君と見た花火は、苦情だらけ

第7話 会議室に持ち込んだ「好き」のメモ

 翌朝の本社ビルは、いつもより空気が張りつめていた。
 ガラス張りのエントランスに差し込む朝日が、床のタイルをまぶしく光らせる。
 スーツ姿の社員たちが、紙コップ片手にエレベーターへ吸い込まれていく中、一輝は手に抱えた資料の重さを確かめるように、腕に力を込めた。
 右手に、川辺センターの収支とリスクをまとめた分厚いファイル。
 左手に、薄いクリアファイルが一冊。
 その中には、掲示板から写し取った「好き」の言葉が十数枚、整然と並んでいる。
 ――雨の日でも歩ける。
 ――静かな机がある。
 ――すみませんより、ただいまが先に出る場所。
 コピー用紙の白さが、やけに頼りなく見えた。
 「おはよう」
 エレベーターの前で、友理香が軽く手を上げる。
 今日だけ、いつもの冗談めかした笑顔は少し控えめだった。
 「準備は?」
 「数字の方は、なんとか。あとは……」
 一輝は、左手のクリアファイルを見下ろす。
 「昨日、住民の方から集めた声も、少しだけ」
 「見せて」
 友理香が、ファイルを受け取って中身をぱらぱらとめくる。
 「祖父のラジオを聞いた場所」「二回目の顔が見られる喫茶」「ここで友だちができた」。
 紙に印字された短い文章を、一つひとつ目で追いながら、友理香は小さく息を吐いた。
 「……こういうの、本社の会議室は苦手だよ」
 「ですよね」
 「でも、嫌いってわけじゃない」
 彼女は、クリアファイルを丁寧に閉じて返した。
 「出すタイミングを間違えなきゃ、武器になるかもしれない」
 「タイミング」
 「うん。最初からこれを振りかざすと、『感情論だ』って一蹴される。数字で土台を作ってから、最後にちょっとだけ隙間に差し込むくらいがちょうどいい」
 エレベーターの扉が開く。
 二人が乗り込むと、鏡張りの壁に自分たちの姿が映った。
 スーツにネクタイ、髪をきっちりまとめた顔。
 胸ポケットの中で、ボールペンが小さく当たる。
 詩織から預かったペン。
 会議室にまで連れてきてしまったことに、少し笑いそうになる。
 「相沢」
 友理香が、扉が閉まる直前に小声で言った。
 「今日は、誰に嫌われてもいいか、自分の中で決めてから話しな」
 エレベーターが静かに上昇していく。
 ◇
 十階の役員フロア。
 ガラスの向こうには、街を見下ろす会議室が広がっていた。
 長いテーブルの中央には、マイクと名札。
 席の一番奥には、会社の社長が静かに座っている。
 その隣に、財務担当役員と、都市開発担当役員。
 永羽と友理香は、テーブルの中ほどに席を取り、一輝は、スクリーンの近くの椅子に腰を下ろした。
 心臓の鼓動が、資料の紙を震わせる。
 「では、川辺エリア再構成の検討状況について、スターツホームズ地域活性チームより説明をお願いします」
 司会役の部長が、淡々とした声で告げた。
 「相沢です」
 一輝は立ち上がり、リモコンでスクリーンを点灯させた。
 最初に映し出されたのは、川辺センターの現状写真。
 昼のロビー、二階の廊下、親子ひろばの和室。
 静まり返った会議室の中で、写真だけが柔らかい色を帯びている。
 「まず現状です。築三十二年、耐震診断の結果、現行基準に対しては不足が出ています。補強工事を行う場合の見積もりは――」
 声が、自然と数字のリズムに乗る。
 耐震補強にかかる費用、老朽化した設備の更新コスト、利用者数の推移、修繕を続けた場合の累積負担。
 財務担当役員が、資料に目を落としながらうなずく。
 「改修だけで十年スパンか。回収には二十年以上かかるな」
 「はい。そこで、本社企画部と連携し、取り壊しを前提とした再構成案も検討しました」
 スクリーンが切り替わる。
 ガラス張りの複合施設、高層住宅棟、広々とした緑地。
 いかにもプレゼン用に整えられたイメージ図が並ぶ。
 「こちらが取り壊し案です。住宅棟三棟、低層部に店舗と交流施設を配置します。想定される分譲収入と賃料収入を合わせると――」
 収入のグラフが、滑らかな曲線を描く。
 財務担当役員の目が、わずかに輝いた。
 「悪くない。駅からのアクセスも考えると、集客は見込めるな」
 都市開発担当役員も、腕を組みながら資料に目を走らせる。
 「行政との調整次第だが、河川敷の景観とセットで売り出せるな」
 会議室の空気が、数字の匂いで満ちていく。
 「一方で、現場からはセンター存続を望む声も多く上がっています」
 一輝は、次のスライドに進む。
 そこには、リノベーション案が表示されていた。
 既存の骨組みを残しながら、一部を増築し、耐震補強とバリアフリー化を行う図。
 「既存建物の骨組みを活かしつつ、改修と部分的な増築を組み合わせる案です。投資額は取り壊し案より抑えられますが、収支は――」
 グラフの線は、先ほどより控えめな角度で伸びる。
 「安全性の担保が課題だな」
 都市開発担当役員が、眉間にしわを寄せた。
 「既存部分の耐震をどこまで上げられる?」
 「補強工事と、老朽部分の集中的な更新で、現行基準には適合できます。ただし、取り壊し案のように『新築に近い性能』とまではいきません」
 「中途半端に古いまま残すなら、いっそ全部壊した方がいいという考え方もあるが」
 財務担当役員の視線が、一輝の胸元をかすめる。
 社長は、資料から目を上げて、一輝をじっと見た。
 「現地の反応はどうだ?」
 「説明会では、反対意見が多く出ました。ただ……」
 一輝は、左手のクリアファイルに触れた。
 友理香が言っていた「タイミング」が頭をよぎる。
 ここで出すべきか。
 まだ早いか。
 躊躇する指先を、胸ポケットのペン先が軽く突いたような気がした。
 「ただ?」
 社長の声が、促すように続く。
 「ただ、『壊すな』という声だけではありませんでした」
 一輝は、静かにファイルを開いた。
 「『雨の日でも歩けるから』『ここで友だちができたから』『静かな机があるから』――そういう理由で、ここに通っている人たちがいます」
 コピー用紙を、一枚ずつテーブルの中央に置いていく。
 短い文章と、その横に書かれた「七十代男性」「二児の母」「高校生」などのメモ。
 「これは、先週末から川辺センターの前で集めている声の一部です」
 財務担当役員が、露骨に顔をしかめる。
 「こういう、感情の話を会議室に持ち込まれてもな」
 予想していた反応だった。
 その隣で、都市開発担当役員が一枚の紙を手に取る。
 「『すみませんより、ただいまが先に出る場所』?」
 「親子ひろばで、お母さんが話してくれた言葉です」
 一輝は、視線をまっすぐ前に向けた。
 「新しくなれば、安全になって便利になる。それでも、『土足で駆け込んでも怒られない場所』であってほしいと言っていました」
 社長が、机の上の紙を一つ手に取り、目を通す。
 「『そこそこ古くてちょうどいい』……ふむ」
 永羽が、横から口を開いた。
 「現場の担当として、申し上げます。取り壊し案の数字が魅力的なのは事実です。ただ、ここで過ごしている人たちの『ちょうどいい』を全部捨ててしまうと、この会社は何を大事にしているのか、現場の職員にも伝わらなくなります」
 財務担当役員が、「また感情論だ」と肩をすくめる。
 友理香は、さりげなく別のスライドを示す合図を送ってきた。
 一輝はうなずき、次の資料を映し出した。
 「取り壊し案とリノベ案の中間として、段階的な再整備も検討できます」
 スクリーンには、川辺センターの図面が表示されている。
 耐震性の低い棟だけを先に解体し、その跡地に新しい交流棟を建てる。
 その間も、別棟の機能を活かしながら、住民の活動の場を途切れさせない案。
 「全部を一度に壊してしまうのではなく、危険性の高い部分から優先的に手を入れる。その間、交流機能は仮設のスペースや近隣施設と連携して維持します」
 「工期が伸びる分、コストも増えるな」
 財務担当役員の指摘は、予想通りだった。
 「はい。ただ、全てを新築に置き換える案と比べて、初期投資は抑えられます。なにより――」
 言葉が、喉の奥で引っかかった。
 会議室の空気が、数秒だけ揺れる。
 「なにより?」
 社長が、静かに促す。
 「なにより、『ここが好きだ』と言った人たちが、自分の居場所の変化を見守りながら過ごせる時間を、少しでも長く確保できます」
 言ってしまった。
 数字の会議室で、「好き」という言葉を。
 沈黙。
 時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
 財務担当役員が口を開きかけるより先に、都市開発担当役員がゆっくりと手を組んだ。
 「……段階的な案の詳細を、もう少し詰めてみる価値はあるかもしれないな」
 予想外の言葉だった。
 「ここ数年、住民との関係悪化で計画が止まった例も多い。全面取り壊しを選ぶにしても、そのプロセスをどう説明するかは重要だ」
 社長が、視線を一輝に戻す。
 「相沢君」
 「はい」
 「君は、どこに線を引きたい?」
 昼間、友理香に言われた言葉が頭をよぎる。
 「どこで腹をくくるか決めろ」と言われたこと。
 一輝は、机の上のコピー用紙を一枚手に取った。
 そこには、「二階の廊下で、人の一日が流れていくのを見るのが好き」と、小さな字で書かれている。
 書いたのは、誰だったか。
 詩織の受講生の一人か、それとも――。
 「安全性については、一切妥協したくありません」
 一輝は、はっきりと言った。
 「危険なものを残して、『好きだから』では通りません。そこは、取り壊し案でもリノベ案でも共通です」
 「うむ」
 社長がうなずく。
 「その上で、全部を新しくしてしまうのではなく、『ちょうどいい』と感じている人たちの視点を、どこかに残したいです。たとえば、新しい交流棟の廊下を、今の二階の幅に近づけるとか、親子ひろばの入り口を、今と同じように『ただいま』と言いやすい位置にするとか」
 会議室の一部から、控えめな笑いが漏れた。
 「ただいまが言いやすい位置」という表現が、少し意外だったのだろう。
 「細かいようですが、そういうところで『ここは自分の居場所だ』と思えるかどうかが変わります。数字にはなりにくいですが、長い目で見れば、地域との関係性や施設の使われ方に影響すると思います」
 社長はしばらく何も言わず、資料とコピー用紙を交互に見比べていた。
 やがて、静かに口を開く。
 「わかった。今日は方針を決めず、取り壊し案・リノベ案・段階案の三つを前提に、もう一度整理し直してくれ」
 「はい」
 「ただし、どれを選んでも、現場との関係は大事にしたい。『嫌われ役』を誰かひとりに押しつけるやり方は、そろそろ変えないといけないな」
 その言葉に、友理香がわずかに目を見開いた。
 永羽は、口元だけで小さく笑う。
 「次回の打ち合わせまでに、行政との連携の可能性も探っておいてくれ。交流機能の一部を公共施設として位置づけることができれば、単純な収支だけではない説明ができる」
 「承知しました」
 一輝は、深く頭を下げた。
 会議は、それから十分ほどで一区切りついた。
 役員たちが会議室を出ていく中、友理香が椅子の背にもたれかかる。
 「……やるじゃん」
 「どのあたりがですか」
 「『ただいまが言いやすい位置』は、さすがに笑った」
 友理香は、額にかかった前髪を指で払った。
 「でも、社長に刺さってたよ。あの人、こう見えて昔、団地の集会所で遊んでたタイプだから」
 「そうなんですか」
 「今度、飲みの席で自分から話すよ、多分。今日は我慢してたけど」
 永羽が、資料をまとめながら近づいてくる。
 「お前、よくあの場で『好き』なんて単語出したな」
 「……言うなって言われても、たぶん言ってました」
 一輝は、自分でも意外なほど落ち着いた声で答えた。
 「いいんじゃないか。たまには本社の会議室にも、人間の匂いを入れないと」
 永羽は、自分の胸ポケットから胃薬のシートを取り出し、一粒押し出して片手でひょいと飲み込んだ。
 「まあ、その分、俺の胃はさらに忙しくなるが」
 「それは、自業自得じゃないですか」
 「ひどい部下だ」
 そんなやりとりに、ふっと笑いが混ざる。
 クリアファイルの中のコピー用紙は、さっきよりも少しだけ、重みを増したように感じられた。
 ◇
 その頃、川辺センター二階の教室では、詩織がホワイトボードの前に立っていた。
 平日の午前講座、「私がアツく語りたい」の特別編。
 壁には、「川辺センターで過ごした時間を語る会」と書かれた紙が貼られている。
 「今日は、いつもの『好きなもの』に加えて、このセンターで過ごした時間についても、少しお話を聞かせてください」
 椅子に座った受講生たちが、顔を見合わせる。
 新聞を読む男性、読み聞かせの職員、喫茶コーナーのマスター、親子ひろばのお母さんたち。
 「えー、そんな大した話ないよ」
 「いいんです。『ここで初めて○○した』とか、『ここで誰と出会った』とか。小さなことほど、きっと大事なので」
 詩織の足元には、ノートとICレコーダー。
 机の端には、弟から届いたメッセージが開かれたままのスマホ。
 『検査、思ったより早く終わった。姉ちゃんは今日、会議だっけ? 俺は大丈夫だから、そっち頑張れ』
 画面の文字を見て、詩織は胸の中で小さく息を吸った。
 「では、どなたか……」
 そう言いかけたとき、教室のドアが少しだけ開いた。
 千妃呂が顔をのぞかせる。
 「詩織さん。さっき、本社から電話ありましたよ」
 「本社?」
 教室がざわつく。
 「ええ。川辺センターの案件で、住民の声のまとめ方について相談したいって。相沢さんが、『こちらの講座とも連携したい』って言ってたらしいです」
 詩織の心臓が、一拍遅れて跳ねた。
 「あの日」の言葉が、頭をよぎる。
 「仕事として、信用していいのか不安だ」と言われたこと。
 その同じ人が、今度は「連携したい」と言っている。
 「……そうですか」
 詩織は、ホワイトボードのペンを握り直した。
 「わかりました。こっちでできること、考えてみます」
 千妃呂が去ったあと、受講生の一人がニヤニヤしながら口を開く。
 「先生、ちょっと顔が赤いですよ」
 「教室の照明のせいです」
 「さっきより明るくなりましたもんねえ」
 からかわれて、笑いが起きる。
 「はいはい。では、最初に話してくださる方、どなたにしましょうか」
 新聞の男性が、ゆっくりと手を挙げた。
 「じゃあ、わしから」
 「お願いします」
 「わしがここに初めて来た日はね、実は家から逃げてきた日でね」
 思いがけない言葉に、教室が静まり返る。
 その続きの話を聞きながら、詩織はペンを走らせた。
 言葉のひとつひとつが、これから会議室に向かうかもしれないと考えると、手の震えが少しだけ強くなる。
 それでも、ノートの上で文字は途切れなかった。
 ◇
 夕方近く、スターツホームズのオフィス。
 メールボックスに、新しいメッセージが届いた。
 『川辺センターの住民ヒアリング、講座と連携の方向で進めて問題ありません。詳細は追って相談させてください。――相沢詩織』
 短い署名のついたメールを見て、一輝は、机の上のペンに触れた。
 預かっているはずのペン。
 だが、今日の会議室で、自分の背中を押したのは、きっとこのペンだけではない。
 会議室に持ち込んだ「好き」の言葉。
 二階の廊下で見た、温もりを求める瞳。
 それらを、次はどう届けていくか。
 パソコンの画面の下の方に、詩織からのメールアドレスが表示されている。
 返信の件名に、「本日の会議報告」と入力しかけて、手が止まった。
 ――仕事としての報告だけで終わらせていいのか。
 数秒迷ったあと、件名を消して、別の文字を打ち込む。
 『二階の廊下の話、会議室でしました』
 送信ボタンを押す直前、心臓がひとつ跳ねる。
 それでも、指先は止まらなかった。
< 7 / 20 >

この作品をシェア

pagetop