黄金のオルカ

第七話 離洄



 今までとは違う朝だった。
 雨戸を締め切っているので、室内にはわずかな光しか入ってこない。雨戸が時折、カタ、カタ、と音を立てる。
 それ以外は、昨日の暴風雨が嘘のように静かだ。
 玄関ドアが開閉する音を聞いた気がする。スマホの目覚ましも。
 今、何時だろうか。
 肩までかけられたタオルケットの中、海結は体をもぞもぞと動かしながら考える。
 全身に眠気が張りついているが、やるべきことはやらなければならない。
 意を決した海結は、ようやくベッドから体を起こした。
 ベッドを囲むように下げられているカーテンが開いている。室内を見回すが、トーマスの姿はない。
 足を床に下ろし、ベッドから離れようとした時、海結は下半身に違和感を覚える。
 何か、自分の中から外へ漏れ出すような感覚がある。股のあたりに、ぬめったものを感じる。
 目線を下に落とすと、何ひとつ身に着けていない自分の体があった。ぬめりを感じる部分を確かめようと、両手を股間に差し込んでみる。
 どろりとした液体が、手にべっとりと付着する。
 両手を広げて見た瞬間、海結の脳裏に、昨夜の出来事がありありとよみがえった。
 嵐の中で、トーマスに抱かれた。
 トーマスは、海結を何度も求めてきた。海結は、ただトーマスに与えられるものに身を任せ、ひたすら翻弄されるだけだった。
 のしかかってくる体の重さ、筋肉の力強さ、汗とオスの匂い。体の内で感じた大きさと、硬さと、熱さと。
 それに、初めて経験したあれは何だろう。
 体中の神経が暴走し、体液が沸騰して、意識ごとどこかへさらわれてしまうような、強烈な感覚だった。
 海結は、体の奥底に、まだその余韻が残っているような気がする。
 まだ目が覚め切らないが、眠気をこらえながらベッドから離れた。
 どこかけだるさを感じながらも、体が動くのは、半ば習慣的なものだ。
 窓と雨戸を開けると、湿った風とともに、室内に明るさが飛び込んでくる。
 窓の外は、台風一過の、天井が抜けたような青空だった。
 新鮮で冷たい空気を吸い込みながら、ふと、陸斗は今頃何をしているのかな、と考えた。
 陸斗の会社は夏季休暇のはずだ。となると、まだ寝ているかもしれない。ちゃんと朝食は食べているだろうか。
 淀んでいた頭が冴えてきた時、海結は、はっと息を飲んだ。心臓が、どくん、と大きく鳴る。
 全身の血が下腹部に集まり、股から抜け落ちてゆくような恐怖に襲われる。寒気を覚え、体が震える。
 得体の知れない焦燥感に急かされ、海結は部屋の中をぐるぐると歩き回る。
 脱衣スペースのカーテンをこじ開け、閉じる間も惜しんでシャワールームに飛び込んだ。ボイラーを点火することすら意識にない。
 海結の頭は、一刻も早く情事の跡を洗い流したい、それだけに占められていた。
 両手を見る。白っぽい残滓が、いまだ手の平と結婚指輪に付着している。
「……!」
 こみ上げてきたものが、目からあふれて頬を伝い落ちた。
 海結は、ひっく、ひっく、と嗚咽しながら、冷たいシャワーを浴びる。石鹸をつけ、手と指輪を何度も洗う。
 タオルすら持ち込まなかったので、体も手で洗うしかなかった。股の間と太ももの内側は、石鹸で洗ってはシャワーで流す、という動作を何度も繰り返した。
 小さなくもりガラスの向こうから、車が砂利を踏む音がする。
 軽バンのドアを閉める音がして、玄関から靴を脱いで中に入ってくる人の気配がある。
 トーマスだとすぐにわかった。なぜか身の危険を感じ、海結はシャワーの水を止めて、隅に身を寄せた。
 玄関脇のフックに、ライフジャケットとキャップをかけるかすかな音。
 シャワールームと壁一枚隔てたすぐそこに、昨夜何度も自分を抱いた男がいる。
 足音が近づいてくる。何かを脱ぎ捨てるような音がする。
 海結は息を止めた。お願い、ここに来ないで、という願いも虚しく、シャワールームの木製のドアが外から開けられた。
 全裸のトーマスが立っていた。
 海結は慌てて、両腕で体を覆い、トーマスの視線から逃れようとする。声を上げようとしたが、喉からは何も出てこない。
 トーマスは、自然に腕を下ろし、両手を握って拳を作っている。顔は無表情のままだが、股間のオスは、その欲望をはっきりと示し、海結に向けて頭を持ち上げていた。
 海結は、これ以上ないくらい身を縮める。
 弓なりにそそり立つオスの大きさ。これが自分の中を何度も蹂躙したとは、にわかには信じがたい。
「逃げないのか?」
 怒張したオスを隠そうともせず、トーマスが問うてくる。思わず寒気が走るほど、落ち着いた声だった。
 シャワールームの中に歩み入ってくるトーマス。その圧に押され、海結は後ずさりしようとするが、コンクリートの壁に阻まれる。
 突然、海結の肩と腕が、トーマスの手につかまれる。驚く間もなく、息づかいを感じるほど近くまでトーマスの顔が近づいてきた。
 瞳をとおして、心の奥を覗き込もうとするようなトーマスの視線。海結は思わず目をそらす。
「昨日だけにしたいなら、僕の手を振りほどいて欲しい。僕も忘れる」
 確かに、トーマスは海結をつかむ手に、ほとんど力を入れていなかった。振りほどこうすれば、たやすくできるだろう。
 しかし、体が動かない。簡単なはずなのに、なぜ。
「……どうして」
 海結は、そう喉から絞り出すことが精いっぱいだった。
「確かめたいんだ」
 低く、呟くようなトーマスの声が落ちた時、海結は逃れようとする試みを止めていた。
 それが諦めなのか、絶望なのか、それとも違う何かのせいか、海結自身にもわからない。
 腕を引かれ、もたれかかるようにして、トーマスの腕の中に身を預ける。
 背中にトーマスの腕の力強さを感じる。胸板に頬を押し当てると、厚い筋肉の向こうから心臓の音が聞こえる。
 少しだけ鼓動が早い気がした。

「ふぁ……あっ……んっ……」
 シャワールームの壁に背中を押しつける海結。その足元に、トーマスが身を屈めている。
 海結の片脚は持ち上げられ、膝をトーマスの肩にかけるようにして固定されている。ちょうど、トーマスの顔の前に、海結の秘裂が晒される格好だった。
 トーマスは、顔を海結の陰毛に埋めるようにして、唇と舌を動かし続ける。舌が敏感な場所をなぞるたび、海結の体重を支えているほうの脚から力が抜けてしまいそうになる。
 海結は両手で、トーマスの暗い金色の髪をつかんだ。
 二本の指が、海結の秘裂の外側にある丘を左右に開き、果肉を露わにした。その部分に、食い入るような視線を感じる。
「ダメっ……そんなに見ないで……」
 シャワールームの中には、くもりガラスをとおして陽光が差し込んでいる。
 こんな明るい場所で、見せてはいけない場所をトーマスに凝視されている。
 トーマスの頭を両手で押しのけようとしても、微動だにしない。
 少し先をすぼめた舌が、ゆっくりと膣の奥へと滑り込んでくる。
 羞恥と快感が同時にこみ上げてきて、海結は首を横向きに振る。ぎゅっ、と目を閉じ、指をくわえても、漏れ出す声を抑え切れない。
「んんっ……んっ……ふ、あっ……」
 トーマスが、顎を持ち上げるようにすると、舌がさらに奥へと入り込んでくる。
 舌が膣の中をうねる。膣が押し出そうと収縮するが、舌は居座り続け、かえって動きをせわしなくした。
 どんなに深く侵入してきても、奥には届かないはずなのに、電流のような感覚は襞の表面を伝い走り、奥の奥まで届いてくる。
 飽くことなく、海結の秘部を観察しては、唇と舌での愛撫を繰り返すトーマス。
 そのたびに、ぴちゅっ、くちゅっ、という湿った音が跳ね、シャワールームの壁に響く。
「……あっ、ふっ……んっ、んんっ!」
 海結の膝ががくがくと震え、崩れ落ちそうになったのを頃合いに、トーマスの頭が股間から離れてゆく。
 トーマスに支えられながら、壁に手をつき、尻を突き出す姿勢にさせられた。
 海結からは、トーマスの動きが見えない。
 大きな両手で腰をつかまれる。膣の入口に熱い塊が当てられた時、自分の秘唇がそれに吸いついたような錯覚に陥った。
 粘膜を無理矢理拡げられるような感触とともに、トーマスのオスが海結の中に押し入ってくる。
「!……あっ、ううっ……」
 愛液のぬめりに助けられ、オスが膣の内壁をぐいぐいと引き延ばしながら、奥へ奥へと進んでくる。
 内臓が押し出されるような圧迫感は、昨夜よりも軽く感じられる。
 この大きさも、形も熱さも、体が覚え始めている。
 トーマスが、猛るオスを長いストロークで動かし始めると、膣のこわばりはほどなく解け、神経が侵食されるような強い刺激が海結を襲う。
「……あっ、あんっ……ふぁ……ああっ……」
 海結よりずっと大柄なトーマスは、左右に大きく脚を広げ、海結の膣と高さを合わせて、熱いオスをゆっくりと往復させ続ける。
 両手が伸びてきて、海結の乳房を包む。腰の動きに合わせて柔らかく揉みしだき、親指と人差し指とで、乳首を挟んで刺激する。
「あっ、胸……やっ……今、ダメっ……」
 乳首に触れられるたび、膣がきゅっ、と収縮し、中を動くオスからもたらされる快感も倍加する。
 オスが海結の最奥に突き当たると、波紋のように広がる熱が全身を溶かしてゆく。
「んっ…ふ、あっ…あんっ…」
 トーマスの腰の動きが徐々に早くなる。
 海結は、もはや脚に力が入らず、トーマスの腰と腕で体ごと下から持ち上げられ、ほとんど宙に浮いているような状態になっている。
 ぬちゅっ、ぬちゅっ、という絶え間なく続く水音と、はっ、はっ、という断続的な自分の吐息。
 海結の奥を突くオスが、一気に動きを激しくした。
「ダメっ、もうっ、んんっ、あっ、ああっ」
 体ごと、大きく揺さぶられる。
 熱で溶かされ、もう、ぐちゃぐちゃになってしまいそうだった。
 昨夜初めて知ったものが、また来る。
 抗えないものが、津波のように、体の奥から一気に駆け上ってくる。
「やっ、あっ、来るっ、あっ、あああっ!」
 力強い脈動とともに、焼かれそうなほど熱いものが、奥深くに勢いよく打ち込まれる。
 体中の血と神経が、瞬間的に煮え立ち、視界が真っ白になる。
 海結は、快楽に身を震わせながら意識を手放した。

 沈んでいたのは一瞬だったかもしれないし、もっと長い時間だったかもしれない。
 気づいた時、海結はシャワールームの床に横座りし、背中を壁に預けていた。
 全身が、ぴく、ぴく、と痙攣を続けている。自分の荒い息と早い鼓動だけが、海結の意識を占めている。
 目の前にひざまずき、顔を近づけてくるトーマスを、ぼんやりと眺める。
 頬をなでられ、唇を指先でなぞられる。
 覗き込んでくるトーマスの瞳は、何かを考えているように見える。
 立ち上がったトーマスに体を起こされ、海結は膝立ちの姿勢にさせられた。
 目の前に、オスが裏筋を見せてそびえ立ち、大きな袋を下げている。
 海結の体の中で暴れ回った証拠に、全体が液体で濡れ、ぬらぬらと反射している。
 初めて間近で見る生々しいオス。頭の色は沈み込み、まるで赤紫色に腫れているようだった。幹の表面を、盛り上がった血管が縦横に這う。根本に向かって徐々に太く、赤銅色の地肌と同じ色に変わってゆく。髪と同じ色の茂みは、豊富で面積も広い。
 いまだ冷めない熱のせいで、ぽーっ、としている海結の頭の中に、何の脈略もなく、海面に顔を出して周囲を観察するシャチの姿が浮かぶ。
 どことなく似ている、と思った。
 手で触れてみる。
 薄皮一枚下にある太い芯から、その熱さと硬度が伝わってくる。
 トーマスが上半身を屈め、両手で海結の頭を包むと、ちょうど口の高さにオスの頭が来た。
 先端の割れた場所から、とろとろと液体が流れ出している。
 朦朧とした意識のまま、オスに誘われるように自然と口をつけていた。
 シャチにキスをしているような気になる。
 舌で、割れた部分をつつくと、しょっぱいような、生臭いような、不思議な味がする。
 海結は口を開けてくわえようとするが、大き過ぎる。頭の部分だけを口に含み、唇と舌で舐め回す格好になる。
 トーマスの大きな手が、優しく海結の頭をなでた。
 理性が働かない。海結は興味のままに動く子供のように、トーマスのオスを味わい続ける。
 両手で袋を持ち上げると、中にため込まれているものの重さが、ずしりと伝わってくる。
 左手で幹をつかみ、右手の指先で、裏筋や、くびれた部分をなぞる。
 うっすらと開いた海結の目に、トーマスの幹を上下にさする左手と指輪が映る。
 指輪は、トーマスと海結の体液で汚れ、反射する光も鈍い。
 海結の頭上から、トーマスの吐息が降ってくる。ネバネバとした液体の味が濃くなったように思う。
 トーマスの手が海結の頭をしっかりと固定した瞬間、唇に含んでいたオスの頭の先端から、勢いよく精液が弾けた。
 緩急をつけ、海結の口内に注がれる熱のこもった液体。
 口の入口で受け止めることになったので、むせることはなかったが、量は多い。強烈な苦みとえぐみ、匂いが脳を直撃する。
 吐き出してはいけない気がして、味と匂いに耐えて飲み込んだ。
 トーマスの精液が、食道を焼きながら下ってゆく。
 飲み切れなかったものが、唇の端から、海結の首筋にそって垂れた。

 トーマスがシャワーのコックをひねる。
 余韻を持て余していた海結を立たせ、背後から汗と行為の残滓を洗い流す。
 持ってきたタオルで、海結の髪と肌の水気を丁寧に拭う。
 海結は黙って、トーマスに任せ、されるがままになっていた。
 気をつかってくれているとわかるが、今は、その優しさが、ただ心に痛い。
 また、流されてしまった。流されただけでなく、自分の体に、消えない刻印を押されてしまったような気がする。
 この先、事あるごとに意識するだろう。自分の中に居ついてしまったトーマスの存在とともに。
 もう、何も知らなかった時には戻れないんだ。
 逃げ場がない、という思いが、海結の意識を研ぎ澄ましてゆく。
 海結の後ろの髪の水分があらかたタオルに吸われた。背後からトーマスに、ぎゅっ、と抱きしめられる。
「……トムさん」
 思わず、省略した名前を口にしていた。
 顔の火照りを感じ、何かいたたまれない気持ちになる。
 とりあえず、聞きたかったことを言葉にして、それをごまかそうとした。
「……あの、今日はボート、出さないんですか」
「波がまだ高い。今日は欠航にした」
 海結は、律儀に答えるトムの声を耳元に感じながら、その腕に自分の手を重ねていた。



 翌日には、台風による高波も治まり、トムはホエールウォッチングの仕事に出かけていった。
 家事もひと段落した午前。海結は時間を持て余していた。
 トムの家で暮らし始めて半月ほどが経つ。
 生活に必要な家電も、家財道具も大体揃った。海結が毎日少しずつ清掃を進めた結果、どこかホコリ臭かった空気も変わった。
 野生動物のねぐらのような空間が、今は人が暮らす生活感に満ちたものになっている。
 そうなってくると、家事は半ばルーチン化し、時間もかからなくなってくる。
 手狭な家だが、ひとりでいると、不思議なことに広さを感じる。何もせずにいる時間は、どうにも落ち着かない。

 おととい、台風の夜、トムに初めて抱かれた。昨日は朝からシャワールームで、上から塗り重ねられるように、また抱かれた。
 それで終わらず、夜になって、またトムは求めてきた。
 海結が床につくと、トムはベッドのカーテンを開け、目の前でブリーフを脱ぎ捨てた。
 それまでは、短いながらも言葉で海結に触れる許しを求めていたのに、昨夜のトムは無言だった。
 言葉の代わりに、己の鍛え抜かれた肉体と、怒張したオスを誇示するように、ただ静かに胸を張った。
 トムの行動は、どこか様式的で、儀式めいていた。まるで、メスに選ばれるためにオスが行う、野生動物の求愛行動のように思えた。
 海結は、トムの腕の中に身を委ねた。
 トムのオスとしての求愛を受け入れた、ということになるのだろうか。

 手持ち無沙汰で仕方ない海結は、テレビ台の下に整理した資料を手に取る。
 英語で書かれたシャチの観察資料。かろうじて意味のわかる単語を読み、シャチの写真を眺める。
 資料を目で追っているのに、海結の頭の中はいつの間にか、トムに抱かれた記憶のほうを追い始める。
 下腹部が、きゅんっ、と収縮し、不意にぬめったものを感じる。
 カーテンを閉めてから脱いで確認すると、案の定、ショーツが汚れている。匂いで、膣内に残っていたトムの精液だとわかる。
 トムは一度も避妊しようとはしなかった。
 野生児同然の生活を送ってきたゆえに、ゴムを使う習慣がないのか、それとも、最初から海結を孕ませるつもりなのか。
 背筋に悪寒が走る。
 もし妊娠してしまったら、という現実的な恐怖が急速に膨らんできた。
 もしトムの子を宿したら、陸斗のもとへはもう帰れなくなる。体だけではない。人生ごと全部、違う世界に連れてゆかれてしまうことになるのだ。

 海結は、堂々巡りになりそうな意識を、一度断ち切ろうと、ベッドに寝転がった。
 コンクリートの低い天井と梁を見上げてから、目を閉じる。
 しかし、整理できないものが、ぐるぐると頭の中を巡ることは止まらず、かえって落ち着かない。
 ごろごろと横向きに転がると、枕元にスマホが置いてある。
 今日は土曜日で、世間は夏の連休の最中だ。
 スマホを手に取り、思い切って彩夏に電話をかける。呼び出し音の後、すぐに彩夏の声が聞こえた。
「あー、海結、元気にしてる?」
「うん、元気だよ。今電話平気かな?」
「いいよー。今日は普通に休み。外が暑すぎて、家にいた」
 スマホのスピーカーから、ベッドのスプリングが鳴る音が聞こえる。どうやら、彩夏もベッドに横になってごろごろしているらしい。
「こっちも暑いけど、海風が抜けるから、けっこう過ごせるよ」
「でも、台風直撃したみたいじゃない。大丈夫だった? まあ、ホテルだし、あまり心配してなかったけど」
 ホテルを出てトムの家で暮らし始めたことを、まだ彩夏に教えていなかったことに、今さらながら気づく。
 野生動物のねぐらを文明化することに夢中で、すっかり忘れていたのだ。
「実は、住み込みのバイト始めたの。ちょっとドタバタしてて言いそびれてた。ごめんね」
「え? じゃあ、ホテルにはもういないの? リゾバみたいなやつ?」
「そう。やっぱりお金が心配で。ホエールウォッチングのツテなんだけど」
「良かったじゃん。でも気をつけなよ。盗難とか、男がらみのトラブルとか多いらしいから」
 図星を突かれたような気がして、海結の心臓がどきっ、と鳴る。海結の現状を知らないはずなのに、彩夏はどうしてこうも痛いところを言い当ててくるのか。
「うちの会社は求人情報も扱ってるから、ちらほら聞こえてくるわけ。で、大丈夫そうなの?」
「それは大丈夫だよ」
「一応、住所教えといて」
「ええと……郵便番号×××の××××、沖縄県〇〇村〇〇〇×××……」
「うん、うん」
「……トーマス……トーマス鯨類研究所」
 咄嗟に思いついたその名称は、嘘ではないが、真実でもない。
 聡い彩夏に、トーマス・デビッドソン宅、とは、とても言えなかった。
「へえー、研究所ね。海結も研究の手伝いしてるんだ」
「そんな大げさなものじゃなくて、ホエールウォッチングがメインで、シャチの観察とかもしてる、そんな感じかな」
「なるほどね、わかった。つまり、海結はまだこっちに帰るつもりはない、ってことでいい?」
「……うん、まだちょっと、整理つかなくて……」
「そうなのね……ところでさ」
 彩夏のため息が聞こえる。
「ん? 何?」
「……おとといの夜なんだけど、陸斗から電話がかかってきたよ」
「陸斗から?」
「いつまで経っても海結が帰ってこないから、さすがに焦ってきたみたい。それに、何か悪い夢見たらしくて」
「何だろう、悪い夢って」
「こっちが寝てる時間に、いきなり電話よこしてさ……あー、こんなこと言っていいのかなあ……」
「言ってよ。気になるから教えて」
「何でも、海結が寝取られる夢見たんだって」
 それを聞いた瞬間、海結は心臓が止まりそうになった。スマホが左手から抜け落ちそうになり、反射的に強く握り直す。
「すごく動揺してた。陸斗、半泣きしてたんじゃないかな」
 海結の頭の中に、台風のうなり声、雨戸を激しく叩く雨の音が再生される。トムの体温や匂い、のしかかってきた重さまで、鮮明に思い出される。
 陸斗が、海結が寝取られる夢を見たというおとといの夜。その時、海結は確かにトムに抱かれていたのだ。
 こんな偶然があるだろうか。
 体中から血の気が引いたようになり、ガタガタと震え始めた。
「……何で、そんな夢、見るんだろ……」
 かろうじて平静を装い、返事をしたが、喉がかすれて途切れ途切れになってしまった。
「ん? 大丈夫?」
「……うん……」
「まあ、怒りたくなるのも無理はないけど、落ち着いて聞いてよ」
 彩夏は、海結の動揺を、怒りのせいだと勘違いしてくれたようだ。
「それでさ、海結は今どこにいるんだとか、いつまでもぐだぐだ言ってるから、私も寝てるとこ起こされてイライラしてたってのもあるけど、説教したのよ。陸斗はさ、結婚したから、もう海結を誰にも取られないって、安心してたんだって。だからこう言ってやった。結婚はゴールじゃない、ってね」
「……」
「海結にも陸斗にも、私のような失敗はして欲しくないからね」
 バツイチの彩夏の忠告が、痛みとともに響く。
「くれぐれも、悪い男釣らないように気をつけてよ。特に年下の男。海結は年下ホイホイだから」
「何よ、それ」
 しばらくとりとめない会話を続けてから、電話を切る。
 会話が終わった後も、海結はしばらくの間、スマホを握ったままでいた。
 彩夏は、私の変化に気づいているかもしれない、と思った。
 その忠告を反芻する。
 もし、トムが最初から海結の体目当てだったとしたら、資金不足につけ込まれて、言葉巧みにまんまと誘い込まれたことになる。
 そうだとは絶対に思いたくなかった。
 トムは、決して悪い男ではない、野生児同然だが優しい、誠実な男だ、そう信じることにすがろうとしている自分がいる。
 そう信じていれば、少なくとも、今自分がここにいることは後悔せずに済む。愚かさの末に汚されたとは思わずに済むのだから。
 スマホを枕元に置く左手に、結婚指輪が鈍く光る。
 喧嘩別れし、沖縄にやってきて、一時的に離れているとしても、陸斗と別れるつもりはない。陸斗の妻であることを捨てたわけでもない。
 しかし、今夜も多分、トムは海結を求めてくるだろう。そうなったら、また指輪が汚れてしまう。
 情事で汚れた指輪を見ることには、もう耐えられない。
 指輪を外すことなど、これまで考えたこともなかった。しかし、また汚れることだけはどうしても避けたい。
 意を決し、指輪に指をかける。
 指輪はなかなか抜けず、薬指から血の気が引く。凍結した金属が皮膚に張りついているようだ。
 一度、深く息を吸い込み、抜く指に力を込めると、指輪は薬指に痛みを残しながら引き抜かれていった。

 夕方に帰ってきたトムは、結婚指輪を外した海結の手を見て、数回まばたきをしただけだった。
 指輪を外したことを、何とも思っていないのだろうか。
 トムの反応の希薄さに、海結の中で、トムを疑う心と、信じたい心が、またもやせめぎ合い始めた。
 その夜も、トムは儀式めいた行動をしてから、海結に覆いかぶさってきた。
 海結の体は、トムのひとつひとつの動きに従順に反応し、自分の意思を離れて勝手に乱れてゆく。
 自分の体が性の悦びを覚えてしまったことを、海結はもはや否定できなかった。数回トムに抱かれただけで、体の隅々まで塗り替えられてしまったかのようだ。
 それを認めることが、なぜか嬉しい。
 抱かれている時は、トムを信じてすべてを預けていれば、それでいい。
 白くかすむ意識の中、海結は、自分にそう言い聞かせた。



「資料整理を手伝って欲しい」
 そうトムに言われた時、英語もわからず、シャチの写真を見ても個体の判別すらできない自分に何ができるだろう、と海結は思った。
 今日は月曜日で、ホエールウォッチングの定休日だった。研究活動に充てる時間は十分にあるのだが、具体的には何をすれば良いのか、まったくわからない。
 トムがノートパソコンをテーブルの上に置きながら、
「こいつが苦手なんだ」
と言う。
 次いで、ライフジャケットのポケットから、何かを取り出して持ってきた。メガネケースだった。中に、黒縁のウェリントンタイプのメガネが入っている。
 初めて見る、メガネをかけたトム。海結は思わず息を飲んだ。
 Tシャツと短パンだけの姿でも、メガネひとつでぐっと知的に、いかにも自然科学の研究者然として映る。
 まるで、アメリカ西海岸のビーチにいるライフガードの青年から、東海岸のアイビーリーグの大学院生になったようだ。それほど印象が異なる。
 こんな一面もあったんだと、海結は心の中で呟く。胸の奥がドキドキして、トムへの好奇心も、知らず知らずのうちに膨らんでいった。
 トムは、パソコンとデジタルカメラをケーブルで接続しようとするが、USBポートに端子を入れることに手こずっている。
 あまり器用なほうではないらしい。
 デジタルカメラに撮りためたシャチの写真を、パソコンの中に移動する。
 移動した写真を、個体ごとに分類して、リネームしてゆくのだが、トムの作業は遅々として捗らない。
 眉間にしわを寄せ、メガネをかけたり外したり、顔を画面に近づけたり遠ざけたりしながら、一文字ずつ入力するのがやっと、という有様だった。
 入力ミスも多く、無駄に時間だけが過ぎてゆく。
「もしかして、目が悪いんですか?」
 海結は、細かな作業が苦手な原因のほとんどは視覚の問題に由来する、と聞いたことがある。
「そうなんだ。遠目も夜目も利くが、近くの細かいものは、どうしても見えにくい」
 まさか、その若さで老眼なのだろうか。
「……トムさんって、いくつなんですか?」
「二十四だ」
 海結よりひとつ若い。つるんとした顔は実年齢よりも若く見えるが、屈強な肉体は年齢相応、醸し出す雰囲気と世慣れした落ち着きは、もっと上であるように感じる。
 何とも微妙な年齢だ、と思う。
「そういうふうには見えませんでした。意外です」
「生まれつきでね。特殊部隊はこれでダメだった。推されて受けたんだがな」
 トムによれば、アメリカ海兵隊特殊作戦コマンドの選抜試験を受けたことがあるらしい。
 心理検査や面接、各種知能テストは及第点、体力テストと水泳の技術認定は問題なくパスし、第一次選抜試験にも大きな苦労はなかった、とトムは淡々と話す。
「目の検査で基準を満たさなくて、二次試験で弾かれてしまった」
 軍事的なことには疎い海結は、近くが見えなくても遠くの敵が見えれば良いのでは、と単純に考える。
「今は軍隊も戦場もシステム化されている。どうしようもないさ」
 選抜試験不合格の後、沖縄駐留の原隊に復帰、最終階級は伍長で、任期満了により除隊。
 トムは、四年間の軍隊生活を静かに語る。
「僕の体が少し規格外なだけで、技量では僕が到底及ばない隊員が大勢いた」
 控え目な話し方なので、つい聞き流しそうになるが、猛者ぞろいらしい海兵隊員の中の規格外、なのだ。ことさら強さを誇ることもなく、さらりと話すところに、かえって怖さを感じる。
 反面、現場でのイニシアチブは認められていても、やはり軍隊は軍隊で、息苦しさを感じる部分はあったと言う。
「とにかく大学に行け、大学の授業を受けろ、と言われた。海洋学を選んだが、振り返ってみれば、それが今の僕の土台になっている。海兵隊には感謝しているが……」
 沖縄に駐留する海兵隊について触れる時、どうしても避けられない話題がある。
 そのことを話すトムは、苦虫をかみ潰したような表情を浮かべた。
「隊員の中には、酔って悪さをしたり、女性を乱暴する者もいた。僕は、それが許せなかった」
 ここ沖縄で、米軍軍人や軍属による犯罪、特に海兵隊員による重大犯罪が多発していることは、海結も承知している。
「ごくひと握りの、マリーンの風上にも置けない奴らの仕業だが、僕は、人を守れない隊員がここにいた理由がわからなくなった。軍隊は、疑問を持ったまま居続けるところじゃない。だから再任しなかった。僕には最初から向かなかったのかもしれない」
 トムは、そう海兵隊時代を総括した。
 海兵隊という組織については、最後まで否定的なことを言わなかったトム。しかし、一部とはいえ、不心得者を生み出す土壌が何なのか、トムには見えていたのではないか。
 トムの持ち物の中に、海兵隊時代のものが何もないことが、理解できる気がした。
 そもそも、トムがアメリカ人であることを証明するものすら、財布の中の在留カードしかない。
 海結の頭の中にいる典型的なアメリカンは、快活で感情表現豊かで、家族の写真を大切に飾っているイメージだが、どれもトムには当てはまらない。
 トムの寡黙なところは、これまで単純に軍隊上がりだから、と思っていたが、アメリカ人のメンタリティと根っこのところから異なるように思えてくる。
「トムさんは、アメリカのどこの出身なんですか?」
「アラスカ州だ」
「アメリカには帰らないんですか?」
 海結にそう問われた時、トムは一瞬だけ、虚を突かれたような顔をした。
「海兵隊を除隊して、そのまま沖縄に住んだ。アメリカには行ってない」
「ご家族は?」
「アラスカにはいない」
「外国の、人も多くないこの場所に、ひとりで暮らしていて寂しくはないんですか」
「シャチがいるから、全然寂しくないさ」
「そうですか……」
 海結は、何か複雑な事情があるのかもしれないと思い、それ以上の詮索を避けた。

 シャチの写真を整理する作業は、まったく捗らないトムに代わって、海結が行うことになった。
 もっとも、海結はずらりと並ぶシャチの写真を見ても、せいぜい背びれの長さでオスとメスの区別がつくだけだ。
 そこで、海結の隣にトムが座り、トムが写真を一枚一枚分類し、海結がパソコンでリネームしながらフォルダに整理してゆく体制にする。
 役割を分担すると、写真の整理作業が一気に進み始めた。
 フォルダは七つあり、エリザベス、トーマス、メアリー、マーガレット、キャサリン、エミリー、アレクサンダー、と英語で名前がつけられている。
「今、この海域にいる七頭だ」
 メスが五頭、オスが二頭の家族。母親であるエリザベスと、その子供で構成されたポッドだ、と言う。
「全部、トムさんが名づけたんですよね」
「ああ。個体識別して、それぞれ名前をつけたんだ」
「自分の名前つけたんですか? これ、トーマスって」
「まあ、そういうことになるかな」
 トムは、海結のほうを見ずに笑った。
 それぞれのフォルダに収納されたシャチ達の写真を眺めていると、海結もおぼろげに個体それぞれの特徴が見えてくる。
 最も年長のエリザベスと、その末子のアレクサンダーを比べると、何となく年齢差というものは感じる。
「背びれの形とか、ここだ、サドルパッチというところで個体を識別するんだ」
 背びれの後ろにある模様を指差すトム。
 海結は、各個体の写真を並べて比較しようとした時、あることに気づいた。
「トーマスの写真だけが、一枚もないんですけど」
「ああ、それは」
 そこで言葉を切り、少し考えてから、
「彼は警戒心が強い」
とだけトムは答えた。
 写真の整理が半分ほど終わったところで、トムは、テレビ台の下から分厚いレポートの束を持ってきた。
「これを見て欲しいんだ」
 英語で書かれた、見るからに難しそうな学術的レポート。見覚えのあるらせん状の形から、遺伝子に関係した資料だとは推測がつく。
「七頭のDNAの解析結果だ」
 簡単な英単語くらいしかわからない海結のために、トムは丁寧に解説を始めた。
 シャチは世界中の海に住んでいるが、生息域ごとに多様な生態を持っており、発声のパターンや、何を食べているか、さらには遺伝子まで異なる。
「生態のタイプが異なる群れの間では、交流がほとんどない。同じ群れの中で交配を繰り返した結果、血が濃くなり過ぎてしまったケースもある」
「ああ、それはダメですね」
「オスは、違う群れに属するメスと交配しないとな。この七頭の特異なところは、世界各地のタイプと交配してきた形跡があることだ」
 トムが七頭の皮膚を採取し、DNA解析を依頼して得られたデータは、これまでのシャチに関する常識を覆すものだった。
 ミトコンドリアDNAの解析により、このポッドの母系は、ノルウェー近海で主にニシンを食べるタイプとほぼ特定された。
 さらに、核DNAの解析によって明らかになったのは、北太平洋のレジデント、トランジェント、オフショアの各タイプのみならず、南極海のタイプA、近年研究が進んでいるタイプDからの遺伝子の流入が見られる、ということだった。
「これがどういうことを意味するか、海結さんはわかるかな」
「いえ、さっぱり……」
 海結は、単なるシャチ萌えのミーハーだ。学術的で専門用語だらけの話を振られても答えようがない。
 トムは頭をかいた。
「この群れは、地球をぐるりと回って沖縄までやってきた。故郷ノルウェーの海を出て、各地の海に住むシャチと交雑しながら、何世代かにわたって長い旅を続けてきた、ということだ」
 この一族が沖縄に至るまで、ノルウェー近海から大西洋を南下、南極海から今度は太平洋に出て、南北アメリカ大陸ぞいに北上、アリューシャン列島近海を経て沖縄へ、というルートが考えられる、と言う。
「海ごとに生態系が異なれば、当然シャチが食べるものも違ってくる。この一族は旅の過程で、魚から哺乳類まで何でも食べる性質を獲得した。狩猟の方法も、だ。恐らく、他の文化が異なる群れと交流する中で、新しい言語を習得し、狩りの方法を学んで、自らに取り込んできたはずだ」
「……つまり、この一族は、代々、学習能力の高さで変化に順応してきた、と?」
「そうだ。シャチは保守的だ。住む場所も食べるものも容易に変えない。繁殖も同じ言語の群れの間だけで行う。だが、この群れは常に新天地を求めて移動し、他の群れと交雑することもためらわなかった。この一族は、そうやって世界中の海を巡り、今日まで生き抜いてきたんだ」
 海結の頭の中に、青くて丸い地球が、ぽっと浮かぶ。小さな陸地を包む大洋上に、この一族が旅してきた道筋が、赤い線で引かれた。
「何か、スケールが大きくて、すごいです」
「いわば、シャチ属の血の集大成さ。シャチ属の未来と進化の道筋を示しているのかもしれない。僕は、この家族の由来や、辿ってきた歴史を、どうしても知りたかった。だから、海兵隊をやめてから、すぐに観察と研究を始めた」
 無邪気な子供のように目を輝かせ、時に身振り手振りを交えて語るトム。普段無口なトムが、これほど饒舌に語るのを見たことがない。
「この海には、シャチ達の壮大な世界がある。彼らは人間が知っている以上に高度な社会を築いているんだ」
 トムのシャチ愛と情熱に、海結は圧倒される。しかし、海結の中には、トムのシャチ愛に呼応できるほどの情熱はまだ育っていない。
 そもそも、まだこの海でシャチに出会えていない。実感がわいてこないのだ。
「実際に会えたら、もっと夢中になれるかもしれませんけど、私がボートに乗ってる時は現れてくれませんでした」
「これから、チャンスは何度でもあるさ」
「沖縄にいる間に出会えるでしょうか。帰るまでには絶対に見たいです」
「えっ……」
 海結がそう言った途端、夢中になって語っていたトムの顔から、すっと熱が引くように、表情が失せてゆく。
「? ……どうかしましたか」
「……いや、何でもない」
 言葉を濁すトム。
 トムとの間に沈黙が入り込み、空気が瞬間的に変わってしまった。
 海結は、ふう、とため息をつき、無意識のうちに、右手で左手を握りしめていた。
「……写真の整理、続けましょう」
「ああ」
 トムは、海結に促されて、心のない機械のように、パソコンの画面に向き直した。
 時々、触れてきては離れるトムの肩。どこか遠慮のようなものを感じる。
 海結は、トムとの間に生じた微妙な距離感を、どうしたら良いのかわからないまま、作業を続けるしかなかった。

(続く)
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