君と見た花火は、苦情だらけ

第8話 二階の廊下と、まだ名前のつかない関係

 受信トレイに、一通の新しいメールが光っていた。
 件名は、妙に具体的で、妙に不器用だった。
 『二階の廊下の話、会議室でしました』
 木曜の夜、自宅の小さなテーブルの前で、詩織は椅子にあぐらをかいたまま、その文字列を見つめていた。
 弟はすでに布団に潜り込み、寝息を立てている。
 ワンルームの部屋に響く音は、冷蔵庫の低い唸りと、自分の心臓の鼓動だけだ。
 「……件名だけで本文が想像できるメール、初めて見たかもしれない」
 そうつぶやきながら、開封ボタンを押す。
 『本日の会議で、川辺センターの話をするときに、二階の廊下のことを例に出しました。
 「一日の流れが見える場所」として。
 「ただいま」が言いやすい入口の話もしました。
 結果として、取り壊し案とリノベ案の間に、段階的な案を検討することになりました。
 まだ何も決まってはいませんが、「ここが好きだ」と言った人たちの時間を、どうやって残すかを考える方向になっています。
 今後、住民の声の集め方について、講座と連携させていただきたいです。
 改めて相談させてください。
 スターツホームズ 相沢一輝』
 途中までは、完全に「仕事のメール」だった。
 最後に、ふっと笑いを誘う一文が付け足されている。
 『追伸:
 二階の廊下が好きだと言った話を、勝手に引用しました。著作権料は、今度コーヒーでお支払いします。』
 思わず、笑い声が漏れそうになり、慌てて口を押さえる。
 布団の方をちらりと見やると、弟はうつ伏せのまま、穏やかな寝顔で丸まっていた。
 「……ずるいなあ」
 数日前、「仕事として信用していいのか不安だ」と言った同じ人が、今度は自分の言葉を託して、会議室に持って行っている。
 返信ボタンを押し、キーボードに指を置く。
 『会議室で二階の廊下の話をしてくださって、ありがとうございます。
 著作権料は、コーヒーよりも、もう少し長く廊下を歩ける時間で支払っていただけると嬉しいです。』
 ここまで打って、指が止まった。
 ――長く歩ける時間。
 それは、仕事の話なのか、それとも。
 自分の頭の中で別の意味が膨らみそうになり、慌てて一文を削る。
 『会議室で二階の廊下の話をしてくださって、ありがとうございます。
 著作権料は、今度センターの喫茶でコーヒーをごちそうしていただくことで相殺します。
 住民の声の集め方については、こちらでも案を考えておきます。
 「私がアツく語りたい」特別編で出てきた話も、少しずつまとめ始めました。』
 追伸の欄に、ペン先を迷わせる。
 『追伸:
 あの日の言葉を取り消してくださって、ありがとうございます。』
 画面の上に浮かぶ一文。
 「信用していいのか不安だ」と言われた瞬間の、自分の胸の重さが蘇る。
 その重さを、今ここでまた言葉に乗せるのは、少し怖い。
 結局、その一文も消してしまった。
 『追伸:
 二階の廊下が、ますます混み合いそうですね。ぶつからないように歩きましょう。』
 これくらいなら、冗談に聞こえるだろうか。
 送信ボタンを押すと、メールはあっけなく画面の向こう側へ消えていった。
 机の端には、弟から借りた健康雑誌が開いたままになっている。
 「ストレスを溜めない暮らし方」という見出しの横で、笑っているモデルの顔が妙に遠く見えた。
 「ストレス溜めないって、簡単に言うなあ」
 明日の予定を頭の中で並べ直す。
 午前に講座、午後に弟の再検査の予約確認、夕方にセンターでの打ち合わせ。
 カレンダーの隙間に、「自分の時間」と呼べるものはどのくらい残っているのか。
 その中に、「誰かとゆっくり喋る時間」を差し込む余裕はあるのか。
 ノートの端に、「君と見た花火」という文字を書きかけて、途中でペンを止めた。
 「……まだ、『君』って呼ぶには、早いよね」
 そう呟き、自分に聞こえないくらいの音量で笑った。
 ◇
 翌日。
 川辺センターのロビーでは、千妃呂が受け付けカウンターに新しい用紙を並べていた。
 「川辺センターについてあなたが語りたいこと」というタイトルが、黒いマジックの太い線で書かれている。
 「今日から、新バージョンです」
 出勤してきた一輝に、千妃呂が用紙を掲げて見せる。
 「『好き』に加えて、『ここで誰とどんな話をしたか』も書いてもらう欄を作りました」
 「レベルアップしてますね」
 「詩織さんからの提案です。『場所そのものより、会話の記憶を残したい』って」
 言われて、昨日のメールの文面が頭に浮かぶ。
 二階の廊下、喫茶、親子ひろば。
 そこにいる人たちの声が、紙の上に残ろうとしている。
 「相沢さん、今日の午後、時間大丈夫ですか?」
 カウンター越しに千妃呂が聞く。
 「はい。三時から講座の時間を少しもらって、住民ヒアリングの説明をする予定です」
 「そのあと、喫茶でコーヒー飲むんですよね」
 「え?」
 「さっき、詩織さんが『著作権料を請求する予定です』って言いながら二階に上がっていきました」
 顔が、微妙に熱くなる。
 メールの追伸が、こんな速度でロビーまで降りてくるとは思わなかった。
 「……情報の流れが速すぎませんか、このビル」
 「ここ、そういうところですから」
 千妃呂は楽しそうに笑い、来館者カードを受け取りに向かった。
 二階に上がる階段を踏みしめながら、一輝は、胸ポケットのボールペンを指先で転がした。
 講座の教室のドアを開けると、すでに何人かの受講生が席についていた。
 ホワイトボードには、「川辺センターのことを、本社にどう届けるか」と書かれている。
 「おはようございます」
 詩織が、マーカーを持ったまま振り返る。
 昨日より少しだけ、表情が柔らかく見えた。
 「昨日のメール、ありがとうございます」
 「こちらこそ。二階の廊下、会議室デビューおめでとうございます」
 さらりと言われて、思わず咳払いする。
 「今日は、この講座の皆さんにも、センターのこれからについてご協力いただきたいと思っています」
 詩織は、受講生たちを見渡した。
 「『ここが好き』という話に加えて、『ここが変わっても残してほしいこと』や、『変わってもいいけれど忘れてほしくないこと』を教えてください」
 「変わってもいいけど、忘れてほしくないこと?」
 喫茶コーナーのマスターが首をかしげる。
 「たとえば、床の色が変わってもいいけど、この席から見える窓の位置は変えてほしくない、とか」
 「なるほど」
 新聞の男性が、腕を組んだ。
 「わしは、このロビーの時計の音が好きなんだよな。あれ、いつも五分くらい進んでるだろう」
 「そうですね。利用者さんが、『ここでちょっとだけ得した気分になれるから直さないで』って言ってました」
 詩織が笑う。
 「そういう話を、本社に持って行ってもらいます」
 彼女は、一輝の方をちらりと見た。
 「数字と一緒に」
 視線を受け取った一輝は、前に出て頭を下げる。
 「スターツホームズの相沢です。皆さんの話を、きちんと社内で伝える役目を引き続き担当します」
 受講生たちの表情は、前より少しだけ柔らかい。
 先日の説明会で厳しい質問を飛ばしていた人も、今日は飲みかけの紙コップを片手にこちらを見ている。
 「この前は、時間の使い方が下手でした」
 一輝は、詩織の方を横目で見ながら言った。
 「今日からは、皆さんの話を聞く時間を、ちゃんと最初から予定に組み込んでいます」
 「それ、大事ですね」
 詩織が、さりげなくフォローする。
 「では、この時間は『現場の声を掘り起こす会』にしましょう。相沢さんは、質問係です」
 「質問係……」
 「はい。昨日みたいに、『一番うれしい瞬間はいつですか』とか、そういう質問をお願いします」
 自然と笑いが起きる。
 講座の雰囲気は、いつもより少しにぎやかだ。
 ヒアリングが始まると、予想以上にたくさんの言葉が飛び出してきた。
 「エレベーターのドアがゆっくり閉まるところが好きです。階段をダッシュしても間に合うから」
 「このビルの匂いが落ち着くんです。古い本みたいな、ちょっと乾いた匂い」
 「二階のトイレの窓から見える桜が、毎年楽しみで」
 詩織はノートにペンを走らせ、一輝は質問を投げかける。
 圭良は、教室の後ろで参加者名簿を片手に、時々合いの手を挟んだ。
 「それ、メモに『トイレから見える桜』ってちゃんと書いておいてくださいね。会議室で読まれたら、絶対印象に残りますから」
 「本社の偉い人、トイレの話、嫌がらないかな」
 「大丈夫です。誰だって行きますから」
 笑いと真剣さが、ちょうど半分ずつ混ざった時間だった。
 ◇
 ヒアリングを終えたあと、教室の片づけがひと段落した頃。
 「コーヒー、行きますか」
 詩織が、ノートを抱えたまま声をかけてきた。
 「著作権料の回収、まだですよね」
 「そうでしたね」
 一輝は、胸ポケットに手をやる。
 詩織から預かったボールペンが、いつもの位置に収まっている。
 喫茶コーナーに向かう途中、二階の廊下を並んで歩く。
 昼下がりの光が窓から差し込み、床に四角い模様を描いていた。
 「ここ、やっぱりいいですね」
 詩織が足を止める。
 「時間帯によって、光の角度が変わるのが好きです」
 「朝は、親子ひろばの列がここにできて」
 「昼は、講座の人たちがプリント抱えて走って」
 「夕方は、仕事帰りが本を返しに来て」
 「夜は、『アツく語りたい』人がこっそり集まる」
 ふたりで言葉を重ねていると、後ろから圭良がやってきた。
 「お、二階廊下の観察会ですか」
 「圭良さん、いつからそこに」
 「さっきからずっとです。ほら、ここ、音も面白いですよ」
 圭良は、廊下の真ん中を歩いてみせる。
 靴底の音が、微妙に響き方を変える。
 「真ん中と端っこで響きが違うんです。このビル、床下の構造がちょっと変わってて」
 「そんなところまで観察してるんですか」
 「現場担当の趣味です。会議室で話すネタにはなりませんけどね」
 「今度、『このビルで好きな音』ってテーマでも話してみましょうか」
 詩織がそう言うと、圭良が「いいですね」と笑った。
 「じゃあ僕、『コピー機が紙を吐き出す音』で行きます」
 ささやかな会話の一つひとつが、この廊下に新しい層を重ねていく。
 その感覚を胸に抱えたまま、三人は喫茶コーナーに入った。
 ◇
 カウンターでコーヒーを注文し、窓際の席に座る。
 マスターが、「今日は特別に、二回目の顔割引ね」と言って、カップをそっとテーブルに置いた。
 「二回目の顔割引?」
 詩織が首をかしげる。
 「この前、相沢さんが言ってたやつですよ。『二回目に来てくれた人の顔が好き』って話。あれ聞いたら、やらないわけにいかないでしょう」
 マスターは、鼻歌まじりでカウンターに戻っていった。
 「……会議室より先に、喫茶に浸透してますね」
 一輝は、湯気の向こうで苦笑する。
 「言葉って、そうやって広がるんですよ」
 詩織はカップを両手で包みながら、真面目に言った。
 「だから、何をどこで話すか、ちゃんと選ばないと」
 その言い方は、自分にも向けられているように聞こえる。
 あの日、病院帰りで息を切らして教室に飛び込んできた彼女に、投げつけてしまった言葉。
 「……詩織さん」
 名前を呼んだ瞬間、自分でも驚いた。
 気づけば、姓ではなく下の名前が口から出ていた。
 詩織は、カップから目を離し、ぱちりと瞬きをする。
 「はい?」
 「あ、すみません。今、自然に呼んでしまって」
 「いえ。自然に呼ばれたので、自然に返事しました」
 そう言って、少しだけ笑う。
 「じゃあ、私も一輝さんって呼んでもいいですか」
 カップの縁で、手が止まる。
 喫茶コーナーの窓の外では、川沿いの木々が風に揺れていた。
 その揺れよりも、胸の中の方が大きく揺れている。
 「……呼びにくかったら、今まで通りで」
 「いえ。呼びにくいのは、『相沢さん』と『相沢さん』が二人いることの方です」
 「確かに」
 「ここだと、どっちも相沢さんですからね」
 ふたりで顔を見合わせて、同時に吹き出した。
 笑いが少し落ち着いた頃、詩織はカップをソーサーに戻し、真顔に戻った。
 「一つ、教えてほしいことがあります」
 「なんでしょう」
 「本社からの話。……転勤とか、役職とか」
 その単語が出た瞬間、胸の中にしまっていた現実が、ぽんとテーブルの上に置かれたような気がした。
 「友理香さんから、少し聞きました」
 詩織は、視線を逸らさずに続ける。
 「今回の川辺センターの件、うまくまとめたら、本社に戻る話が出ているって」
 さすが、情報の流れが速いビルだ。
 友理香の名前まで出てくるあたり、どこかで誰かがしっかり聞いている。
 「……まだ決まってはいません」
 一輝は正直に答えた。
 「そういう打診があったのは事実ですけど、俺自身がまだ腹をくくれていません」
 「腹をくくる、ですか」
 「はい。ここを離れて本社に戻るのか、それとも、地域の現場にもう少し留まるのか。どちらにも、それなりの意味がありますから」
 詩織は、テーブルの木目を指先でなぞった。
 「もし、一輝さんが本社に行ったら……川辺センターのこと、どうなりますか」
 「担当は、誰かが引き継ぎます」
 一輝は一度そこで言葉を切り、カップの中の残り少ないコーヒーを見つめた。
 「でも、自分の気持ちの方は、簡単には引き継げないと思っています」
 「気持ち?」
 「はい。ここで聞いた話とか、見た光景とか。二階の廊下のことも、親子ひろばの声も。そういうものを持って、本社で仕事をするのか。ここで仕事を続けるのか」
 言葉にしてみて初めて、自分が本当に迷っている場所がはっきりする。
 どこで働くか、だけではなく、どんな距離感でこの街と関わり続けるのか。
 「……本社に行っても、ここに来るのは禁止されていませんよね」
 詩織が、小さく冗談めかして言う。
 「土日にこっそり『二階の廊下見回り係』として来てもらっても」
 「それは、兼業になりますかね」
 「給料は出ませんけど」
 「じゃあ、ボランティアですか」
 軽口を交わしながらも、真ん中の話題はそこから動かない。
 「詩織さんは」
 一輝は、意を決して聞いた。
 「この街から離れること、考えたことありますか」
 「……あります」
 少しの間をおいて、はっきりとした声が返ってきた。
 「弟の検査が続いていた時期、母が、『実家の近くに戻ってこないか』って言ったことがあって。仕事も、こっちじゃなくてもできるんじゃないかって」
 その言葉には、現実の重さが乗っている。
 詩織は、自分の指先を見つめた。
 「でも、あのとき、このセンターの廊下を歩いていて思ったんです。ここで聞いた話を置いていくのは、今はまだ違うなって」
 「家族のことと、ここでの仕事と」
 「両方、大事なんですよね」
 詩織は、小さく肩をすくめた。
 「全部は守れないって言われるのはわかってます。それでも、せめて余白くらいは自分で決めたいなって」
 余白。
 スケジュール帳の白いマス目のことかもしれないし、人生の予定表の空欄のことかもしれない。
 「……お互い、忙しいですね」
 一輝がそう言うと、詩織は「ですね」と笑った。
 「でも、忙しい人どうしの方が、意外と気持ちの使い方はわかり合えるのかもしれません」
 その一言が、ゆっくりと胸に沈む。
 「わかり合える」という言葉に、まだ名前のついていない何かが含まれている。
 カップの底に残った最後の一口を飲み干しながら、一輝は心の中でひそかに決めた。
 ――本社に行くかどうかを決める前に、もう一度だけ、花火の話をしよう。
 君と見た花火の話を。
 二階の廊下を歩いたときの話を。
 このセンターで交わされた「好き」の話を。
 それをきちんと口にできたとき、自分がどこに立ちたいのか、ようやく見える気がした。
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