぽつりと言う。
「さっきの質問、よかったですよ」
「どの質問ですか」
「『一番うれしい瞬間はいつですか』ってやつ。あれ、私も今度真似していいですか」
「どうぞ。……使用料は要りませんので」
「じゃあ代わりに、この記事ができたら、一番に見せますね」
そう言って笑う詩織の瞳は、どこかほっとしたような光を帯びていた。
その光を見ていると、「現場の声」という言葉が、ただの社内用語ではなくなっていく。
センターの外に出ると、午後の日差しが歩道に模様を描いていた。
帰り道、商店街を歩きながら、一輝はふと立ち止まる。
「相沢さん」
「はい?」
「さっきの質問、もうひとつだけ追加してもいいですか」
「追加?」
「この街で、一番うれしい瞬間は、どんな時ですか」
思わぬ方向から向けられた問いに、詩織は目を丸くした。
すぐには答えが出てこないようで、商店街のアーケードを見上げる。
「うーん……」
しばらく考えたあと、彼女は少し照れたように笑った。
「誰かが、『ここが好きです』って、ちゃんと言ってくれたとき、ですかね」
「ちゃんと、ですか」
「はい。『なんとなく』じゃなくて、『こういうところが好き』って具体的に言ってくれたとき。……自分でも、あまり言えてないんですけど」
その言葉が、一輝の胸にゆっくりと沈んでいく。
「老朽化」とか「利便性」とか、そんな言葉では表せない「好き」が、この街のあちこちに散らばっている。
それを集めようとしている人が、今、自分の隣を歩いている。
胸ポケットの中で、預かったボールペンが軽く揺れた。
まだインクは、たっぷり残っている。
待ち合わせ時間ぴったりに自動ドアが開くと、紙袋を両腕に抱えた詩織が、少し息を弾ませながら入ってきた。
「お待たせしました」
「いえ。ちょうど来たところです」
一輝は腕時計をさりげなく確認する。秒針は、約束の時刻を三十秒ほど過ぎたところで止まっていた。
「今日は、取材の同行でしたよね」
「はい。フリーペーパーの特集で、ここを使っている人たちの話を集めたいんです」
詩織は紙袋を受付カウンターに置き、中からクリップボードとICレコーダーを取り出した。
「タイトルは、『温もりを求める瞳』にしようと思っていて」
その言葉に、一輝は無意識に周囲を見回す。
ロビーのソファには、血圧を測り終えた高齢の男性が紙コップのお茶を飲み、壁際では子どもが掲示物のイラストに指を伸ばしている。
確かに、視線の先にはそれぞれ微妙に違う「温度」があった。
「で、相沢さんには、顔を覚えてもらうために一緒に回っていただけたらと」
詩織がそう言うと、受付の中で書類整理をしていた千妃呂が、くるりと椅子を回した。
「営業活動も兼ねて、ですね」
「……まあ、そういう側面もあります」
一輝が曖昧に笑うと、千妃呂はにやりと口角を上げる。
「じゃあ、最初の取材相手は、あの人がいいんじゃないですか」
千妃呂が顎で示した先には、ロビーの隅で新聞を広げている男性がいた。
白いシャツにベージュのベスト、足元には買い物袋。
「毎朝ここで新聞読む人です。センターが休館の日は、コンビニの駐車場で所在なさそうに立ってるって、有名ですよ」
「なるほど。『温もりを求める瞳』って感じがします」
詩織は、クリップボードを持ち直しながらうなずく。
「行きましょうか」
ふたりでロビーの隅に向かう途中、圭良が一輝の横に並んだ。
「課長から、『今日は口を挟みすぎるなよ』ってメッセージ来てましたよ」
「……言われなくても気をつけます」
「一応、通訳としてついて行きますから。『利便性の向上』を『ちょっと便利になります』に訳す係として」
「その訳し方、雑すぎませんか」
新聞の男性の前まで行くと、詩織が軽く会釈をした。
「こんにちは。市民講座で文章の教室をしている相沢と言います。いつもこちらで新聞を読んでいらっしゃいますよね」
「ああ、あんたか。廊下に貼ってあった顔写真、見たことあるよ」
男性は新聞を半分折りたたみながら、椅子に座ったまま笑った。
「今度、センターを特集する小さな冊子を作ろうと思っていて、もしよければ、ここでの過ごし方を少し教えていただけませんか」
「わしの話なんかでよけりゃ」
詩織が椅子を引き寄せると、一輝もその隣に立つ。
「こちら、センターを運営している側の相沢さんです」
「スターツホームズの相沢です。本日は、施設利用者のニーズの把握と――」
そこまで言ったところで、圭良に脇腹をつつかれた。
「シンプルに」
「……センターのことを、もっと知りたくてご一緒させてもらっています」
言い直すと、男性は「ほう」と目を細めた。
「ここに来るとき、どんな気持ちでいらっしゃるんですか」
詩織が問いかける。
「気持ちねえ」
男性は顎に手を当て、少し考えるように天井を見上げた。
「家にいると、黙ってテレビ見てるだけだからな。ここに来ると、人がいる」
「人がいる」
「うん。新聞読むふりして、誰が来てるか眺めてると、ああ、まだ生きてるなって気がするんだよ」
その言葉を聞きながら、詩織はペンを走らせる。
一輝は、胸ポケットのボールペンの存在を意識しつつ、男性の表情を見ていた。
「施設の機能面で、改善してほしいところはありますか」
口が勝手にそう動いた瞬間、男性が「機能面?」と首をかしげる。
「たとえば、設備の老朽化による快適性の低下とか――」
「おっと、課長の幽霊が乗り移ったな」
圭良が小声でつぶやく。
「ええと……どこか壊れてて困ってるところ、とかです」
言い換えると、男性は「ああ」と大きくうなずいた。
「トイレの鏡がちょっと曇ってるかな。でも、あんまりピカピカになっても、わしの顔がくっきり映って嫌だしな」
「それは、どっちがいいんでしょう」
「そこはまあ、どっちでもいいや。ここは、そこそこ古くてちょうどいい」
笑いながら答える男性を前に、一輝は控えめにメモを取る。
快適性の低下、と書きかけた字を消し、「鏡が曇っているけれど、それでいい」と書き直した。
次に向かったのは、二階奥の和室。
今日は午前中、「親子ひろば」の日で、畳の上にはカラフルなマットとおもちゃが広げられている。
ハイハイする子どもを追いかける母親たちの笑い声が、障子の隙間から廊下に漏れていた。
「おじゃまします」
千妃呂が先に顔を出し、「取材です」と一言添えて中に入る。
和室の中央では、若い女性が輪になった親子に絵本を読み聞かせていた。
「今日の絵本は、『あったかい手』です」
柔らかな声がそう告げると、子どもたちが一斉に前のめりになる。
「ここ、いいですよね」
詩織が小声でつぶやく。
「瞳の向きが全部そろってて」
読み聞かせがひと段落したところで、詩織は絵本を読んでいた女性に声をかけた。
「いつも、こちらで読み聞かせをされているんですか」
「はい。子ども図書室の職員です」
「今回、センターを特集する記事を書いていて。ここで過ごす親子の姿を、ぜひ紹介したくて」
「うれしいです」
女性は少し照れながら、畳の上に正座した。
「ここで過ごす時間って、どんな時間ですか」
「そうですね……」
女性は輪になっている親子を見回しながら言葉を探す。
「外だと、泣き声が気になったり、人の目を気にしちゃうお母さんが多いんです。でも、ここだと、お互いさまって感じでいられるから」
「お互いさま」
「はい。誰かの子が泣いてても、『あ、今日はうちじゃない』って笑ったりして」
その言葉に、周りの母親たちもくすくす笑った。
「ここに来ると、自分の子どもの顔だけじゃなくて、他の子の表情も見られるんですよね。『ああ、この子、こんな顔で笑うんだ』って」
詩織は、「瞳」とノートに書き添えた。
一輝は、畳の縁の模様をぼんやり眺めながら、さっきの男性の「まだ生きてるなって気がする」という言葉を思い出す。
「センターが新しくなったら、どんな場所になってほしいですか」
また、口が勝手に動いた。
女性は少し驚いたように瞬きをし、それから考え込む。
「安全で、きれいで、使いやすくて……って、きっと答えるべきなんでしょうけど」
「い、いえ、自由にお話しください」
「本音を言うと、『土足で駆け込んでも怒られない場所』であってほしいです」
「土足、ですか」
「はい。今は畳だから、靴を脱ぐのに時間がかかって……その間に『泣かせてすみません』って謝っちゃうお母さんもいるので」
女性は、マットの上で転がっている子どもを見ながら言う。
「新しくなったら、それこそ耐震とかバリアフリーとか、いろいろ整うと思うんです。でも、『すみません』より『ただいま』が先に出る場所だといいなって」
その一言に、和室の空気が少しだけあたたまる。
母親のひとりが、「わかる」と小さくうなずいた。
「すみません、これも一応聞いておきたいんですが」
一輝が手帳を開きながら口を挟む。
「現状の設備について、具体的なご不便は――」
「出た、『ぐたい』」
圭良がすかさず小声でつぶやき、畳の上で三歳くらいの子どもがなぜか真似して「ぐたいー」と叫んだ。
和室が笑いに包まれ、一輝は苦笑いで頭を下げる。
「ええと……ベビーカー置き場がもう少し広いと助かります。でも、それ以外は、ここに来るだけで十分なので」
女性はフォローするように笑った。
午前中の取材を終え、センター一階の休憩スペースで、三人はテーブルを囲んだ。
紙コップのコーヒーから立ちのぼる湯気が、少しずつ形を変えていく。
「……なんか、俺ばっかり滑ってませんか」
一輝がため息混じりに言うと、圭良がストローの袋をくるくる丸めた。
「いいじゃないですか。滑る担当、必要ですよ。お笑いも、ツッコミだけじゃ成り立たないんで」
「慰めになっているようないないような」
詩織は、クリップボードを見つめながらペン先で紙をトントンと叩いた。
「相沢さんの質問、悪くはないんです」
「そう、ですか」
「ただ、答える人の『今の温度』と、ちょっとずれていることが多いかなって」
「温度」
「はい。たとえば、『新しくなったらどうなってほしいですか』って質問。あれ、自分でもよく使いますけど、今日みたいに、今この瞬間の表情が一番よく見えているときは、もったいない気がして」
詩織は、さっきの男性と親子ひろばの様子を、ノートの隅に小さく描いた。
新聞の影からこちらをちらりと見ていた目。
絵本に釘付けになっていた子どもたちの瞳。
「さっきの方、『ここはそこそこ古くてちょうどいい』って言ってましたよね」
「ええ」
「ああいう言葉を、もっと掘り下げたいんです。『ちょうどいい』って、どういう感じなのかとか」
「……それは、確かに気になります」
一輝は紙コップのふたを指で回しながら言った。
「でも、僕が掘り下げようとすると、『老朽化』とか『危険性』とか、どうしてもそっちの方向に行ってしまって」
「それはそれで、大事な仕事ですよね」
詩織は、少しだけ優しい声になる。
「ただ、『ちょうどいい』って言った人が、本当に危ないときに避難できるようにするには、『今の好き』も一緒に覚えておかないといけない気がして」
「今の好き」
「はい。たとえば、『新聞を読むふりをして、人を見ている時間が好き』とか、『土足で駆け込める場所が好き』とか。そういうのが、私の言う『温もりを求める瞳』なんです」
言いながら、詩織は自分の紙コップを両手で包んだ。
その指先にも、少し頼りなげな温度が宿る。
「……俺が聞き出せているのは、『危ないかどうか』ばかりかもしれません」
「それも、きっと誰かのためになってます」
詩織は即座に否定しなかった。
「ただ、せっかく一緒に回るなら、役割を分けてもいいかもしれないですね」
「役割、ですか」
「相沢さんは、『この建物をどう守るか』『どう変えるか』っていう未来の話を聞く係。私は、『今ここで何を大事にしているか』っていう、今日の話を聞く係」
「今日と未来」
「そうです。どっちかだけだと、きっと誰かが置いていかれちゃうので」
その提案に、一輝は少し黙り込んだ。
未来の話だけを聞いてきたつもりはない。
ただ、今目の前で笑っている人たちの「好き」を、数字に置き換えようとしていたのかもしれない。
「……それなら、もう少し質問の仕方を、教えてもらってもいいですか」
自分でも意外な言葉が口をついて出る。
詩織は目を瞬かせ、それからゆっくりとうなずいた。
「じゃあ、午後の取材で、ひとつ実験してみましょうか」
「実験?」
「はい。次に会う相手には、最初の質問を相沢さんにお願いしてもいいですか」
午後の取材先は、センター三階の一角にある小さな喫茶スペースだった。
カウンターの向こうでエプロン姿の女性が、コーヒー豆の袋を並べている。
「ここのマスター、元は会社員で。早期退職してから、自分で店を持った人なんです」
詩織が小声で説明する。
「いらっしゃい」
女性――いや、この店では「マスター」と呼ばれているらしい――が笑顔で迎えた。
「今日は、コーヒーの話? それともセンターの話?」
「両方聞けたらうれしいです」
詩織が答えると、マスターは楽しそうに手を叩いた。
「じゃあ、最初の質問は……」
詩織が一輝の方を見る。
視線でバトンを渡された一輝は、少しだけ息を吸った。
「こちらの喫茶コーナーは、いつから――」
そこまで言いかけて、喉の奥で言葉を飲み込む。
開店日や売上傾向よりも、さっき詩織に言われた「今の好き」の方が気になった。
「……ここに立っているとき、一番うれしい瞬間は、どんな時ですか」
マスターが目を見開き、すぐに笑った。
「それはまた、急にまっすぐな球が来たわね」
「すみません。変でしたか」
「ううん。いい質問だと思う」
マスターは、カウンターの中で少しだけ考えた。
棚のカップが静かに並んでいる。
「一番うれしいのは、初めて来た人が二回目に来たときかな」
「二回目、ですか」
「そう。『この前おいしかったから』って、同じ席に座ってくれると、ああ、ここを覚えていてくれたんだって思えるから」
その答えに、詩織が「いいですね」とうなずき、ノートに大きく丸をつける。
「一回目と二回目の間には、どんな気持ちの違いがあるんですか?」
「一回目は、みんな様子見よ。『高いんじゃないか』とか『美味しくなかったらどうしよう』とかね。でも二回目は、もうちょっとだけ気が抜けてる」
マスターは、自分の胸の前で手を組み、ほどく仕草をした。
「そういう顔を見るのが、たまらなく好き」
カウンターの向こう側で、コーヒーの香りがふわりと広がる。
その香りに包まれながら、一輝は、初めて花火を見た夜のことを思い出した。
隣に立っていた詩織の横顔。
ノートに書かれていた、「君と見た花火」という文字。
「ちなみに、センターが新しくなったら、どんな喫茶コーナーになってほしいですか」
思わず出たその質問に、マスターは肩をすくめた。
「正直ねえ、新しくなってもならなくても、わたしは『二回目の顔』が見られればいいのよ」
「二回目の顔」
「そう。椅子が新しくなろうが、カウンターの色が変わろうが、人の顔のほうが大事」
その言葉に、詩織が満足そうにペンを置いた。
「今日だけで、もう十分すぎるくらいの言葉をいただきました」
喫茶コーナーを出て廊下を歩きながら、詩織がぽつりと言う。
「さっきの質問、よかったですよ」
「どの質問ですか」
「『一番うれしい瞬間はいつですか』ってやつ。あれ、私も今度真似していいですか」
「どうぞ。……使用料は要りませんので」
「じゃあ代わりに、この記事ができたら、一番に見せますね」
そう言って笑う詩織の瞳は、どこかほっとしたような光を帯びていた。
その光を見ていると、「現場の声」という言葉が、ただの社内用語ではなくなっていく。
センターの外に出ると、午後の日差しが歩道に模様を描いていた。
帰り道、商店街を歩きながら、一輝はふと立ち止まる。
「相沢さん」
「はい?」
「さっきの質問、もうひとつだけ追加してもいいですか」
「追加?」
「この街で、一番うれしい瞬間は、どんな時ですか」
思わぬ方向から向けられた問いに、詩織は目を丸くした。
すぐには答えが出てこないようで、商店街のアーケードを見上げる。
「うーん……」
しばらく考えたあと、彼女は少し照れたように笑った。
「誰かが、『ここが好きです』って、ちゃんと言ってくれたとき、ですかね」
「ちゃんと、ですか」
「はい。『なんとなく』じゃなくて、『こういうところが好き』って具体的に言ってくれたとき。……自分でも、あまり言えてないんですけど」
その言葉が、一輝の胸にゆっくりと沈んでいく。
「老朽化」とか「利便性」とか、そんな言葉では表せない「好き」が、この街のあちこちに散らばっている。
それを集めようとしている人が、今、自分の隣を歩いている。
胸ポケットの中で、預かったボールペンが軽く揺れた。
まだインクは、たっぷり残っている。