黄金のオルカ

第六話 嵐の洗礼



 翌朝。まだ室内は薄暗かった。
 トーマスが起き出した物音で、まだまどろみの中にあった海結は目を覚ました。
 スマホを見る。午前五時半。
 ごそごそと起き出し、ベッドをぐるりと囲むカーテンを開けると、寝ぼけまなこにトーマスの姿が映った。
 早暁のかすかな明かりの中、西側の窓から外を見るトーマス。両脚を肩幅に開き、背筋をぴんっ、と伸ばしたその姿勢。両手の指先まで意識が行き渡っているのが見て取れる。
 すでに海パンをはき、ライフジャケットを身にまとっている。一分の隙もない。
 これから戦場に赴く兵士のように、無言の覚悟が、その存在感に同化していた。
 スマホの目覚ましはまだ鳴らない。設定を確認すると、それもそのはず、ホテルに宿泊していた時のままだった。
 しまった、と海結は悔やんだ。
 昨日は、トーマスの家に住み込みで働き始めた初日だったせいもあり、早めに床に入ってしまった。
 忘れず、目覚ましの時間を設定し直すべきだった。
 トーマスの起床時間は早い。フィッシングボートの出港時間は午前八時三〇分。ボートの点検整備など、出港の準備に相応の時間がかかることは、素人の海結でもわかる。
 これでは、朝食を準備する時間がない。まるで、兵士を空腹のまま戦場へ送り出すような無力感を覚える。
 海結の気配に気づいて、振り向くトーマス。
「おはようございます、海結さん」
「あ、おはようございます……」
 トーマスが、天井の照明をつけると、室内がぱっ、と明るく照らされる。
 静かで穏やかな笑みが海結に向けられている。
 海結は、その顔を直視できない。
 昨夜の自慰を思い出して、もしかして聞かれていたのではないか、と疑うが、トーマスは何も言わないし、その態度にも変わった様子はない。
「仕事に出る前に、海結さんに見せたいものがあるんです」
 トーマスの声は、どこか弾んでいる。
「はい……何でしょうか」
 海結はまだ寝間着のままだった。歯みがきも洗面も、化粧も、髪もとかしていない。
 しかし、仕事に行く直前のトーマスに、海結の朝支度を待っている時間はないだろう。
 玄関から、トーマスに続いて外に出る。
 ヤンバルの森はまだ暗く、まるで影絵のようだが、その後ろの空はうっすらと白み始めていた。
 風が吹くと、少し冷たいものを感じる。
 家の反対側に、布団や洗濯物が干せる程度の空き地がある。
 西の方向に、大海原と地平線が広がる。
 空き地から、草むらの中を、海のほうへと十歩ほど進むと、朽ちて倒れた何かの標柱がある。
 その先は、手すりも柵もなく、唐突に地面が終わっていた。
 断崖絶壁の上だった。
 夜明け前の海は、墨汁の色のように暗い。
 左の方向を見る。下にいつもの小さな漁港。はるか遠く、島や半島のうっすらとした影。
 荘厳な風景だった。
 崖をかけ登ってくる海風が、海結の顔面を直撃し、髪と寝間着の裾をあおる。
 砕ける波の音が、耳まで届いた。
 海結は、崖の下を覗き込んでみた。
 下にちらりと波頭が見えた瞬間、海結の足は地面に縫いつけられたかのように動かなくなってしまった。
 真っ黒な海へと、意識ごと引きずり込まれてしまうような感覚に囚われる。
 美しいだけでない、ちっぽけな人間を容易に飲み込んでしまう、自然の真の姿を見せられている気がする。
 気が遠くなりそうなのに、どうしても目が下を向き、それが恐怖に拍車をかける。
「どうですか。いい眺めでしょう」
 海結の隣に、腕を組んだトーマスが立っている。その声は、家から見える風景を素直に誇っているようだった。
「……動けません」
 海結は、震える喉からかろうじて声を出した。
「えっ?」
「足が、動きません……お願いです、ちょっと、助けて」
 トーマスは、肩をすくめて震える海結を横から抱き寄せ、逞しい腕でがっちりと固定すると、ゆっくりと後ろに下がった。
 海結は、崖から遠ざかって安全圏に逃れた後、へなへなと崩れ落ちそうになる。
 トーマスは、海結を後からしっかりと抱きとめて支えてくれた。
「すみませんでした、怖い思いをさせてしまって」
 海結の耳元で謝る、トーマスの声。
 体に直接響いてくるその声と、体温、厚い筋肉に触れ、ひと時の安心を覚える海結。
 はっ、と我に返り、トーマスの腕から脱出した。
「ご、ごめんなさい、すみません」
「大丈夫ですか」
「もう平気、平気です」
 両手を胸に当て、どきどきと鳴る鼓動を感じながら、海結は頭の中で、鎮まれ、静まれと念じる。
 海結が落ち着くと、家の中に戻る。
 トーマスに聞くと、崖の高さは海面から八〇メートルもあるらしい。
 玄関にかけている黒キャップをかぶるトーマス。
「僕はそろそろ行きます。海結さんは、家の中の仕事をお願いします」
 昨日の話し合いで、海結は、まず家の中を整えることになっている。
「え、朝ごはんは……」
「いつもどおり、ボートで食べますから」
 ここは、沖縄本島の北にある小さな集落だ。食堂もコンビニも弁当屋も、多分ない。
 いったい、トーマスはどこで食事を手に入れているのだろうか。
「まだ時間の余裕があるなら……」
 海結がかけた声に、トーマスが振り返る。
「すぐに、何か用意しますから」
 トーマスは、デッキシューズを履こうとしていた手を止め、ほほ笑みを浮かべた。
「お願いします」



 トーマスの家に住み込み始めて、一週間ほどが経つ。
 朝食を平らげたトーマスは、玄関脇のライフジャケットを着用してベルトを締め、黒キャップをかぶる。
 デッキシューズを履くまでの動作に、無駄なところがまったくない。
 肩からデジカメと、小型のクーラーボックスを下げる。
 クーラーボックスには、海結が作った弁当と保冷剤が入っている。
 ご飯と豚肉の生姜焼き、卵焼き、ほうれん草とニンジンの和え物を詰めた。冷えた状態でもおいしく食べられるよう、工夫はしたつもりだ。
 今日は、ホエールウォッチングの午前便を運航する日だった。昼前には帰港するが、トーマスがすぐに帰宅することは少ない。
 客を宿まで送り届けた後、また港に戻り、今度はシャチの観察のために客を乗せずにボートを出す。
 もちろん、フィッシングボートの整備と清掃という仕事もある。
 弁当は、その間に食べてもらうためのものだった。 
「行ってきます」
 笑顔を残して仕事に出かけてゆくトーマス。
「行ってらっしゃい、気をつけて」
 タイヤが砂利を踏みしめる音を残し、軽バンが走り去ってゆく。
 風と、森から聞こえる野鳥の声、崖下から聞こえる波の音だけの時間が訪れた。

 海結は、トーマスの生活の形を一気に変えた。生活に必要な道具や家電もひととおり揃い、野生動物のねぐらのようだった家の中に、ようやく人間らしい暮らしの形ができた。
 結果、トーマスの手持ち資金はかなり目減りすることになったが、
「海結さんの好きなようにやってください」
といった調子で、異論はまったく出なかった。
 トーマスは、金銭に対する意識が、海結とは真逆で、食べられる分だけあれば良い、という考えだ。
 とはいえ、海結も、トーマスの貯金を減らし、強引に暮らし方の変革を進めてしまった自覚はある。本音のところでどう思っているか、少し気になる。
 窓の鎧戸を開けると、網戸を抜けて、家の中に新鮮な夏の空気が入ってくる。
 洗濯に取りかかる。中古で購入した洗濯機は、古い型の二槽式だ。
 洗濯かごの中から、まず白物だけを分けて取り出す。海結のものも、トーマスのものもまとめて洗ってしまう。
 海結には、男物と女物を別々に洗う習慣はない。洗剤と水の無駄だし、完璧に洗って日光消毒すれば何の問題ない。
 洗濯物の中に、昨夜の自慰で汚れたショーツがある。思い出さないように急いで洗濯槽に放り込む。
 トーマスの海パンは、洗濯物の中になく、今日も同じものをはいて仕事に行ってしまった。毎日、シャワーを浴びる時に石鹸で洗ってしまっていると聞くが、買い足さないと、と海結は思う。
 洗濯機が回っている間に、家の中を掃除する。
 コンクリートの床の上を掃除機で吸う。かなり砂やホコリが落ちていた。壁にも薄黒い箇所がある。絞った雑巾で拭くが、なかなか汚れが取れない。
 洗濯が終わると、家の崖側に新設した物干し台に干してゆく。
 その先は断崖絶壁だが、近寄らなければ海結も平気だ。
 海の青と、雲と波の白。朝の陽に照らされた海に、色彩が戻ってきている。
 今日は少し波が高い。うねりも大きく見える。風もやや強い。洗濯物が飛ばされぬよう、しっかりとピンチで留める。
 干し終えると、気になった玄関回りの草を抜く。抜いた草は村指定のゴミ袋に入れ、しっかりと上を結ぶ。
 草深いところは、ハブが怖くて手が出せなかった。
 家の中に戻る。トーマスのノートパソコンを起動し、メールをチェックする。
 トーマスが提携しているホテルや宿から、ホエールウォッチングの予約状況などが送られてくるので、確認を欠くことができない。

 家事と、トーマスから言われた仕事がひと段落すると、テレビをつける。
 沖縄のローカルニュースが流れている。
 テレビ台の下に、トーマスの資料が積まれたままになっていた。テーブルの上を空けるために一時的に寄せたままになっている。
 取り出して、何枚か目を通す。英語で書かれたもの、シャチの写真がプリントされたものが多い。学術的な資料のように思える。
 これまでのところ、海結はシャチに出会えていない。
 シャチは世界中の海に生息しているが、どちらかといえば寒冷な海を好むと聞く。トーマスが主張しているように、本当に沖縄の温暖な海域に定住しようとしているのだろうか。

 ふと、自分が何をやっているのか、という思いが生じる。
 陸斗と暮らしている時と同じことを、いつの間にか自然にやってしまっている。
 夫とは別の若い男の家に身を寄せ、食事を作り、食器を洗い、洗濯と掃除をしている。
 周囲から世話焼きと言われることが多かったが、単なるそれで済まされることなのだろうか。
 しかし、住み込みの家事代行のようなものと考えれば、これも給料のうちだ。そのうちにホエールウォッチングや、シャチの研究活動も補助するようになれば、後ろ指をさされることもないはずと、頭の中からもやもやしたものを追い出した。
 午前八時半を過ぎた。
 外に出て、怖さを感じないギリギリの位置まで崖の端に近づく。南側に見下ろす漁港から、トーマスのフィッシングボートがちょうど出港するところだった。
 ボートからは見えないだろうと思いつつ、手を振ってみた。

 午後、陽気と海風で早々と乾いた洗濯物を取り込む。
 洗濯物をたたむ手が、一瞬止まる。
 トーマスのTシャツやブリーフから、若い男の匂いと、かすかに混じる獣のような匂いが立ち上る。
 汗とは違うこの匂い、いったい何だろうか。
 一緒に洗濯していることを考えると、そのうちに海結の下着もこの匂いに染まってしまうかもしれない。
 完璧に落とし切れなかったか、と思いつつも、鼻に届くその匂いがなぜか心地よい。
 鼻孔から海結の中に入ってきたその匂いが、体の奥まで深く浸透してゆくような錯覚に陥る。
 不意に、昨夜の自慰の記憶が、その匂いを伴って、頭の中で生々しく再生された。
 慌てて妄想を振り払う。

 夕方六時頃、トーマスはまだ外の明るさが残っているうちに帰宅した。
 朝に持って出かけたものよりも、ひと回り大きなクーラーボックスを肩から下げていた。
 トーマスは、しばらくの間、どうにも捗らない動作でデジカメを操作していたが、
「これ、午後撮ったんです」
と、収められた写真を海結に見せた。
 シャチが写っている。群れで泳ぐ写真の他に、ボートに向かって顔を出し、口をがばっと開けているものもある。
「あ、このシャチ可愛い」
「こいつはキャサリンという名前です」
「名前つけてるんですか?」
 トーマスは、この海域のポッドの一頭一頭に名前をつけて識別しているらしい。
 キャサリンも他の個体も、客を乗せていた午前便の時は姿を現さなかった、と言う。
「人間を警戒しているのかもしれないな」
「トーマスさんだって人間じゃないですか。私の乗ってた時は来てくれなくて、トーマスさんの時だけ来る、ずるいです」
 トーマスは、半分笑ったような、困ったような笑顔を浮かべた。
「僕はいつも海にいるから、慣れてるんでしょう」
 そう言った後で、
「彼女は、僕に伝えたいことがあったんです」
とつけ加えた。
「なんですか、それは」
「海の変化」

 トーマスが持ち帰った大きいクーラーボックスを開けると、氷漬けになった魚が入っていた。
「わあ……」
 鮮やかな紅色に、海結は思わず声を上げた。スジアラ、沖縄ではアカジンミーバイとも言うらしい。
「潜って獲ってきました」
 しかし、魚のどこにも傷はない。素潜り漁では銛などを使うはずだが、いったいどうやって獲ったのか海結は聞いた。
「ああ、素手です」
 手で魚をつかみ取る仕草をしながら答えるトーマス。
 実際、海に潜って魚を追い、素手で魚を捕らえることは、相当難しいのではないか。
 フィッシングボート上で見た超人的な身体能力。トーマスだからこそ可能な技なのかもしれない、と海結は思う。

 海結は、夕食のおかずとして、アカジンミーバイのソテーと刺身、ゴーヤチャンプルー、アーサの味噌汁、デザートによく冷えたパイナップルを用意した。
 トーマスはよく食べるので、海結の三倍ほどの量を盛りつけておいた。
 好き嫌いなく、和食でも何でも食べるトーマス。箸も使える。特に魚が好物で、加熱したもの以上に刺身によく箸が伸びる。
 トーマスは、海結と向かい合って座り、もぐもぐとソテーを食べる。
 少しずつだが、海結はトーマスの小さな表情の変化を読み取れるようになってきた。
 陸斗の反応の薄さに比べ、トーマスは一口ごとに、色々な表情を見せてくれるので、海結も料理のしがいがある。
 ソテーの皿を平らげると、今度は刺身を食べ始める。ピンク色の切り身をひと切れずつ、優しく丁寧に口に運ぶ様は、まるで異国の王子のような優雅さすら感じさせる。
 普段、トーマスはぎゅっと口を結んでいることが多い。これまで意識したことはなかったが、ほどよく肉感的で形の良い唇と、時々ちらちらと覗く白い歯を見ていると、頬に火照りのようなものを感じる。
 この唇で、いったいどんなキスをするのだろう。
 脳裏に浮かんだ想像に、ほんのひと時、意識をもっていかれてしまった。

 テレビから、天気予報が流れている。
 どうやら沖縄本島の南東で台風が発生したらしい。
 真西に進んで、先島諸島と台湾の北部をかすめて中国大陸へ、その後は針路を変えながら、黄海、朝鮮半島、日本海へと抜ける進路の予想円が描かれていた。
 幸い、沖縄本島を遠巻きにして進むルートだ。海結はひと安心する。
「早めに備えないといけないな」
 トーマスは、テレビの画面を見ることもなく、ぼそっ、と言う。
「でも、ここからは遠いところを抜けそうですよ?」
「いや、スピードを上げてこっちに来る。ここを直撃すると思う」
 進路予想とまったく違うことを言い出す。何か確信があるようだが、海結は戸惑う。
 しかし、海の男としての勘、気象を察知する感覚が常人よりも磨かれているのかも、そう考えることもできた。
「お手伝いできることがあったら、言ってください」
「ありがとう。いろいろお願いすることになると思います」
 トーマスは、窓の外をじっと見つめながら言う。
 その真剣な横顔を見ているうちに、海結の中に、胸がざわつくような、黒い不安が広がっていった。



 ホエールウォッチングが午後であっても、トーマスはいつもと同じように、午前五時頃に目を覚ます。
 海結も同じ時間に起床し、朝食の支度をするのが日課になった。
 今朝、トーマスは仕事に出る際に、
「運休にするかもしれない」
と言い残した。
 家事がひと段落した海結が天気予報を見ると、台風の進路予想が大きく変わっていた。
 コースが全体的に東側にずれ込んでいる。西ではなく北へと進路を取り、スピードを上げながら徐々に北西に向きを変えている、とのことだった。
 予想円の中に、沖縄本島がすっぽりと入ってしまっている。
 天気予報よりもトーマスの読みが正しかったことに、海結は驚いた。
 本島へ最接近するのは、明後日の夕方から深夜。
 海結は家の外に出る。恐る恐る崖に近づき、海を見る。
 海風が海結の真正面から吹いて、髪を持ち上げた。昨日よりは風も強いし、海のうねりも増している。
 八月の中旬、家を飛び出してから二週間以上が経つ。初めて見る、嵐の予感を秘めた荒い海だった。

 トーマスは、午前九時頃には、早々と家に戻ってきた。
「運航休止だ」
 言いながら、キャップを脱ぎ、手の甲で汗を拭った。
 フィッシングボートを出せないほどではないが、客の安全と、早めにボートを舫う必要から、運休を決めたと言う。
 提携先のホテルなどを回って運航休止の連絡を済ませ、客へのキャンセルの案内を頼んできたらしい。
 沖縄の自然災害というと、まず思いつくのが台風による暴風だ。台風は目の前に迫っている。襲来までの間に万全に備えを済ませておかなければならない。
 慣れぬ土地で台風に見舞われることになった海結は、かなり不安と焦りを感じる。
「ボートの備えでも何でも手伝います。教えてください」
「ボートのほうは危ないので、僕がやります。海結さんには家のほうをお願いしますが、買い出しが先決です」
 トーマスは冷静だった。頭の中で、台風対策の段取りができているようだ。
 頼もしい。何かそわそわした気持ちだった海結の心が、少し鎮まった。

 翌日の午後から雨が降り始め、陽が沈む頃には風も強まってきた。
 トーマスの方針で、海結は避難せず、家の中で台風に耐えることになった。
 大粒の雨がコンクリートの屋根に落ちる音が、まるで岩を叩くように鈍い音で響く。
 普段は開けっぱなしの窓と鎧戸は、今はしっかりと閉められている。激しく叩きつけられる風と雨を受けて、鉄製の雨戸がごーっ、と唸る。
 上と横からの音が、不気味な不協和音となって室内に飽和していた。
 窓は内側から養生テープで補強し、隙間という隙間にタオルをつめ込んである。
 この作業は、トーマスがフィッシングボートを岸壁に固定する作業をしている間に、海結が行ったものだった。
「ちゃんと、言われたとおりにやりましたけど、暑いですね」
 トーマスの家にはエアコンがない。気密性が高まった家の中は、まるで蒸し風呂のようだ。
「完璧です。暑いのは我慢です」
 トーマスは、海結のほうを向かずに言う。
 ベッド上に座る海結は、シャツも羽織らず、タンクトップだけになって暑さをしのいでいる。
 時々、タンクトップの肩がずれて、ブラのストラップが露わになるので、頻繁に位置を直さなければならない。
 トーマスのほうは、Tシャツを脱いだ短パンだけの姿だ。濡らしたタオルを首から下げて、暑さに耐えていた。
 椅子に座って腕を組み、じっと空中の一点を見つめ続けている。陽に焼けた肌の上を、汗の雫がたらたらと伝って落ちてゆく。
 テレビは、沖縄本島への台風直撃と警報、避難指示を訴え続ける。
 ここもすでに暴風圏内にある。
 コンクリート造りの小さな家全体が揺さぶられる感覚がある。天井に吊るされた蛍光灯がかすかに振れ、風雨の音も次第に大きくなっている。
「停電する前に、シャワーを浴びておいたほうがいいと思います」
 上を向いたまま、トーマスが言う。
「停電するんですか?」
「恐らく」
 ごおっ、と吹く風に押されたのか、家がきしんだような音がした。
 海結の不安は増した。台風の襲来を言い当てたトーマス。停電することが確かなように思える。
「……先に」
 着がえを持ち、脱衣スペースのカーテンを閉める。汗でべったりと肌に張りついた衣類を何とか脱ぎ、シャワールームに入る。
 ノブをひねり、給湯温度を低めにする。
 停電が迫っているとすれば、短時間で済ます必要がある。汗だけを流した。
 水の音とともに、少し体の熱も引けてゆくが、不安までは流れてゆかない。
 海結がシャワーを終えると、入れ替わりにトーマスが入る。
 重く湿った空気が、シャワーを浴び終えたばかりの海結の肌にまとわりつく。
 室内に、トーマスの匂いが充満していることに気づく。汗と、獣じみたオスの匂いが、湿気と一緒になって海結を包んでいる。
 海結は、自分の胸の鼓動が、次第に早くなってゆくのを感じた。

 家の外では、台風の猛烈な風が唸りを上げている。壁の外に、何かがぶつかる音が、ごんっ、と鈍く響く。
 天井の照明が、ちらちらと点滅し始めた矢先、ふっ、と消えて真っ暗になってしまった。台風情報を流していたテレビの音声も途切れ、画面が黒く変わる。
 停電だった。
 海結は、かたわらに置いてあった懐中電灯に手を伸ばす。
 スイッチを入れようとした瞬間、室内がろうそくの灯りで照らし出された。トーマスが火をつけたものだった。
 ろうそくの細い炎が、揺れながら、海結とトーマスの影を壁に映し出す。
 ごおっ、ごおっ、と小さな家をなぶるような暴風雨。絶え間ない轟音の中、みしり、と屋根がきしむ音がする。窓の隙間から入り込んだ風が、室内の空気を圧縮しているように思える。
 このまま家ごと吹き飛ばされてしまうのではないか。そう思った時、海結の背筋に冷たいものが走る。
 頼りなく揺れるろうそくの炎の中、膨らむ一方の恐怖。息も浅くなり、心臓の鼓動も早いままだ。
 海結は、いつの間にか、ベッドの上で膝を抱えて体を丸めていた。
 体全体が震えている。膝を抱く両腕に力を入れることで、何とか恐怖をやり過ごそうとする。
 自分が、嵐の中で翻弄されるばかりの小舟のように思える。何か、漁港で見た係船柱のようなものに、しっかりと自分の体をつなぎ留めたい、そういう思いに囚われる。
 突然、大きく重量のあるもの、太い木の枝か何かが、どかっ、と屋根に衝突する音がした。
「ひゃっ!」
 海結は思わず悲鳴を上げ、両手で頭を抱え込んだ。
 黙って椅子に座っていたトーマスが、すっ、と立ち上がり、海結のほうに近づいてくる。
 海結の隣に腰を下ろす。
「大丈夫です」
 落ち着いた低い声音に、海結は顔を上げた。
 トーマスは太い腕で、そっと海結の肩を抱き寄せてくる。
 海結の肌が、トーマスの腕と厚い胸板に触れる。汗でぬるりと滑る感触が直に伝わってくる。
 体温と、野生的なオスの匂いが、海結を包み込む。その濃い匂いを吸い込むたびに、頭の中にあった日常の記憶が薄れてゆくような感覚がある。
 海結の体が、奥深いところから熱を帯びてゆく。心臓はますます早く打つ。
 無意識に、右手で左手を庇っていた。指輪の固い感触が右手の下にある。
 このままトーマスの隣にいてはいけない。そんな声が頭の中で聞こえたが、体はトーマスに吸い寄せられたように、動くことができない。
「大丈夫。僕がいます」
 肌と肌が密着していると、トーマスの声が直接体に響いてくる。穏やかだが、どこか熱をはらんでいるように感じられる。
 海結は黙ってうなずき、トーマスの腕の中にすっぽりと収まる。どくん、どくん、という力強い心音に耳を傾ける。
 その鼓動は、海結と同じくらい早かった。
 今の海結に頼れるものは、トーマスの声と鼓動、肌の感触と体温、そして匂いだけ。
 世界から遮断されたように、自分をつなぎとめるすべてがトーマスに集約している。
 海結の口から、かすかな吐息が漏れた。トーマスの吐息が海結の顔にかかる。二人の吐息が混じり合い、新たな熱が生じる。
 トーマスの両手が、そっと海結の頬を包み込んでくる。親指が優しくなぞり、まるで安堵を与えるようにゆっくりと撫でる。
 鼓動が跳ね、呼吸が苦しい。酸素が足りていないような錯覚に陥る。
 ろうそくだけの薄闇の中、トーマスの瞳が赤く揺らめく。
「……いいですか?」
 小さく、少しかすれた声。
 だめ、と言わなければ。海結の理性が最後の警鐘を鳴らす。拒まなければいけないのに、その理由に手を伸ばそうとすると、なぜか霧に隠れるように見えなくなってしまう。
 頭の中で答えを出す前に、海結はトーマスの首に腕を回し、体全体を預けるようにすがりついていた。
 トーマスの唇が静かに触れてくる。
 軽く、何かを確かめるような、短い間だけの口づけ。
 唇が離れる。トーマスが、海結の瞳をのぞき込むようにしている。鼻先がわずかに触れ合った直後、再び唇が重ねられてきた。
 海結は目を閉じる。
 唇が強く押し当てられてくる。トーマスの舌が、海結に口を開くように促す。海結は身をこわばらせた。一瞬の躊躇の後、唇を開けてトーマスの舌を受け入れた。
 ぬるり、と滑る感触が、口の内側をなぞってくる。
「ん……っ……ん……」
 海結の喉から、意識しないまま声が漏れた。
 トーマスの舌がにゅる、にゅる、と動くたび、理性が輪郭を失ってゆく。
 舌同士が絡み合う。唾液も混じり合って湿った音を立てる。隙間から漏れる吐息が熱い。
 唾液の糸を引きながら、トーマスの唇が離れてゆくと、大きな手が、海結の頬から首筋、鎖骨へと移動していった。
「あっ……」
 小さな喘ぎ声。
 トーマスのもう片方の手が、タンクトップの上から背筋と肩甲骨をなで、肌の曲線をなぞるように腰まで下りてゆく。
 なぞられるたび、ぞくっ、とした感覚が背を走り、鳥肌が立つ。
 指の動きひとつひとつが、海結の感覚を呼び起こしてゆく。
 吐息が首筋にかかる。湿り気と温度が鮮明に感じられる。触れてきたトーマスの唇が、そっと吸いついては離れ、吐息の熱さを残してゆく。
 唇が鎖骨のあたりまで下りてくると、海結の意識は、ただその感覚を追うだけになっていた。
 ろうそくの炎が、強く吹き込んだ風圧のせいか、一瞬大きく揺れてから、ふっ、と消える。
 部屋の中が、完全な闇に包まれる。
 何も見えない。目の前にあったトーマスの顔も見えない。
 トーマスの手が、海結のタンクトップの裾から入り込み、汗ばんだ素肌に触れた。
 胸の奥がひどく疼く。もっと、直に触れて欲しい、もっと確かめて欲しいという、抑えようのない衝動が生まれる。
「お願い、トーマスさん……」
 うなずく気配があり、海結は背中を支えられながら、ベッドへ横たえられた。
 海結の手が、トーマスの手首をつかんでいた。何をしようとしたのか、自分でもわからない。何かを言葉にしようとしたが、吐息しか出てこない。
 上に覆いかぶさってくるトーマス。
 タンクトップを上から脱がされ、短パンも前を開いて脚から抜かれる。肌に触れる空気の湿度の高さが、はっきりわかる。
 背中にトーマスの手が回り、体を持ち上げるようにしてブラのホックを外す。前からつかまれて体から引き離された。
 思わず、両腕で露わにされた胸を覆い隠す。その間に、ショーツをすっ、と引き下ろされ、両脚から抜かれてしまった。
 丸裸にされた海結の肌を、手と指先が這い始める。肩から胸元、腹部、腰骨と、時間をかけて辿ってゆく。
「……ん……んう……あふっ……」
 指が乳房に埋もれ、揉みしだくように動く。その圧力によって、先端の乳首が押し出された。
 乳首に唇が吸いついてくる。口に乳輪ごと含まれ、舌先で先のほうを舐め回される。
 体の奥まで、瞬間的に伝わるしびれにも似た感覚に、海結はびくっ、と体を震わせた。
「んあっ……」
 指が乳首を少し強めに挟み込む。回すように揉まれ、今度は爪先で乳腺の出口を刺激される。
「んんっ、くぅ……っ」
 唇と指で、交互に胸を愛撫されながら、空いたほうの手で脚の内側をさすられる。
 視覚が奪われた中、海結の意識はトーマスの動きと自身の感覚だけに取り込まれてゆく。
 脚をなでていた手が、海結の茂みをかすめて秘裂に触れてきた。
「やっ……」
 瞬間的に海結は脚を閉じようとするが、トーマスの体が間にある。
 指の一本が、突起をなぞり、秘裂にそってぬるぬると動き始める。やがて膣の入口を探り当て、奥深くまで侵入してきた。
 指は膣内でゆるやかに動きながら、さらに奥、奥へと進んでくる。
「やあっ、あっ……ダメっ……」
 海結は息を止めて身をよじるが、トーマスの手で足首をつかまれ、両脚を空中に持ち上げた姿勢に固定されてしまう。
 膣の中を探る指が、もう一本増やされる。出し入れする動きに加え、指を曲げて中を拡げられる。
 海結の脚に入っていた力が次第に抜けてゆく。
 くちゅ、くちゅ、という水音が、嵐の轟音から分離して海結の耳に届く。
 トーマスの指をもっと奥まで招き入れようとしているかのように、海結の腰が勝手に動き始めた。
 不意に、指が膣から抜かれ、トーマスの体が離れてゆく。
 服を脱ぎ捨てる音がした。
 海結の左手首が、トーマスにつかまれる。誘導された先で、幹のようなものを握らされた。
 太く、長い。素手で触るのが怖いほど熱い。薄皮一枚下は、指で押しても微塵も変形しない固さがあった。
 びくっ、びくっ、という脈動が、手の平に伝わってくる。
 それが何か察した海結は、手を引っ込めようとするが、トーマスの手によって、握った状態のまま固定されてしまう。
「……抱きたい、いいか?」
 トーマスの声には、欲望の昂りを無理に抑えつけている響きがあった。
 その気になれば、簡単に組み伏せることができるのに、あえて聞いてくる。
 許してしまいそうになる海結の、霧がかかったような意識の隅のほうに、わずかなためらいが残っている。
 いつまでも返事をしない海結を待ち切れなくなったのか、トーマスは海結の頬を包んで唇を重ねてきた。
 最初から口の中に舌を差し入れてくる。海結の舌が逃れようとするのを許さず、追いかけて絡め取ってくる。
「んっ……!」
 唇も強く吸われ、呼吸もままならない。喉の奥まで届くような深さで入り込むトーマスの舌で、口内全部が蹂躙される。
 海結の中にわずかに残っていた理性が、跡形もなく溶かされてゆく。
 トーマスの唇が離れていった後、海結の喉は、震えながら、聞き取れないくらいの小さな言葉を発していた。
「……奪って」
 その一言が落ちた瞬間、トーマスの体が重量感をもって海結に被さってきた。
 熱いオスの先が、ひだを左右に除けながら、体重を乗せてゆっくりと膣内に押し入ってくる。
「……っ……!」
 限界まで拡げられる圧迫感。体ごと裂かれるような痛みに、目尻から涙がこぼれた。
 猛るトーマスのオスが、海結の繊細な部分を拡げながら、奥へ少しずつ進んでくる。
 その熱さと硬さ、脈打つ鼓動が、海結を内側から侵略する。左右に大きく広げられた脚が、がくっ、がくっ、と痙攣した。
「う……くうっ……っ……うう……」
 苦しい。呼吸がうまくできない。
 トーマスは、オスを押し込む動作を、いったん止める。
 顔に熱っぽい吐息がかかり、唇が下りてきた。
 トーマスの舌と自分の舌を絡ませていると、下半身の圧迫感が、すこしだけ緩んでくる。
 その機を逃さず、トーマスは少しずつ腰を動かし始めた。
 トーマスが、海結の様子を確かめながら動いていることが伝わってくる。深くなり過ぎないように、ゆっくりと、優しく膣の緊張が突きほぐされる。
 十分に濡れていた海結の膣は、こわばりが解けるほどに、より深くまでトーマスのオスを受け入れてゆく。
 海結の両手に、トーマスの手の平が重ねられる。指と指を絡めるようにして、互いにしっかりと握り合った。
 痛いくらいだった感覚が、次第に快感へと塗り替えられてゆく。濡れ具合も増し、ぬちゅっ、ぬちゅっ、という湿った音が響く。
「あふっ……ああっ……んっ……ふ、うっ……」
 トーマスのオスが、柔軟さを増した膣壁を拡縮させながら動くたび、溶けてしまいそうな熱が海結を支配してゆく。体がぴくっ、ぴくっ、と動きに反応して震え、息づかいも乱れてゆく。
 オスがついに海結の最奥まで届いた。
「あっ……はっ……トーマス、さん……ああっ……」
 奥を突くストロークも長く、入口まで引き抜かれ、また最奥まで押し込まれる。繰り返されるその動きが、海結を悶えさせた。
 もう、体を自由に動かすことすらままならず、海結は喘ぎ声を上げるだけになっている。
「あっ…あっ、あっ…ん、ふあっ、ああっ」
 海結の体も、トーマスの体も、汗でびっしょりと濡れている。密着した肌と肌がぬるぬると滑る。
 膣のさらに奥に、未知の感覚が生まれた。
 その感覚は、意識が何とか踏みとどまっている場所まで、波のように押し寄せる。少し引いては、また高さを増してかけ上がってくる。
 トーマスが腰の動きを一気に速めた。
「あっ、あっ、ああっ、んんっ、あっ、あああー!」
 大波に呑まれる、と思った瞬間、海結の体は硬直し、びくっ、びくっ、と痙攣する。全身の神経が一点に集中し、そこから電流のような快感が四肢の先端まで走り抜ける。
 視界が白く染まり、意識が瞬間的に肉体から遊離したような感覚に陥る。
 トーマスの手を、血の気が失せるほど力いっぱい握りしめる。
 意識が真っ白に飛んだ時、海結の脳裏に陸斗の顔が浮かんだ。
 幼い日の、泣きべそをかく陸斗の顔。
「ぐっ……」
 トーマスの喉から、低い唸り声が聞こえる。
 海結の奥深くに熱いものが注ぎ込まれて、内臓から焼かれ溶かされてゆくのを感じた後、陸斗の顔は消えていた。

 台風の目に入ったのか、もう、海結の耳に嵐の音は届いていない。
 聞こえるのは、自分の荒い呼吸と、トーマスの落ち着いた心音だけ。暗闇の中、自分とトーマスの境界さえ曖昧だった。
 海結の体は、快楽の余韻によって震え続けている。
 トーマスのオスは、いまだ熱と硬さを失わず、収縮を繰り返す海結の膣内に留まり続けていた。

(続く)
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