君と見た花火は、苦情だらけ
第5話 元同僚のきっぱりした忠告
月曜の朝、本社ビルのエレベーターは、いつもより少しだけ重たかった。
ガラス張りのロビーを抜け、カードをかざしてゲートを通り抜けると、冷房の冷たい風が一気に首筋に流れ込んでくる。
一輝は、ネクタイを指で直しながら、企画部のフロアへ向かうエレベーターに乗り込んだ。
扉が開くと同時に、聞き慣れた声が飛んでくる。
「相沢、一年ぶり?」
振り向くと、会議室の前でタブレットを小脇に抱えた女性が片手を上げていた。
紺のジャケットに、控えめなアクセサリー。足元のヒールは、忙しさに慣れきったような動きで床を鳴らしている。
「おはようございます、友理香さん」
「お、ちゃんと“さん”付けになってる。昔みたいに『先輩』でもいいのに」
「ここ、本社のど真ん中なので」
軽く頭を下げると、彼女――本社企画部の朝倉友理香は、口角を上げた。
「相変わらず真面目だね。じゃ、真面目な話をしに会議室入ろっか」
ガラス越しに見える会議室の中には、すでに資料が山のように積まれている。
壁一面のホワイトボードには、他案件のスケジュールがびっしりと書き込まれていた。
会議室に入ると、友理香はタブレットをテーブルの中央に置き、プロジェクターにつなぐ。
スクリーンに、川辺センター周辺の航空写真が映し出された。
「……川辺センターですね」
「そう。現地担当の名前を見て、『あ、相沢いるじゃん』って思った」
友理香は、画面の端を指先で拡大していく。
「この一帯、駅からの動線も悪くないし、河川敷の眺望もある。なのに、土地の使い方がもったいないって、上からずっと言われててね」
「もったいない、ですか」
「築三十年以上、耐震補強にいくらかけるつもりかって話。だったら一度壊して、まとめて再整備したほうがいい。――そういう考え方もあるってこと」
スクリーンに、別の資料が切り替わる。
「川辺エリア再構成案」と書かれたタイトルとともに、真新しい建物のイメージ図が並んだ。
ガラス張りの複合施設、高層住宅棟、緑地スペース。
「これが、本社側の草案?」
「うん。まだラフだけどね」
友理香は、さらりと言う。
「ここ、住宅棟を三棟立てて、低層部に店舗と公共的なスペースを組み込む。既存テナントのうち、採算が合いそうなところは選んで戻す。ざっくり言うと、そんなプラン」
「……取り壊し前提なんですね」
「そう。『リノベで何とかならないか』って声もあるけど、数字を積んでいくと、どうしてもね」
友理香は、資料の右上にあるグラフを指した。
「改修だけだと、投資回収に何年かかるかって話。上はそこを見るから」
一輝は、胸ポケットの中のボールペンに、無意識に触れた。
詩織が預けていったペン。
川辺センターの廊下で、住民たちの「好き」を書き留めていたペン。
「現場では、反対も多いです」
言葉を選びながら口を開く。
「説明会でも、『ここが生きがいだ』って言っていた人がいました。署名も集まり始めているみたいで」
「知ってる」
友理香は、あっさりとうなずいた。
「本社にも話、上がってきてるよ。『存続を望む声がある』って」
「それで、この案を?」
「そう。だからこそ、きっちりした数字が必要になる」
彼女はタブレットをスワイプし、別の画面を表示した。
「取り壊し案と、リノベ案。どっちも作って、比較できるように出してほしいって。現場のデータを持ってるのは、相沢たちだから」
「……僕たち、ということは」
「うん。今回の案件、うまくまとめたら、相沢をこっち側に引っ張りたいって話が出てる」
友理香は、コーヒーの紙コップを手に取り、ひと口飲んだ。
「役職ひとつ上がる。給料も、まあそれなり。『地域活性の現場出身の企画担当』って肩書、上は好きだからね」
「そんな簡単に、決まる話じゃ――」
「もちろん、結果次第。川辺エリアの計画、ちゃんと通せたらって条件付き」
さらりと告げられた条件が、会議室の空気を少し変える。
昇進、年収アップ、本社勤務。
数字に置き換えれば、魅力的な項目が並ぶ。
一方で、川辺センターの廊下で見てきた顔が、次々と脳裏に浮かぶ。
新聞を読む男性。
親子ひろばの母親たち。
喫茶コーナーで「二回目の顔」を話してくれたマスター。
そして、署名用紙を握りしめていた詩織。
「……現場の反発は避けられません」
一輝は、スクリーンの隅に映る「既存施設」の写真を見つめた。
「取り壊し前提で動いているって知れたら、きっと」
「反発は当たり前」
友理香は、淡々とした口調で遮る。
「誰だって、馴染んだ場所が壊されるのは嫌でしょ。でもね、誰かが嫌われ役を引き受けないと、街も会社も動かないの」
「嫌われ役、ですか」
「そう。全部を守ることはできないから、何を残して、何を手放すかを決める人がいる。その人は必ずどこかで嫌われる」
彼女は、自分の胸元の社員証を指でつまんだ。
「企画部って、そういう役回りが多いの。現場に理解されないこともあるけど、数字が通れば『よくやった』って言われる。そういう世界」
「……現場の顔は」
「そこを見るのは、相沢たちみたいな、間に立つ人たち」
友理香の目が、少しだけ柔らかくなる。
「前に一緒の部署だったときから思ってたよ。相沢、妙に人の顔色を見るでしょ」
「そんなつもりは」
「いや、いい意味でね。会議で誰かが困ってると、さりげなくフォローの資料出したりさ」
友理香は、少し笑った。
「だからこそ、今回の案件には向いてると思う。現場の声も、会社の数字もわかる人って、そう多くないから」
褒められているのか、仕事を押しつけられているのか、判断がつかない。
ただ、自分が「板挟み」の真ん中に立たされている実感だけが、じわりと広がっていく。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「もし、友理香さんが現場担当だったら……このビル、どうします?」
少しの沈黙。
窓の外を、小さく飛行機の影が横切る。
「私なら」
友理香は、視線をスクリーンから外し、テーブルの上の資料に落とした。
「壊す前提で、なるべくマシな落としどころを探すかな」
「マシ、ですか」
「うん。全部の希望は叶えられないけど、せめて『ここは残せた』って言えるものを探す。その代わり、『これは諦めてください』ってきっぱり言う」
きっぱり。
彼女の言葉には、迷いがない。
「相沢は、多分それが苦手」
「……自覚あります」
「でも、苦手な人が全部切り捨てたら、多分もっとひどいことになる」
友理香は、最後の一口のコーヒーを飲み干し、紙コップをつぶした。
「だから、選びなよ。現場の顔を見ながら、どこまで数字を動かせるか。どこで腹をくくるか」
「簡単に言いますね」
「仕事だからね」
彼女は立ち上がり、会議室のドアに向かう。
「一応言っとくけど」
ドアノブに手を伸ばしたところで、振り返る。
「今回の案件、逃げても責めないよ。身体壊されても困るし。ただ、チャンスでもあるってことは、忘れないで」
そう言い残し、さっさと会議室を出ていった。
取り残された会議室で、一輝は椅子に深く腰を下ろした。
スクリーンには、まだ真新しい複合施設のイメージが映っている。
「……チャンス、か」
呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。
◇
夕方。
川辺センターに戻ると、いつもの空気がそこにあった。
一階ロビーのソファで、子どもがジュースのストローを噛み、隣では祖母らしき女性が笑っている。
受付のカウンターでは、千妃呂が来館者カードを整理していた。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました」
挨拶を交わしたあと、千妃呂がちらりと顔色をうかがう。
「本社、どうでした?」
「冷房がよく効いてました」
「それは何より……じゃない顔してますね」
千妃呂は苦笑しながら、カウンターの中から箱を取り出す。
「さっき、永羽課長来ましたよ。これ置いていきました」
差し出されたのは、見慣れた胃薬の箱だった。
表面には、ボールペンで一言。
『数字はだいじだ。胃もだいじだ。』
それだけ書いてある。
「課長らしいですね」
思わず吹き出すと、千妃呂も肩を揺らした。
「『本社の会議は胃に悪いからな』って言いながら、エレベーターに乗っていきました」
ロビーを抜けて二階へ上がる途中、廊下の掲示板の前で足が止まる。
そこには、新しい紙が貼られていた。
「川辺センターについて、あなたの“好き”を教えてください」
その下に、切り取られたメモのような短い文章がいくつも貼ってある。
「雨の日でも歩ける」「静かな机がある」「ここで友だちができた」。
どの言葉にも、詩織の細い字が添えられている。
「○○さん(仮名・七十代男性)より」「××さん(二児の母)より」。
署名用紙で見た言葉たちが、掲示板の上で静かに並んでいた。
胸ポケットの中で、預かったボールペンが軽く動く。
「……嫌われ役、ね」
廊下を歩き出しながら、昼間の会議室と、このセンターの空気を頭の中で行ったり来たりする。
どちらも現実で、どちらも自分の仕事に直結している。
事務室に入ると、永羽が書類の山の向こうから手を振った。
「おう、生きて帰ってきたか」
「ぎりぎりです」
「そりゃ結構」
永羽は、机の引き出しから自分用の胃薬を取り出しつつ、片手で資料を指さした。
「本社の案、どうだった」
「取り壊し前提の大型計画です。住宅棟と複合施設。数字が通れば、上は喜ぶタイプのやつですね」
「まあ、だろうな」
永羽は、胃薬のシートを一粒押し出し、水なしで飲み込む。
「数字が通れば上は褒める。現場の顔を見るのは、だいたい俺たちだ」
その言い方は、昼間の友理香の言葉と奇妙に重なっていた。
「誰かが嫌われ役を引き受けないと」と言った彼女。
「現場の顔を見るのは俺たち」と言う永羽。
二つの声が、頭の中でぶつかる。
「課長は、どっち側に立ってるつもりですか」
思わず、口から出た。
「どっち側って?」
「上と現場の、どっちの味方かって聞かれたら」
永羽は、しばらく黙って天井を見上げた。
そのあと、机の上の川辺センターの平面図を指で叩く。
「俺は、お前の味方でいたいけどな」
「……急にそういうこと言うのやめてください」
「でも、本音だぞ」
永羽は口角をゆるめた。
「相沢がどうしたいか決めないと、俺はどっちにフォロー入れればいいかも決められん」
「どうしたいか、ですか」
「ああ。壊すにしても守るにしても、『これはやる』『これはやらない』って自分の中で線引きしろ。それを、ちゃんと誰かに説明できるようにな」
線を引く。
どこに引くのか。
引いた線の向こう側に、誰が立たされるのか。
その夜。
自宅の机の上で、一輝は本社から送られてきた資料を広げた。
スクリーンで見たイメージ図。
収支計画の数字。
既存施設の修繕費の試算。
ページをめくるたびに、川辺センターの写真が現れる。
エントランス、ロビー、廊下、教室。
ノートの端に、ふとペンが走った。
――取り壊し案
・安全性〇
・収支〇
・現場の反発 大
――リノベ案
・安全性△(工夫次第)
・収支△
・現場の納得 ?
その下に、書いては消し、また書く。
――詩織さんは、どっちを選ぶだろう。
書いた文字を見て、すぐに線で消した。
彼女に選ばせる話ではない。
選ぶのは、自分だ。
それでも、川辺センターの廊下で署名用紙を握っていた詩織の姿が、どうしても頭から離れない。
「仕事としてお願いしている以上、信用していいのか不安だ」と言った自分の言葉。
病院から駆けつけてきた彼女の息の上がり方。
資料の山の上で、預かったボールペンが転がった。
インクは、まだ半分以上残っている。
「……どっちの未来を選ぶんだよ、俺は」
問いかけても、部屋の中には冷房の音しか返ってこなかった。
ガラス張りのロビーを抜け、カードをかざしてゲートを通り抜けると、冷房の冷たい風が一気に首筋に流れ込んでくる。
一輝は、ネクタイを指で直しながら、企画部のフロアへ向かうエレベーターに乗り込んだ。
扉が開くと同時に、聞き慣れた声が飛んでくる。
「相沢、一年ぶり?」
振り向くと、会議室の前でタブレットを小脇に抱えた女性が片手を上げていた。
紺のジャケットに、控えめなアクセサリー。足元のヒールは、忙しさに慣れきったような動きで床を鳴らしている。
「おはようございます、友理香さん」
「お、ちゃんと“さん”付けになってる。昔みたいに『先輩』でもいいのに」
「ここ、本社のど真ん中なので」
軽く頭を下げると、彼女――本社企画部の朝倉友理香は、口角を上げた。
「相変わらず真面目だね。じゃ、真面目な話をしに会議室入ろっか」
ガラス越しに見える会議室の中には、すでに資料が山のように積まれている。
壁一面のホワイトボードには、他案件のスケジュールがびっしりと書き込まれていた。
会議室に入ると、友理香はタブレットをテーブルの中央に置き、プロジェクターにつなぐ。
スクリーンに、川辺センター周辺の航空写真が映し出された。
「……川辺センターですね」
「そう。現地担当の名前を見て、『あ、相沢いるじゃん』って思った」
友理香は、画面の端を指先で拡大していく。
「この一帯、駅からの動線も悪くないし、河川敷の眺望もある。なのに、土地の使い方がもったいないって、上からずっと言われててね」
「もったいない、ですか」
「築三十年以上、耐震補強にいくらかけるつもりかって話。だったら一度壊して、まとめて再整備したほうがいい。――そういう考え方もあるってこと」
スクリーンに、別の資料が切り替わる。
「川辺エリア再構成案」と書かれたタイトルとともに、真新しい建物のイメージ図が並んだ。
ガラス張りの複合施設、高層住宅棟、緑地スペース。
「これが、本社側の草案?」
「うん。まだラフだけどね」
友理香は、さらりと言う。
「ここ、住宅棟を三棟立てて、低層部に店舗と公共的なスペースを組み込む。既存テナントのうち、採算が合いそうなところは選んで戻す。ざっくり言うと、そんなプラン」
「……取り壊し前提なんですね」
「そう。『リノベで何とかならないか』って声もあるけど、数字を積んでいくと、どうしてもね」
友理香は、資料の右上にあるグラフを指した。
「改修だけだと、投資回収に何年かかるかって話。上はそこを見るから」
一輝は、胸ポケットの中のボールペンに、無意識に触れた。
詩織が預けていったペン。
川辺センターの廊下で、住民たちの「好き」を書き留めていたペン。
「現場では、反対も多いです」
言葉を選びながら口を開く。
「説明会でも、『ここが生きがいだ』って言っていた人がいました。署名も集まり始めているみたいで」
「知ってる」
友理香は、あっさりとうなずいた。
「本社にも話、上がってきてるよ。『存続を望む声がある』って」
「それで、この案を?」
「そう。だからこそ、きっちりした数字が必要になる」
彼女はタブレットをスワイプし、別の画面を表示した。
「取り壊し案と、リノベ案。どっちも作って、比較できるように出してほしいって。現場のデータを持ってるのは、相沢たちだから」
「……僕たち、ということは」
「うん。今回の案件、うまくまとめたら、相沢をこっち側に引っ張りたいって話が出てる」
友理香は、コーヒーの紙コップを手に取り、ひと口飲んだ。
「役職ひとつ上がる。給料も、まあそれなり。『地域活性の現場出身の企画担当』って肩書、上は好きだからね」
「そんな簡単に、決まる話じゃ――」
「もちろん、結果次第。川辺エリアの計画、ちゃんと通せたらって条件付き」
さらりと告げられた条件が、会議室の空気を少し変える。
昇進、年収アップ、本社勤務。
数字に置き換えれば、魅力的な項目が並ぶ。
一方で、川辺センターの廊下で見てきた顔が、次々と脳裏に浮かぶ。
新聞を読む男性。
親子ひろばの母親たち。
喫茶コーナーで「二回目の顔」を話してくれたマスター。
そして、署名用紙を握りしめていた詩織。
「……現場の反発は避けられません」
一輝は、スクリーンの隅に映る「既存施設」の写真を見つめた。
「取り壊し前提で動いているって知れたら、きっと」
「反発は当たり前」
友理香は、淡々とした口調で遮る。
「誰だって、馴染んだ場所が壊されるのは嫌でしょ。でもね、誰かが嫌われ役を引き受けないと、街も会社も動かないの」
「嫌われ役、ですか」
「そう。全部を守ることはできないから、何を残して、何を手放すかを決める人がいる。その人は必ずどこかで嫌われる」
彼女は、自分の胸元の社員証を指でつまんだ。
「企画部って、そういう役回りが多いの。現場に理解されないこともあるけど、数字が通れば『よくやった』って言われる。そういう世界」
「……現場の顔は」
「そこを見るのは、相沢たちみたいな、間に立つ人たち」
友理香の目が、少しだけ柔らかくなる。
「前に一緒の部署だったときから思ってたよ。相沢、妙に人の顔色を見るでしょ」
「そんなつもりは」
「いや、いい意味でね。会議で誰かが困ってると、さりげなくフォローの資料出したりさ」
友理香は、少し笑った。
「だからこそ、今回の案件には向いてると思う。現場の声も、会社の数字もわかる人って、そう多くないから」
褒められているのか、仕事を押しつけられているのか、判断がつかない。
ただ、自分が「板挟み」の真ん中に立たされている実感だけが、じわりと広がっていく。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「もし、友理香さんが現場担当だったら……このビル、どうします?」
少しの沈黙。
窓の外を、小さく飛行機の影が横切る。
「私なら」
友理香は、視線をスクリーンから外し、テーブルの上の資料に落とした。
「壊す前提で、なるべくマシな落としどころを探すかな」
「マシ、ですか」
「うん。全部の希望は叶えられないけど、せめて『ここは残せた』って言えるものを探す。その代わり、『これは諦めてください』ってきっぱり言う」
きっぱり。
彼女の言葉には、迷いがない。
「相沢は、多分それが苦手」
「……自覚あります」
「でも、苦手な人が全部切り捨てたら、多分もっとひどいことになる」
友理香は、最後の一口のコーヒーを飲み干し、紙コップをつぶした。
「だから、選びなよ。現場の顔を見ながら、どこまで数字を動かせるか。どこで腹をくくるか」
「簡単に言いますね」
「仕事だからね」
彼女は立ち上がり、会議室のドアに向かう。
「一応言っとくけど」
ドアノブに手を伸ばしたところで、振り返る。
「今回の案件、逃げても責めないよ。身体壊されても困るし。ただ、チャンスでもあるってことは、忘れないで」
そう言い残し、さっさと会議室を出ていった。
取り残された会議室で、一輝は椅子に深く腰を下ろした。
スクリーンには、まだ真新しい複合施設のイメージが映っている。
「……チャンス、か」
呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。
◇
夕方。
川辺センターに戻ると、いつもの空気がそこにあった。
一階ロビーのソファで、子どもがジュースのストローを噛み、隣では祖母らしき女性が笑っている。
受付のカウンターでは、千妃呂が来館者カードを整理していた。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました」
挨拶を交わしたあと、千妃呂がちらりと顔色をうかがう。
「本社、どうでした?」
「冷房がよく効いてました」
「それは何より……じゃない顔してますね」
千妃呂は苦笑しながら、カウンターの中から箱を取り出す。
「さっき、永羽課長来ましたよ。これ置いていきました」
差し出されたのは、見慣れた胃薬の箱だった。
表面には、ボールペンで一言。
『数字はだいじだ。胃もだいじだ。』
それだけ書いてある。
「課長らしいですね」
思わず吹き出すと、千妃呂も肩を揺らした。
「『本社の会議は胃に悪いからな』って言いながら、エレベーターに乗っていきました」
ロビーを抜けて二階へ上がる途中、廊下の掲示板の前で足が止まる。
そこには、新しい紙が貼られていた。
「川辺センターについて、あなたの“好き”を教えてください」
その下に、切り取られたメモのような短い文章がいくつも貼ってある。
「雨の日でも歩ける」「静かな机がある」「ここで友だちができた」。
どの言葉にも、詩織の細い字が添えられている。
「○○さん(仮名・七十代男性)より」「××さん(二児の母)より」。
署名用紙で見た言葉たちが、掲示板の上で静かに並んでいた。
胸ポケットの中で、預かったボールペンが軽く動く。
「……嫌われ役、ね」
廊下を歩き出しながら、昼間の会議室と、このセンターの空気を頭の中で行ったり来たりする。
どちらも現実で、どちらも自分の仕事に直結している。
事務室に入ると、永羽が書類の山の向こうから手を振った。
「おう、生きて帰ってきたか」
「ぎりぎりです」
「そりゃ結構」
永羽は、机の引き出しから自分用の胃薬を取り出しつつ、片手で資料を指さした。
「本社の案、どうだった」
「取り壊し前提の大型計画です。住宅棟と複合施設。数字が通れば、上は喜ぶタイプのやつですね」
「まあ、だろうな」
永羽は、胃薬のシートを一粒押し出し、水なしで飲み込む。
「数字が通れば上は褒める。現場の顔を見るのは、だいたい俺たちだ」
その言い方は、昼間の友理香の言葉と奇妙に重なっていた。
「誰かが嫌われ役を引き受けないと」と言った彼女。
「現場の顔を見るのは俺たち」と言う永羽。
二つの声が、頭の中でぶつかる。
「課長は、どっち側に立ってるつもりですか」
思わず、口から出た。
「どっち側って?」
「上と現場の、どっちの味方かって聞かれたら」
永羽は、しばらく黙って天井を見上げた。
そのあと、机の上の川辺センターの平面図を指で叩く。
「俺は、お前の味方でいたいけどな」
「……急にそういうこと言うのやめてください」
「でも、本音だぞ」
永羽は口角をゆるめた。
「相沢がどうしたいか決めないと、俺はどっちにフォロー入れればいいかも決められん」
「どうしたいか、ですか」
「ああ。壊すにしても守るにしても、『これはやる』『これはやらない』って自分の中で線引きしろ。それを、ちゃんと誰かに説明できるようにな」
線を引く。
どこに引くのか。
引いた線の向こう側に、誰が立たされるのか。
その夜。
自宅の机の上で、一輝は本社から送られてきた資料を広げた。
スクリーンで見たイメージ図。
収支計画の数字。
既存施設の修繕費の試算。
ページをめくるたびに、川辺センターの写真が現れる。
エントランス、ロビー、廊下、教室。
ノートの端に、ふとペンが走った。
――取り壊し案
・安全性〇
・収支〇
・現場の反発 大
――リノベ案
・安全性△(工夫次第)
・収支△
・現場の納得 ?
その下に、書いては消し、また書く。
――詩織さんは、どっちを選ぶだろう。
書いた文字を見て、すぐに線で消した。
彼女に選ばせる話ではない。
選ぶのは、自分だ。
それでも、川辺センターの廊下で署名用紙を握っていた詩織の姿が、どうしても頭から離れない。
「仕事としてお願いしている以上、信用していいのか不安だ」と言った自分の言葉。
病院から駆けつけてきた彼女の息の上がり方。
資料の山の上で、預かったボールペンが転がった。
インクは、まだ半分以上残っている。
「……どっちの未来を選ぶんだよ、俺は」
問いかけても、部屋の中には冷房の音しか返ってこなかった。