黄金のオルカ

第五話 根づき



 八月の太陽が、午前中から容赦なく海面に照りつけている。
 陽光が波に砕け、キラキラと銀の鱗のような光を拡散する。
 凪いだ海の上を、海結を乗せたフィッシングボートが、ディーゼルエンジンの音を響かせながら、快調に走っていた。
 青空と海の境界線が曖昧に感じられ、進んでも、進んでも、景色が遠く感じられる。
 やがてボートは、今日の最初のウォッチングポイントに到着する。
 ポイントは、日ごとに異なる。どこを選ぶかは、すべて船長であるトーマスの采配だった。
 今日のポイントもまた、昨日とは、遠くかすむ陸地の見え方が違っている。
 後部デッキに出た海結は、海上に目をこらした。
 ここのところ、海結は連日ホエールウォッチングに参加している。今日で四回目だ。
 潮の匂いと、揺れるデッキの感覚に慣れ始めている。今日は酔い止め薬も飲んでいない。

 デッキには、海結の他に二人の客がいる。
 カップルだった。女が男の腕につかまって、揺れるボート上でバランスを取っている。
 三十代くらいに見える男は、髪をきっちりと分け、軽そうな夏物のジャケットをすっきりと着こなしている。姿勢が良く、無駄のない所作に、どことなく職業的な固さがにじむ。
 刑事ドラマに出てきそうだなと、海結は思う。
 女のほうは、男よりもひと回り若い。海結と同年代に見える。前髪は目の上できれいに揃えられ、切れ長の目元に育ちの良さがうかがえる。
 海風にさらわれる長い黒髪を手で押さえる仕草に、ほんのりとした色気がある。
 清楚な和の美人、といった風情だが、服装はそれと正反対だった。
 シースルーの丈の短いワンピースに、薄手の白いジャケット。ワンピースの下に黒い下着が透けている。
 風でワンピースがめくれてショーツが見えそうになる。
 野外の観察に向く格好ではないし、露出が過ぎないか、と思う。ホエールウォッチングの注意も読まずに参加したのだろうか。
 海結は、二人から視線を外し、今日自分に課した予定、ボートから見える景色を写真に撮ることに集中する。
 目の前に広がる大海原を撮影し、今度は下に向けて、太陽の光を跳ね返す海面を、振り返って遠くかすむ沖縄本島の島影をスマホに収める。
 後で彩夏に見せるつもりだった。
 これでシャチが現れてくれれば完璧だが、今日はどうだろう。
 トーマスは、軽く両脚を開き、自然に両腕を下ろして立っていた。
 ブルワークにつかまっている男のほうに、この海やシャチのことを説明している。時々、双眼鏡を構える。何気ない動作が、いちいちかっこいい。
 逆三角形の体躯、陽を反射する赤銅色の肌、がっちりとした肩や腕の太さ、大きな手。筋肉で隆起した尻とえくぼ。
 ふと、海結の横に、いつの間にか女が立っていることに気づく。
 目が自然とトーマスを追っていて、女の気配に気づかなかったのだ。
 紅潮した顔。少し息が乱れ、肩が上下している。その視線は、男のほうを見ているのか、トーマスを見ているのか、海結はわからない。
 海結は、女が熱中症か、船酔いか何かで具合が悪いのでは、と思い、声をかけた。
「あの……大丈夫ですか?」
 女は、空に飛んでいた意識が急に戻ってきたような顔をした。
「何でもないです。ちょっと、暑いだけです」
「中で、少し休んだらどうですか」
「ええ、そうします」
 海結は、女に付き添ってキャビンに戻る。
 クーラーボックスから取り出したペットボトルを女に渡す。
 女が水分を補給している間に、ボートの下部前方へと、階段を下りる。
 そこにはバウバースと呼ばれる、広い空間がある。天井は低いが、海結の背丈ならまだ頭上に余裕がある。ドアのついたマリントイレや、洗面所も備えられている。
 奥の船首側に向かって、簡易クッションが敷きつめられており、大人三人くらいは余裕で眠れそうだった。
 海結は、マリントイレで用を済ませてからキャビンに戻り、女と短い会話を交わした。
 一緒に来ている男と、先日結婚式を挙げたばかり、と言う。
 男は、警察の関係者で忙しく、何とか取れた休暇で新婚旅行に来ている、とのことだった。
 海結は、陸斗と新婚旅行ができなかったことを思い出した。
「うらやましいです」
 思わず口をついて出た言葉。
 会話の中に、小さな空白が生まれた。

 女の顔色が普通に戻ったのを頃合いに、海結と女はデッキに戻る。
 トーマスが、ボートの左舷の方角に何かを見つけたらしく、双眼鏡で確認してから、
「ハンドウイルカがいます」
と、指を差した。
 その方向に、乗客全員が目を凝らす。
 海結も海原にイルカの姿を探すが、捉えることはできない。
 男が女の手を引いて方向を教えるが、女の関心は海には向いていない。
 今度は、はっきりわかる。
 女の視線は、明らかにトーマスの背中を追っている。
 時々、両脚をすり合わせるような仕草を見せる。さっき水分を取ったので、尿意を我慢しているのかもしれないが、実際のところ、どうなのか。
 海結の中に、何か、もやっ、とした感情が生まれた。ざわつく心が、海結をトーマスへと向かわせる。
「この時期に、ホエールウォッチングって、珍しいですよね」
 そうトーマスに話しかけてみる。
 海結も、沖縄でのザトウクジラ観察の旬が冬だとは知っている。あえて聞くまでもないが、会話のきっかけが欲しかった。
「ザトウクジラはいません。今彼らは北に移動しています。イルカやゴンドウはいますが」
 ならば、なぜホエールウォッチングを通年で行っているのか。
「シャチがいますから。シャチは、間違いなくこの海域に生息しています。正確には、定着を試みているところ、です」
 トーマスは、シャチの研究者だ。
 ウォッチング業は、宣伝らしい宣伝もせず、客数を稼ぐ営業をしている様子もない。沖縄でよくある、ダイビングとの兼業でもない。
 トーマスにとっては、シャチの研究があくまで本業で、観光船の運航は、シャチの観察に付随する副業なのかもしれない。
 海結がそう考えている間も、女の視線が、ちら、ちらと、トーマスと海結にまとわりつく。
 トーマスもそれには気づいている様子だが、何の反応も示さず、キャビンの中に入っていった。

 少しして、トーマスは海パンとダイバーズウォッチだけになってキャビンから出てくる。
 ボート前部のデッキに客を集め、舳先から海に飛び込む。
 しばらくして、後部デッキに戻ってくる。
 海面から跳ねるように飛び上がり、空中で体を回転させて、すたっ、とデッキに着地する。その間、一度もボートに手を触れることなく。
 その様子を目の当たりにした男が、
「すごいな……」
と驚嘆している。
 女は、上気した表情でトーマスを見つめる。
 海結は初めてではないが、やはり恐るべき身体能力だと思う。何より、トーマスの肉体が躍動する様は美しい。
 濡れたトーマスから、ぼたぼたと雫がたれ、デッキの床を濡らしてゆく。
 海結の中に、ある種の畏れとともに、ひとつの像が浮かんだ。
 野生の虎だ。
 それは、金色の髪、琥珀色の瞳、黒い海パン、という色から連想されたものかもしれない。
 さしずめ、海から上がってきた虎、ということになるだろうか。
 その時だった。
 ボートが揺れ、バランスを取ろうとした海結の靴底が、デッキを濡らす海水で滑った。海結はブルワークの上に尻もちをつき、体がぐらりとボートの外へと傾く。
 落ちる、と思った瞬間、海結の両腕がトーマスにがっちりつかまれていた。
 トーマスが少し身を屈め、海結の体を助け起こす。
 海結のすぐ目の前に、心配そうな琥珀色の瞳と、広く厚い胸板がある。
 ライフジャケット越しに、トーマスの体温が伝わってくるようだ。
「大丈夫ですか」
 心臓が激しく跳ねている。それは、転落の危機からだけではなかった。
「す、すいません……」
 焦って体を離そうとする海結に、トーマスは低く穏やかな声で言う。
「落ち着いて」
 ごく至近距離からの声は、海結の体全体に響く。
 余計に海結の胸が早く打った。

 もうひとつ、ウォッチングのポイントに移動したが、今度は何も発見することはできなかった。
 漁港への帰路、海結はトーマスから距離をとって座った。
 ナビゲーターシートには男のほうが座った。隣のトーマスと英語で会話している。
 男は警察関係者と聞くが、交番などにいる警察官とは違う種類の人間らしい。
 海結は、トーマスに助けられた時、心臓の鼓動や動揺が伝わってしまったのではないかと心配していた。
 自分でも意識し過ぎ、とわかっている。
 海結の脳裏によみがえる、トーマスの体温。海結を支えた力強い手。響く声。
 また、海結の心臓が高鳴る。
 キャビン通路を挟んで、隣に女が座っている。いまだほんのりと頬を赤く染め、頻繁に脚を組みかえている。
 もしかして、このひとはトーマスに気があるんじゃないか、と海結は思った。
 その直感が、そのまま自分に戻ってくるような気がして、海結は心の中でそれを取り消した。

 夜、ホテルの部屋で、海結はベッドに寝ころびながらスマホを操作している。
 LINEを使い、ウォッチングの時に撮影した海の写真を彩夏に送る。
 すぐに返信があった。

「写真きれい。癒される。でも毎日参加ってハマり過ぎ」
「シャチ見れなくても海がきれいだから」
「セレブかな。毎日リゾートホテルとクルーズなんて」
「こっちにいる間に絶対シャチに会う」
「見るだけならおっけー。みやげ話よろしく」

 LINEを閉じる。
 見るだけなら、と、さりげなく釘を刺された。遠回しだが、彩夏が心配してくれていることはわかる。
 本当のところ、シャチを見るというは理由の半分で、もう半分は、トーマスに会いたいがために、連日ウォッチングに参加しているようなものだ。勘の鋭い彩夏も、そこまでは気づいていないだろうが。
 彩夏が打った「セレブ」という単語が気になる。
 沖縄に来てからしばらく見ていなかった預金残高を確認する。
 想定の範囲だが、やはり減っている。
 こつこつ貯めてきたものが、少しでも減ると落ち着かないのは、海結の昔からの性質だった。
 ホエールウォッチングの参加費は現金払いだが、宿泊費や交通費、食費など、後でやってくる請求と引き落としが怖い。
 こうして豪遊できているのも、母の「家計と自分の財布は分けること」という教訓のおかげだが、これでは、そう遠くないうちに帰宅を余儀なくされるだろう。
 まだ、陸斗と向き合う覚悟も決まらないというのに。
 海結は考えた。
 今、滞在しているリゾートホテルから、もっと安い宿に移るのは避けられない。
 ホエールウォッチングはどうするか。
 良心的と思う料金設定だが、決して安くはないのだ。
 考えた末、那覇市あたりの安宿に変え、ウォッチングへの参加も明日を限りにすることを決めた。
 心残りはある。しかし、シャチとトーマスに会いたい気持ちだけで、これ以上参加を続けることはできなかった。
 スマホを枕の横に置いて、ため息をつく。
 脳裏に浮かぶ、トーマスの濡れた体、少年のようなほほ笑み。
 唇を噛み、想いを断ち切るように目を閉じた。

 時計は午後一一時を過ぎていたが、海結はまだ寝つけずにいた。
 喉が渇き、冷たい飲み物でも買おうと、寝間着のまま、こっそりロビーまで下りる。
 ロビーは減光されて薄暗く、静まり返っている。フロントにもどこにも人影がない。
 低くわずかな唸りの音が響く自販機のコーナー。
 ミネラルウォーターのペットボトル。そのボタンを押そうとした時、エントランス正面のドアが開いた。
 人影が中に入ってくる。
 今日、ホエールウォッチングに参加していた、新婚という女の姿だった。
 その時と同じ服装だが、羽織るものだけが黒いカーディガンに変わっている。
 髪は乱れているし、足取りもどこかぎこちない。
 女は、足早にエレベーターへと向かう。
 海結は声をかけようとして、一瞬だけ目が合った。火照った顔。
 女はぱっ、と目をそらし、逃げるようにエレベーターに乗り込んでいった。
 ドアが閉まる刹那、女の足がもつれたように見える。
 何かあったのだろうか。
 様子がおかしいが、海結に問いただす理由もない。
 自販機のボタンを押すと、ペットボトルが、ごとり、と下に落ちた。



 海の彼方へと沈んでゆく太陽。
 だいだい色に染まった海。水平線から天井に向けて、次第に暗さを増す空。それ以外は何もなかった。
 海結は、その雄大な風景を撮影し、スマホに収める。
 リゾートホテルに連泊し、午前午後と日替わりでホエールウォッチングに参加を続け、今日で五回目だ。
 ここまで、一度もシャチは現れてくれなかった。
 トーマスが海面を割って飛び出し、ボートの後部デッキに戻ってくる。
 濡れた赤銅色の肉体が、夕陽を受けて金色に輝く。
 その姿は、海の野生を体現しているようだ。
 野生のシャチと出会うことも叶わないまま、この雄大な海と、トーマスの姿とを目に焼きつけることが、今日を最後に終わろうとしている。
 名残惜しかった。
「今日も、シャチは現れませんでしたね」
 海結が、ぽつりと呟くと、トーマスは振り返りながら、
「そういう日もあります」
と短く答える。
 最初のホエールウォッチングの時は、かっこよくて神秘的だが、寡黙でとっつきにくい印象だったトーマス。
 連日参加するうちに、海結の言葉に反応し、時折柔らかい表情を見せてくれるようになっていた。
「いつも海に潜って、何してるんですか?」
「シャチが近くにいないか聴いているんです。海の中なら、シャチ同士の会話を感じ取ることができます」
「すごいですね。今日はどうでした?」
「いませんね」
 海結はため息をついた。
「そこにドアがありますよね。海から戻ってくる時にジャンプで飛び越えなくても、そこを使えばいいんじゃないですか?」
 海結は、後部デッキのブルワークにあるドアを指差しながら尋ねる。
「そこは常にロックしてます。僕が海にいる間、そこから波が入ってきても、お客さんが落ちてもいけないので」
 そもそも、客をボート上に放置することはどうかと思うが、安全のことは一応配慮しているらしい。
 トーマスの視線が、遠く沖を向いた。
「デビッドソンさんは、毎日同じ海を見て、同じシャチの群れを研究して、飽きませんか?」
「飽きません。同じように見えても、毎日少しずつ違います。海も、シャチ達も」
 どこか達観したような、海結には察し切れない複雑な表情を浮かべる。
「それに、デビッドソンさん、いつも同じ格好」
「ああ、選ぶのが面倒で。誰かが選んでくれれば着ますが」
 真顔で答えるトーマスに、海結は小さく笑う。
「その誰かって、いるんですか」
 問うてしまった後で、海結は、言葉の裏にわずかな緊張があることに気づく。
 トーマスと会えるのも今日が最後なのに、こんなことを聞いてどうするのか。
「いや、いません。それと……」
 いったん言葉を切るトーマス。
「?」
「……僕のことは、トーマスか、トムと呼んでください。あなたにデビッドソンさんと言われると、何だか落ち着かない」
「……え、えーと、トーマスさん?」
「そう。それでいい」
 トーマスが、いたずらっぽく目を細めてほほ笑む。歯は見せないものの、普段の彼が見せない、どこか垢抜けない少年のような笑顔だった。
 海結の胸が、瞬間的にきゅうっ、と締めつけられた。

 ヤンバルの森は、漆黒の闇に包まれている。
 木々の間から星々が見えては隠れ、また姿を現す。
 それを繰り返しながら、軽バンは山の中の道を進む。
 車内は、トーマスと海結の二人きりだった。
 ホエールウォッチングの帰路、途中の宿で海結以外の客が降りてから、しばらく沈黙が続いている。
 助手席に座る海結は、言葉を探しては、何度も喉の奥に呑み込んだ。
 もうホエールウォッチングには参加できないことを告げなければならない。
 トーマスにとって、海結は沖縄に観光に来た客の一人に過ぎない。たまたま数回、ホエールウォッチングに参加しただけだ。
 しかし、海結は、そうではない。
 むしろ、自分の中に残る名残惜しさにピリオドを打つためだった。
「……参加は、今日が最後なんです」
 海結は静かに切り出す。
「今日で終わりなんですか?」
「ええ」
「帰るんですか」
「いえ、まだ帰れないんですけど……ちょっと節約しないといけなくて……」
 トーマスの視線が、一瞬だけ海結の膝あたりに落ちる。
 右手の上に重ねた左手、その薬指の指輪が、わずかな光を鈍く反射している。
「まだしばらくは沖縄にいますが、那覇かどこかの安いところに移ります。今までありがとうございました」
 トーマスは、前を向いたまま無言でハンドルを握っている。その横顔は、何か考えを巡らせているように見えた。
 軽バンは、ホテルを目の前にして停車する。ハザードランプが点灯し、カチカチという音が鳴る。
 海結は、トーマスがなぜ車をホテル寸前で停めたのか、理由がわからない。
 運転席と助手席の間に、沈黙が横たわった。
 しばらくして、トーマスが口を開く。
「なら、僕を手伝ってくれませんか、沖縄にいる間」
「えっ?」
「僕ひとりで、ホエールウォッチングとシャチの研究、両方続けるのが少し大変なんです。手伝ってもらってる間、僕の家を寝泊まりに使ってもらって構わないので」
 唐突な提案だった。
 海結は、すぐに返事をすることがためらわれた。
 それは、陸斗の妻、という立場である自分が、別の男の家で寝泊まりすることを意味する。陸斗と喧嘩になって家を飛び出してきたが、見限ったわけではない。
 ここでトーマスの申し出を断ればそれで終わる。受け入れれば、何かが始まってしまう。
 そんな予感があった。
 ホテルの窓から漏れる灯りに照らされ、ヤシの木が風に揺れる。
「朝は五時前に起床して準備しないといけません。夜便を運航すれば、帰りは日づけが変わってからになります」
 逡巡する海結に、トーマスは説明する。
「研究にあてる時間がほとんど取れません。ひとりで回せるはずだったのですが……うちで寝泊まりしながら色々手伝ってもらえると助かります。どうでしょうか」
 海結の体がかすかに震える。かすれた声を絞り出すのがやっとだった。
「私に、お手伝いできるでしょうか。船のこともシャチのことも、まったくわかりませんけど……」
「大丈夫です。僕もサポートしますし、無理なことは絶対にさせません」
 淡々と、しかし元海兵隊員らしいはっきりとした口調。
 その言葉には、誠実さが感じられた。
 確かに、朝早く夜遅い仕事だとしたら、住み込みでないと対応できないことはわかる。
 トーマスの提案は不自然でなく、下心があるわけでもなさそうだと、海結は考えた。
 海結は、こくっ、と小さくうなずく。
 ふと、気づいた時、無意識に自分の右手が、左手を指輪ごと包み込むように握っていた。
「明日、迎えにきます」
 そう言うトーマスの声は、わずかに弾んでいるように思える。
 ハザードの一定のリズムだけが、狭い車内に響いていた。



 翌朝も、沖縄の空は晴れていた。
 海結は、ホテルのチェックアウトを済ませ、キャリーバッグを引きずって裏手に回る。
 トーマスはすでに迎えに来ていた。
 普段どおりの格好だった。
 今日はホエールウォッチングの休業日のはずだが、シャチの観察のため、海には毎日出ているのかもしれない、と海結は考えた。
 ぺこりと頭を下げ、軽バンに乗り込む。
 キャリーバッグは、トーマスが後部座席の上に載せてくれた。
 森の中を進むと、やがて海と、国道沿いにあるいつもの漁港が見えてくる。
しかし、漁港の手前で軽バンは右折し、山の斜面にそった村道を登り始める。
 舗装はされているが、道幅は狭い。車同士が行き違うのがやっとだろう。
 左に漁港を見下ろしながら、軽バンはゆっくりと進む。佇む漁船の中に、見慣れたフィッシングボートの白い船体がある。
 木々の間から、ちらちらと覗く海を見ながら、海結は思った。
 トーマスの申し出に応じたことは、正しかったのだろうか。
 既婚者の自分が、夫でない若い男と、仕事を理由に同じ家で寝泊まりする。
 胸に不安が重くのしかかった。
 陸斗の顔が、ふと頭に浮かぶ。
 言葉にできないものが、脳裏にランダムに現れては、消えてゆく。
 海結の様子に気づいたのか、トーマスが声をかけてきた。
「心配ですか」
 ハンドルを握ったままの問いかけだった。
「正直、少し」
「無理もありません。急な話ですから」
「何というか、頭が追いついてない感じです」
「沖縄に来て、どのくらいですか」
「まだ、一週間くらいです」
「そうでしたか」
「ええ」
 空と道以外は、視界のすべてが緑に覆われている。ところどころに見える、細長い先の尖った葉は、ビロウだろうか。
「トーマスさんは、聴かないんですか、私のこと……」
 うつむきながら、そう尋ねてみる。
 トーマスからすれば、海結は赤の他人だ。素性も事情も確かめずに家に招き入れることを、何とも思っていないのだろうか。
 トーマスが、ちらりと海結の左手に視線を落とす。
「あなたは、多分いつもの群れからはぐれてここに来ているんでしょう。僕のところにいる間は、群れの一員として守るだけです」
 トーマスは、海結の事情をある程度察している。ただ、それを口にしなかっただけなのだと知る。
 そのことよりも、海結は動物の世界に例えるトーマスの話し方がおかしく、少し笑ってしまった。
 ほぼ垂直に切り立った、柱のような巨石の横を通り過ぎる。
「どうしても合わなかったら、僕が安い宿を探します」
「すみません、気をつかわせて」
「いえ、合わなければそう言ってください。無理をすることはありません。僕に遠慮は無用です」
 トーマスの優しさがありがたかった。
 軽バンが、海のある方向へ曲がる。
 砂利道をぎしぎしと音を立てながら、少し進むと、その先に小さな家があった。
 コンクリート造りの建物だった。かつては白く塗られていただろう外壁は、今ではほとんど塗膜がはげ落ち、うす汚れた地肌を露出させている。木製の玄関ドアも色あせている。錆びて年季の入った給湯器と、プロパンガスのボンベが並ぶ。
「元々別荘だった家を借りて住んでます」
 古びた作業小屋のようにも見える元別荘。家の向こうに海の景色が開けている。立地条件だけは別荘らしい。
「どうぞ」
 トーマスがドアを開ける。
 玄関ドアは最初から施錠されていなかった。
「鍵、かけてないんですか」
「ええ、かけたことはないです」
 トーマスに続いて靴を脱ぎ、中に入る。
 二〇畳ほどの部屋だった。
 全体的に薄暗く、少し埃っぽい匂いが鼻をかすめる。
 天井も壁も床もコンクリート剥き出しになっている。低い天井は、トーマスが腕を伸ばせば届いてしまいそうだ。
 錆びついた、金属製のシェードの照明がひとつと、裸のカーテンレール。何に使うのか不明なフック。
 玄関の右手に、トイレとシャワールームだけを仕切る壁がある。それ以外、部屋を分ける壁も柱もまったくない。
 東側に玄関とトイレ、シャワールームがあり、北、南、西側の壁には、二重鍵のついた小型の窓。それぞれに、カーテン代わりの鎧戸が備わっている。
 窓も鎧戸も開け放たれており、海風が室内を通り抜けている。西側の窓から、水平線と空が覗いていた。
 部屋の中央に、テーブルと二脚の椅子が置かれている。テーブルの上にノートパソコンとウィスキーのボトルが置かれ、あふれかえった何かの資料が、椅子のうちのひとつを占領している。
 南側の壁に寄せて、鉄のフレームで組まれた、かなり大きく頑丈そうなベッド。
 海結が驚いたのは、人が暮らすためにあるはずのものが、ほとんど見つからないことだった。
 北側にコンロ台とシンクはあるが、コンロがない。鍋もやかんもフライパンもない。冷蔵庫もない。コップと歯ブラシが一組置かれているだけ。
 壁に黒いダイビングスーツがかかっているだけで、衣類もタンスも、ハンガーすらない。
 テレビもラジオもない。シャワールームの横に、かつて置かれていた影こそあるが、洗濯機がない。
 まるで、誰も住んでいない廃墟に、野生動物がたまたま棲みついた、そんな雰囲気だった。
「トーマスさんは、ここでどうやって生活してたんですか?」
 きょとんとした顔で振り返るトーマス。
「ちゃんと、毎日ここで寝てますよ」
「そうじゃなくて、ご飯は? 冷蔵庫もコンロも、食器もないですよ」
「食事はボートの中で済ませてます」
「服は?」
「着るものは、ダイビングスーツと、これだけです」
 トーマスはそう言いながら、玄関横のフックに、キャップとライフジャケットをかける。
 脱いだデッキシューズと、身に着けているブーメランタイプの海パン。
 これで全部、というのか。
「これだけって……着がえないんですか?」
「家の中ではちゃんと脱いでます。メリハリはつけているつもりです」
 つまり、家の中では全裸で暮らしている、ということになる。
 海結は、開いた口が塞がらなかった。
 トーマスは、パソコンと資料をコンロ台の上に片づけ、空いた椅子に海結を座らせる。
 テーブルを挟んでトーマスと向き合う。
 目を伏せ気味にしたトーマス。まつげが長かった。
「女性をこの家に上げるのは初めてなので、直して欲しいところがあれば率直に言ってください」
 トーマスにも多少の自覚はあるらしい。海結も少し安心する。
「私は、どんなことをお手伝いすればいいんでしょうか」
「ホエールウォッチングとシャチの観察の補助、資料の整理、パソコンの操作……そんなところです」
「はあ……」
「それから、あなたの給料ですが、僕の財布と通帳を預けますので、必要なだけ取ってください」
「ええっ!?」
 思わず大きな声を出してしまった。
 トーマスは真顔のままだ。冗談で言っているのではないらしい。
 財布と通帳を丸ごと預けるという発想。ごく普通の金銭感覚すら持ち合わせていないのでは、と海結は疑う。
 そんなどんぶり勘定で、良い訳がない。
 話し合い、ひとまず一日一万円の計算で受け取ることにする。
 トーマスは、細かい計算は苦手だと言う。必要経費の支出についても、海結の判断に一任されることになった。
 こんなことでいいのだろうかと思いつつ、海結の中に主婦としての感覚が、じわじわと頭をもたげてくる。
 海の上では頼もしい姿を見せてくれるトーマスだが、陸の上での暮らしぶりは、あまりにも頼りない。
 正直、野生の動物に近い生活だと感じる。
 とすれば、まず何より優先して取り組むべきは、この家を人間が生活するのにふさわしい形に整えることだ。
 仕事の手伝い以前にすべきこととして、海結はそうトーマスに申し出ることにした。
 この家に住み込んで仕事をする以上、最低限の生活環境の整備を最初に行いたい、海結のプライバシーの確保と、トーマスの服装などについても改めさせて欲しい、と伝えた。
「お世話になるついで、というのも申し訳ないんですが……」
 トーマスは、恐らく海結からこういう提案をされると思っていなかったのだろう。目を丸くして海結の話に耳を傾けていたが、
「お願いします」
と、受け入れた。
 その一言で、海結の腹は決まった。
 真正面にある、トーマスの顔。
 固さが取れた自然な表情を浮かべると、素の甘いマスクが強調される。
 自分の提案がどこまで理解されているのか、海結は今ひとつ測りかねたが、トーマスの顔を見るに、思い切って進めても大丈夫だろう、と思った。
「このあたりに、着るものとか、他にもいろいろ買い出しができるところはないですか」
「共同店はありますが、まとまった買い物をするなら名護まで行かないと」
「車、出してもらってもいいでしょうか」
「喜んで」

 トーマスに軽バンを出してもらい、大型のクーラーボックスを積み込んでから、国道を南下する。
 海結は、トーマスから預かった財布の中を確認する。
 現金の手持ちは多くない。通帳がひとつ。記帳内容を見ると、家賃やフィッシングボートのリース料など、口座引き落としのために用意したふうだった。クレジットカードの類はない。
 瞬時に、少ない予算で最大限の効果を得るべく、頭の中で買い物の計画を立てる。
 一時間以上のドライブの後、名護市内に到着する。
 最初にホームセンターに寄る。
 調理器具と清掃に必要な道具、そして、海結のプライバシー確保に必要な厚手のカーテンなどを買い揃えた。
 トーマスは、いつもどおりのライフジャケットと海パンの姿で、海結の後ろをついてくる。
 店内の人々の視線がトーマスに集中する。
 トーマスの容姿からして、周囲の目を集めても仕方ないところがあるが、中には、明らかに警戒の眼差しが混ざっている。
 米軍基地が集中する、沖縄の事情があるのかもしれない。
 逆に、トーマスをちらりと見てから目を背ける女性もいる。恐らく、海パンでうろうろしていることが原因だ。
 早いところトーマスの服を買って着がえてもらおう、と海結は考えた。
 次に、リサイクルショップで、中古のコンロと炊飯器、冷蔵庫、洗濯機、テレビとテレビ台を購入。
 その後、ショッピングセンターに寄る。
 トーマスの衣類を揃えることが優先だった。下着やTシャツ、短パンなどを探す。
 身長一八五センチ、筋肉質なトーマスに合うサイズは少ない。
 パンツは、古典的だが白いブリーフで妥協する。
 買った後、すぐにトーマスを更衣室に押し込んだ。
 ややきつく見えるTシャツと短パンとに着がえたトーマスは、
「何か、慣れないな」
と、照れたような表情をしていた。
 身に着けるものが変わると、雰囲気まで変わって見える。
 海結は、頭の中で勝手に想像を巡らせる。
 想像の中のトーマスは、大学で水泳部あたりに所属し、夏はライフガードのボランティアをしているアメリカ人の好青年、だった。
 店内の一〇〇円ショップで食器類を買い揃え、最後に食品売場。
 食材をクーラーボックスにつめ込む。軽バンの荷室は、後部座席をたたまなければ収納できないほど、買い込んだものでいっぱいになってしまった。
 帰路につく。国道を北上し、トーマスの家に着く頃には陽が傾いていた。

 帰宅後、まず海結の寝床と、プライバシーの確保から作業に取りかかった。
 海結は、トーマスが普段使っていたベッドを使わせてもらうことになった。
 トーマスが天井に腕を伸ばし、レールにカーテンをぶら下げてゆく。
 まず、ベッドまわり。ぐるりと囲むようにカーテンを取りつける。
 ベッド横は広めに空間を取り、着がえるためのスペースを確保する。
 シャワールームのドアの前にもカーテンを吊るし、簡易な脱衣スペースとした。
 緑がかったインディゴブルーのカーテンが下がった室内は、どこか深海のような雰囲気になる。
 トーマスはどこで眠るのだろうかと考えていると、綱のようなものを持ってきて、これで寝ると言う。
 ハンモックだった。
「申し訳ないです」
「いや、時々使ってますから。揺れがいいんです」
 トーマスは、慣れた様子で、天井のフックにハンモックを吊るした。
 海結が掃除機を使っている間に、トーマスが二つ口のコンロや冷蔵庫、シャワールームの隣に洗濯機、テレビ、と据えつけてゆく。
 ガス漏れがないか点検してから、海結は購入したばかりの調理器具を使って夕食の支度を始める。
 以前、どこかで見た記憶を辿り、夏の沖縄料理「チムシンジ」をアレンジした雑炊を作る。トーマスの体を見ながら、かなり多めに煮た。

 テーブルに、深皿に盛られたチムシンジ風雑炊が並ぶ。にんにくを効かせたスープに、柔らかく煮た豚肉とレバー。米の粘りがとろみを与えている。
 トーマスの皿には、海結の三倍くらいの量を盛っておいた。
 人間らしい暮らしの香りが、ようやく感じられる。
 トーマスはひと口食べ、目を丸くした。
「口に合いますか」
 恐る恐る海結が尋ねる。
「とてもおいしいです」
 トーマスの食べ方は、ひと口ひと口の量が多く豪快だが、粗雑ではない。
 二度おかわりをしたトーマスのおかげで、鍋の中は早々とカラになった。
 次は、もっと量を作らないと、と考える。
「もしかして、トーマスさんが言っていた仕事の中に、家事のことは入ってなかったんじゃないですか」
「ええ、そこまでは考えてませんでした。海結さんにやってもらえるなら、嬉しいです」
 不意に「海結さん」と名前で呼ばれ、どくん、と胸が大きく鳴る。
 胸の高鳴りを覚えたまま、食器と鍋を洗う。
 トーマスが、先にシャワーを浴びるように勧めてきた。
「自分の家と思って、遠慮なく使ってください」
 そう言われても、海結はやはり落ち着かない。
 カーテンを閉めて脱衣スペースを作り、タンクトップと短パンを脱ぐ。ブラを外し、ショーツを脚から抜く。
 シャワールームの木製ドアには、鍵がついていない。中には、石鹸とT字のカミソリだけが置いてあった。
 熱いシャワーを浴び、髪と体を洗う。その間も、覗かれたらどうしようと、海結は気が気ではない。
 もし乱入されてきたら、海結が抵抗しても無駄だろう。
 ごくりと唾を飲む。
 結局、シャワーを浴びて着がえ終わるまで何事もなく、海結は拍子抜けした。
 心配し過ぎだったと思う反面、なぜか寂しさに似たものを覚え、海結は慌てて首を振った。
 海結と入れ替わりに、トーマスがシャワーを浴びる。案外と響くシャワーの音。
 ベッドに腰を下ろし、いったい私はここで何をしているのだろう、と自問する。
 陸斗という夫がいる自分が、今、出会って間もない若い男の家にいる、二人きりで。
 いけないことをしているのではないか、という疑問がふつふつと湧いてくる。
 心臓の高鳴りは、一向に治まる気配を見せない。
 トーマスが、脱衣スペースのカーテンを開けて出てくる。身に着けているものはブリーフだけだった。
 赤銅色の逞しい肉体に、白いブリーフが眩しい。おじさんパンツと思っていたブリーフがこれほど似合うなんて、と海結はしばし見惚れてしまう。
 前の大きな膨らみに、ダメだと思いながらどうしても目が釘づけになってしまう。
 海パンよりも布の張力が少ない分、膨らみ方も大きい。すぐに布が伸びきってしまいそうだ。
 目の毒だった。あれを選んだのは私と思うと、体が熱を帯びてくる。
 我に戻った海結は、顔を手で覆った。
「トーマスさん、せめて短パンはいてください……」
「? あれは、外出用じゃ?」
「違います! 家の中でもはいてください」
 トーマスは、急いで短パンをはいた。
 若い女性がいるというのに、いったい何を考えているのか。
 ここでの暮らしに慣れるには、少し時間が要りそうだ、と思う。
 トーマスが、ベッドに座る海結に近づいてくる。海結は思わず後ずさりして、壁に背をぶつけた。
「顔が赤い。大丈夫ですか?」
「え、ええ、大丈夫です」
 海結は、こく、こく、とうなずいてみせた。
 目の前にそびえるトーマス。
 筋肉の鎧の向こうに、いったいどんな野生を秘めているのだろう。
「さ、先に休みます。おやすみなさい」
 海結は、自分の視界を遮るために、ベッドまわりのカーテンを引いた。
「おやすみなさい。ゆっくり休んでください」
 ハンモックがぎちりと音を立て、照明が消された。

 窓は開け放たれている。
 月や星の光で、室内はほのかに明るい。
 海結は、ベッドに横になる。
 広い。縦にも横にも相当な余裕がある。
 天井を見つめていると、波の音が遠くから聞こえてくる。
 今日は、本当に忙しかったと思う。ふう、と息を吐いて目を閉じる。
 ベッドから立ち上ってくるトーマスの匂いに意識が向く。
 寝具に染みついた、潮と汗と、何か動物に由来するような、オスの匂いだった。
 不思議だった。濃い匂いなのに、トーマスに包み込まれているような感覚が心地よい。
 下腹部の奥が、きゅん、と収縮する。
 海結の脳裏に、トーマスが浮かぶ。
 さっき見たブリーフ一枚だけの姿に、海結の勝手な想像が混じり始める。
 想像の中のトーマスは、はっきりとしたオスの屹立を示していた。
 無意識に、両脚をすり合わせる。
 寝つけない。トーマスの存在が頭から離れなかった。
 海結の右手がショーツに伸び、股布の上から、そっとその部分に触れる。
 熱を帯び、湿っている。
 カーテンの向こうで、ぎしっ、とハンモックが揺れる音がして、海結は一瞬我に戻った。
 すぐに静かになったので、海結はショーツの中に右手を差し入れ、左手をブラの下に潜らせた。
 茂みをかすめて、指先が濡れた部分に触れる。
 想像の中のトーマスが、海結の体を強い力で開かせ、大きな手と指でいたるところに触れてくる。
 海結の両手が、トーマスの動きをなぞるように動く。
 こんなこと、ダメなのに。
 いつの間にか、想像の中のトーマスと、自分の手の動きがシンクロする。
 トーマスの動きが強引になるのに比例して、海結の手と指の動きも次第に大胆になってゆく。
 指で挟まれた乳首は、熱を帯び、膨らんでいる。
 トーマスが、獣のような瞳で冷酷に見下ろしながら、その猛々しいオスで海結を蹂躙し始めた。
海結の膣内を、指が激しくかき混ぜる。
 声が出そうになり、毛布を噛んで押し殺す。
 気づかれてしまうかもしれない。わかっていても、もう手と指の動きを止めることはできない。
 想像と体感の区別が完全につかなくなった時、全身が震えて腰が浮いた。
 脱力した海結の耳に、ハンモックのぎちっ、という音が聞こえた。

(続く)
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