黄金のオルカ

第一〇話 熱水塊




 シャワーを浴びた後、海結は素肌の上からバスタオルだけを巻いてベッドへ行く。
 入れ替わりに、トムがシャワールームに入ると、海結は、はらりとバスタオルを脱ぎ、裸になってベッドに腰を下ろした。
 トムは、毎晩海結を求めてくる。初めて抱かれた日から変わらず、だ。海結が仮病を使った日だけ、トムは気をつかってハンモックで眠った。思い返せば、その夜だけだった気がする。
 どうせ裸に剥かれて抱かれるなら、シャワーの後にわざわざ下着を身に着ける必要はない。それに、海結が裸で待っていると、トムは嬉しそうな表情を見せる。
 シャワーの水音を聞きながら、海結は自分の両膝を抱える。
 こうして、トムを待っていると、つい、いろいろなことを考えてしまう。
 トムは、これまで数多くの女性と、一夜限りの関係を持ってきた。
 それは、据え膳食わぬは、という男の言い訳とは、次元が違う気がする。むしろそれは、トムの観察と研究の対象である、シャチのオスの行動をそのままなぞったもの。
 トムの魅力である野生と、同じコインの裏と表。
 そのトムが、今、海結ひとりを選ぼうとしている。しかし、それはトムの野生を削ぐことになりはしないか。
 初めて、そう思った。そもそも、自分はトムが選ぶに足る女なのか。
 私は、今も陸斗の妻だ。
 自分の内に、陸斗の存在を感じる。陸斗からの手紙を受け取り、トムにどんなに想いを寄せても、決して消すことができないもの、切っても切れない糸があることを思い知らされた。
 ここに留まるか、帰るか。それともひとりの道を生きてゆくのか。
 いつまでも答えを出さぬまま、流されているわけにはいかない。時が経てば経つほど、トムにも陸斗にも、そして自分自身にも残す傷を深くする。
 わかっている。わかっているのに、選ぶことから逃げ、ずるずると先延ばしにしたまま、今もこうして、トムに抱かれるのを待っている。
 海結は、膝にひたいを強く押しつけた。
 つくづく自分のずるさが嫌になるが、答えを出すために要る何かを、それを欠いていることもまた、わかっている。
 それは、トムがいったい何者なのか、ということ。
 トムと出会って一ヶ月と少し。
 アメリカ人で元海兵隊員、二年前からここに住み、シャチの観察研究のかたわら、ホエールウォッチング業を営むこと、超人的な身体能力を持ち、シャチのオスのような行動をする。
 そういった既知のことは、トムの性格からして、嘘ではない。
 しかし、それは表層の話に過ぎない。
 もっと根源的なことを、海結に隠し続けている気がしてならないのだ。
 トムは、普通の男ではない。
 ともに過ごした時間から導き出された確信だった。もちろん、そう断ずる証拠など、どこにもない。トムに問うたところで何も返ってはこないだろう。
 トムの真実を知らずに答えを出せば、どの道を選ぶにせよ、必ず後悔することになる。
 たとえ不都合なことでも、目を背けたくなることであっても、本当のことを知らなければ前には進めない。

 シャワーの音が止む。脱衣スペースのカーテンが開き、灯りが消された。
 部屋の中は、窓からの、月と星の仄かな明るさだけになる。
 海結が顔を上げると、裸のトムが目の前に立っている。顎に手が伸びてきて、唇を塞がれた。
 トムはもう、オスがメスにアピールする、儀式めいた行動はやらなくなった。
 すぐに覆いかぶさってきて、海結の顔を穏やかな表情で見下ろす。
 再び、唇が下りてきた。

 満たされる、とは、こういうことをいうのだろうか。
 海結は、達した後の心地よい気怠さの中にいる。ベッドの上は、海結とトムより他に何もない、二人だけの世界だった。
 たとえトムが何者であったとしても、今、この瞬間だけは信じられる。海結はそう思っていた。
 トムの愛し方は、以前の、追いつめてくるような荒々しさ、有無を言わさぬ肉体の支配が鳴りを潜め、慈しむような、いっそう優しいものに変わった。
 温かい海水の中をたゆたうような浮遊感。見上げた海面に明るい光が見える安心感。
 津波に飲み込まれ、暗い海中に引きずり込まれるような怖さは、もうない。
 一方、海結の腰に触れるトムのオスは、まったく勢いを失っていなかった。
 私は愛されていると感じ、嬉しい反面、トム自身は、持てるパワーを無理矢理抑えているのではないか。
 トムの大きな右手が、海結の頭や髪をなでる。左手は、ぎゅっ、と固く握られていた。
「海結、平気か?」
 トムの胸板に預けた頬を伝わって、低い声が直接響いてくる。
「うん」
「そうか」
「トム、変わったね」
「ん?」
「優しくなった。前はもっと、こう、何かすごかった」
「そうだったかな」
「そうよ。避妊してくれないのは変わらないけど。妊娠したら、責任取ってくれるの?」
「……」
 トムは体を横向きに直した。海結を背後から抱きしめ、前に回した両手で腹をなでてくる。
「海結が……」
 言葉を止めるトム。海結からその表情をうかがい知ることはできない。
「トム?」
「つがいの相手は、大切にする」
 トムは、海結の耳元で、そう呟く。
 つがい、という言葉が刺さる。
 人間の結婚と、動物のつがいは、イコールではない。生涯連れそうつがいもあるが、繁殖の時期だけのつがいもある。
 海結が、生涯を添い遂げる約束をしたのは、トムではない。
 海結とトムが体を寄せ合うベッドの下に、キャリーバッグが横向きに押し込んである。
 陸斗からもらった結婚指輪は、今もハンカチに包まれて、その中にある。
 不意に、彩夏の「海結はヤバい」という言葉が頭に浮かぶ。
 今さらだが、それは彩夏からの警告だったと痛感する。陸斗という存在がありながら、トムと同棲し、体を重ねている今の自分。多分、彩夏が危惧したそのままだ。
 ヤバい、と言われたのは、いつだったか。
 確か、沖縄に立つ前日、横浜で買い物をしている時、何かを買ったところだった。
「あっ」
 海結は、その時に購入した水着のことを思い出した。
 彩夏に、けっこう大胆と言われた紺色の水着。キャリーバッグに入れたまま、まだ一度も着ていない。
 海で泳ぐために買ったものなのに、それを九月になって思い出すとは。海結は自分の迂闊さを呪った。
「どうした?」
「あ、うん、水着があったことを思い出して」
「水着か」
 ちょうど、明日は月曜日だ。ホエールウォッチングの運航はない。
「明日、もしよかったらだけど、お休みもらえないかな?」
「かまわないが、何をするんだ」
「せっかく買った水着だし、一度は着ないと、そう思って。海水浴に行きたい。まだ暑いし、海で泳いでも平気よね?」
「どんな水着だ」
「……ビキニ。ちょっと、アレだけど」
 トムは、がばっ、と上半身を起こし、腕を組んで考え込む。
「……ダメだ。ひとりで行っては」
「へ? 何でダメなの?」
 トムが、海結の言葉に、はっきり拒絶を示すのは珍しい。海結は思わず聞き返してしまった。
「海結が泳ぎたいなら、ボートを出すから」
「わざわざ? シャチの観察ついでに?」
「いや、ついでじゃなくて、その、人がいっぱいで混んでるところよりも、そのほうがいいんじゃないか」
 海結は、ゆるりと半身を起こし、トムの顔を見上げる。
 暗がりの中、表情はよく見えないが、何となく、トムの心中を読むことはできる。
 胸が、きゅんっ、と締まった。
「じゃあ、潜り方教えてね、トム」
「あ、ああ、いいとも」
「ダイビングとか、いつかしてみたいって憧れてたの」
「ダイビングか。道具がないな。揃えて練習してからでないと」
 沖縄のホエールウォッチングの業者は、多くがダイビング業を兼ねているが、トムはやっていない。
 トムは、海パンだけで海に潜り、道具も使わず魚や貝を獲ってくる。それでこと足りているらしく、ボンベはもちろん、水中マスクもスノーケルも、フィンも所持していない。
それ用のものは、いつも左腕に着けているダイビングウォッチと、壁にかけっぱなしの黒いダイビングスーツだけだ。
「そんな本格的なのじゃなくて、泳ぐついでに、ちょっと珊瑚が見れればいいの」
「海結は珊瑚が見たいのか」
「そう。沖縄っていったら、珊瑚礁、でしょ?」
「……」
 沈黙するトム。何か、ためらっているような、そんな空気が伝わってくる。
「どうかした?」
「うーん……海結が思ってるのと違うかもしれないが、それでもいいか?」
「う、うん。トムに任せるから」
 何か、含んだような言い方が気になるが、考えてみても仕方ない。明日になればおのずとわかることだ。
 海結は、考え込んでいるトムを尻目に、タオルケットを体に巻いて、目を閉じた。



 翌朝、家を出る時、海結は普段どおりの服装だった。ビキニは肩かけのバッグの中に入れてある。
 軽バンの助手席に乗り込む。先に待っていたトムが、海結を見るなり、
「水着に着がえてこなかったのか」
と言う。
「ボートの中で着がえさせてよ」
 トムは、ブーメラン水着にライフジャケット、キャップといういつもの格好だ。村外に出る時を除けば、トムはこのスタイルを変えない。
 トムはこれが仕事着だから良いとしても、海結は、家を出た時から水着、というのは避けたい。
 今日は、昼を挟んでの海遊びだ。海結は朝から二人分の昼食を用意した。それを入れたクーラーボックスは、すでに後部座席に積んである。
 軽バンは、右手に東シナ海を見ながら、漁港に向けて走る。途中、急坂を下りて集落に入り、共同店の前に駐める。
「何か買い物?」
「確か、水中マスクが置いてあったはずなんだ」
 軽バンから降り、トムの後ろについて店の中に入ると、店番のおばさんが声をかけてきた。
「あ、トムさん、おはようございます」
「おはようございます」
「ここのとこ、お弁当買いに寄ってくれなかったけど、そのひとが作ってくれるから?」
「ええ、まあ」
 海結がトムに弁当を作っていることは、とっくに知られていたのだ。
 海結は思わず顔を伏せた。
 店内を探すと、トムの記憶どおり水中マスクが置いてあった。海結に合うサイズを選び、そそくさと店を出る。
 軽バンに乗り込んだ途端、ため息が出た。
「あーあ、とっくの昔にバレてたのね……」
「ここの人達は、関係も密だし、情報も早いからな」
「何か、監視されてるみたいで、落ち着かないな……」
「僕が元マリーンだから仕方ないさ。それに、悪い人達じゃない」
 もしかしたら、地元の人々は、海結とトムの関係も、すでに気づいているのではないか。
 そう思った時、海結の背筋を、つーっ、と冷や汗が流れた。

 九月の空は高い。
 青空には雲ひとつなかった。暑さの過酷な時期は過ぎつつあるが、まだまだ陽ざしは強い。西から吹く風は弱く、波も穏やかだ。
 トムは、フィッシングボートを北東の方角に走らせる。行き先はトム任せだ。
 沖縄本島の緑を右手に少し進むと、切り立った断崖絶壁が、そのまま海に突き出したような場所が見えてくる。
 崖の上に、建物が点在している。
「本島の北端だ」
 ボートは、岬を中心にぐるりと回るようにして、今度は南へと進路を変えた。
 そのまま航行を続け、小さな砂浜から離れた、水深のある地点に停船する。
 トムは、船首を陸側に向けてエンジンを切り、GPSオートポジションのスイッチを入れる。
「すまないが、これ以上は近づけない」
 左右を岩場に囲まれた砂浜には、人影ひとつない。そこから海に向かって、徐々に沈み込んでゆく浅瀬。その奥行きは短く、せいぜい二〇〇メートル程度しかないように見える。
 海結が思い描いていた、沖縄らしい景色。その要素がミニチュアのように、ぎゅっ、と凝縮された場所だった。
「ありがとう、トム」
「ウミガメの産卵場所なんだ。砂浜には上がれないが、我慢してくれ」
「すっごく、いいところ」
 海結は有頂天だった。トムは、くすぐったさに耐えているような、何とも微妙な表情を浮かべた。
 ビキニに着がえるため、バウバースの階段を下りる。
「覗かないでよ?」
「ああ」
 入口のカーテンを閉めてから、海結はバッグからビキニを取り出した。
 バウバース奥の、フラットになっているクッションの上に広げてみる。
 改めて見ても、やはり布の面積が狭い。いわゆるマイクロビキニの範囲に入るものだろうと思う。
 海結は着がえる前から赤面した。彩夏が意外だと言った意味が、ようやく理解できた。
 どうしてこんなものを買ってしまったのか、と後悔する。
 ひとりで本部半島あたりのビーチに出かけていたら、多分、着がえる前から泳ぐことを諦めていたはずだ。
 トムがボートを出してくれたおかげで、他人の目は気にせずに済むが、それでも、かなり恥ずかしい。
 落ち着かない気分のまま、海結は裸になり、ビキニを身に着けた。
 洗面所の鏡で確認してみる。
 胸の谷間は上から下まであらわだし、尻は半分以上出てしまっている。動いているうちに、布が食い込んで尻が全部出てしまうことは、容易に想像できた。
 幸い、フロントだけは、ムダ毛を処理しなくても良い面積がある。
 脱いだ服をたたんでから、海結はカーテンをそっと開けた。
 キャプテンシートにライフジャケットがかけられ、キャップが置いてある。
 キャビンの外、後部デッキに、すでに海パンだけでスタンバイしているトムの背中。
「……着がえてきた、けど……」
 海結は、呟くような小声で知らせる。
 振り返ったトムの反応は、予想外だった。
 まぶたを大きく開き、まばたきすら忘れてしまったかのように、海結を凝視する。喉ぼとけが動く。その下、海パンの前が、むくむくと、中からせり出してしまいそうなほど大きく膨らみ始めた。
「海結……!」
 絞り出すような声が聞こえた刹那、海結はトムの腕の中に捕らえられていた。
 急接近するトムの顔を、海結は両腕で押し戻そうとする。
「ちょ、ちょっ、ちょっと待ってトム! ね、待って、お願い、どうっ、どうっ」
「待てない」
 トムの熱い息が頬にかかる。
「潜り方教えてくれるんじゃなかったの!? ねえっ!」
 そう言った途端、トムの動きがぴたっ、と止まり、海結を解放して半歩下がった。
「……すまん、つい」
「もう! こんなところで!」
 海結は肩で息をしながら、トムを叱る。トムは、顔を指先でポリポリとかいた。
 バツが悪そうなトムは、元来の童顔もあって、いっそう幼く、少年のように見える。
「そんな顔してもダメ」
「海結はとてもきれいだ」
 トムは、ひとつ咳払いをして、視線を海に流した。
「誤魔化そうとしてもダメなんだから」
「本当だ。とても似合ってる」
 もちろん、何の反応もないより、誉められれば嬉しいに決まっている。しかし、誰もいないとはいえ、まさか日中の野外で求めてくるとは。
 トレーナーに甘えるように顔をすり寄せてくる、オスのシャチの姿を想像した。
 私はトレーナー。食べられるのも私だ。油断していたら、一瞬で水中に引き込まれてしまう。
 海結は、両腕で自分の肩を抱いた。
 ちらりと、トムの水着の前を見る。いまだ大きく膨らんだままだ。
 後で、埋め合わせをしてあげてもいいかな、と海結は考えた。

 海で泳ぐのは何年ぶりだろう。
 脚だけでなく、全身の筋肉をよく伸ばしておいたほうがいい、とトムに言われ、海結は念入りに準備運動をした。
 そのたびに、尻の間にビキニが食い込むので、時々指で直す。
 トムは、後部デッキのブルワークにあるドアを開いた。トランサムゲートと呼ぶそうだが、普段トムが使うことはない。
 ゲートの外には、トランサムステップという、後方に張り出した、ごくごく狭い踊り場がある。
「そこから海に入ってくれ」
 トムはそう言うなり、その場で高くジャンプして海に飛び込む。
 いつものことながら、指先からすっ、と海中に入ってゆく様は、惚れ惚れするほど美しい。
 海中から、小さな泡とともにトムの頭が浮上してくる。
 トムの手招きに従い、トランサムステップに腰を下ろし、足から海に入る。
 肌をなでる海水は生ぬるい。時折冷水が混じる程度だ。
 トムは、片手で前髪をかき上げながら、
「どのくらい泳げる?」
と聞いてきた。
 海結は、波で上下に揺られる中、立ち泳ぎを続ける。
「平泳ぎなら、けっこう泳げるよ」
「なら、行こうか。何かあったらすぐに言ってくれ」
 海結が平泳ぎを始めると、トムは、左腕のダイビングウォッチに一度触れてから、後に続く。
 ボートの舷側を回って船首へ、そこから砂浜のほうへと泳ぐ。
 砂浜とボートの中間くらいまで到達するが、海結の息はすでに上がりそうだ。運動不足を痛感する。
「このあたりにしよう」
と、トムが海結の背に触れた。
 水中マスクをして、海の中を覗く。水深は、海結の背丈の四、五倍くらいありそうだ。
 しかし、珊瑚で覆われているはずの海底は、海結が期待していた姿と、どこか違った。
 少し像が歪んで見えるものの、色が沈み切り、生き生きとした鮮やかさがない。
 いったい、これはどうしたのだろう。
 顔を水面から上げ、トムに目で訴える。
「潜ろう」
「ここで?」
「見よう、今の姿を」
 トムが、潜り方と耳抜きの手本を海結に見せる。立ち泳ぎの姿勢から、うつ伏せになって海面に浮き、そこから腕を下に、頭、上半身と巻き込みながら、海面下に潜り始める。
 膝から下が水面上に持ち上げられ、逆立ちのような姿勢になった瞬間、トムの体は、指先から海底めがけて、すーっ、と落ちるように沈んでいった。
 海底に着く前に、回転して頭を上に向け、腕のダイビングウォッチを操作してから浮上してきた。
 水中マスクをとおして見るトムの動きは、普段の俊敏でメリハリのあるものとは、明らかにベクトルが異なっていた。
 何の力みも緊張もなく、動作の中に意思すら感じない。どこまでも自然で、海の中こそがトムの居場所ではないかと思うほどだ。
 頭を海面上に出したトムが、海結に、やってみるように促す。
 海結は、トムの動きを真似て潜水に挑む。しかし、海水をバシャバシャとかき上げるだけで、ちっとも潜ってゆかない。
 頭を下に向ける動作ができていない、と指摘され、意識して再挑戦しても、結果は同じ。トムが手を添えて、体を直角に折る動作を介助してくれたが、何度やってみてもできない。
 全身に疲労を感じる。ボートを離れてから、ずっと立ち泳ぎを続けているのだ。
 もう限界、と口にしそうになった時、トムの腕が伸びてきて、肩をしっかり抱かれた。
「海結、息を吸って」
 何だろうと考えている間もなく、海結は頭から海中へ潜り始めていた。
 トムに支えられながら、真っ逆さまに沈んでゆく。鼓膜に圧力を感じ、トムに教えられたとおりに耳抜きを繰り返す。
 こんなに深いところまで潜ったのは、生まれて初めてなのに、感じるのは、肌の上を流れてゆく海水の感覚と、トムから伝わる体温だけ。何の不安も感じない。
 海底の、沈み切った色の珊瑚が近づいてくる。海結が手を伸ばそうとした時、トムの手に制された。
 触れてはいけないことを察して手を引く。耳抜きをしながら、海底の様子を目に焼きつけることに集中する。
 テーブル状の珊瑚が、まるで自らが岩になってしまったかのように、沈黙したまま海底に広がっていた。
 命があれば巡っているはずのものが、すべての活動を止め、時間までも停止してしまったかのようだ。
 ところどころ、色が抜けて真っ白な姿を晒している珊瑚もある。海結の目には、血の気が失せた骸のように見える。
 淀み切った、どす黒い色の中、沖縄らしいビビッドな色の小魚だけが泳ぎ回る。
 海結は、何かが決定的に失われてしまったことを悟る。
 息が苦しくなり、トムに合図をしようと思った時、海結の体はすでに、キラキラと輝く海面へと向かっていた。

 トムに支えられながらボートに戻った時、海結は、トランサムステップをよじ登ることができなかった。
 腰と尻をトムに持ち上げてもらって、ようやく後部デッキにはい上がる。
 体がずしりと重い。最近、体の好調が続いていたとはいえ、疲労困憊、という態だ。デッキの床に座り込み、立ち上がるまで少し時間が要った。
 ちょうど、太陽が真上にあった。
 キャビンの中で、海結が用意した昼食を食べ始める。
「トム、あの珊瑚……」
 海結が尋ねると、グルクンのから揚げを食べていたトムは、
「死んでしまったんだ」
と、静かに首を横に振る。
「やっぱり……」
「海水温が高いと、珊瑚は白化という状態になる。水温が下がらず、その状態が長引くと、ああいうふうに黒っぽくなって死滅してしまうんだ。そうなったら、二度と回復しない」
「このあたりだけ? 漁港のほうとかはどうなの?」
「同じだ。沖縄全体の珊瑚に被害が出ている」
 海結は、口に運びかけていた塩むすびをトレーに戻した。
 ショックだった。普段、何も考えずに乗っているボートの下では、珊瑚の死滅という事態が進行していたのだ。
 それに気づかず、きれいな珊瑚礁の海、というイメージだけで語り、はしゃいでいた自分が恥ずかしい。
「私、ひとりで浮かれて、ダイビングしたいとか言って、こんなことになってるなんて、知らなかった……」
 海結は、テーブルの上に突っ伏す。
「そう自分を責めなくてもいい」
「だって……」
「海結ひとりが悩んでも、珊瑚の白化は止められない。変な遠慮をする必要もないさ」
「……」
「できることを、できる範囲でやるだけだ。海にゴミを捨てない、見つけたら拾う。そういうことを地道にやってゆくしかないだろう」
 珊瑚の死滅は、恐らく地球温暖化が関係している。シャチの研究者であるトムは、海洋環境、地球温暖化について、海結のような一般人よりも高い関心を持たなければいけないはずだ。
 海結は顔を上げた。
「トムは、それだけでいいの?」
「ん?」
「地球の温暖化を食い止めようとか、海の環境を守ろうとか、トムはシャチの研究者だから、ゴミ拾い以外に、もっと思うところはないのかな、って」
「海にプラスチックゴミを捨てないで欲しいし、PCBのような有害物質を垂れ流さないで欲しいとは、いつも思っている」
「うん、それはそうなんだけど、私みたいにちょっとかじっただけでも、文明が地球を汚してきたことは知ってる。そういうことを聞きたいのよ」
「人間は、文明の力で、自分達の領分を拡大してきたんじゃないのか」
「それが行き過ぎている、というのが、今の常識でしょ?」
「……」
「人間も動物も、すべての命の重さは平等で、人間だけが特別じゃない。宇宙船地球号に乗る命のひとつなんだって。子供の頃から、そう教わってきた」
 トムは、静かに海結の目を見た。
「海結は、動物並みに扱われたいか?」
「えっ? それはいや」
「だろうな」
 トムは、少し間をおいて続けた。
「人間は、潮の流れや天気に振り回されるだけの動物でいたくないから、考えて、道具を作って、自然に抗い、自立することを目指してきたはずだ。僕は、それこそが、動物でも植物でも、ましてモノでもない、人間の尊厳の源だと思っている」
「……」
「だからこそ、難しいんだ」
 海結には、トムの思想がわからなかった。むしろ、頭が理解することを拒んでいた。わかるのは、海結が思っていた常識とは異なる考え方が存在する、ということだけだ。
 研究者であるトムだからこそ、切り口が一般人とは違うのだと、とりあえず納得することにした。
 トムが塩むすび食べ始める。食欲旺盛なトムに合わせて大きく握ったものだが、二、三口で無くなってしまう。
 口についた米粒を、左手の指で取ろうとするトム。その手首に巻かれているものに目がゆく。
「そのダイビングウォッチ、さっき何度も触ってたけど、何してたの?」
「水温を測ってたんだ」
「そんなこともできるんだ」
「正確には、ダイブコンピューターというものだ。水深も測れるし、潜れる時間も計算してくれる。ただ、小さくて見にくいから、決まった機能しか使ってないな」
「水温は今も高い?」
「ああ。浅いところはまだ三〇度を超えている。きちんとした温度測定はあさってだが、目安にはなるだろう」
 明後日に、○○大学環境学部の海水温調査のため、チャーター運航の予定が入っている。
「珊瑚だけじゃなくて、シャチにも影響があるのかなあ」
 海結は、ひとりごとのように呟く。
 トムは、ダイブコンピューターを指先でなぞりながら、
「……少しな」
とだけ言った。



 その日の朝から、トムの様子がどこかおかしかった。
 〇〇大学の貸し切り運航に向けて、トムはフィッシングボートのエンジンや機器類を点検している。
 海結は、キャビンの窓を拭きながら、トムの顔をちらりと見る。
 トムは終始無言だ。いかめしい表情を崩さない。眉間の縦筋も深く、何を思ったか、時々上目づかいに、空中の一点を見つめている。
 海兵隊時代のトムは、こんなふうに、ちょっと近寄りがたい雰囲気だったのかな、と思う。
「海結」
 テーブルの上を水拭きしていたところに、背後から突然声をかけられ、びくっ、と飛び上がった。
「な、何?」
「何を聞かれても、詳しいことは知らないと答えてくれ。僕に聞くように言って欲しいんだ」
「うん、わかったわ」
「シャチを目撃した時の位置情報は、特にだ。GPSで記録しているが、このことは伏せておかないといけない」
「どうして?」
「マッピングすれば、いかようにも解釈できるからだ。この情報は渡せない、絶対に」
 海結は、トムの後ろに隠れて大人しくしていよう、何か聞かれても、トムの言うとおり、知らぬ存ぜぬで押しとおそう、と思った。

 ○○大学環境学部の一行は、約束の時間に少し遅れて漁港にやってきた。
 レンタカーのバンから降りてきた○○百合子教授は、初老で痩せ気味の、小柄な女性だった。
「遅れちゃってごめんなさいね、トーマスさん」
 教授は、首まで隠れる緑色の防水ヤッケを着込んでいる。くしゃっ、としたバケットハットのつばの下、濃いスモークが入ったメガネをかけ、大きめのマスクで顔の半分近くを覆っていた。
 まだ暑いというのに、こんな格好で大丈夫なのだろうか。
「前回からひと月以上空きましたね、先生」
 出迎えたトムは、両手を腰の後ろで組み、左手で右手を包んでいる。軍隊式の「休め」の姿勢だ。
 トムの後ろに控えている海結から見えるのは、どこか緊張感が張りついた、その背中だけだ。
「忙しくて。ほら、八月は色々あるじゃない」
「日本の八月は、静かに厳粛に過ごす時期でしょう」
「常に前進しないといけない私に、のんびり休んでる時間はないのよ」
 教授の乾いた笑い声が聞こえるが、スモークの奥に隠れた目は、じっとりと湿ったままだった。
 その目が、海結のほうを向く。
「それは? 雇ったの?」
 トムは、教授の視線を遮るように胸を張る。
「僕の恋人です」
 そう、はっきり言い切った。
「ああ、そちらの方はトーマスさんの、そう」
 海結はぺこりと頭を下げた。
 教授の一行は、他に三人いる。研究室に所属する大学生二人と、彼らより少し年長の、大学院生あるいは研究員と思われるひとりだ。
 一様に口をつぐみ、レンタカーから調査に用いる機材を積み出している。
「ほら、早く。そうでなくても時間がないのに」
 何も持たない教授が、彼らを急かす。
 ほんの一瞬、急かされたひとりが鋭い目を剥いたが、すぐに機材を肩から下げ、ボートに乗り込んだ。
 海結を含む全員が、キャビンの中に落ち着いたのを確認してから、トムは舫いを解き、ボートを静かに発進させた。

 海結は、普段座っているナビゲーターシートを研究員に譲り、その後ろの席に座っている。
 トムは、研究員と計測地点について確認しながら、ボートを操縦する。
 キャビン内には、調査用の機材が運び込まれ、パソコンやデータロガーなどがテーブルの上に組まれていた。
 教授は、準備作業には加わらず、キャビンすみの席に陣取ったまま、口で指示するだけだった。
 さすがに緑のヤッケを脱ぎ、赤いポロシャツ姿になっているが、バケットハットもマスクも外そうとはしない。
 陸地からさほど離れていない、最初の計測地点に接近する。トムは、いつもより慎重に速度を絞りつつ、ゆっくりと停船させる。
 エンジンを切ると、大学生達が、データロガーにつながった水温計やカメラなどを、深度を見ながら少しずつ海中に沈めてゆく。
 海水温測定が始まっても、教授は「やっといて」「まとめといて」と言うだけで、席から立とうとはしなかった。
 海結から見ると、教授から研究への熱、というものがほとんど感じられない。地道なデータの積み重ねが研究であり、学問の基礎ではないのか、と思うが、部外者が口を挟むことではないので、黙っている。
 トムと海結は、邪魔にならないように船首側へと移動した。
「感じの悪い人」
 海結は、小声でトムに話しかける。
「そうだな。胡散臭いが、先生には世話になったことがあるんだ」
 トムは、ほほ笑んでいるのか、困っているのかわかりにくい、複雑な表情を見せた。
 二年ほど前、海兵隊を除隊した後、ここを拠点としてシャチの観察を始めたトム。
 観察の記録を、日本とアメリカの大学や研究機関に送ってみたが、反応は皆無だったと話す。
「僕は大学も出ていないし、研究機関に所属していたこともない。海兵隊の時に海洋学を学んだだけだ。熱心なだけのアマチュアと思われたんだろう」
 そんな中、ただひとり関心をもってトムに連絡してきたのが百合子教授だった。
 それ以来、教授のテーマである海水温と海洋生物の関係の調査のため、定期的にトムのボートをチャーターする関係が続いている、と言う。
「ツテがない僕に代わって、シャチのDNA解析をつないでくれたのも先生だ」
「そうなんだ。でも、全然熱心に見えない。環境学の教授なのに」
「先生にとって、珊瑚の利用価値が薄れてきてるんだろう」
「利用価値?」
「埋め立てが問題になっている場所だけじゃなく、沖縄全体の珊瑚が死滅しているとなると、説得力に乏しいからな。先生の関心は、むしろ海洋動物のほうに移っている。それで、ウミガメとかジュゴン以上に知名度が高くて、世間に訴える力が強い象徴を探しているんだ」
「それが……」
「シャチだ。後から知ったことだがな」
「あの教授は、トムのシャチの研究成果を横取りしようとしてるの?」
「それは少し違う。僕は、このポッドの由来と、沖縄までどんな旅路を辿ってきたのか、それがわかれば十分なんだ。学問に興味はない。純粋に学術目的なら、僕の観察データは全部提供したって構わない」
「じゃあ、いったい何に警戒してるの、トムは」
「先生の真の目的は、珊瑚の保全でもシャチの保護でもない。それは……」
 トムが口をつぐんだ。
 気配を感じて海結が振り返ると、教授が、狭いサイドデッキを歩いて船首に近づいてきているところだった。
「トーマスさん、シャチは見えますか」
「いや、ここは水深がまだ浅い。水温が高い場所は避けがちです」
「これから沖のほうに出るから、現れてくれるといいわね」
 教授が、億劫そうにステップを上がり、舳先の手すりにしがみついた。
「ここは知床のように、複数のポッドがやってくるところじゃありませんから」
「観察のデータは順調に集まってるかしら?」
「少しずつです。現れるたびに写真には収めてますが、目撃回数自体が少ない」
 海結は、舳先から一段下がった前部デッキへそっと撤退し、トムと教授のやりとりを窺う。
「トーマスさんは、どのあたりまでシャチを探しているの?」
「漁港から、およそ半径二〇から三〇キロの範囲です」
「もっと範囲を広げるべきよ。シャチと出会う頻度を上げてゆかないと、この海域に定住を図っているって、トーマスさんの研究が認めてもらえないわ」
「範囲を広げればボートの燃料代もバカにならなくなります。観光船業としては成り立たない。燃料代と営業損失を先生のところで補填してくれるなら考えますが」
「カンパを募るって方法もあるわ。シャチの保護という看板でね」
「寄付金を集めながら、ホエールウォッチングで営業収益を上げるのは筋が通りません。観光船業は廃業しなければならなくなります」
「せめて、○○島あたりまで足を伸ばすことはできないの?」
「先生、あそこはパラシュートの訓練をやっているところです。シャチとは何の接点もない」
「じゃあ、アメリカ海軍の訓練区域までは? アクティブソナーで、シャチに悪影響が出ているって、訴えることもできるでしょう?」
「訓練区域まで、近いところでも片道五〇キロ以上あります。訓練中は閉鎖海域になりますし、詳細を把握することもできません。行ってみても対潜訓練を行っているとは限らない。無理な話です」
「トーマスさん! 研究者として世にでるチャンスをみすみす逃すことになるのよ」
「僕は、ただシャチを愛するだけの男です。それに、先生のおかげで、ここのシャチ達がどこから来たのか、どうやって来たのか、おおむね判明しています。僕の目標の半分以上は達成されたようなものです」
 海結は、胃袋が痛くなりそうな不毛なやり取りに嫌気が差し、ため息をついた。
 何気なく海に目をやると、何か透明なものが、ぷかぷかと浮かんでいる。ペットボトルの容器だった。
 海結は、キャビンの横から柄の長い網を持ってきて、トムがそうしているように、容器をすくい上げようとした。
 その瞬間、
「ちょっと待って! すぐにすくっちゃダメよ!」
と、教授が大声を上げた。
「は、はい?」
 何が何だかわからず、海結が呆気に取られていると、教授は舳先から降りて、キャビンの窓をばん、ばん、と叩き始めた。
「カメラ持ってきて、早く!」
 キャビンの中でパソコンを操作していた大学生。急いでデジタルカメラを抱えて外に飛び出してきた。
「早く、あれを撮りなさい!」
 大学生が慌ててカメラを構えているうちに、ペットボトルは、網の柄をいっぱいに伸ばしても届かないところまで流されてしまった。
 教授は、大学生からカメラを奪い取り、撮影した写真を確認する。
「ピンボケしてるじゃないの。何やってるのよ。うすのろの上に、言われたこともロクにできやしない。こんなのでどこに載せるのよ。私達はね、学のない市民に、海の環境の大切さを教えてあげなきゃいけない前衛なのよ。写真とか、そういうバカでも一目でわかるものが大切なのに、大体あんた、頭が悪くて何もわかってないくせに、運良く大学に入れたからって、それでジュゴンの研究者になりたいとか、ちゃんちゃらおかしいわ。あんたはジュゴン以下なのよ、はっきり言って。……」
 教授にくどくどと言われているうちに、大学生の顔はどんどん無表情に、しかし、みるみるうちに赤くなってゆく。
 聞くに堪えない罵詈雑言だった。海結は気分が悪くなった。自分の血管まで縮みそうになる。
 トムが、海結に目配せをしてくる。海結はその場を離れ、再び舳先に立つトムの横に落ち着いた。

 陽が傾き始めた頃、海水温の調査は終了した。
 漁港に戻ると、朝、出港した時よりも漁船の数が多い。普段見かけない漁船の姿と、見覚えのない漁師達の顔がある。
 教授がボートを降りた瞬間、漁師達が手を休め、いっせいに、じろりと視線を向けた。あからさまに異物を警戒する目だ。
 教授は、漁師達の無言の圧を感じたのか、研究員と大学生達を急かし始めた。
「ほら、早く、重いものを先に持ってくるのよ。そんな簡単なことも考えられないの?」
 パソコン、データロガーなどの機材が、次々とボートから運び出され、レンタカーのリアゲートの中に積まれてゆく。
 汗を拭おうとした研究員の手が止まると、横から教授の声が飛んだ。
「何休んでんの。本当、男のくせに使えない」
 海結は、後部デッキからその様子を見ている。教授の一挙一動、口から出る言葉のすべてが、不快感しかもたらさない。
 トムは、舫ったロープの張りを確かめながら、目で海結に、放っておけ、と伝える。
 自らは機材ひとつ運ばない教授が、トムの元へ歩み寄ってくる。
「シャチの捜索範囲を広げた結果を知らせてくださいね」
 教授は、一方的にボールをトムに投げたまま、返事も聞かずに踵を返し、レンタカーの後部座席に乗り込んでしまった。
 レンタカーは、漁港の出口から右折し、国道を南の方向へと、走り去ってゆく。
 トムは、レンタカーが走り去った方向を見つめていたが、
「Damn you」
と、吐き捨てるように呟いた。
「今、何て言ったの?」
「何でもない」
「あんな調子で、ハラスメントで訴えられたりしないのかな」
「バックがついてるらしいから、大学側も見て見ぬふりなんだろう」
 長靴をはいた漁師達がそばにやってくる。
「大丈夫かい、あれ」
 この漁港でよく会う老人が言う。
「ええ。いつもの水温調査です」
「ならいいが、呼んでもいないのにプラカードとか持って押しかけてくるような手合いとは、関わり合いたくないからなあ」
「ここにデモをやる理由はありません。やるなら、マスコミが注目する場所でやるでしょう」
「トーマスさんも大変だな、元マリーンだからって、食いつかれてさ」
「ええ、まあ」
「あれは、トーマスさんの口からしゃべらせたいんだろ?」
「そうかもしれませんが、僕の関心は、海とシャチです」
「ところでな、みんなトーマスさんを待っとったんだ。隣の港からも来てる。ちょっと見て欲しいものがある」
 老人とトムに続いて倉庫の前に近づくと、いつもなら感じないほどの、強烈な生臭さと腐臭が漂っている。
 見ると、胴体のない魚の頭だけが並べられ、まわりに蠅がたかっていた。
 海結は、自分で魚をさばき、包丁で頭を落とす。それでも、頭だけが晒し首のように並ぶ様子は、見ていてあまり気分の良いものではない。
「これな、見てくれ」
 ひとつ南にある漁港を拠点にしている中年の漁師。獲ったキハダマグロに食害が出ているとトムに説明する。
 トムは、マグロの頭を手に持ち、ひっくり返したり、断面を触ったりしながら観察する。
「どうだ? サメか? トーマスさんが研究してる黒白のやつか?」
「このあたりにいる黒白のシャチは、自由に泳ぐ獲物しか狙いません。針にかかって動けない魚を横取りする習性など、到底持たない。見る限り、ひと回り小さいやつと思います」
「延縄でも曳縄でも食われるのか、困ったな」
「サメじゃないさ。俺は、潮吹き見たことある」
「シイラ漁のパヤオは、港から近いところに設置するから、大丈夫だな?」
「いや、そりゃわからんさ」
 日焼けした顔の漁師達が、口々に言う。
「トーマスさん、盗ってるやつを調べてもらえんかな? わしらも手はすぐ打つが、相手を特定せんことにはどうにもならんさ」
「協力しましょう」
 トムは間を置かず、すぐに了承した。
「あれが帰る前に聞いてみりゃ良かったな。海の学者なんだろ? これは何にやられたんだ、ってな」
「先生は専門外ですよ」
「ああ、専門はあっちの活動のほうか」
 漁師達は笑った。

 家に帰る軽バンの車内。
「トムも義理堅いというか……あの先生からの依頼、断ればいいんじゃないの?」
「そうかもな。だが、そういうのを大事にするのが人間だろう。水温調査の域を出ないうちは、いいとしよう」
「漁協の調査はするの?」
「ああ。これを放置していたら、キハダマグロの被害だけでは済まなくなる。別の群れを次々に呼び込んで、大群でこの海域の魚を食い荒らすようになるかもしれない。餌が減ったら、シャチもこの海に定住できなくなる」
「けっこう、深刻なのね……」
「調査もいいが、ここはやつらの海じゃない、と思い知らせたほうが早いかもな……」
 海結は、思考を巡らせ始めたトムの横顔を見る。固く唇を結び、ぎろりと目を剥いて前を凝視している。
 全身から闘志と気合が、静かにほとばしるかのようだ。
 いったい、トムは何を考えているのか。
 トムはそれきり何も言わず、それを知ることはできなかった。
 海結は少し体が震え、助手席で身を縮めた。

(続く)
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