黄金のオルカ

第四話 海へ



 那覇空港に向けて、海結を乗せた機体が徐々に高度を下げている。
 飛行機の便を予約したのは昨日だった。運良く確保できた窓際の席。陽ざしを照り返す海と、白く砕ける波頭が見える。
 目指す南の島は、もう目の前まで近づいていた。

 ボーディングブリッジ内を歩く。むわっ、とした熱気が頬にまとわりつく。
 ターミナルビルの二階は、これから出発する人と、到着した人とで、混雑している。頭上に、アナウンスの声がひっきりなしに反響する。
 海結は、大きな窓の前で足を止めた。
 旅客機がゆっくりと動くその向こう、滑走路に銀色に光る戦闘機の姿があった。
 炎と、揺らめく熱を残して、あっという間に飛び立つ。ごおっ、と空気を震わせながら、空へと吸い込まれていった。
 ここが日本だという実感が湧かない。まるで異国に来たような感すらある。
 エスカレーターで一階に下り、荷物受取所へ向かう。
 ターンテーブルに、自分のキャリーバッグが流れてくるのをじっと待つ。目の前を次々に通り過ぎる荷物の中に、自分のキャリーバッグを見つける。
 引き上げると、手にずしりと重みが伝わってくる。ハンドルが、汗ばんだ手のひらに吸いついた。
 バスの案内所へ行く。
 沖縄旅行では、レンタカーを使うのが一般的だ。
 海結も免許は持っているが、たまに陸斗の軽自動車を運転するくらいだった。
 初めて来た沖縄をレンタカーで移動する気にはなれず、窓口で、名護バスターミナル行きのチケットを購入する。
 ターミナルビルの外に出ると、強い風が吹いていた。
 青空が眩しく、陽ざしが顔に熱い。
 やがて、目的の高速バスが到着し、海結はキャリーバッグをハッチの中に預けて車内に乗り込んだ。

 港を左に見ながら、バスは那覇の市街地を走ってゆく。車窓の外、白っぽいコンクリート造りの建物が並ぶ。
 建物の数が減ってくると、緑色の丘陵地が近づいてくる。
 沖縄自動車道に入り、バスは、赤瓦と白い漆喰のバス停に停車しながら北上する。見慣れたものとはどこか違う、沖縄独特の風景が車窓を流れてゆく。
 ダム湖を越えると、名護湾が開けてくる。
 水色と紺色が混じり合う海。遠く本部半島が、湿度のせいで白っぽくかすんで見える。
 バスは自動車道を下り、名護の市街地を通り抜け、バスターミナルに到着した。
 そこは、バスターミナルというよりも、操車場、という風情だった。

 バスターミナルの建物の中は、売店や飲食店が並んでいた。
 ペットボトルのシークワサージュースを買う。次のバス便を確認し、飲みながら待つ。
 陽が少し傾いてきている。
 やってきた路線バスに乗る。
 アーケードのある古めかしい商店街をバスは走る。
 ベランダの造形に意匠を凝らしたコンクリートの家。赤瓦。背の高い建物はあまりない。
見慣れたコンビニの看板が、海結の目には逆に異質に映る。
 再び海が見えてきた。
 バスは海沿いの道を進む。
 空は広くなり、海の色は濃さを増す。陽は傾きを増し、それまで白っぽく見えていた景色を、黄色く染め始めている。
 左手に海の色を眺める。どことなく、海結の生まれ育った県の南部、海沿いの国道を走る時に見る風景と似ている、と思う。
 海結が、軽く眠気を覚えた頃、バスは小さくまとまった市街地に入る。

 降りたバス停は、村役場のすぐそばにあった。その脇にある赤瓦の東屋が、村営バスの停留所だった。
 乗り継ぎまでの間、村役場の中で待つこともできたが、道中ずっとエアコンの風に当たり続けてきたので、外の東屋で待つことにする。
 石造りのベンチに腰を下ろす。人も車も少なく、静かだった。
 しばらくすると、汗が背中を伝って落ちてゆくのを感じる。
 太陽は、西の空に沈みつつあった。もう午後六時に近い。潮と、緑の匂いが混じる風が吹く。空気はまだ生ぬるいが、羽織っているシャツを通り抜けて、体の汗を乾かしてゆく。
 白いハイエースが東屋の前に停まった。ドアに村営バスを示す表示がある。
 白髪の、陽に焼けた顔の運転手に尋ねる。
「これ、○○ホテルの近くまで行きますか」
「行きますよ」
 キャリーバッグを持ち上げながら、後部の座席に乗り込んでシートベルトを締める。
 ハイエースが動き出し、次第にヤンバルの森へと分け入ってゆく。
 途中、運転手に何度か話しかけられたが、海結はそれに返事をする間もなく眠ってしまった。

 運転手に声をかけられ、海結が目を覚ましたのは、日没の前だった。
 白い壁と赤瓦の建物が現れた。三階建ての、やや小ぶりなリゾートホテル。海結が予約した宿だった。
 沖縄風、というより中国風、あるいは東南アジア風、少しヨーロッパの香りも混じった異国情緒がある。
 ハイエースを降り、キャリーバッグを引きずってホテルに入る。
 フロントで、チェックインを済ませる。
 ロビーに置かれた、螺鈿細工の施された重厚なテーブルと椅子。あちこちにヤンバルクイナに関するものが置かれ、掲示されている。自販機のコーナーもあった。
 三階にある部屋の鍵を受け取る。
 鍵を回して、黒っぽい色のドアを開けると、床は木張りだった。
 アンティーク調の家具に細かい傷があり、使い込まれた感じが、かえって趣を生んでいる。
 空腹で、喉も乾いていた。
 部屋に荷物を置き、レストランへ行く。
 レストランは、他の宿泊客で半分くらいの席が埋まっていた。
 女子の二人組。講義やゼミ、という会話の内容からすると、大学生の友人同士らしい。まだ幼い子の口に食事を運ぶ親子の姿。外国人もいる。海結の斜め向かいの席は、中国人の家族のようだ。
 和風の定食を食べる。ホテルでよくある夕食だが、黒毛和牛のハンバーグは、口に入れた時の肉汁が美味だった。
 腹が満たされてくると、代わりに寄る辺ない空虚さが心を占めるようになる。
 レストランは、海結以外の客で賑わっているのに、自分ひとりが空間にぽっかりと開いた穴の中で食事をしている気がしてきた。

 部屋に戻る。汗が染み込んだブラを外し、ショーツも脱いで脚から抜く。
 鏡に映る自分の姿。
 少し崩れかかった化粧を落としてから、シャワーを浴びる。
 湯気に包まれながら、海結は自分がここにいる理由をぼんやりと考えた。
 ホテルのパジャマに着替え、ベッドに腰を下ろす。スマホを手に取り、彩夏に電話を入れる。
「着いた?」
 彩夏の声が、気のせいか遠く感じる。
 今朝、羽田空港まで送ってもらったばかりなのに、その声がやけに懐かしく感じる。
「やっと着いた」
「お疲れ。どんなとこ?」
 海結は、ごろりとベッドに横になる。
「いいとこだよ……でも、何か、最果ての地まで来た気がする」
「それでいいんじゃない。いつもと同じじゃリフレッシュにならないでしょ」
「まあ、そうだけど」
「どう? しばらくそこにいる?」
「うん、そのつもり」
「今日は早く寝て、明日から、思い切り羽伸ばしてね」
「言われなくても、今日は疲れたから、もう寝る……」
 あくびが出た。
 互いに「おやすみ」と言って電話を切ると、部屋の中の静寂が戻った。
 カーテンの向こうは、しん、と静まり返った夜。こういう夜に、ヤンバルクイナは姿を見せるのかもしれない。
 大の字になり、白い天井を見上げた。
 シーツのひんやりとした感触に、意識が吸い込まれそうになる。
 私は、どうしてこんなに遠いところまで、何を求めてやって来たのだろう。何を探しにここまで来たのだろう。
 その答えを探しているうちに、頭の中が白く霞み、海結はゆっくりと眠りの中に沈んでいった。



 翌朝、カーテン越しの柔らかな光で目を覚ました。
 ホテルのパジャマのまま、海結はバルコニーに出てみる。
 バルコニーは、白い欄干がいかにもコロニアルな雰囲気だった。
 目の前に広がるヤンバルの森。亜熱帯性の木々が連なり、どこまでも濃い緑が続く。野鳥の声が遠くから聞こえる。
 深呼吸する。空気が濃い、と感じる。爽やかで、どこか潮っぽい湿り気を含む風。植物からの匂いも混じっている。

 着がえを済ませ、化粧をしてから、朝食のためにレストランへと下りる。
 起床が少し遅かったせいか、客の姿は少ない。多分、もう目的の場所へと出発していったのだろう。
 窓際の席に座る。メニューは、焼き魚や納豆、味噌汁、という典型的な和食だった。
 海結は、ご飯を口に運びながら、今日の過ごし方を考えた。
 ホテルと提携している業者が、様々な自然体験型のツアーを企画している。
 それに参加する客は、すでに出発している時間だった。しかし、部屋の中で一日中、ただ無為に過ごすのも気が滅入る。
 朝食を摂った後、海結は一度部屋に戻ってから、ホテル周辺の散策に出かける。
 エントランスの前は、左右に道路が伸びている。
 太陽は、すでにかなり高い。海結は、横浜の百貨店で購入したカンカン帽をかぶってから歩き出した。
 向かって左の方向へ、坂をなだらかに下ってゆく。

 スマホの地図を頼りに、海沿いの集落を目指して県道を歩く。
 しばらくすると、左右に畑が現れる。背の高いサトウキビの緑が、赤土の上で揺れている。
 沖縄らしい風景。海結は、ここに来て良かったと初めて思う。
 潮気と、わずかな涼が混ざった風が吹く。そして緑の匂い。その濃さにむせかえるほどだ。
 焼けたアスファルトの上に、陽炎が揺れる。頭上近くから照りつける陽ざし。汗が出る。羽織ったシャツの中で、タンクトップが背中に張りつく。
 炎天の中、歩道のない県道を歩き続けていると、どうしても視線が下を向く。
 左手の結婚指輪が、空を映している。
 心の中に、重いわだかまりがある。今は、それを抱えたまま漂っていたいと思った。
 持参したペットボトルの水をあおる。
 見上げた空の色も、青く濃い。白い雲が風に流されてゆく。
 青空の下、ひとりきりだ。
 見知らぬ土地、沖縄独特の自然。風の音と、自分の足音だけが、乾いたアスファルトの上に落ちてゆく。
 先へ先へと続く道を歩き続ければ、沖縄本島東岸の集落にたどり着く。海が見えてくるはずだった。
 しかし、海結はその場で足を止めた。
 海結自身にも理由はわからない。海に行きたくて決めた沖縄旅行なのに、なぜかその気が起きない。
 まだだ。こっちの海じゃない。心がそう言っているような気がする。
 太陽は、ほとんど頭上にある。汗がひっきりなしに流れる。ペットボトルの水も残り少ない。
 海結はホテルへと、来た道を戻ることにした。

 ホテルに戻った海結は、涼しいロビーでしばし休憩する。
 重厚な木製の椅子に陣取り、ロビーの一角に設けられたラックから、自然体験ツアーのパンフレットを手に取る。
 ぱらぱらとめくってみる。
 山登り、シュノーケリング、シーカヤックと、様々なツアーがある。どれも美しい写真が掲載されているが、気乗りしない。
 パンフレットの中に、A4の紙一枚だけの簡素なものがあった。
 いかにも素人がパソコンで切り貼りしてプリントしただけ、という体裁だった。パンフレットというよりリーフレット、あるいはチラシだ。
 何だろうと思い、目をとおしてみる。
 おかしな内容だった。
 「ホエールウォッチング」とあるのにクジラの写真はなく、なぜか載っているのはすべてシャチ。
 波の上に頭だけ出しているものや、背びれだけが写っているもの、群れをなしてボートを追いかけてくる写真もある。
 シャチもクジラの一種だから、間違ってはいないが、それにしてもなぜ、この沖縄でシャチなのか。沖縄と言えば、ザトウクジラのウォッチングのはずだ。
 日本では、北海道の知床周辺がシャチの観察ポイントだが、沖縄近海で、というのは聞いたことがない。


「ホエールウォッチングガイド」

このクルーズは、沖縄本島北部の海域に生息する野生のシャチの観察と記録を目的にしています。
野生のシャチの研究を行っているトーマス・デビッドソンが主催し、ガイドします。
●出港時間
・午前クルーズ 火・木・土運航
 〇八時三〇分出港/一一時三〇分帰港
 (予約要・送迎あり)
・午後クルーズ 水・金・日運航
 一六時〇〇分出港/一九時〇〇分帰港
 (予約要・送迎あり)
・夜クルーズ(星空観察) 火・木・土運航
 二〇時〇〇分出港/二三時〇〇分帰港
 (予約不要・送りあり)
●重要事項
・一回のクルーズにつき最大四名様まで。
・シャチやその他の海獣は野生動物なので、必ず見られるとは限りません。
・船酔いしやすい方は、乗船前に酔い止め薬を服用してください。
・日に焼けます。長袖の服を推奨します。
・月曜日は運休です。
・天候や海況により、欠航または時間変更になることがあります。
●ご予約・お問い合わせ
・日中(午前・午後)クルーズ
 宿泊先にてご予約ください。
・夜クルーズ
 直接〇〇〇漁港までお越しください。


 事務的で、商売気がない文章。正直、つかみどころがない。
 海結は半信半疑のまま、フロントのかりゆしシャツを着た若い女性に尋ねてみた。
「このホエールウォッチングなんですけど」
「お客様もリピーターの方ですか?」
「いえ。ちょっと聞きたくて」
 複数回参加する客が多いのだろうか。期待が少し高まる。
「このへんに、本当にシャチなんているんですか?」
「いるみたいですね。ただ、遭遇率は高くないようです」
「ガイドの人、外国の人?」
「アメリカ人で、観光船業を営んでいる方です。元マリーンと聞いています」
「マリーン?」
「アメリカ海兵隊です。キャンプ・ハンセンにいたそうですが」
 海結は、レスラーのような元軍人おじさんが、にっかり笑っている姿を想像した。
 とりあえず、明日の午後便を予約し、名簿に名前や住所を書き込む。
「運航中止になった場合は、すぐにお知らせしますので。集合は、明日の午後三時少し前までに、ホテルの裏、従業員用の駐車場があるところですが、そこにお願いします」
「ホテルの裏、ですか?」
「いえ、あの……ああいうのを好まないお客様もいらっしゃいますので……」
 そう言って、顔を下に向ける。
 何か含みがあるように思えたが、その意味がわからないまま、海結はうなずいた。
 ロビーには、昨日レストランにいた、女子大生の二人がいた。海結と同様、ホエールウォッチングのリーフレットを手に話し込んでいる。
 ひとりは快活でよくしゃべるタイプ。もうひとりは落ち着きがあるタイプだった。
 二人の関心はシャチでなく、もっぱら海でボートに乗るレジャー体験と、トーマスというガイドのことだった。
 聞こえてくる会話からは、学者肌の人物と想像している様子だった。
 海結とまったく異なる予想をしているのが面白い。
 それにしても、いったいどんな男なのだろうか。なぜアメリカ人が沖縄に住んでシャチの研究をし、観光船業を営んでいるのだろうか。
 トーマスという男に興味が湧いてくるのと同時に、もしかしたらシャチに出会えるかもしれないという期待も膨らむ。
 わくわくしながら待つ、という感覚。子供の頃にはあったが、久しく忘れていたもの。
 明日も晴天で、海も穏やかであることを、海結は願った。



 海結は、顔や首筋、手などに日焼け止めを丁寧に塗り込んだ。
 酔いやすい体質ではないが、念のため酔い止め薬を一錠、ミネラルウォーターで胃に流し込んでおく。
 ホエールウォッチングの集合場所が、なぜかホテルの裏という点が引っかかるが、部屋の鍵を締めてロビーに下りる。
 エントランスから出て、くるりと建物を一周して裏に回る。
 砂利が敷きつめられたところと、土がむき出しになっているところがある。数台駐まっている車は、多分従業員のものだ。
 どうにも落ち着かない気分で待っていると、少しして、白い軽のバンがやってきた。
 ボディのあちこちに赤錆が浮き、海辺で使い込まれている雰囲気。
 運転席から降りてきた赤銅色の青年。
 海結が想像していたよりもずっと若い。
 黒いキャップを目深にかぶり、素肌の上から直にオレンジ色のライフジャケットを着込んでいる。左手首に、いかついダイバーズウォッチ。黒いブーメランタイプの水着、白いデッキシューズ。
 まるで、ライフガードが浜からそのままやってきたような姿だ。
 ドアを閉め、青年が海結に近づいてくる。
 海結より頭ひとつ背が高い。一八〇をゆうに超えるだろう。見事な逆三角形の体躯。全身の筋肉が隆々としている。
 対面した海結は、早速目のやり場に困ることになった。
 海パンの前が、かなり大きく盛り上がっている。下へ丸くせり出しているだけでなく、上へも水着の上端近くまで張り出している。
 輪郭が浮かび上がるのを、水着の張力によって何とか押さえつけているような感じだ。
 海結は、それが何なのか意識してしまい、慌てて目をそらした。
 当の本人は何も意識していないようだが、正直、セクシャルに過ぎる。
 フロントの女性が言っていたことに、合点がいく。
 不快に思う客も確かにいるかもしれない。ホテル側としても、この水着姿でエントランスやロビーを闊歩されても困る、ということだろう。
 しかし、これがこの青年の仕事のスタイルなのだ、と納得できる自然さがあるし、何より様になっている。
「〇〇海結さんですか?」
 男性らしい、中低音の声が聞こえる。
「あ、はい。そうです」
「僕が、ホエールウォッチングのガイドで船長のトーマス・デビッドソンです。よろしくお願いします」
 抑揚はないが、流暢な日本語だった。少しほっとする。
 視線を上に向ける。
 トーマスと名乗る青年の顔を改めて見た瞬間、海結は固まってしまった。
 キャップのつばが作る深い影が落ちるその顔。一目見るだけで、美青年だなあ、と感嘆の声を上げたくなる。
 目はちょうど良い深さに納まり、その上に濃くまっすぐなまゆ。乱れなく通った鼻筋の下に、深い人中と、ぎゅっと結んだ形の良い唇。
 顔の輪郭には、しっかりとした幅があり、顎の張り出しも成人の男性そのものだ。
 不思議なことに、白人男性にしてはかなり童顔寄りの印象がある。少年のようなかすかな甘さと、柔らかささえ感じる。
 陸斗と同じ歳か、むしろ少し若いくらいでは、と思う。
 しかし、若々しい顔立ちの反面、その表情は軍人のように締まり、凛々しいが変化に乏しい。
「どうかしましたか?」
 見とれたまま動かない海結を訝しんだのか、トーマスがじろりと見下ろしてくる。
 琥珀色の瞳。
 何の感情も読み取れない、無機質なその目に、海結は思わず半歩後ずさりする。
 その時、背後から弾んだ声が聞こえた。
「え、ヤバ……」
 振り返ると、少し遅れてきた女子大生二人組がいる。
 驚きと笑いが混ざったような顔と、両手で口を覆う仕草。
 トーマスが予想を覆す若いイケメンだったことに舞い上がっているようだ。
 彼女達はトーマスを左右から挟み、
「触ってもいいですか」
と尋ねた後、その体を触り始めた。
 肩や腹の筋肉に触れ、太い腕に抱きつく。そのうちにきわどい場所まで触り始めるのではないかと、見ている海結のほうがハラハラする。
 トーマスは軍隊式の「休め」の姿勢で無表情を保ち、二人のしたいようにさせている。
 女子大生という比較対象がいるおかげで、海結はトーマスの容姿をよりじっくり観察することができた。
 頭は、日本人と並んでも違和感のない大きさ。脚が相対的に長い。
 西洋の美術に見られるような完璧なバランス、完全な八頭身の体型に見える。
 海結は、人間の肉体の完成形が目の前にいるような気がして、また見とれてしまう。
 女子大生のうちのひとりが、スマホを取り出してトーマスを撮ろうとした。
 その瞬間、
「撮影禁止だ」
と、トーマスの声が制した。
 大きな声でも威圧的なトーンでもないが、あたりの空気が瞬時に凍りついた。
「海もシャチも好きなだけ撮ってもらって構いません。だが、僕を撮るのはやめてもらいたい」
 女子大生は慌ててスマホをしまい込み、もうひとりもトーマスの腕から急いで離れる。
 意気消沈した二人は、
「……すいません」
と、海結にも小さな声で謝った。

 現金で参加費を支払う。
 トーマスは流れるように動く。ドアを開いて女子大生達を後部座席へ、海結を助手席に座らせる。
 全員のシートベルトを確認してから、運転席に乗り込んでキャップを脱ぎ、軽バンを慎重に発進させた。
 ヤンバルの森の中へ続く道路を、沖縄本島西側に向かう。
 トーマスはエアコンを使わず、窓を半分ほど開けた。森の匂いを乗せた風が車内に入ってくる。
 海結は、ハンドルを握るトーマスの横顔をちらりと見る。
 暗めの金髪は、赤銅色に焼けた顔と比べればまだ明るく見える。頭頂から四方にまっすぐ伸び、末端では少し跳ねる。毛量は豊富だった。後ろは首にかかり、前は目に軽くかかるくらい。横は耳を半分ほど覆う長さまで伸びている。硬い毛質なのか、風にあおられても揺れ方が少ない。
 そして、まるで彫刻のように端正で、男性的な横顔。
 ひげは薄いらしく、毛穴が目立たない。目尻にも顔のどこにもシワがなく、肌がぴんっ、と張っている。
 白人の男性にしては童顔で若々しいのは、これが理由か、と海結は考えた。
 視線に気づいたのか、トーマスが一瞬だけ海結のほうを向いた。
 海結は、慌てて前方に視線を向け直す。
 海が見えてきた。

 本島北部の緑の山が、海の近くまで迫っている。わずかに残った平らな土地に国道が伸び、建物が点在している。
 左に海を眺めながら北上し、やがて、防波堤に囲まれた小さな漁港に到着した。
 軽バンから降りる。トーマスが、漁協の関係者と思しき老人と、二言三言、何かの話をしている。
 周囲には、釣り人の姿もあった。
 数隻の小型の漁船に混じり、少し毛色の違う船が停泊している。
 女子大生のひとりが、
「このクルーザーですか?」
と聞くと、トーマスは、
「これです。正確には、フィッシングボートです」
と答えた。
 前が流線形になっているキャビン形状からして、スピードはかなり出そうだ。
 トーマスはボートに乗り込み、三人分のライフジャケットを持ってくる。
「これを着てもらいます」
 そう言うと、自分のライフジャケットを一度脱ぎ、着用方法の手本を見せた。
 ぶ厚い胸板と、割れた腹筋があらわになる。毛深くはない。
 海結と女子大生がライフジャケット着用し終わると、トーマスがボートに乗るように促す。
 岸壁とボートの間には、少し落差がある。
 海結が乗り込む際に支えたトーマスの手はとても大きく、がっちりとしていた。
 海結は、キャプテンシートの隣、ナビゲーターシートに座るよう案内される。
 トーマスが、短い係船柱とボートを繋いでいたロープを外し、キャプテンシートに座る。
 ディーゼルエンジンが床下から低く唸りを上げ、ボートが岸壁を離れた。

 防波堤の隙間を抜けると、ボートは海に向かってスピードを上げ始めた。
 トーマスに注意されたことがショックだったのか、大人しくしていた女子大生の二人。今は、船に乗るという滅多にできない体験にはしゃいで、スマホを海に向けて夢中になって写真を撮っている。
 海結の前方、銀色の手すりの向こうに、これから向かってゆく海原が広がる。
 少し傾いてきた陽の色を反射して、視界が少し黄色っぽく見える。
ボートは風上へと進む。キャビンの横の窓にかかった波しぶきが、斜め下の方向へ流れ落ちてゆく。船首の底が波をかんで、時折ボートが跳ねた。
 キャプテンシートのトーマスは、無言で操舵ハンドルを握っている。
 少し怖く、とっつきにくい。どこか未知の存在のように思える。
 しかし、顔や体もそうだが、動作や座り方、何かを考えている様子、すべてが像としてしっくりくる。
 海結の後ろから、ささやくような声が聞こえてくる。
「ハリウッドの映画とか出てそうじゃない?」
「ガチでイケメン。ヤバすぎ」
 今度は、トーマス個人に興味が戻ってきたらしい。
 海結は苦笑いをこらえた。

 ボートが速度を落とし、やがて海のただ中に停船する。
 最初のウォッチングポイントらしい。
 キャビン後方のガラスドアから見ると、陸地がはるかに遠い。
「探しましょう」
 双眼鏡を首からかけながら、トーマスが告げる。シートをくるりと回し、キャビンから後部デッキへと出る。海結と女子大生も続いた。
 大海原が広がっていた。風は、むしろ陸のほうから吹いているように感じる。出港直後より波のうねりは落ち着いているが、足を踏んばらないと転倒しそうだ。
 トーマスから、ウォッチングの注意点について説明を受ける。
「そこには腰をかけないようにしてください」
 トーマスが指差したのは、ボートの外周をぐるりと囲む、波の侵入を防ぐ壁。ブルワークと呼ぶらしい。
 この海域に棲む哺乳類についての説明もあった。ザトウクジラやイルカ、ゴンドウについては申し訳程度で、内容のほとんどがシャチに関するものだった。
「僕は、二年前から、この海域に生息するシャチの群れを研究しています」
 トーマスによれば、全七頭からなるシャチのポッドがいるらしい。
 しかし「定着」したというには根拠が乏しく、証拠の積み上げも不足しているため、一般的にはまったく知られていない、とのことだった。
 その証拠を集めるため、シャチの生態観察を続けていると、トーマスは言う。
 もちろん、海結にとっても初耳だった。一般に知られていないのもうなずける。
 全員で、周囲の海面を探し始めた。
 トーマスは、ボートを回るように位置を変えながら探す。時折、さっ、と双眼鏡を構える。
 海結も目をこらして水平線を追うが、潮吹きもそれらしき影も見つからない。
 女子大生がトーマスに近づき、何か質問をしている。ひとりが話しかけながらトーマスの腕に触れ、その隙に、もうひとりの手が彼の盛り上がった尻に伸びた。
 トーマスは我関せず、という態度を崩さず、触り放題にさせている。
 海結はその様子を見ていられず、一度キャビンに戻った。
 クーラーボックスを開け、氷水の中からグアバのペットボトルを取り出す。
 熱中症防止のため、自由に飲んでくださいと言われていたものだ。
 冷たさが手に心地良い。額にも当てる。
 甘さと水分で喉を潤してから、再びデッキに戻る。
 もう一度、海を見渡してみるが、やはり何も見つからない。
 海結は、舳先に立っていたトーマスに、思い切って声をかけてみる。
「見つかりませんね」
「相手は野生の海獣です。仕方ないです」
 その時、何かに気づいたトーマスが、
「ちょっと待ってください」
と言う。
 海結は、シャチが見つかったのかと興奮したが、トーマスはキャビン横から、柄の長いすくい網を取り出してきた。
 少し離れた海面に、色褪せたプラスチックの容器が浮いている。
 トーマスは腕と網を伸ばし、劣化した容器をすくい取った。

 時間が経った。陽の光が長くなってきている。
 途中、ウォッチングポイントを変えたが、シャチはおろか、イルカすら現れない。
 そろそろ漁港へと戻る時間だ。
 今日はツキがないのかな、と海結は思い始めていた。
 キャビンに戻ったトーマスが、海パンとダイバーズウォッチだけになってデッキに戻ってきた。
 海結と女子大生は、ブルワークにつかまりながら、ボートの前方、バウデッキに移動させられた。
「様子を聴いてきます。みなさんは、このままここにいてください」
 舳先に立ったトーマスは、そう言い残して、軽くジャンプして海に飛び込んでしまった。
 海結も女子大生も、呆気にとられた。
 ブルワークにつかまって海面を覗くが、深く潜水したのか、すでにトーマスの姿は見えない。
 しばらくの間、海結を含めた客三人が、船長不在のボート上に取り残された。
 不安にかられていると、ボートの後ろの方向に何か気配がある。
 振り向いた海結が目にしたのは、バタフライのような泳法で、海面に見え隠れしながら近づいてくるトーマスの姿だった。
 ボートは、四方を高さのあるブルワークで囲まれている。後部デッキのブルワークにはドアも備わっているが、今は隙間なく閉じられている。
 どうやってボートに上がってくるつもりなのか。
 見守る視線の中、トーマスが両手で強く海面を叩く。
 その瞬間、トーマスの体が空中に飛び出し、そのまま体を一回転させ、狭い後部デッキにぴたりと着地してみせた。
 ボートはほとんど揺れない。
 片膝をついた姿勢から、すっ、と立ち上がるトーマス。
 海結も、女子大生も、息を呑んでトーマスの濡れた姿を見つめた。
 トーマスの体は、筋肉のひとつひとつが明瞭に割れているが、見せるために鍛えたような誇張がない。角が取れて丸みを帯び、しなやかな質感を備えている。見るからに水の抵抗が少なそうで、泳ぎの達人であることが容易に想像できる。
 それでも、その身体能力は超人的と呼ぶ他にない。シャチやイルカなら海面から空中へと身を躍らせることもできようが、まさかそれができる人間がいようとは。
 当のトーマスは息ひとつ乱していない。何か特別なことをした、という様子もなく、
「どうも、今日はいないようです」
と、淡々と告げるだけだった。

 太陽が水平線へと沈んでゆく。
 空は西の端からオレンジ色に染まり、その光を受けて、海面が金色に輝いている。波は穏やかにうねり、ボートを静かに揺らす。
 トーマスが、濡れた髪をかき上げる。その仕草が、スローモーションのように海結の目に焼きついた。
 指の間をすり抜ける金色の髪。体の表面にあるごく淡い産毛。どちらも陽光に照らされて金色に輝いている。
 美しい、と海結は素直に思う。美というものは、女性のみのものではない、ということを実感する。
 男性に対して持つ感想ではないが、理屈ではなかった。
 トーマスの輪郭が、太陽を背に、金色に縁取られている様は、神秘的ですらある。
「私、小さい頃からシャチが好きだったんです」
 海結の口が、意識しないうちに、そう言葉を発していた。
 トーマスが海結に目を向ける。
「小さい頃、シャチのショーを見て、背中に乗ってみたいって思ったんです。今でも、それが夢に……」
 どうしてこんなことを言い出したのか。
 海結は途中で恥ずかしくなり、言葉を切った。
 少しだけ口元をゆるめるトーマス。
 それまでぎゅっと閉じていた唇の間から、ほんの一瞬、白い歯がかすかに覗く。
 海結の心臓が、とくん、と鳴った。

 エンジン音が響き、ボートが漁港に向かって動き出す。
 はしゃいでいた女子大生は、キャビンの隅で「吐きそう」と、ぐったりしている。
 船酔いの症状が出たらしい。
 海結は、キャビンの窓から、夕陽に染まる海をぼんやりと眺めていた。
 すでに次の機会を考えている。
 せめて、シャチをひと目見るまでは、という理由だけではない。
 もうひとつの理由が、今日生まれた。
 海結は、キャプテンシートに座るトーマスを見ながら、ホテルに戻ったら何回かまとめて予約しておかないと、と考えた。

(続く)
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