君と見た花火は、苦情だらけ

第6話 「私がアツく語りたい」夜の講座

 水曜日の夜、川辺センターの廊下は、昼間とは別の顔をしていた。
 天井の蛍光灯はところどころ間引かれていて、足元だけを静かに照らしている。
 自動販売機の前だけがやけに明るく、缶コーヒーの写真が浮かび上がっていた。
 一輝は、その前で立ち止まり、財布から小銭を探る。
 「……砂糖ありにするか、なしにするか」
 独り言が漏れたところで、胸ポケットのスマホが震えた。
 『明日、午前十時から川辺センター案件の上層部打ち合わせ入りました。詳細はあとで。朝倉』
 短いメッセージ。
 送り主の名前を見た瞬間、昼間の会議室の空気がよみがえる。
 取り壊し前提の大型計画。
 昇進と年収アップの話。
 缶コーヒーを買うのをやめて、スマホをポケットに戻す。
 代わりに、胸ポケットのボールペンに触れた。
 詩織が「預けます」と言って渡してきたペン。
 「明日、か」
 小さく息を吐き、二階へ続く階段に足を向ける。
 今日は、夜のテナント打ち合わせの資料を事務室に置いて帰るつもりで、センターに寄った。
 廊下の奥から、思いがけない音が流れてくるまでは。
 笑い声と拍手。
 昼間の親子ひろばとも、体操教室とも違う、少し落ち着いた大人の声。
 音のする方へ歩いていくと、「私がアツく語りたい」と書かれた紙が貼られた教室の前にたどり着いた。
 ガラスの小窓から中をのぞくと、丸く並んだ椅子と、その真ん中に立つ詩織の姿が見える。
 「では次の方、お願いします」
 彼女の声に合わせて、一人の男性が立ち上がった。
 胸に名札、手にはメモ。
 歳の頃は三十代半ばだろうか。
 「えーっと、僕がアツく語りたいのは、駅前の立ち食いそばです」
 予想外のテーマに、教室の中から笑いが起きる。
 「いいですね」
 詩織はすかさずうなずいた。
 「どのあたりが、特に好きですか?」
 「まず、出汁の香りですね。それから、朝七時から開いてるところ」
 男性は、少し照れくさそうに話し始める。
 ガラス越しにその様子を眺めていた一輝の耳元で、いきなり声がした。
 「課長、のぞき見ですか」
 心臓が跳ねる。
 振り向くと、廊下の隅のベンチに圭良が座っていた。
 紙コップを片手に、こっそりと教室を見ている。
 「……いたんですか」
 「さっきからいました。相沢さんこそ、なんでドアの外で立ち尽くしてるんです?」
 「いや、その、何をやっているのか気になって」
 「見学なら、中にどうぞ。僕、今日の参加者なんで」
 「参加者?」
 「はい。『仕事の中でアツく語りたいことを掘り出す』ってテーマで、詩織さんから直々に誘われまして」
 圭良は名札を胸ポケットから出して見せた。
 そこには、「圭良」とひらがなで書かれている。
 「課長も入ります?」
 「いや、俺は資料を置きに来ただけで」
 「タイミングいいですよ。ちょうど次の人、来てないみたいですし」
 教室の中では、立ち食いそばの話が一段落していた。
 詩織が「次の方」と声をかけるが、誰も立ち上がらない。
 受講生がざわざわと顔を見合わせる。
 「さっきコンビニ行くって出ていった人、戻ってこないね」
 「お腹がアツくなりすぎたのかな」
 軽口が飛ぶ。
 詩織が苦笑しながら、入口の方を向いた。
 「では……」
 その視線の先に、一輝と圭良が立っている。
 「おふたり、よかったら中にどうぞ」
 完全に見つかった。
 圭良が、ここぞとばかりに背中を押してくる。
 「ほら、呼ばれてます」
 「いや、今入るのは――」
 「『現場の声を聞く』って自分で言ってましたよね。今日は、『自分の声を出す』番ですよ」
 妙にもっともらしいことを言いながら、圭良はドアを押し開けた。
 教室の空気が、一斉に新しい視線で満たされる。
 昼間の会議室とは違う、期待混じりの目。
 「失礼します。スターツホームズの相沢です」
 思わずいつもの名乗り方が出ると、詩織が笑った。
 「今日は、会社の肩書きは入り口に置いていってくださいね」
 教室の後ろの椅子に座ろうとした瞬間、受講生のひとりが手を挙げた。
 「すみません、そのスーツの方……」
 「はい」
 「さっきの説明会で前に立ってた人ですよね?」
 顔を覚えられていたことに、少し驚く。
 「はい。先日の説明会で、お話させていただきました」
 「やっぱり。じゃあ、ぜひ語ってほしいな」
 「え?」
 「『この仕事のどこが好きか』ってやつ」
 詩織が、さりげなくバトンを渡したのだと気づくのに、一拍かかった。
 彼女は教室の中央から一歩下がり、軽く会釈をする。
 「ちょうどいい機会なので、相沢さんにも語っていただけたらと思います。テーマは……『この街でやっている仕事のやりがい』でいかがですか」
 逃げ道は、完全に塞がれていた。
 椅子に座り直して、深く息を吸う。
 いつもの資料も、スライドもない。
 あるのは、丸く囲むように自分を見ている視線だけ。
 「ええと……」
 口を開いたものの、最初に出てきたのは、いつもの定型句だった。
 「地域の安全性を高めることや、施設の機能を――」
 その瞬間、前の列の女性が首をかしげる。
 「なんだか、テレビの解説みたい」
 後ろから、圭良が小声でささやく。
 「課長、『ぐたい』が滲み出てます」
 詩織が、助け舟を出すように口を挟んだ。
 「相沢さん、『やりがい』って言葉を、誰かに説明するとしたら、どんな場面を思い浮かべますか?」
 場面。
 数字ではなく、光景。
 頭の中に浮かんできたのは、川辺センターの朝のロビーだった。
 「……たとえば、ですけど」
 言葉を選びながら、ゆっくり話し始める。
 「このセンターのロビーには、毎朝同じ時間に、新聞を読む男性が来ます」
 受講生の何人かが、「ああ」とうなずいた。
 見覚えのある人なのだろう。
 「その方が、ある日、帰り際に僕のところへ寄ってきて、『ここがなくなったら寂しいな』って言ったんです。その一言が、妙に頭から離れなくて」
 あのときの男性の顔。
 新聞をたたみながら、少しだけ笑っていた口元。
 「僕たちの仕事は、どうしても数字で評価されます。何年で投資を回収できるか、どれくらいの人が利用しているか。でも、その数字の向こうに、『寂しい』とか『うれしい』とか、そういう気持ちが確かにあるんだって、そのとき改めて感じました」
 教室の空気が、少しだけ静かになる。
 「やりがいって、たぶんその『気持ち』に自分が気づけた瞬間なんだと思います。たとえ、最終的に建物を壊すことになっても、そこにあった時間まで全部なかったことにはしたくない。最近、ようやくそう思うようになりました」
 言い終えたとき、圭良が後ろで小さく拍手をした。
 それにつられて、他の受講生もぱらぱらと手を叩く。
 「いいですねえ」
 最前列の男性が、にやりと笑う。
 「さっきより、ずっと人間らしい」
 「さっき?」
 「『安全性』とか『機能』とか言ってたときは、壁に話してるみたいでした」
 正直すぎる感想に、教室がどっと笑いに包まれる。
 一輝も苦笑せざるをえなかった。
 詩織が、ホワイトボードに「寂しい/うれしい」と書き込む。
 「今の話、とても参考になります。相沢さんがアツく語りたいのは、『数字の先にいる人の気持ち』なんですね」
 「……自覚はなかったですけど」
 「自覚、今しました」
 詩織は、目じりを少し下げて笑った。
 「では、ここからは質疑応答の時間にしましょう。相沢さんに聞いてみたいことがある方」
 すぐに、三つの手が上がった。
 「はい、そこの方」
 「えっと……センターが新しくなったら、さっきの新聞のおじさんはどこに行くと思いますか?」
 予想外の角度からの問いに、一輝は言葉を探す。
 「そうですね……できることなら、新しい施設のどこかに、同じような椅子を用意したいです。新聞を広げられる場所を。もし場所が変わっても、『ここなら座ってもいい』って思ってもらえるように」
 別の受講生が手を挙げる。
 「じゃあ質問。もし会社から、『反対されても取り壊してこい』って言われたら、どうします?」
 一瞬、教室の空気が張り詰めた。
 質問した本人も、自分の言葉の強さに気づいたのか、「すみません」と付け足す。
 「でも、気になって」
 それは、実際に明日の打ち合わせで問われるかもしれない言葉だった。
 「……正直に言うと、まだはっきり答えが出せていません」
 一輝は、素直にそう口にした。
 「ただ、何も言わずに頷くのは違うと思っています。取り壊すにしても、『ここにこういう時間があった』ってことだけは、必ず伝えたい。どこまで通用するかはわからないですけど」
 詩織が、その言葉を聞きながらペンを走らせる。
 ホワイトボードに、「何も言わずに頷くのは違う」と書き込み、その下に小さく丸印をつけた。
 「はい、では最後の質問、そこの……圭良さん」
 「待ってました」
 圭良が勢いよく手を挙げる。
 「相沢さんは、この街のどこが好きですか」
 教室中が「おお」とどよめく。
 詩織まで、「それは私も聞きたいです」と顔を上げた。
 どこ、と問われて、頭に浮かんだのは、昼間ならなんてことのない通路だった。
 「川辺センターの、二階の廊下です」
 自分でも意外な答えだった。
 「朝は、親子ひろばのお母さんたちがベビーカーを押して通ります。昼は、講座に来る人たちが資料持って歩いている。夕方になると、仕事帰りに寄った人がゆっくり歩く。その廊下を見ていると、一日の流れが全部詰まっている気がして」
 詩織が、少し目を丸くした。
 彼女にとっても、あの廊下は「教室への通り道」以上の意味を持っているのだろう。
 「だから、好きです。あの廊下が」
 言い終えた瞬間、教室のあちこちから拍手が起きた。
 圭良が、満足そうに腕を組む。
 「はい、ありがとうございます。以上、今日の『私がアツく語りたい』ゲストトークでした」
 「勝手にゲスト扱いしないでください」
 「だって、十分ゲストでしたよ」
 笑い声とともに、講座の時間はあっという間に過ぎていった。
 片づけの時間になると、受講生たちは椅子を戻しながら、「また話聞かせてくださいね」と口々に言って教室を出ていった。
 教室に残ったのは、詩織と一輝と、なぜか最後まで居残っている圭良。
 「圭良さん、机運びは任せていいですか」
 「はい、喜んで。さっきの質問料だと思ってください」
 圭良は、机を抱えて廊下へ出ていった。
 教室の中に、静けさが戻る。
 ホワイトボードには、さっきの言葉たちがまだ残っていた。
 「さっきの話、録音しておけばよかったな」
 詩織が、マーカーのキャップを閉じながら言った。
 「え、録音してなかったんですか」
 「はい。今日だけは、聞いた人の中だけに残ればいいかなと思って」
 そう言いながら、ホワイトボードの「寂しい/うれしい」の横に、小さく一行書き足す。
 ――二階の廊下が好き。
 「……勝手に書かれましたね」
 「本人の前で書いたので、セーフです」
 詩織は、ペン先を指で軽くつつく。
 「一輝さんにも、アツく語りたいものがあるんですね」
 「いや、さっきのは、たまたまです」
 「たまたまにしては、具体的でしたよ。何時頃、どんな人が歩いているかまで」
 指摘されて、さっきの自分の話を頭の中で巻き戻す。
 確かに、細かい情景がするすると出てきた。
 数字の話をするときよりも、ずっと滑らかに。
 「……そういうのを、もっと前に聞いておけばよかったです」
 詩織がぽつりと言う。
 「この前、ヒアリングをすっぽかしてしまったとき、すごく責められて当然だと思いました。でも今日の話を聞いて、あのときちゃんと来られてたら、違う話ができたのかなって」
 一輝は、教室の窓の外に目を向けた。
 夜の河川敷の街灯が、ぽつぽつと光っている。
 「俺も、言い方を間違えたと思っています」
 「え?」
 「あの日、『信用していいのか不安だ』って言いましたよね」
 言葉にすると、胸の奥がじりっと熱くなる。
 「本当に言いたかったのは、『事情をちゃんと聞かせてほしい』でした。病院のことも、家族のことも。言う余裕を奪ったのは、僕の方です」
 詩織は、少し驚いたように目を見開き、それから息を吐いた。
 「……ずるいですね」
 「ずるい?」
 「夜の教室で、そういうこと言うの」
 言葉の意味を測りかねていると、詩織はホワイトボードを見上げた。
 「今日、受講生の人たちにも言ったんです。『アツく語りたいことは、誰かに聞いてほしいからこそ生まれる』って」
 彼女は、自分の胸元に手を当てる。
 「私も、本当は怖かったんだと思います。家族のこと話したら、『仕事を頼む相手として不安だ』って言われそうで」
 「言いましたね」
 「言いました」
 「……取り消したいです」
 はっきりと言うと、詩織は少しだけ笑った。
 「じゃあ、取り消す代わりに、条件をひとつ出してもいいですか」
 「条件?」
 「次にヒアリングするときは、私も一緒に聞いていいですか。テナントさんや住民の方の話を」
 一輝は、思わず眉を上げた。
 「それは、仕事として?」
 「半分仕事で、半分、私の『アツく語りたい』のために」
 ホワイトボードの文字を指さす。
 「私が集めた『好き』の言葉を、一輝さんが会社に届ける。逆に、一輝さんが持っている数字の話を、私がここで噛み砕いて伝える。そんな役割分担ができたらいいなって」
 昼間、友理香に言われた「嫌われ役」の言葉が頭をよぎる。
 全部を抱え込もうとするから、どこかでひずみが出る。
 役割を分ける。
 それは、逃げではなく、むしろ向き合い方のひとつなのかもしれない。
 「……良いと思います」
 一拍おいてから、そう答えた。
 「ただし、次からは遅刻しないこと」
 「善処します」
 「検討します、じゃなくて」
 「はい。善処します」
 ふたりの間に、ほんの少しだけ柔らかい空気が流れる。
 教室を出るとき、窓の外の河川敷に目をやると、先週の花火大会の名残なのか、芝生の一部が黒くなっているのが見えた。
 あの夜、隣に立っていた横顔。
 今日、教室の真ん中で笑っていた横顔。
 同じ人なのに、見え方が少し変わっている。
 廊下の端まで歩いたところで、胸ポケットのスマホが再び震えた。
 画面には、新しいメッセージ。
 『明日の打ち合わせ、社長も出席予定になりました。川辺センターの方針、一次案で固めておいてください。朝倉』
 短い文面。
 だが、その背後にあるものの大きさは、容易に想像できた。
 「……現実に引き戻すのが早い」
 苦笑しながらも、スマホをポケットに戻す。
 教室の方を振り返ると、扉の向こうで詩織がホワイトボードを消しているのが見えた。
 「二階の廊下が好き」という文字が、ゆっくりと消えていく。
 ただ、その言葉が消えたあとにも、胸の中にははっきりとした形で残っていた。
 君と見た花火。
 二階の廊下。
 温もりを求める瞳。
 明日の会議室に、それらをどこまで持ち込めるのか。
 一輝は、胸ポケットのボールペンを握りしめながら、階段を降りていった。
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