君と見た花火は、苦情だらけ
第4話 すれ違う締切と家族の時間
診察室の前の長いすは、朝から満席だった。
白い壁に貼られた健康指導のポスターと、テレビから流れる天気予報。消毒液の匂いの中で、詩織は膝の上のスケジュール帳を開いたまま、ペン先で日付の欄を軽く叩いていた。
「……九時半の予約で、今が十時十五分」
小さくつぶやき、隣に座る弟の横顔をうかがう。
弟はマスクの上から頬をかき、むずがゆそうに足を組み替えた。
「悪いな、姉ちゃん。土曜の朝だろ」
「別に。どうせ起きてたし」
詩織は、ページの端に小さく書かれた文字に視線を落とす。
「11:30 署名」「15:00 一輝さんヒアリング(教室)」「19:00 原稿」「21:00 講座準備」。
文字が増えるたびに、行間が詰まっていく。
「今日、川辺センターで何かあるんだっけ」
「うん。こないだの説明会の続きみたいなやつ」
詩織は、スケジュール帳の端を指で折った。
「ちゃんと話を聞く時間を作りたいって、一輝さんが言ってくれて」
「あの、背広の人か」
「そう。花火の日、隣にいた人」
そう言うと、弟は少しだけ目を細める。
「……姉ちゃん、また無茶してない?」
「してないしてない。ほら、診察終わったらすぐセンターに行くから。帰りにコンビニ寄って、何か欲しいもの言っときなよ」
そのとき、「次の方どうぞ」と名前が呼ばれた。
弟が立ち上がり、診察室のドアの向こうに消える。
詩織はひとり残された長いすで、スケジュール帳を閉じた。
カバンの中から、折りたたんだ署名用紙が顔を出している。
紙の端には、「川辺センター存続を願う声」と、マーカーで書いた文字。
このビルで過ごしてきた人たちの「好き」を、数字ではなく言葉で残したい。
それが今、詩織が自分に課している仕事だった。
◇
病院を出ると、太陽はもう高い位置にあった。
ガラス張りのエントランスに、空の青さが映り込む。
「薬もらってきたし、俺、ここからバイト先行くわ」
弟が処方箋の紙袋を振る。
「本当に大丈夫?」
「平気平気。シフトも短めだし。姉ちゃんこそ、倒れるなよ」
「私は倒れないように予定組んでるから」
そう言いつつ、胸のあたりで小さく息をついた。
弟が手を振って去っていく背中を見送ってから、詩織はカバンからボールペンと署名用紙を取り出す。
病院から十分ほど歩くと、川辺センター手前の交差点が見えてきた。
いつものように、スーパーの前には特価の野菜が並び、子ども連れがカートを押している。
スーパーの入り口の横、日陰になったスペースに、小さな折りたたみ机が一つ。
上にはクリップで留めた署名用紙と、「川辺センターのこれからを、一緒に考えてください」と書いた手書きの紙。
「さて、と」
詩織は机の前に立ち、深呼吸をひとつした。
「すみません、ちょっとお時間いいですか」
買い物袋を提げた女性に声をかける。
「この近くにある交流センターについて、意見を集めています。もしよければ、ここで過ごしている時間のこと、少しだけ教えていただけませんか」
「センター?」
女性は、遠くのビルを振り返った。
「ああ、体操とかやってるとこね。私、たまにヨガ行ってるわ」
そう言いながら、ペンを受け取る。
署名の欄の横には、「ここが好きな理由」という小さな枠がある。
女性はそこに、「雨の日でも歩けるから」と書き込んだ。
「ここから駅まで、屋根続きで行けるでしょ? だから、あそこがなくなったら困るのよ」
「ありがとうございます。その一言が、すごく大事で」
詩織は、書かれた文字をそっとなぞるように見つめた。
次に声をかけた男性は、「署名ね。とりあえず書くよ」と、理由の欄を空白のまま名前だけを書いていった。
その後ろで並んでいた高校生は、「あそこで受験勉強してたので」と照れながら、「静かな机があるから」と一行だけ書いた。
人が途切れたタイミングで、詩織は腕時計を見た。
「……十一時四十五分」
スケジュール帳の「11:30」の文字が、頭の中で赤く点滅する。
予定より十五分、押している。
そこへ、見慣れた顔がやってきた。
「相沢先生、やってますねえ」
千妃呂が、買い物カゴを片手に立っていた。
「千妃呂さん。お昼の買い出しですか」
「ええ。センターの事務室、今日は冷蔵庫が寂しくて」
千妃呂は署名用紙を覗き込み、ふふっと笑う。
「『静かな机があるから』って、可愛いですね」
「書いてくれた子、恥ずかしそうでしたけど」
「この紙、あとでコピーしてもいいですか。センターの掲示板に貼りたい」
「もちろん。たくさん集まったら、一輝さんにも見せるつもりですし」
「お、もう名前で呼んでる」
千妃呂がわざとらしく目を細める。
「そういう呼び方は、距離が近い時か、遠い時か、どっちでしょうね」
「からかわないでください」
詩織が苦笑すると、千妃呂は時計を見て口笛を吹いた。
「十五時からヒアリングでしたよね。詩織さん、今日は走り回る一日だ」
「ですね。午後からはセンターにこもります」
千妃呂は、「無理しすぎないで」と軽く肩を叩いてから、スーパーの中に消えていった。
その数分後。
ポケットの中で、小さな振動がした。
詩織はカバンからスマホを取り出し、画面をのぞき込む。
表示された名前を見た瞬間、喉の奥がきゅっと鳴った。
「……もしもし」
受話口から聞こえてきたのは、母親の落ち着かない声だった。
病院から再度連絡があったこと、弟の検査結果が思わしくなく、もう一度詳しい検査をすることになったこと。
「今日の午後、主治医の先生から説明があるって言われて」
「わかった。すぐ行く」
通話を切ったあとも、詩織の指はしばらくスマホの画面の上をさまよった。
連絡先一覧の中に、「川辺センター・相沢一輝」の文字が見える。
電話をかけるべきだと頭ではわかっている。
ただ、説明できる言葉が見つからない。
――ヒアリングをお願いしたのは、自分の方だ。
――署名の話をちゃんとしたい、と言ったのも、自分だ。
スマホを握りしめた手に、汗がにじむ。
「……とりあえず、病院行ってから」
そう自分に言い聞かせ、詩織は署名用紙を丁寧にたたんだ。
川辺センターの方角と、病院の方角。
交差点の真ん中で立ち止まり、数秒だけ迷ったあと、彼女は病院のバス停へと足を向けた。
◇
その頃、川辺センター二階の教室では、一輝が壁掛け時計を見上げていた。
長机がコの字に並べられた会議仕様の教室。
ホワイトボードには、「川辺センター現状ヒアリング」と書かれた紙が貼られている。
机の上には、質問項目が印刷された資料が数枚。
「利用頻度」「感じている不便」「今後の希望」。
時計の短針は三を指し、長針は一を過ぎている。
つまり、十六分の遅刻。
「まあまあ。相沢さん、さっきもロビー走ってましたし」
壁際で腕を組んでいる圭良が、気楽な声を出す。
「署名の人たちに捕まってるのかも」
「署名は、別に悪いことじゃないですけどね」
一輝は、資料の角をぴしっと揃えた。
「ただ、ヒアリングは今日一回きりの予定ですし、こっちにも締切が」
「本社に出す資料ですよね」
「来週の月曜までに、最低二つの案の数字をそろえろって」
廊下から笑い声が聞こえてきた。
別の教室では、子どもたちのリズム体操が始まっているらしい。
ドアの向こうをちらちらと気にしながら、一輝は胸ポケットのボールペンをつまんだ。
細い軸のペン。
詩織が「預けます」と笑って渡してきたもの。
ペン先を出しては引っ込める癖が、いつの間にか戻っている。
「連絡、来てないんですか」
「特には」
一輝は、机の上に置いたスマホに目をやる。
画面は、静かなまま。
そこへ、教室のドアが少しだけ開いた。
「すみません、ちょっといいですか」
顔を出したのは、テナントの一人だった。
「コピー機の紙が切れちゃって。事務室に誰もいなくて」
「あ、すぐ見に行きます」
圭良が応じようとすると、相手は「できれば相沢さんに」と言い直した。
「この前の説明会の資料、うちの教室でも使わせてもらおうかと思って。その相談も一緒に」
「わかりました」
一輝は、時計をもう一度見てから立ち上がる。
「すぐ戻ります。詩織さんが来たら、ここで待っていると伝えてください」
教室を出るとき、胸ポケットのペンがわずかに揺れた。
◇
病院の待合室で、詩織は再び同じ長いすに座っていた。
朝とは違うのは、窓の外の光が少し傾いていることと、母親が隣にいること。
「そんなに心配する顔しなくても、先生は『急ぎではあるけど、落ち着いて話しましょう』って言ってたじゃない」
母親が言う。
「落ち着けって言われて、落ち着けたら苦労しないよ」
詩織は、自分の手のひらを見つめた。
指先には、さっきまで握っていた署名用紙の感触が残っている。
カバンの中では、スケジュール帳が静かに横たわっている。
「センターの方は、大丈夫なの?」
「……今日は、話を聞く約束があって」
「行かなくていいの?」
母親の問いに、詩織は言葉を飲み込んだ。
時計の針は、十五時をとうに過ぎている。
スマホの画面には、いくつかの不在着信のマーク。
名前を見るのが怖くて、画面を伏せた。
診察室から呼ばれ、医師の説明が始まる。
検査の結果、今すぐどうこうという話ではないが、しばらく慎重に様子を見る必要があること。
通院の頻度が増えるかもしれないこと。
医学用語がいくつか飛び交う中で、詩織はメモを取りながらも、頭のどこかで別の時間を数えていた。
――今からセンターに向かえば、ギリギリ顔だけは出せるかもしれない。
◇
川辺センター二階の教室。
時計の長針が四を指した頃、一輝は椅子から立ち上がった。
「……今日は、ここまでにしましょうか」
誰にともなくそう言い、机の上の資料をまとめる。
圭良が、椅子の背にもたれながら口笛を吹いた。
「まあ、こういう日もありますよ。あっちも人間だし」
「こっちにも締切があります」
一輝は、乾いた声で返す。
「現場の声を聞くって言っても、時間は有限ですから」
「じゃあ、今日は『連絡がつかなかった』っていう現場の声ですね」
「圭良」
「すみません」
書類をカバンに入れようとしたとき、廊下の方から足音が近づいてきた。
小走りのリズム。
ドアが勢いよく開く。
「すみませんっ!」
息を切らした詩織が、教室の入り口に立っていた。
額には汗、髪は少し乱れている。
右手には、折りたたんだ署名用紙の束。
「遅くなって、本当に……」
謝罪の言葉の続きを探しているあいだに、時計の針が目に入る。
十五時四十五分。
約束の時間から、四十五分。
一輝は、ゆっくりと息を吐いた。
「大丈夫でしたか」
その一言に、詩織は一瞬ほっとしたように目を伏せる。
「はい。弟のことで、病院から連絡があって……」
「そうですか」
そこで言葉が途切れた。
一輝の表情は、心配と苛立ちの間で揺れている。
「事情があるのはわかります」
静かな声だった。
「ただ、仕事としてお願いしている以上、約束の時間をここまで過ぎてから来られると、正直困ります」
教室の空気が、わずかに冷えた。
圭良が椅子から身を起こす。
「今日のヒアリングは、もう別の日に改めましょう」
一輝は、机の上の資料を指で叩いた。
「テナントの方からも、『今日なら時間が取れる』って言われていました。でも、その方たちにも声をかけそびれました」
「……すみません」
詩織は、署名用紙を握りしめる手に力を込めた。
「相沢さん」
一輝は、言うべきか迷うように一度口を閉じ、それからはっきりと言葉を選んだ。
「仕事を頼む相手として、信用していいのか、少し不安になりました」
その一言が、教室の中心に落ちる。
椅子のきしむ音も、廊下から聞こえる子どもの笑い声も、全部遠くなる。
「信用……」
詩織は、反射的に言い返そうとした。
――弟の検査があった。
――母親が不安そうだった。
――病院で説明を聞かないわけにはいかなかった。
説明できる事情はいくつも浮かぶのに、喉から出てくるのは、短い謝罪だけだった。
「ごめんなさい」
言ったあとで、それが自分でも驚くほど軽い音に聞こえる。
「今日は、これで失礼します」
一輝は、胸ポケットのペンを押さえながら、教室の出口に向かった。
すれ違いざま、圭良と目が合う。
「……あとで、フォロー入れときます」
圭良が小声でささやく。
一輝は短くうなずき、廊下へ出た。
残された教室で、詩織はしばらくその場から動けなかった。
手の中の署名用紙が、少し湿っている。
千妃呂が、そっとドアを開けて顔をのぞかせた。
「さっき走ってるの見えたよ。大丈夫?」
「大丈夫……だと思います」
自分の声が、いつもより少し低く響く。
「弟さん?」
「うん。検査の結果が思ったより複雑で。説明聞いてたら、時間が……」
そこでまた言葉が切れた。
千妃呂は、教室の中に入ってきて、近くの椅子に腰を下ろした。
「事情は、相沢さんに話した?」
「一応。でも、『仕事として』って言われて」
「うん」
千妃呂は、膝の上で手を組んだ。
「向こうは向こうで、たぶんいっぱいいっぱいなんだと思う。上からもいろいろ言われてるみたいだし」
「わかってます。……わかってるつもりなんですけど」
詩織は、視界の端にあるホワイトボードを見つめた。
「現状ヒアリング」と書かれた紙が、少し傾いて貼られている。
本当は、今日ここで、署名用紙に書かれた「好き」の言葉を、一つひとつ一輝に見てほしかった。
新聞を読む男性の「そこそこ古くてちょうどいい」。
親子ひろばの「すみませんよりただいまが先に出る場所」。
それを伝える前に、「信用していいのか」という言葉で、胸のどこかが固まってしまった。
「相沢さん、きついこと言った?」
「……きつい、というか。正しいことを、正しい音量で言われた感じです」
「それ、一番効くやつだ」
千妃呂は、苦い笑いを浮かべた。
「とりあえず、今日は帰って寝な。原稿の締切、いつ?」
「明日のお昼」
「それは、寝ないと書けないやつだね」
千妃呂は立ち上がり、署名用紙の束をそっと受け取った。
「これ、事務室で預かっておくよ。コピーも取るし」
「お願いします」
教室を出るとき、詩織は振り返ってホワイトボードを見た。
「現状ヒアリング」の文字が、小さく見える。
◇
その夜。
ワンルームの部屋の机の上には、ノートパソコンと原稿用のノートが広がっていた。
画面には、昼間取材した親子ひろばの記事の書きかけ。
「土足で駆け込んでも怒られない場所」という言葉が、カーソルの手前で待っている。
詩織は、ペンを持ち上げ、ノートの端に一行だけ書いた。
――君と見た花火を、もう一度語ろう。
書いたあとで、その文字をじっと見つめる。
あの夜、河川敷で隣に立っていた一輝の横顔。
今日、教室で向き合ったときの、冷たい音のする言葉。
同じ人なのに、見えている景色が違う。
ペン先が、紙の上で止まる。
「君」という一文字が、やけに重く感じられた。
スマホが、机の端で静かに光った。
また誰かからの連絡かもしれない。
けれど、画面を確認する気力が出ない。
「……明日、ちゃんと謝ろう」
そうつぶやいてみる。
けれど、どんな言葉で謝ればいいのか、やはり浮かんでこなかった。
締切も、家族の時間も、川辺センターのこれからも。
全部大事で、全部同時に抱えようとして、どこかでぽろりと落としてしまった。
ノートの上で、「君」という字だけが、にじみそうでにじまない。
白い壁に貼られた健康指導のポスターと、テレビから流れる天気予報。消毒液の匂いの中で、詩織は膝の上のスケジュール帳を開いたまま、ペン先で日付の欄を軽く叩いていた。
「……九時半の予約で、今が十時十五分」
小さくつぶやき、隣に座る弟の横顔をうかがう。
弟はマスクの上から頬をかき、むずがゆそうに足を組み替えた。
「悪いな、姉ちゃん。土曜の朝だろ」
「別に。どうせ起きてたし」
詩織は、ページの端に小さく書かれた文字に視線を落とす。
「11:30 署名」「15:00 一輝さんヒアリング(教室)」「19:00 原稿」「21:00 講座準備」。
文字が増えるたびに、行間が詰まっていく。
「今日、川辺センターで何かあるんだっけ」
「うん。こないだの説明会の続きみたいなやつ」
詩織は、スケジュール帳の端を指で折った。
「ちゃんと話を聞く時間を作りたいって、一輝さんが言ってくれて」
「あの、背広の人か」
「そう。花火の日、隣にいた人」
そう言うと、弟は少しだけ目を細める。
「……姉ちゃん、また無茶してない?」
「してないしてない。ほら、診察終わったらすぐセンターに行くから。帰りにコンビニ寄って、何か欲しいもの言っときなよ」
そのとき、「次の方どうぞ」と名前が呼ばれた。
弟が立ち上がり、診察室のドアの向こうに消える。
詩織はひとり残された長いすで、スケジュール帳を閉じた。
カバンの中から、折りたたんだ署名用紙が顔を出している。
紙の端には、「川辺センター存続を願う声」と、マーカーで書いた文字。
このビルで過ごしてきた人たちの「好き」を、数字ではなく言葉で残したい。
それが今、詩織が自分に課している仕事だった。
◇
病院を出ると、太陽はもう高い位置にあった。
ガラス張りのエントランスに、空の青さが映り込む。
「薬もらってきたし、俺、ここからバイト先行くわ」
弟が処方箋の紙袋を振る。
「本当に大丈夫?」
「平気平気。シフトも短めだし。姉ちゃんこそ、倒れるなよ」
「私は倒れないように予定組んでるから」
そう言いつつ、胸のあたりで小さく息をついた。
弟が手を振って去っていく背中を見送ってから、詩織はカバンからボールペンと署名用紙を取り出す。
病院から十分ほど歩くと、川辺センター手前の交差点が見えてきた。
いつものように、スーパーの前には特価の野菜が並び、子ども連れがカートを押している。
スーパーの入り口の横、日陰になったスペースに、小さな折りたたみ机が一つ。
上にはクリップで留めた署名用紙と、「川辺センターのこれからを、一緒に考えてください」と書いた手書きの紙。
「さて、と」
詩織は机の前に立ち、深呼吸をひとつした。
「すみません、ちょっとお時間いいですか」
買い物袋を提げた女性に声をかける。
「この近くにある交流センターについて、意見を集めています。もしよければ、ここで過ごしている時間のこと、少しだけ教えていただけませんか」
「センター?」
女性は、遠くのビルを振り返った。
「ああ、体操とかやってるとこね。私、たまにヨガ行ってるわ」
そう言いながら、ペンを受け取る。
署名の欄の横には、「ここが好きな理由」という小さな枠がある。
女性はそこに、「雨の日でも歩けるから」と書き込んだ。
「ここから駅まで、屋根続きで行けるでしょ? だから、あそこがなくなったら困るのよ」
「ありがとうございます。その一言が、すごく大事で」
詩織は、書かれた文字をそっとなぞるように見つめた。
次に声をかけた男性は、「署名ね。とりあえず書くよ」と、理由の欄を空白のまま名前だけを書いていった。
その後ろで並んでいた高校生は、「あそこで受験勉強してたので」と照れながら、「静かな机があるから」と一行だけ書いた。
人が途切れたタイミングで、詩織は腕時計を見た。
「……十一時四十五分」
スケジュール帳の「11:30」の文字が、頭の中で赤く点滅する。
予定より十五分、押している。
そこへ、見慣れた顔がやってきた。
「相沢先生、やってますねえ」
千妃呂が、買い物カゴを片手に立っていた。
「千妃呂さん。お昼の買い出しですか」
「ええ。センターの事務室、今日は冷蔵庫が寂しくて」
千妃呂は署名用紙を覗き込み、ふふっと笑う。
「『静かな机があるから』って、可愛いですね」
「書いてくれた子、恥ずかしそうでしたけど」
「この紙、あとでコピーしてもいいですか。センターの掲示板に貼りたい」
「もちろん。たくさん集まったら、一輝さんにも見せるつもりですし」
「お、もう名前で呼んでる」
千妃呂がわざとらしく目を細める。
「そういう呼び方は、距離が近い時か、遠い時か、どっちでしょうね」
「からかわないでください」
詩織が苦笑すると、千妃呂は時計を見て口笛を吹いた。
「十五時からヒアリングでしたよね。詩織さん、今日は走り回る一日だ」
「ですね。午後からはセンターにこもります」
千妃呂は、「無理しすぎないで」と軽く肩を叩いてから、スーパーの中に消えていった。
その数分後。
ポケットの中で、小さな振動がした。
詩織はカバンからスマホを取り出し、画面をのぞき込む。
表示された名前を見た瞬間、喉の奥がきゅっと鳴った。
「……もしもし」
受話口から聞こえてきたのは、母親の落ち着かない声だった。
病院から再度連絡があったこと、弟の検査結果が思わしくなく、もう一度詳しい検査をすることになったこと。
「今日の午後、主治医の先生から説明があるって言われて」
「わかった。すぐ行く」
通話を切ったあとも、詩織の指はしばらくスマホの画面の上をさまよった。
連絡先一覧の中に、「川辺センター・相沢一輝」の文字が見える。
電話をかけるべきだと頭ではわかっている。
ただ、説明できる言葉が見つからない。
――ヒアリングをお願いしたのは、自分の方だ。
――署名の話をちゃんとしたい、と言ったのも、自分だ。
スマホを握りしめた手に、汗がにじむ。
「……とりあえず、病院行ってから」
そう自分に言い聞かせ、詩織は署名用紙を丁寧にたたんだ。
川辺センターの方角と、病院の方角。
交差点の真ん中で立ち止まり、数秒だけ迷ったあと、彼女は病院のバス停へと足を向けた。
◇
その頃、川辺センター二階の教室では、一輝が壁掛け時計を見上げていた。
長机がコの字に並べられた会議仕様の教室。
ホワイトボードには、「川辺センター現状ヒアリング」と書かれた紙が貼られている。
机の上には、質問項目が印刷された資料が数枚。
「利用頻度」「感じている不便」「今後の希望」。
時計の短針は三を指し、長針は一を過ぎている。
つまり、十六分の遅刻。
「まあまあ。相沢さん、さっきもロビー走ってましたし」
壁際で腕を組んでいる圭良が、気楽な声を出す。
「署名の人たちに捕まってるのかも」
「署名は、別に悪いことじゃないですけどね」
一輝は、資料の角をぴしっと揃えた。
「ただ、ヒアリングは今日一回きりの予定ですし、こっちにも締切が」
「本社に出す資料ですよね」
「来週の月曜までに、最低二つの案の数字をそろえろって」
廊下から笑い声が聞こえてきた。
別の教室では、子どもたちのリズム体操が始まっているらしい。
ドアの向こうをちらちらと気にしながら、一輝は胸ポケットのボールペンをつまんだ。
細い軸のペン。
詩織が「預けます」と笑って渡してきたもの。
ペン先を出しては引っ込める癖が、いつの間にか戻っている。
「連絡、来てないんですか」
「特には」
一輝は、机の上に置いたスマホに目をやる。
画面は、静かなまま。
そこへ、教室のドアが少しだけ開いた。
「すみません、ちょっといいですか」
顔を出したのは、テナントの一人だった。
「コピー機の紙が切れちゃって。事務室に誰もいなくて」
「あ、すぐ見に行きます」
圭良が応じようとすると、相手は「できれば相沢さんに」と言い直した。
「この前の説明会の資料、うちの教室でも使わせてもらおうかと思って。その相談も一緒に」
「わかりました」
一輝は、時計をもう一度見てから立ち上がる。
「すぐ戻ります。詩織さんが来たら、ここで待っていると伝えてください」
教室を出るとき、胸ポケットのペンがわずかに揺れた。
◇
病院の待合室で、詩織は再び同じ長いすに座っていた。
朝とは違うのは、窓の外の光が少し傾いていることと、母親が隣にいること。
「そんなに心配する顔しなくても、先生は『急ぎではあるけど、落ち着いて話しましょう』って言ってたじゃない」
母親が言う。
「落ち着けって言われて、落ち着けたら苦労しないよ」
詩織は、自分の手のひらを見つめた。
指先には、さっきまで握っていた署名用紙の感触が残っている。
カバンの中では、スケジュール帳が静かに横たわっている。
「センターの方は、大丈夫なの?」
「……今日は、話を聞く約束があって」
「行かなくていいの?」
母親の問いに、詩織は言葉を飲み込んだ。
時計の針は、十五時をとうに過ぎている。
スマホの画面には、いくつかの不在着信のマーク。
名前を見るのが怖くて、画面を伏せた。
診察室から呼ばれ、医師の説明が始まる。
検査の結果、今すぐどうこうという話ではないが、しばらく慎重に様子を見る必要があること。
通院の頻度が増えるかもしれないこと。
医学用語がいくつか飛び交う中で、詩織はメモを取りながらも、頭のどこかで別の時間を数えていた。
――今からセンターに向かえば、ギリギリ顔だけは出せるかもしれない。
◇
川辺センター二階の教室。
時計の長針が四を指した頃、一輝は椅子から立ち上がった。
「……今日は、ここまでにしましょうか」
誰にともなくそう言い、机の上の資料をまとめる。
圭良が、椅子の背にもたれながら口笛を吹いた。
「まあ、こういう日もありますよ。あっちも人間だし」
「こっちにも締切があります」
一輝は、乾いた声で返す。
「現場の声を聞くって言っても、時間は有限ですから」
「じゃあ、今日は『連絡がつかなかった』っていう現場の声ですね」
「圭良」
「すみません」
書類をカバンに入れようとしたとき、廊下の方から足音が近づいてきた。
小走りのリズム。
ドアが勢いよく開く。
「すみませんっ!」
息を切らした詩織が、教室の入り口に立っていた。
額には汗、髪は少し乱れている。
右手には、折りたたんだ署名用紙の束。
「遅くなって、本当に……」
謝罪の言葉の続きを探しているあいだに、時計の針が目に入る。
十五時四十五分。
約束の時間から、四十五分。
一輝は、ゆっくりと息を吐いた。
「大丈夫でしたか」
その一言に、詩織は一瞬ほっとしたように目を伏せる。
「はい。弟のことで、病院から連絡があって……」
「そうですか」
そこで言葉が途切れた。
一輝の表情は、心配と苛立ちの間で揺れている。
「事情があるのはわかります」
静かな声だった。
「ただ、仕事としてお願いしている以上、約束の時間をここまで過ぎてから来られると、正直困ります」
教室の空気が、わずかに冷えた。
圭良が椅子から身を起こす。
「今日のヒアリングは、もう別の日に改めましょう」
一輝は、机の上の資料を指で叩いた。
「テナントの方からも、『今日なら時間が取れる』って言われていました。でも、その方たちにも声をかけそびれました」
「……すみません」
詩織は、署名用紙を握りしめる手に力を込めた。
「相沢さん」
一輝は、言うべきか迷うように一度口を閉じ、それからはっきりと言葉を選んだ。
「仕事を頼む相手として、信用していいのか、少し不安になりました」
その一言が、教室の中心に落ちる。
椅子のきしむ音も、廊下から聞こえる子どもの笑い声も、全部遠くなる。
「信用……」
詩織は、反射的に言い返そうとした。
――弟の検査があった。
――母親が不安そうだった。
――病院で説明を聞かないわけにはいかなかった。
説明できる事情はいくつも浮かぶのに、喉から出てくるのは、短い謝罪だけだった。
「ごめんなさい」
言ったあとで、それが自分でも驚くほど軽い音に聞こえる。
「今日は、これで失礼します」
一輝は、胸ポケットのペンを押さえながら、教室の出口に向かった。
すれ違いざま、圭良と目が合う。
「……あとで、フォロー入れときます」
圭良が小声でささやく。
一輝は短くうなずき、廊下へ出た。
残された教室で、詩織はしばらくその場から動けなかった。
手の中の署名用紙が、少し湿っている。
千妃呂が、そっとドアを開けて顔をのぞかせた。
「さっき走ってるの見えたよ。大丈夫?」
「大丈夫……だと思います」
自分の声が、いつもより少し低く響く。
「弟さん?」
「うん。検査の結果が思ったより複雑で。説明聞いてたら、時間が……」
そこでまた言葉が切れた。
千妃呂は、教室の中に入ってきて、近くの椅子に腰を下ろした。
「事情は、相沢さんに話した?」
「一応。でも、『仕事として』って言われて」
「うん」
千妃呂は、膝の上で手を組んだ。
「向こうは向こうで、たぶんいっぱいいっぱいなんだと思う。上からもいろいろ言われてるみたいだし」
「わかってます。……わかってるつもりなんですけど」
詩織は、視界の端にあるホワイトボードを見つめた。
「現状ヒアリング」と書かれた紙が、少し傾いて貼られている。
本当は、今日ここで、署名用紙に書かれた「好き」の言葉を、一つひとつ一輝に見てほしかった。
新聞を読む男性の「そこそこ古くてちょうどいい」。
親子ひろばの「すみませんよりただいまが先に出る場所」。
それを伝える前に、「信用していいのか」という言葉で、胸のどこかが固まってしまった。
「相沢さん、きついこと言った?」
「……きつい、というか。正しいことを、正しい音量で言われた感じです」
「それ、一番効くやつだ」
千妃呂は、苦い笑いを浮かべた。
「とりあえず、今日は帰って寝な。原稿の締切、いつ?」
「明日のお昼」
「それは、寝ないと書けないやつだね」
千妃呂は立ち上がり、署名用紙の束をそっと受け取った。
「これ、事務室で預かっておくよ。コピーも取るし」
「お願いします」
教室を出るとき、詩織は振り返ってホワイトボードを見た。
「現状ヒアリング」の文字が、小さく見える。
◇
その夜。
ワンルームの部屋の机の上には、ノートパソコンと原稿用のノートが広がっていた。
画面には、昼間取材した親子ひろばの記事の書きかけ。
「土足で駆け込んでも怒られない場所」という言葉が、カーソルの手前で待っている。
詩織は、ペンを持ち上げ、ノートの端に一行だけ書いた。
――君と見た花火を、もう一度語ろう。
書いたあとで、その文字をじっと見つめる。
あの夜、河川敷で隣に立っていた一輝の横顔。
今日、教室で向き合ったときの、冷たい音のする言葉。
同じ人なのに、見えている景色が違う。
ペン先が、紙の上で止まる。
「君」という一文字が、やけに重く感じられた。
スマホが、机の端で静かに光った。
また誰かからの連絡かもしれない。
けれど、画面を確認する気力が出ない。
「……明日、ちゃんと謝ろう」
そうつぶやいてみる。
けれど、どんな言葉で謝ればいいのか、やはり浮かんでこなかった。
締切も、家族の時間も、川辺センターのこれからも。
全部大事で、全部同時に抱えようとして、どこかでぽろりと落としてしまった。
ノートの上で、「君」という字だけが、にじみそうでにじまない。