黄金のオルカ
第三話 Where do you go from here
①
アパートからほど近いところにある高速バスの待合室。すでに、何人か、汗をかきながら目的の便を待っていた。
キャリーバッグを立て、ペットボトルをあおる男。中学生の友人同士と思しき女の子達の姿。
そういえば、すでに学校は夏休みに入っている。
滑り込んできたバスは、東京駅八重洲口バスターミナル行きだった。
バスが停車するなり、海結は横のハッチを開いて、荷物室にキャリーバッグを押し込む。
この便に乗り込む客は、海結だけだった。
窓際に空いている席を見つけ、腰を下ろす。ひたいに手をやりながら、深くため息をついた。
汗が、鼻の横をかすめて頬へと流れ落ちてゆく。
飲み物の用意もなく家を飛び出してきた。喉が渇いているが、東京までの約一時間、我慢しなければならない。
車内は冷房が強く効いている。それがせめてもの救いだった。
席に腰を落ち着けた今も、海結の中には灰色の感情がぐるぐると渦巻いている。昂りが治まらない。
陸斗と喧嘩して、突発的に家を飛び出してきたものの、海結に行くあてがあるわけではない。
正直、行き先はどこでも良かった。
とにかく今は、陸斗から離れたかった。
海結は、隣の席に置いたバッグからスマホを取り出す。陸斗からの電話を着信拒否に設定し、LINEもブロックする。
位置情報の共有は元々していないが、一応確認した。
バスは連絡道を抜け、東京湾アクアラインに入る。直射日光を避けるために閉めたカーテンの隙間から、東京湾の姿と、製鉄所の煙突が見える。
このバスを使って東京まで通勤していたのは、つい四ヶ月前までのことだ。
その時は気にも留めなかった風景のはずだが、今日はなぜか目に留めておきたい気分になる。
やがて、船の中に飲み込まれるように、下り坂から長いトンネルの中へと入ってゆく。
トンネルの中で、バスは少しだけ速度を上げた。
カーテンを開ける。窓に、流れ去るオレンジ色の光と、自分の顔が映っている。
海結は、これから私はどこに行くのだろうと、まるで他人事のように考えた。
バスターミナルは、東京駅目の前のビルの地下にある。
バスを降りる。喉が渇いている。まだ昼食も食べていない。とりあえず、どこかの店に入ろうと思い、エスカレーターに乗り込む。
八重洲地下街は、土曜日だけあって混んでいた。海結と同じように、キャリーバッグを引いている人も多い。
屋外と違い、地下街は直射日光がない分まだマシだが、それでも通路を蛇行しながら歩いていると、人から発される湿った熱に鈍い頭痛を覚える。
海結は、東京に勤めていた頃、何度か入ったことのある喫茶店を選んだ。
休日に、この店に入るのは初めてだった。
小ぶりだが重厚なテーブルが置かれた、ソファー席に座る。アイスコーヒーとスフレパンケーキを頼み、待っている間に、コップ一杯の冷えた水を飲み干した。
右隣のテーブル席には、これから旅行に出かけるだろう男女が、左隣には、ハングルの本を読む中年の女性が座っている。
アイスコーヒーが運ばれてきた。
海結は、ブラック派だった。ストローから、ひと口、ふた口と飲む。
ようやく、喉の渇きが癒されてきた気がする。
スフレパンケーキにフォークを突き立てると、ふわっ、と生地が崩れ、湯気と甘い香りが立ち昇る。メープルシロップをたっぷりとかけて、ひたすら口に運ぶ。
すぐに食べ終えてしまった。
食べ足りない。もっと食べたいという抑えがたいものがあった。普段ならカロリーを気にするところだが、今日はなぜか歯止めが効かない。
こうなったら、腹いっぱいになるまで食べてやる、そう決めて、ドリアとフレンチトーストを追加する。
今はただ、何も考えず、目の前にあるものを味わうことに集中したい。
外では夏の熱気がうねっているのに、地下街の店の中はエアコンが効き過ぎている。
ひたすら熱いドリアを口に運ぶ海結は、この空間だけが外の世界から隔絶されて、虚空に浮いているような気がしてくる。
その間にも、店内の客は次々に入れ替わってゆく。
両隣の席も、いつの間にか別の顔に変わっていた。
海結だけが、行き先もなく席に座っている。
空席が目立つようになってきた。
食欲は十分に満たした。海結は、ラストに注文したカフェオレを飲みながら、これからどうするのか考え始めた。
陸斗と喧嘩し、家を飛び出してまだ半日も経っていない。今帰宅したところでプチ家出にもならない。
陸斗がいるあの部屋には、当分帰りたくない。
母に連絡して、一時的に実家に身を寄せることも考えてみる。しかし、父母にいったい何を言われるか、想像するだけで気が重い。
思いつくところ、連絡を取る先は、ひとつしかなかった。
海結は、彩夏に電話をかけた。
店の中である手前、LINEを使うことも考えたが、慣れ親しんだ、あのはきはきした声が聞きたい。
彩夏はすぐに電話に出た。
「海結?」
「あ、彩夏? ごめん、今平気?」
海結は、やや抑え気味の声で話す。
「家にいる。どうしたの? 巨乳ちゃん」
「やめてよね、それ」
「じゃあ、バスト九〇って呼ぶわ。あ、陸斗に揉まれて成長した?」
陸斗の名前が出たところで、海結は一瞬声につまった。
喧嘩して飛び出してきたことを言い出せない。
少しの間、沈黙が生まれた。
「海結? どうしたの?」
「……別に、何でもないけど」
思わず、他愛のない話に逃げようとしたが、聡い彩夏はわずかな違和感を聞き逃さない。
「何でもなくないでしょ、その調子。ヘンだよ。LINEじゃなくて電話で、何か話したいことがあるんじゃない? 今どこ?」
彩夏を相手にごまかしは効きそうにない。
「うん……東京。ヤエチカにいる。えーと……今からそっちに行っていいかな? あ、忙しいならいいけど……」
耳に当てたスマホから、彩夏が考えを巡らせている気配が伝わってくる。
「ふーん、その様子だと、何かあったみたいだね。駅まで来てくれる? 迎えに行くからさ。後で全部白状してもらうからね」
やはり、持つべき者は、同性の親友だなと海結は思う。
「ありがとうね」
「いいって。着く時間送って。じゃあ」
電話を切る。
彩夏と会えば、徹底的に尋問されて、洗いざらい白状させられるだろう。
旧友との再会が待ち遠しい反面、少しだけ怖さもあった。
②
海結は、東急田園都市線の各駅停車で、彩夏の住む街に向かう。
もう、午後六時に近い。西からの陽が車内をオレンジ色に染めている。
多摩川の橋梁を渡る。
彩夏の住む場所は、多摩川を挟んで東京都に隣接した市内にある。
海結と彩夏は、横浜市にある大学の学生寮で知り合った。
大学の四年間、寮の四人用区画で暮らしたが、その住人のうちのひとりが彩夏だった。
海結は栄養学部、彩夏は経済学部という違いはあったが、彩夏は、都市のペースや寮での生活になかなか慣れなかった海結を何かと気づかってくれた。
人の一歩も二歩も先を読む鋭いところがあった。その反面、思いついたら後先考えず、斜め上の行動と突拍子もない発言で、周囲を困惑させることもしばしば。
挨拶代わりに海結の胸を揉むくせがあり、出会った当初はずいぶん戸惑った。
海結とは真逆のタイプだったが、不思議とウマが合った。他愛ない話で盛り上がり、休日は一緒に横浜市内へ出かけることも多かった。
彩夏は三年生の時に寮を出たが、その後も二人の関係は変わらず、大学を卒業した今も、こうしてやりとりが続いている。
車内に、駅到着を知らせるアナウンスが流れる。降りる客が、すっと、開くほうのドアの近くへ流れる。
駅に着く時間は、すでにLINEで連絡してある。
改札を出て、彩夏が指定した駅のロータリーへ歩く。
一般車の車寄せに停車していた、漆黒のミニ・クロスオーバーから降りて手を振る人の姿。
「海結、こっち」
彩夏だった。
白いTシャツに、タイト気味のジーンズ。脚がすらりと長い、相変わらずのスタイルの良さ。
休日でも、メイクに抜かりがない。
海結が引いてきたキャリーバッグを後部ハッチに入れ、助手席に案内すると、彩夏はミニをゆっくりと発進させた。
「彩夏、久しぶり、一年ぶりかな」
「実際会うのは、海結の結婚式以来だね」
彩夏のミニは、内装まで真っ黒だった。まだ新車の匂いがする。
「買ったんだ」
「そう。ちょっと無理したけど、かっこいいでしょ。残クレだけどね」
コチコチと、ウィンカーの音が響く。
「悪いね」
「いいけど、海結はうちにかくまって欲しいんじゃない? どうしようか。何か食べてからにする?」
図星。彩夏の勘の鋭さは昔のままだ。
「やっぱり、彩夏に隠し事はできないね」
「当然。そのでかい乳揉ませてくれたらうちに泊めてあげる。で、どうする?」
「お任せ。このへん、よく知らないし」
彩夏は少し考えてから、
「じゃあさ、疲れてるとこ悪いんだけど、うちで何か作ってよ。私、久しぶりに海結の作った料理、食べたい」
と言って、助手席の海結へ、にかっと笑ってみせた。
海結は、学生寮の共有ダイニングを借りて、仲間に料理をふるまっていた。海結にとっては食材と調理方法の研究の一環であり、試食会のようなものだった。失敗も多かったが、それでも彩夏が覚えていてくれたことは嬉しい。
「どこか、スーパーに寄って」
「よしきた!」
彩夏は、団地が並ぶ通りへミニを走らせた。
泡盛の小瓶を開ける音が、コンクリートの部屋の中に響いた。
彩夏が住んでいる古びた賃貸マンションは、大都市の近郊にしては、緑と坂の多い場所にある。
心なしか、ガラス窓をとおして聞こえてくる喧騒が遠い気がする。
小さな琉球ガラス風のタンブラーに注がれる泡盛。タンブラーの淡い青色と、天井の光を受けてとろんと光る泡盛が、どこか海を連想させた。
「さすがだねえ。料理も皿の並べ方も」
彩夏が、テーブルの海結のタンブラーにも泡盛を注ぐ。
「そうでもないよ」
焼いたナスの皮を剥いて冷やし、しょうがと醤油をかけた皿、オクラと長芋を刻んで、器に盛った小鉢。赤いタコと薄緑のきゅうりを和えた酢の物。
海結が、短時間で作った料理が、鮮やかな色彩で並ぶ。
「じゃ、乾杯」
両手で持ったタンブラー。最初のひと口が喉をとおる。思っていたよりも柔らかい口当たりだった。
彩夏は、ぐいっ、と一口で泡盛を飲み干すと、最初に酢の物に箸を伸ばす。口に入れた瞬間、目がぱっ、と開く。
「んーっ、やっぱ海結の作った料理最高。泡盛と合うわー」
「良かった」
満足そうな顔の彩夏を見て、海結も安心する。実際、海結は酒を嗜まないので、合う料理というとわからないところがある。
「私が男なら、絶対嫁にしてた」
「……」
嫁。
海結はすっ、と現実に引き戻された。
海結がタンブラーを置いたのを見計らってか、彩夏が海結の目を見つめてくる。
「それで、何があったの? 聞くよ。私で良ければね」
タンブラーの中に視線を落とす。言葉を探している時間だけ、何かが底に溜まってゆく気がする。
「……ずっと、我慢してた」
海結はぽつりと答えた。
「ずっと我慢してきたと思う。けど、もう我慢の限界。結婚して一年経つのに、ずっと幼馴染のまんまで……」
彩夏は、泡盛を注ぎながら、黙って聞いている。
「陸斗は全然変わってくれなかった。私が仕事やめてから、もっと甘えるようになって……私は陸斗の姉じゃないのに」
海結が話している間も、彩夏の箸は止まらない。今度は焼きナスをほおばっている。
「私の話を真剣に聴こうとしないで、逃げた。もう、どうしていいかわからない」
「陸斗と喧嘩になったの?」
「そう。結婚記念日に何しようか、って話してるうちに」
「もしかして、陸斗は結婚記念日、海結に任せきりだったとか?」
「……何か、私ひとり空回りしてるみたいで、嫌になった」
「陸斗のやつ、今度ゴ××リ捕まえて口の中にねじ込んでやらんと」
「ちょっと彩夏、今食べてるとこ!」
「あ、ゴメン」
「相変わらずなんだから、もう」
彩夏のデリカシーの無さは、昔と何も変わらない。
少しだけ、気が楽になった。
棚の上にある時計は、午後九時を指している。
「それで、家飛び出してから、陸斗からは何の連絡もないの?」
「うん。着信拒否してるから」
「そりゃそうだよね。でも、そろそろだと思うよ」
「何が?」
彩夏が、テーブルのかたわらに置いた自分のスマホに目をやり、何か含んだ笑みを浮かべた。
海結がその意味をはかりかねているうちに、彩夏のスマホが鳴った。
人差し指を口の前に立てて、電話に出る彩夏。
「ご無沙汰。焦ってかけてくる頃だなあって思ってたとこ」
かすかに漏れ聞こえてくる声から、陸斗からの電話だとわかる。
「うん、いるよ。今、私の隣で寝てる」
首をぶんぶんと振って否定する海結に、彩夏はにやっ、と笑ってみせた。
「それは冗談だけど、うちで一緒にご飯食べてる」
話の内容は、容易に想像がついた。
陸斗は、海結が夜になっても帰らず、着信拒否のため連絡も取れないので、心あたりに電話をかけているのだ。
海結はスマホを確認する。実家からの着信履歴はない。
こういうケースの場合、真っ先に電話をかける先は、海結の実家だろう。
しかし、陸斗は、幼少期から海結の父を怖がっている。父が結婚に反対していたことも承知している。怒鳴り込んでくるかもしれないことを、わざわざ告げる勇気は、多分ない。
「はあ!?」
突然、彩夏の声が怒気を帯びたものに変わる。海結はびくっ、と身を縮ませた。
「そんなことだから海結に逃げられるんだよ!」
彩夏はそう叫んで、スマホを握る指に力を込める。
「お前、何やってんだ、マジで」
スマホの向こうで、陸斗が何か言いかけた気配があるが、彩夏はかぶせるように続けた。
「海結は、もう限界だって言ってる。そう。だから家を出たって。電話? 代わらないよ! 海結は絶対出さない!」
椅子から立ち上がり、両足を肩幅に踏みしめ、スマホを構える彩夏。
まるで仁王様のようだと思う。ここは息を潜め、仁王様と陸斗のスマホ越しの対決を見守るしかない。
「そうやって私に泣きついてくる前に、お前考えることあるだろう? 違う! マジで腹立つわ、海結を泣かせて。海結はしばらく帰りたくないって言ってる。胸に手当てて、よーく考えてみろ!」
長い沈黙の後、ようやく陸斗のぼそぼそという声が聞こえてくる。
「海結とは連絡取れるようにはしとく。居場所も。うん、それは約束するから。私に連絡しな。じゃあ」
通話を切る音。
彩夏はスマホをテーブルに置くと、ふーっ、と長く息をついた。
「ありがとう、彩夏」
「いいって。それより、陸斗にはああ言っちゃったけど、本当に帰らなくていいの?」
海結は、タンブラーの縁を指でなぞりながら、
「……まだ、帰りたくない……」
と、小さく呟く。
彩夏は、しばし考え込んでから、海結に切り出した。
「冷却期間、置いたほうがいいかもしれないね」
「冷却期間?」
「そう。いったん距離を置いて、海結も陸斗も冷静に考える時間を作るの。ものごとを整理する時間って言うのかな」
海結は、タンブラーを傾けて泡盛をあおる彩夏の顔を見る。自分より少しだけ大人びて見えてくる。
「でも、月曜は振休だからいいけど、私もあさってからは仕事だから。海結をかくまえるのも二泊くらい。どうしたもんかな……」
彩夏は、就職や転職、旅行やブライダルなどの情報を総合的に扱う会社に勤めている。日々、営業職として忙しく飛び回っているはずだ。
「ごめんね。わかってる。長居はしない」
そう言ってみたものの、ここ以外に身を寄せる場所が思いつかない。
実家に帰るのは気が引けるし、すぐに陸斗に知られることになるだろう。
友人の家を転々とするか。それは迷惑になる。彩夏もそうだが、それぞれの生活がある。
「じゃあさ、旅行に行くのはどう? ちょっと長めの」
「あ、そうか。そうだね」
海結は、彩夏のアイデアに飛びついた。
これを機会に旅をするのも良い、海結はそう思った。
主婦だって、少しは楽しむ時間があってもいいはずだ。
「海結は、どこに行きたい?」
手元に、タンブラーの淡い青色がある。
「そうだね、旅行に行くなら……海のあるところ、かな」
「新婚旅行行けなかったって、ぼやいてたじゃん。どこだったっけ?」
「北海道か沖縄だった」
彩夏が、我が意を得たり、というふうに手を叩く。
「沖縄! いいね。悩んでることとか全部置いといてさ、思い切りビーチで羽を伸ばすのも」
「いいね。海で泳ぐのなんて、何年ぶりかな」
陸斗に対する当てつけのようだと思いながら、海結は大きくうなずく。
北海道だったら知床だ。シャチを間近で見るのに興味はあるが、今の海結は、沖縄のほうに大きく気持ち傾いていた。
海結の脳裏に、深い群青色の海と、珊瑚礁の光景がぽっ、と浮かぶ。陽の光を反射してきらきらと輝く波、夏の空、潮の香り。
潮騒の音に包まれるだけでもいい。このもやもやした気持ちも、少しは楽になるかもしれない。
なぜか、自分の中に眠っていたものが、強く揺さぶられるような気がする。
「そうと決まれば、買い物だね。旅行の準備は要るでしょ」
「そうだね。色々足りないものあるし、水着も買いたい」
「なら、明日、横浜行こうよ。買い物と、気分転換も兼ねて。久しぶりに、二人でさ。ねっ?」
海結は、泡盛をくいっ、と喉に流し込んだ。
学生の頃と変わらぬ態度で接してくれる彩夏。嬉しさとありがたさが、身に染みる。
「本当、助かる。ありがとうね、彩夏」
「ありがとうなんていらないから、シャワー浴びたら久しぶりに乳揉ませて」
茶化すように笑いながら、彩夏はタコを口に入れる。
「もう。変わらないね。そういうところ」
海結は笑った。素直に笑えたのは久しぶりだった気がした。
③
まだ朝の八時だというのに、むわっ、とする熱気が体を包む。
夜間に気温が下がり切らず、翌日に繰り越された熱が蓄積しているようだった。
彩夏が、ミニ・クロスオーバーのロックを解除する。
海結は、助手席に収まった。
運転席に乗り込む彩夏は、細いストライプが入ったネイビーのパンツスーツに、白いTシャツ、レイバンのサングラス、といういで立ちだった。
海結は、タンクトップの上から薄手のシャツを羽織り、下はジーンズの短パン、という、いつもどおりの軽装。
これでも暑さが堪えるはずなのに、彩夏の服装はどう見ても異常だった。
「そんな格好で大丈夫?」
彩夏はサングラスの位置を直しながら、にやっ、と笑った。
「これが横浜に行く時の私の正装。このくらいテンション上げてかないと」
「いったい何の正装よ」
彩夏のかっ飛び具合は、大学生の頃からまったく変わっていない。
エンジンがかかると、小ぶりな車体に似合わぬ威勢の良い音が響いた。
エアコンが効いた車内は快適だが、陽の光は窓越しでも圧迫を感じるくらい強い。黒いボンネットが、じりじりと焼かれている。
海結は、熱で間延びしないかと要らぬ心配をする。
ミニは、尻手黒川道路に出る。車も信号も多い。少し走っては停止、を繰り返している。
「昨日は、ちゃんと寝られた?」
彩夏の問いかけに、海結は少しだけ間を置いて、うなずいた。
「うん、眠れたけど、途中変な夢見て、一回だけ目が覚めた……かな」
「へえ、どんな夢?」
「たい焼きになって焼かれる夢」
「何、それ」
声を出して笑う彩夏。
ミニは、交差点を左折し、鶴見川を渡る。
「ねえ、海結」
「ん?」
「昨日の電話でさ、陸斗、俺の何が悪かったのか海結に聞いてくれなんて言うもんだから、自分で考えろって言い返してやった」
「……そう」
「海結は、陸斗と恋人とか、夫婦の関係になりたいんだよね? いつまでも幼馴染じゃなくて」
その言葉に、海結は膝に置いた手に視線を向けたまま答えた。
「そうなりたかった。ずっと幼馴染同士で、いきなり結婚して、恋人らしいこと何もしてこなかった。そこが欠けてるから、陸斗と夫婦らしくなれないのかな、って」
「うん」
「でも、どうしたらいいかわからなくなった。陸斗に、どう伝えたらいいのか、そう話したほうがいいのか」
「うん」
「私がいろいろ悩んでることなんて、みんな、どの夫婦も自然に解決してきたことなのかも、とか思ったり……」
左手の結婚指輪が、フロントガラスから入ってくる風景を映し出している。
「海結の言いたいこと、わかるよ」
彩夏はゆっくりと続ける。
「わかるけど、やっぱり、ちゃんと伝えて、話し合ったほうがいいと思う」
「……」
「男って、はっきり言わないとわからないから。幼馴染でも、多分そうじゃないかな」
運転席の彩夏の横顔。何かを切り出そうとしている様子がある。
しばらく、海結は彩夏の言葉を待った。
「……確か、話したこと、なかったよね」
「彩夏の結婚のこと?」
「そう」
彩夏は三年生の時、学生結婚して寮を引き払った。
学内では、彩夏の結婚相手について、様々な噂が飛び交ったが、彩夏が何も話そうとせず、海結も詳しくは聞けなかった。
結婚してからも、特に変わった様子もなく、彩夏は大学に通ってきていた。海結との仲にも特に変化はなかった。
しかし、彩夏の中で、結婚していることの意味が徐々に希薄になってゆくのを、彩夏のちょっとした仕草から、海結も感じていた。
結局、四年生の頃に彩夏は離婚し、大学を卒業する前にバツイチになっていた。
彩夏の表情は、サングラスのせいでよく見えない。声のトーンが、いつもより低く感じる。
「あいつと、結婚する時に約束したの。お互いに束縛しないようにしよう、ってね。あいつはあいつで、追いかけてるものがあったし、私は学生で、やりたいことが山ほどあった。しばらくはカレシとカノジョのままでいい、そのうち自然に落ち着いて、夫婦らしくなってゆく、そう思ってた」
「……」
「でも、違った。結婚は、恋愛の延長じゃなかった」
首都高速横羽線に入っても交通量は多く、車間距離がどうしても短くなる。速度が乱高下する。
海結は、前後に揺さぶられながら、彩夏の話に耳を傾ける。
「私もあいつも、それまでの自分のやり方を捨てようとしなかった。そんなんで新しいものが生まれてくるはずもなくて、そのうち、何のために結婚したのかわからなくなった。一緒に暮らすことにも疲れるようになって、後はお定まりのコースで、別居して、離婚」
トンネルに入る。
現れては後ろに消えてゆく、合流と分岐を示す表示板が、やけに眩しく感じる。
「違うところで生まれて、違った場所で生きてきた二人が、偶然出会って、つき合って、結婚したのに、結局、二人で何も作れなかった。……もったいないよね、本当」
海結は、返す言葉がなかった。
彩夏が、初めて打ち明ける話を、ただ黙って聞いている。
「海結は、仕事やめたんだよね。陸斗に言われて。でもさ……」
「……うん?」
「それも違う気がする。何でも相手に合わせて自分を犠牲にするのも。海結は、陸斗にカレシになって欲しいの? それとも夫になって欲しいの? 陸斗にこうして欲しいとか、こうなって欲しい、じゃなくて、自分自身はどうしたいの?」
その問いは、突然放り込まれた大きな石のように、海結の胸にずしりと響いた。
そうだ。思えば、確かに彩夏の言うとおりだった。陸斗に変わることを求めているだけで、自分自身がどうしたいのかという大切なことを、いつの間にか置き去りにしていた。
それに気づいたとしても、今の海結に、その答えをすぐに見つけることはできなかった。
「ゴメン。言い過ぎたかな」
「ううん、いいの」
横羽線のトンネルを抜け、ジャンクションのカーブに入ると、巨大なタンクや無数の煙突が見えてくる。
熱気のせいか、揺らいでいるように見える。
「この景色、何かいいのよ」
彩夏が、ガラス越しに見える工場群を指差しながら言う。
その声には、さきほどまでの湿ったトーンは、もうない。
「嫌いじゃないけど、私は港のほうがいいかな」
何やら操作する彩夏。
英語の、女性ボーカルの曲が車内に流れた。メランコリックで、スローなバラード。歌詞の意味はわからないが、聴いていると、何かを問いかけられているような気がする。
信号停止と発進を繰り返しながら、ミニは横浜市内を進み、海風が届く場所に近づく。
じきに山下町だ。
窓を細く開けると、隙間から車内に入ってくる熱風に、わずかな潮の匂い。
景色が開けてくる。
右手にクラシカルなホテルが現れ、緑の並木を抜けた先に、横浜港の風景があった。
エンジン音が止むと、静けさが訪れる。
山下公園の真下にある駐車場にミニを駐め、海結と彩夏は階段を上る。
視界が広がる。目の前に港の海と氷川丸、公園の緑。
しかし、そのすべてが白っぽく歪んで見える。
地獄だった。
風はほとんどなく熱気が淀み、容赦なく照りつける太陽と、下からの輻射熱。湿度が異様に高く、空気がねっとりと肌にまとわりついてくる。
人の姿はほとんどない。鳥の声すら聞こえず、通りを行き交う車の音だけだ。
彩夏に先導される形で、海結は公園を歩き始めた。
「ねえ、本当にあそこまで歩くの? ねえ」
大桟橋まで海結を連れてゆこうとしている彩夏。
「あそこから氷川丸背景に撮ったら、映えると思わない?」
「暑い」
「いいじゃん、泊めてあげたんだから」
「やだあ、もう」
彩夏は、横浜を舞台にした刑事ドラマが好きだった。最近、シリーズの新しい映画が製作され、その熱が再燃しているらしい。
大桟橋のウッドデッキに着くと、彩夏は海結を巻き込んで撮影を始める。
人の姿はまばらで、撮影には好都合だが、あまりに暑い。
「動画見て、一度やってみたかったの」
「暑いって。早く避難しよ」
氷川丸やベイブリッジを背景に、彩夏はポーズを決め、海結がスマホで撮る。
「タバコ、くわえられたら、完璧なんだけど」
「意味、わかんない」
今度は二人で並んで撮影する。
「もう、汗だく」
「海結、キめて。撮るよ」
彩夏が海結を撮影する。
「暑い。もうダメ」
「私も、もう、ダメかも」
まるでサウナに入れられているようだ。ふき出す汗で下着がべっとりと肌に張りつく。長袖のスーツを着ている彩夏は、もっと過酷なはず。
限界を迎えた海結と彩夏は、ぐったりしながら炎天下を駐車場へと歩く。
途中、自販機でミネラルウォーターを買い、喉を潤した。
舳先を海に向けて佇む氷川丸を横目に見ながら歩く。
「氷川丸って、もう動かないのかな」
「動くでしょ。直せば、多分」
いつもなら、背を伸ばし颯爽としている彩夏も、今は猫背でよたよたと歩いている。
彩夏の刑事ごっこの後、市内にある百貨店に移動する。
海結は家を飛び出す時、キャリーバッグに詰められる衣類は持ってきている。しかし、ある程度長期の旅行となると、化粧品など足りないものがある。
必要なものを買いそろえる用事以外に、旅に出る前に済ませておきたいことがあった。
最初に、店内の携帯ショップに入る。
小さなカウンター席で、電話番号の変更手続きを済ませる。
「これでもう、こないんだ……」
新しい番号を彩夏に渡した後、海結はそう呟いた。
一時的にせよ、陸斗だけでなく、周囲の人々と自分をつなぎ留めていたものが断ち切られる。残るつながりは彩夏だけ。
言いようのない不安を覚える。
それを察したのか、彩夏が海結の肩に、ぽんっ、と手を置いてきた。
季節ものの水着は、別の階の特設コーナーで扱っていた。
様々な色の水着が並んでいる。ピンク、オレンジ、ブルー等々の、夏の海やプールを彩る色が並ぶ。
ぶら下がる多くの水着の中にひとつ、海結の目を惹いた色のビキニがあった。
深い、群青に近い紺色。
夜の海は、きっとこんな色をしている。そう海結は想像した。
「その色、海結に似合いそうだね」
「そうかな」
「海結は髪と肌の色からすると、その色はいいセレクト。でも……ちょっと大胆じゃない?」
水着を手に取って確かめる。
形自体は定番の三角ビキニだが、布の部分の面積が狭い。上は胸に谷間があらわに、下は尻が半分くらい出てしまうことが、容易に想像できる。
少なくとも、既婚者が身に着けるものではないと思いながら、海結はなぜかラックに戻すことをためらう。
「それ買うの?」
「どうしようかな。色はすごくいいから」
「海結が気に入ったんなら、いいけど。パレオとかついたやつ選ぶと思ってたから、ちょっと意外」
水着の紐に指をかけ、広げてみる。
改めて見ても、やはり挑発的なデザインだ。
しかし、これを着た自分を想像した時、海結は胸が騒いだ。
その感覚は不思議なものだった。今の自分に必要なものだからかもしれない。
気恥ずかしい時は、上から何か羽織れば済むこと、と自分に言い聞かせる。
「これにする」
海結はレジに並んだ。
「羽伸ばすのはいいけど、女のひとり旅だし、陸斗と喧嘩して家飛び出してきた直後なんだから、ハメ外し過ぎないようにね」
冗談めかして忠告してくる彩夏。
「えー、どういうこと?」
「だって、結婚指輪して、ひとりでそれ着てビーチにいたら、まんまナンパ待ちの人妻」
「やだ。私そんなに軽くないから!」
「海結はヤバいから。自分で気づいてないから、なおさらなのよ」
彩夏は笑っている。冗談のはずだが、目が笑っていない気がする。
「彩夏は心配し過ぎ。大丈夫だよ」
「海結がそう言うなら、まあいいけど。でも、まあ、あまり開放的な気分にならないように気をつけてよ」
小さな袋に収まってゆく水着を、海結はしばらく見つめていた。
これまでの自分なら、絶対に選ばなかったものだ。
変化への期待、というものか。
ただの水着なのに、それに何かを期待している自分が、何だかおかしい。
だが、何か予感めいたものは、確かに胸の奥に息づいていた。
(続く)
アパートからほど近いところにある高速バスの待合室。すでに、何人か、汗をかきながら目的の便を待っていた。
キャリーバッグを立て、ペットボトルをあおる男。中学生の友人同士と思しき女の子達の姿。
そういえば、すでに学校は夏休みに入っている。
滑り込んできたバスは、東京駅八重洲口バスターミナル行きだった。
バスが停車するなり、海結は横のハッチを開いて、荷物室にキャリーバッグを押し込む。
この便に乗り込む客は、海結だけだった。
窓際に空いている席を見つけ、腰を下ろす。ひたいに手をやりながら、深くため息をついた。
汗が、鼻の横をかすめて頬へと流れ落ちてゆく。
飲み物の用意もなく家を飛び出してきた。喉が渇いているが、東京までの約一時間、我慢しなければならない。
車内は冷房が強く効いている。それがせめてもの救いだった。
席に腰を落ち着けた今も、海結の中には灰色の感情がぐるぐると渦巻いている。昂りが治まらない。
陸斗と喧嘩して、突発的に家を飛び出してきたものの、海結に行くあてがあるわけではない。
正直、行き先はどこでも良かった。
とにかく今は、陸斗から離れたかった。
海結は、隣の席に置いたバッグからスマホを取り出す。陸斗からの電話を着信拒否に設定し、LINEもブロックする。
位置情報の共有は元々していないが、一応確認した。
バスは連絡道を抜け、東京湾アクアラインに入る。直射日光を避けるために閉めたカーテンの隙間から、東京湾の姿と、製鉄所の煙突が見える。
このバスを使って東京まで通勤していたのは、つい四ヶ月前までのことだ。
その時は気にも留めなかった風景のはずだが、今日はなぜか目に留めておきたい気分になる。
やがて、船の中に飲み込まれるように、下り坂から長いトンネルの中へと入ってゆく。
トンネルの中で、バスは少しだけ速度を上げた。
カーテンを開ける。窓に、流れ去るオレンジ色の光と、自分の顔が映っている。
海結は、これから私はどこに行くのだろうと、まるで他人事のように考えた。
バスターミナルは、東京駅目の前のビルの地下にある。
バスを降りる。喉が渇いている。まだ昼食も食べていない。とりあえず、どこかの店に入ろうと思い、エスカレーターに乗り込む。
八重洲地下街は、土曜日だけあって混んでいた。海結と同じように、キャリーバッグを引いている人も多い。
屋外と違い、地下街は直射日光がない分まだマシだが、それでも通路を蛇行しながら歩いていると、人から発される湿った熱に鈍い頭痛を覚える。
海結は、東京に勤めていた頃、何度か入ったことのある喫茶店を選んだ。
休日に、この店に入るのは初めてだった。
小ぶりだが重厚なテーブルが置かれた、ソファー席に座る。アイスコーヒーとスフレパンケーキを頼み、待っている間に、コップ一杯の冷えた水を飲み干した。
右隣のテーブル席には、これから旅行に出かけるだろう男女が、左隣には、ハングルの本を読む中年の女性が座っている。
アイスコーヒーが運ばれてきた。
海結は、ブラック派だった。ストローから、ひと口、ふた口と飲む。
ようやく、喉の渇きが癒されてきた気がする。
スフレパンケーキにフォークを突き立てると、ふわっ、と生地が崩れ、湯気と甘い香りが立ち昇る。メープルシロップをたっぷりとかけて、ひたすら口に運ぶ。
すぐに食べ終えてしまった。
食べ足りない。もっと食べたいという抑えがたいものがあった。普段ならカロリーを気にするところだが、今日はなぜか歯止めが効かない。
こうなったら、腹いっぱいになるまで食べてやる、そう決めて、ドリアとフレンチトーストを追加する。
今はただ、何も考えず、目の前にあるものを味わうことに集中したい。
外では夏の熱気がうねっているのに、地下街の店の中はエアコンが効き過ぎている。
ひたすら熱いドリアを口に運ぶ海結は、この空間だけが外の世界から隔絶されて、虚空に浮いているような気がしてくる。
その間にも、店内の客は次々に入れ替わってゆく。
両隣の席も、いつの間にか別の顔に変わっていた。
海結だけが、行き先もなく席に座っている。
空席が目立つようになってきた。
食欲は十分に満たした。海結は、ラストに注文したカフェオレを飲みながら、これからどうするのか考え始めた。
陸斗と喧嘩し、家を飛び出してまだ半日も経っていない。今帰宅したところでプチ家出にもならない。
陸斗がいるあの部屋には、当分帰りたくない。
母に連絡して、一時的に実家に身を寄せることも考えてみる。しかし、父母にいったい何を言われるか、想像するだけで気が重い。
思いつくところ、連絡を取る先は、ひとつしかなかった。
海結は、彩夏に電話をかけた。
店の中である手前、LINEを使うことも考えたが、慣れ親しんだ、あのはきはきした声が聞きたい。
彩夏はすぐに電話に出た。
「海結?」
「あ、彩夏? ごめん、今平気?」
海結は、やや抑え気味の声で話す。
「家にいる。どうしたの? 巨乳ちゃん」
「やめてよね、それ」
「じゃあ、バスト九〇って呼ぶわ。あ、陸斗に揉まれて成長した?」
陸斗の名前が出たところで、海結は一瞬声につまった。
喧嘩して飛び出してきたことを言い出せない。
少しの間、沈黙が生まれた。
「海結? どうしたの?」
「……別に、何でもないけど」
思わず、他愛のない話に逃げようとしたが、聡い彩夏はわずかな違和感を聞き逃さない。
「何でもなくないでしょ、その調子。ヘンだよ。LINEじゃなくて電話で、何か話したいことがあるんじゃない? 今どこ?」
彩夏を相手にごまかしは効きそうにない。
「うん……東京。ヤエチカにいる。えーと……今からそっちに行っていいかな? あ、忙しいならいいけど……」
耳に当てたスマホから、彩夏が考えを巡らせている気配が伝わってくる。
「ふーん、その様子だと、何かあったみたいだね。駅まで来てくれる? 迎えに行くからさ。後で全部白状してもらうからね」
やはり、持つべき者は、同性の親友だなと海結は思う。
「ありがとうね」
「いいって。着く時間送って。じゃあ」
電話を切る。
彩夏と会えば、徹底的に尋問されて、洗いざらい白状させられるだろう。
旧友との再会が待ち遠しい反面、少しだけ怖さもあった。
②
海結は、東急田園都市線の各駅停車で、彩夏の住む街に向かう。
もう、午後六時に近い。西からの陽が車内をオレンジ色に染めている。
多摩川の橋梁を渡る。
彩夏の住む場所は、多摩川を挟んで東京都に隣接した市内にある。
海結と彩夏は、横浜市にある大学の学生寮で知り合った。
大学の四年間、寮の四人用区画で暮らしたが、その住人のうちのひとりが彩夏だった。
海結は栄養学部、彩夏は経済学部という違いはあったが、彩夏は、都市のペースや寮での生活になかなか慣れなかった海結を何かと気づかってくれた。
人の一歩も二歩も先を読む鋭いところがあった。その反面、思いついたら後先考えず、斜め上の行動と突拍子もない発言で、周囲を困惑させることもしばしば。
挨拶代わりに海結の胸を揉むくせがあり、出会った当初はずいぶん戸惑った。
海結とは真逆のタイプだったが、不思議とウマが合った。他愛ない話で盛り上がり、休日は一緒に横浜市内へ出かけることも多かった。
彩夏は三年生の時に寮を出たが、その後も二人の関係は変わらず、大学を卒業した今も、こうしてやりとりが続いている。
車内に、駅到着を知らせるアナウンスが流れる。降りる客が、すっと、開くほうのドアの近くへ流れる。
駅に着く時間は、すでにLINEで連絡してある。
改札を出て、彩夏が指定した駅のロータリーへ歩く。
一般車の車寄せに停車していた、漆黒のミニ・クロスオーバーから降りて手を振る人の姿。
「海結、こっち」
彩夏だった。
白いTシャツに、タイト気味のジーンズ。脚がすらりと長い、相変わらずのスタイルの良さ。
休日でも、メイクに抜かりがない。
海結が引いてきたキャリーバッグを後部ハッチに入れ、助手席に案内すると、彩夏はミニをゆっくりと発進させた。
「彩夏、久しぶり、一年ぶりかな」
「実際会うのは、海結の結婚式以来だね」
彩夏のミニは、内装まで真っ黒だった。まだ新車の匂いがする。
「買ったんだ」
「そう。ちょっと無理したけど、かっこいいでしょ。残クレだけどね」
コチコチと、ウィンカーの音が響く。
「悪いね」
「いいけど、海結はうちにかくまって欲しいんじゃない? どうしようか。何か食べてからにする?」
図星。彩夏の勘の鋭さは昔のままだ。
「やっぱり、彩夏に隠し事はできないね」
「当然。そのでかい乳揉ませてくれたらうちに泊めてあげる。で、どうする?」
「お任せ。このへん、よく知らないし」
彩夏は少し考えてから、
「じゃあさ、疲れてるとこ悪いんだけど、うちで何か作ってよ。私、久しぶりに海結の作った料理、食べたい」
と言って、助手席の海結へ、にかっと笑ってみせた。
海結は、学生寮の共有ダイニングを借りて、仲間に料理をふるまっていた。海結にとっては食材と調理方法の研究の一環であり、試食会のようなものだった。失敗も多かったが、それでも彩夏が覚えていてくれたことは嬉しい。
「どこか、スーパーに寄って」
「よしきた!」
彩夏は、団地が並ぶ通りへミニを走らせた。
泡盛の小瓶を開ける音が、コンクリートの部屋の中に響いた。
彩夏が住んでいる古びた賃貸マンションは、大都市の近郊にしては、緑と坂の多い場所にある。
心なしか、ガラス窓をとおして聞こえてくる喧騒が遠い気がする。
小さな琉球ガラス風のタンブラーに注がれる泡盛。タンブラーの淡い青色と、天井の光を受けてとろんと光る泡盛が、どこか海を連想させた。
「さすがだねえ。料理も皿の並べ方も」
彩夏が、テーブルの海結のタンブラーにも泡盛を注ぐ。
「そうでもないよ」
焼いたナスの皮を剥いて冷やし、しょうがと醤油をかけた皿、オクラと長芋を刻んで、器に盛った小鉢。赤いタコと薄緑のきゅうりを和えた酢の物。
海結が、短時間で作った料理が、鮮やかな色彩で並ぶ。
「じゃ、乾杯」
両手で持ったタンブラー。最初のひと口が喉をとおる。思っていたよりも柔らかい口当たりだった。
彩夏は、ぐいっ、と一口で泡盛を飲み干すと、最初に酢の物に箸を伸ばす。口に入れた瞬間、目がぱっ、と開く。
「んーっ、やっぱ海結の作った料理最高。泡盛と合うわー」
「良かった」
満足そうな顔の彩夏を見て、海結も安心する。実際、海結は酒を嗜まないので、合う料理というとわからないところがある。
「私が男なら、絶対嫁にしてた」
「……」
嫁。
海結はすっ、と現実に引き戻された。
海結がタンブラーを置いたのを見計らってか、彩夏が海結の目を見つめてくる。
「それで、何があったの? 聞くよ。私で良ければね」
タンブラーの中に視線を落とす。言葉を探している時間だけ、何かが底に溜まってゆく気がする。
「……ずっと、我慢してた」
海結はぽつりと答えた。
「ずっと我慢してきたと思う。けど、もう我慢の限界。結婚して一年経つのに、ずっと幼馴染のまんまで……」
彩夏は、泡盛を注ぎながら、黙って聞いている。
「陸斗は全然変わってくれなかった。私が仕事やめてから、もっと甘えるようになって……私は陸斗の姉じゃないのに」
海結が話している間も、彩夏の箸は止まらない。今度は焼きナスをほおばっている。
「私の話を真剣に聴こうとしないで、逃げた。もう、どうしていいかわからない」
「陸斗と喧嘩になったの?」
「そう。結婚記念日に何しようか、って話してるうちに」
「もしかして、陸斗は結婚記念日、海結に任せきりだったとか?」
「……何か、私ひとり空回りしてるみたいで、嫌になった」
「陸斗のやつ、今度ゴ××リ捕まえて口の中にねじ込んでやらんと」
「ちょっと彩夏、今食べてるとこ!」
「あ、ゴメン」
「相変わらずなんだから、もう」
彩夏のデリカシーの無さは、昔と何も変わらない。
少しだけ、気が楽になった。
棚の上にある時計は、午後九時を指している。
「それで、家飛び出してから、陸斗からは何の連絡もないの?」
「うん。着信拒否してるから」
「そりゃそうだよね。でも、そろそろだと思うよ」
「何が?」
彩夏が、テーブルのかたわらに置いた自分のスマホに目をやり、何か含んだ笑みを浮かべた。
海結がその意味をはかりかねているうちに、彩夏のスマホが鳴った。
人差し指を口の前に立てて、電話に出る彩夏。
「ご無沙汰。焦ってかけてくる頃だなあって思ってたとこ」
かすかに漏れ聞こえてくる声から、陸斗からの電話だとわかる。
「うん、いるよ。今、私の隣で寝てる」
首をぶんぶんと振って否定する海結に、彩夏はにやっ、と笑ってみせた。
「それは冗談だけど、うちで一緒にご飯食べてる」
話の内容は、容易に想像がついた。
陸斗は、海結が夜になっても帰らず、着信拒否のため連絡も取れないので、心あたりに電話をかけているのだ。
海結はスマホを確認する。実家からの着信履歴はない。
こういうケースの場合、真っ先に電話をかける先は、海結の実家だろう。
しかし、陸斗は、幼少期から海結の父を怖がっている。父が結婚に反対していたことも承知している。怒鳴り込んでくるかもしれないことを、わざわざ告げる勇気は、多分ない。
「はあ!?」
突然、彩夏の声が怒気を帯びたものに変わる。海結はびくっ、と身を縮ませた。
「そんなことだから海結に逃げられるんだよ!」
彩夏はそう叫んで、スマホを握る指に力を込める。
「お前、何やってんだ、マジで」
スマホの向こうで、陸斗が何か言いかけた気配があるが、彩夏はかぶせるように続けた。
「海結は、もう限界だって言ってる。そう。だから家を出たって。電話? 代わらないよ! 海結は絶対出さない!」
椅子から立ち上がり、両足を肩幅に踏みしめ、スマホを構える彩夏。
まるで仁王様のようだと思う。ここは息を潜め、仁王様と陸斗のスマホ越しの対決を見守るしかない。
「そうやって私に泣きついてくる前に、お前考えることあるだろう? 違う! マジで腹立つわ、海結を泣かせて。海結はしばらく帰りたくないって言ってる。胸に手当てて、よーく考えてみろ!」
長い沈黙の後、ようやく陸斗のぼそぼそという声が聞こえてくる。
「海結とは連絡取れるようにはしとく。居場所も。うん、それは約束するから。私に連絡しな。じゃあ」
通話を切る音。
彩夏はスマホをテーブルに置くと、ふーっ、と長く息をついた。
「ありがとう、彩夏」
「いいって。それより、陸斗にはああ言っちゃったけど、本当に帰らなくていいの?」
海結は、タンブラーの縁を指でなぞりながら、
「……まだ、帰りたくない……」
と、小さく呟く。
彩夏は、しばし考え込んでから、海結に切り出した。
「冷却期間、置いたほうがいいかもしれないね」
「冷却期間?」
「そう。いったん距離を置いて、海結も陸斗も冷静に考える時間を作るの。ものごとを整理する時間って言うのかな」
海結は、タンブラーを傾けて泡盛をあおる彩夏の顔を見る。自分より少しだけ大人びて見えてくる。
「でも、月曜は振休だからいいけど、私もあさってからは仕事だから。海結をかくまえるのも二泊くらい。どうしたもんかな……」
彩夏は、就職や転職、旅行やブライダルなどの情報を総合的に扱う会社に勤めている。日々、営業職として忙しく飛び回っているはずだ。
「ごめんね。わかってる。長居はしない」
そう言ってみたものの、ここ以外に身を寄せる場所が思いつかない。
実家に帰るのは気が引けるし、すぐに陸斗に知られることになるだろう。
友人の家を転々とするか。それは迷惑になる。彩夏もそうだが、それぞれの生活がある。
「じゃあさ、旅行に行くのはどう? ちょっと長めの」
「あ、そうか。そうだね」
海結は、彩夏のアイデアに飛びついた。
これを機会に旅をするのも良い、海結はそう思った。
主婦だって、少しは楽しむ時間があってもいいはずだ。
「海結は、どこに行きたい?」
手元に、タンブラーの淡い青色がある。
「そうだね、旅行に行くなら……海のあるところ、かな」
「新婚旅行行けなかったって、ぼやいてたじゃん。どこだったっけ?」
「北海道か沖縄だった」
彩夏が、我が意を得たり、というふうに手を叩く。
「沖縄! いいね。悩んでることとか全部置いといてさ、思い切りビーチで羽を伸ばすのも」
「いいね。海で泳ぐのなんて、何年ぶりかな」
陸斗に対する当てつけのようだと思いながら、海結は大きくうなずく。
北海道だったら知床だ。シャチを間近で見るのに興味はあるが、今の海結は、沖縄のほうに大きく気持ち傾いていた。
海結の脳裏に、深い群青色の海と、珊瑚礁の光景がぽっ、と浮かぶ。陽の光を反射してきらきらと輝く波、夏の空、潮の香り。
潮騒の音に包まれるだけでもいい。このもやもやした気持ちも、少しは楽になるかもしれない。
なぜか、自分の中に眠っていたものが、強く揺さぶられるような気がする。
「そうと決まれば、買い物だね。旅行の準備は要るでしょ」
「そうだね。色々足りないものあるし、水着も買いたい」
「なら、明日、横浜行こうよ。買い物と、気分転換も兼ねて。久しぶりに、二人でさ。ねっ?」
海結は、泡盛をくいっ、と喉に流し込んだ。
学生の頃と変わらぬ態度で接してくれる彩夏。嬉しさとありがたさが、身に染みる。
「本当、助かる。ありがとうね、彩夏」
「ありがとうなんていらないから、シャワー浴びたら久しぶりに乳揉ませて」
茶化すように笑いながら、彩夏はタコを口に入れる。
「もう。変わらないね。そういうところ」
海結は笑った。素直に笑えたのは久しぶりだった気がした。
③
まだ朝の八時だというのに、むわっ、とする熱気が体を包む。
夜間に気温が下がり切らず、翌日に繰り越された熱が蓄積しているようだった。
彩夏が、ミニ・クロスオーバーのロックを解除する。
海結は、助手席に収まった。
運転席に乗り込む彩夏は、細いストライプが入ったネイビーのパンツスーツに、白いTシャツ、レイバンのサングラス、といういで立ちだった。
海結は、タンクトップの上から薄手のシャツを羽織り、下はジーンズの短パン、という、いつもどおりの軽装。
これでも暑さが堪えるはずなのに、彩夏の服装はどう見ても異常だった。
「そんな格好で大丈夫?」
彩夏はサングラスの位置を直しながら、にやっ、と笑った。
「これが横浜に行く時の私の正装。このくらいテンション上げてかないと」
「いったい何の正装よ」
彩夏のかっ飛び具合は、大学生の頃からまったく変わっていない。
エンジンがかかると、小ぶりな車体に似合わぬ威勢の良い音が響いた。
エアコンが効いた車内は快適だが、陽の光は窓越しでも圧迫を感じるくらい強い。黒いボンネットが、じりじりと焼かれている。
海結は、熱で間延びしないかと要らぬ心配をする。
ミニは、尻手黒川道路に出る。車も信号も多い。少し走っては停止、を繰り返している。
「昨日は、ちゃんと寝られた?」
彩夏の問いかけに、海結は少しだけ間を置いて、うなずいた。
「うん、眠れたけど、途中変な夢見て、一回だけ目が覚めた……かな」
「へえ、どんな夢?」
「たい焼きになって焼かれる夢」
「何、それ」
声を出して笑う彩夏。
ミニは、交差点を左折し、鶴見川を渡る。
「ねえ、海結」
「ん?」
「昨日の電話でさ、陸斗、俺の何が悪かったのか海結に聞いてくれなんて言うもんだから、自分で考えろって言い返してやった」
「……そう」
「海結は、陸斗と恋人とか、夫婦の関係になりたいんだよね? いつまでも幼馴染じゃなくて」
その言葉に、海結は膝に置いた手に視線を向けたまま答えた。
「そうなりたかった。ずっと幼馴染同士で、いきなり結婚して、恋人らしいこと何もしてこなかった。そこが欠けてるから、陸斗と夫婦らしくなれないのかな、って」
「うん」
「でも、どうしたらいいかわからなくなった。陸斗に、どう伝えたらいいのか、そう話したほうがいいのか」
「うん」
「私がいろいろ悩んでることなんて、みんな、どの夫婦も自然に解決してきたことなのかも、とか思ったり……」
左手の結婚指輪が、フロントガラスから入ってくる風景を映し出している。
「海結の言いたいこと、わかるよ」
彩夏はゆっくりと続ける。
「わかるけど、やっぱり、ちゃんと伝えて、話し合ったほうがいいと思う」
「……」
「男って、はっきり言わないとわからないから。幼馴染でも、多分そうじゃないかな」
運転席の彩夏の横顔。何かを切り出そうとしている様子がある。
しばらく、海結は彩夏の言葉を待った。
「……確か、話したこと、なかったよね」
「彩夏の結婚のこと?」
「そう」
彩夏は三年生の時、学生結婚して寮を引き払った。
学内では、彩夏の結婚相手について、様々な噂が飛び交ったが、彩夏が何も話そうとせず、海結も詳しくは聞けなかった。
結婚してからも、特に変わった様子もなく、彩夏は大学に通ってきていた。海結との仲にも特に変化はなかった。
しかし、彩夏の中で、結婚していることの意味が徐々に希薄になってゆくのを、彩夏のちょっとした仕草から、海結も感じていた。
結局、四年生の頃に彩夏は離婚し、大学を卒業する前にバツイチになっていた。
彩夏の表情は、サングラスのせいでよく見えない。声のトーンが、いつもより低く感じる。
「あいつと、結婚する時に約束したの。お互いに束縛しないようにしよう、ってね。あいつはあいつで、追いかけてるものがあったし、私は学生で、やりたいことが山ほどあった。しばらくはカレシとカノジョのままでいい、そのうち自然に落ち着いて、夫婦らしくなってゆく、そう思ってた」
「……」
「でも、違った。結婚は、恋愛の延長じゃなかった」
首都高速横羽線に入っても交通量は多く、車間距離がどうしても短くなる。速度が乱高下する。
海結は、前後に揺さぶられながら、彩夏の話に耳を傾ける。
「私もあいつも、それまでの自分のやり方を捨てようとしなかった。そんなんで新しいものが生まれてくるはずもなくて、そのうち、何のために結婚したのかわからなくなった。一緒に暮らすことにも疲れるようになって、後はお定まりのコースで、別居して、離婚」
トンネルに入る。
現れては後ろに消えてゆく、合流と分岐を示す表示板が、やけに眩しく感じる。
「違うところで生まれて、違った場所で生きてきた二人が、偶然出会って、つき合って、結婚したのに、結局、二人で何も作れなかった。……もったいないよね、本当」
海結は、返す言葉がなかった。
彩夏が、初めて打ち明ける話を、ただ黙って聞いている。
「海結は、仕事やめたんだよね。陸斗に言われて。でもさ……」
「……うん?」
「それも違う気がする。何でも相手に合わせて自分を犠牲にするのも。海結は、陸斗にカレシになって欲しいの? それとも夫になって欲しいの? 陸斗にこうして欲しいとか、こうなって欲しい、じゃなくて、自分自身はどうしたいの?」
その問いは、突然放り込まれた大きな石のように、海結の胸にずしりと響いた。
そうだ。思えば、確かに彩夏の言うとおりだった。陸斗に変わることを求めているだけで、自分自身がどうしたいのかという大切なことを、いつの間にか置き去りにしていた。
それに気づいたとしても、今の海結に、その答えをすぐに見つけることはできなかった。
「ゴメン。言い過ぎたかな」
「ううん、いいの」
横羽線のトンネルを抜け、ジャンクションのカーブに入ると、巨大なタンクや無数の煙突が見えてくる。
熱気のせいか、揺らいでいるように見える。
「この景色、何かいいのよ」
彩夏が、ガラス越しに見える工場群を指差しながら言う。
その声には、さきほどまでの湿ったトーンは、もうない。
「嫌いじゃないけど、私は港のほうがいいかな」
何やら操作する彩夏。
英語の、女性ボーカルの曲が車内に流れた。メランコリックで、スローなバラード。歌詞の意味はわからないが、聴いていると、何かを問いかけられているような気がする。
信号停止と発進を繰り返しながら、ミニは横浜市内を進み、海風が届く場所に近づく。
じきに山下町だ。
窓を細く開けると、隙間から車内に入ってくる熱風に、わずかな潮の匂い。
景色が開けてくる。
右手にクラシカルなホテルが現れ、緑の並木を抜けた先に、横浜港の風景があった。
エンジン音が止むと、静けさが訪れる。
山下公園の真下にある駐車場にミニを駐め、海結と彩夏は階段を上る。
視界が広がる。目の前に港の海と氷川丸、公園の緑。
しかし、そのすべてが白っぽく歪んで見える。
地獄だった。
風はほとんどなく熱気が淀み、容赦なく照りつける太陽と、下からの輻射熱。湿度が異様に高く、空気がねっとりと肌にまとわりついてくる。
人の姿はほとんどない。鳥の声すら聞こえず、通りを行き交う車の音だけだ。
彩夏に先導される形で、海結は公園を歩き始めた。
「ねえ、本当にあそこまで歩くの? ねえ」
大桟橋まで海結を連れてゆこうとしている彩夏。
「あそこから氷川丸背景に撮ったら、映えると思わない?」
「暑い」
「いいじゃん、泊めてあげたんだから」
「やだあ、もう」
彩夏は、横浜を舞台にした刑事ドラマが好きだった。最近、シリーズの新しい映画が製作され、その熱が再燃しているらしい。
大桟橋のウッドデッキに着くと、彩夏は海結を巻き込んで撮影を始める。
人の姿はまばらで、撮影には好都合だが、あまりに暑い。
「動画見て、一度やってみたかったの」
「暑いって。早く避難しよ」
氷川丸やベイブリッジを背景に、彩夏はポーズを決め、海結がスマホで撮る。
「タバコ、くわえられたら、完璧なんだけど」
「意味、わかんない」
今度は二人で並んで撮影する。
「もう、汗だく」
「海結、キめて。撮るよ」
彩夏が海結を撮影する。
「暑い。もうダメ」
「私も、もう、ダメかも」
まるでサウナに入れられているようだ。ふき出す汗で下着がべっとりと肌に張りつく。長袖のスーツを着ている彩夏は、もっと過酷なはず。
限界を迎えた海結と彩夏は、ぐったりしながら炎天下を駐車場へと歩く。
途中、自販機でミネラルウォーターを買い、喉を潤した。
舳先を海に向けて佇む氷川丸を横目に見ながら歩く。
「氷川丸って、もう動かないのかな」
「動くでしょ。直せば、多分」
いつもなら、背を伸ばし颯爽としている彩夏も、今は猫背でよたよたと歩いている。
彩夏の刑事ごっこの後、市内にある百貨店に移動する。
海結は家を飛び出す時、キャリーバッグに詰められる衣類は持ってきている。しかし、ある程度長期の旅行となると、化粧品など足りないものがある。
必要なものを買いそろえる用事以外に、旅に出る前に済ませておきたいことがあった。
最初に、店内の携帯ショップに入る。
小さなカウンター席で、電話番号の変更手続きを済ませる。
「これでもう、こないんだ……」
新しい番号を彩夏に渡した後、海結はそう呟いた。
一時的にせよ、陸斗だけでなく、周囲の人々と自分をつなぎ留めていたものが断ち切られる。残るつながりは彩夏だけ。
言いようのない不安を覚える。
それを察したのか、彩夏が海結の肩に、ぽんっ、と手を置いてきた。
季節ものの水着は、別の階の特設コーナーで扱っていた。
様々な色の水着が並んでいる。ピンク、オレンジ、ブルー等々の、夏の海やプールを彩る色が並ぶ。
ぶら下がる多くの水着の中にひとつ、海結の目を惹いた色のビキニがあった。
深い、群青に近い紺色。
夜の海は、きっとこんな色をしている。そう海結は想像した。
「その色、海結に似合いそうだね」
「そうかな」
「海結は髪と肌の色からすると、その色はいいセレクト。でも……ちょっと大胆じゃない?」
水着を手に取って確かめる。
形自体は定番の三角ビキニだが、布の部分の面積が狭い。上は胸に谷間があらわに、下は尻が半分くらい出てしまうことが、容易に想像できる。
少なくとも、既婚者が身に着けるものではないと思いながら、海結はなぜかラックに戻すことをためらう。
「それ買うの?」
「どうしようかな。色はすごくいいから」
「海結が気に入ったんなら、いいけど。パレオとかついたやつ選ぶと思ってたから、ちょっと意外」
水着の紐に指をかけ、広げてみる。
改めて見ても、やはり挑発的なデザインだ。
しかし、これを着た自分を想像した時、海結は胸が騒いだ。
その感覚は不思議なものだった。今の自分に必要なものだからかもしれない。
気恥ずかしい時は、上から何か羽織れば済むこと、と自分に言い聞かせる。
「これにする」
海結はレジに並んだ。
「羽伸ばすのはいいけど、女のひとり旅だし、陸斗と喧嘩して家飛び出してきた直後なんだから、ハメ外し過ぎないようにね」
冗談めかして忠告してくる彩夏。
「えー、どういうこと?」
「だって、結婚指輪して、ひとりでそれ着てビーチにいたら、まんまナンパ待ちの人妻」
「やだ。私そんなに軽くないから!」
「海結はヤバいから。自分で気づいてないから、なおさらなのよ」
彩夏は笑っている。冗談のはずだが、目が笑っていない気がする。
「彩夏は心配し過ぎ。大丈夫だよ」
「海結がそう言うなら、まあいいけど。でも、まあ、あまり開放的な気分にならないように気をつけてよ」
小さな袋に収まってゆく水着を、海結はしばらく見つめていた。
これまでの自分なら、絶対に選ばなかったものだ。
変化への期待、というものか。
ただの水着なのに、それに何かを期待している自分が、何だかおかしい。
だが、何か予感めいたものは、確かに胸の奥に息づいていた。
(続く)