黄金のオルカ
第八話 絡み藻
①
海の暗さが増したように思える。
海結は、沖合に停船したフィッシングボートから、海と、遠くにじむ沖縄本島の島影を眺めていた。
水深の浅い場所から深い場所へと、海の色は、エメラルドグリーンから深い群青色へと変化してゆく。
その光景に、これまでと目に見えるような変化はない。しかし、沖縄に来てから、欠くことなく海を見続けてきた海結には、どことなく感じられるものがあった。
それは、光の届かぬ、海の深い場所から来るもの。海面の眩しい照り返しの、ずっと下にあるものだ。
キャビン横の揺れるデッキから海を見下ろしながら、海結はそんなことを考えていた。
首筋に、焼けるような陽の強さを感じ、羽織るシャツの襟を立てた。
太陽光の熱と圧は相変わらずだが、海風の中に混ざる涼しい空気の割合が増したような気がする。
八月の下旬にさしかかろうとしていた。
野生動物のねぐらのようだったトムの家。そこに人間らしい暮らしの形を構築することがひと段落したところで、海結はフィッシングボートの仕事も手伝い始めた。
ひとりでトムの家にいると、どうしようもない不安に襲われる。色々なことを考え出すと、止まらなくなってしまう。
トムとともに海に出て仕事をしているほうが、その点ではいっそ気楽だった。
とはいえ、海結には海事の知識も船舶の技能もない。海結の仕事は、ホエールウォッチングの接客に関するものに限られた。
提携関係にあるホテルや宿側との連絡調整、客からの料金の収受、ボート上で提供する飲料の用意、などだ。
海結は、後部デッキに目を向けた。
狭いデッキ上に、今日の客五人の姿と、撮影に用いる機材が並んでいる。
今日は木曜日だ。通常ならばホエールウォッチングの午前便を運航する日だが、今回は事情が異なる。
先日、海結がトムの家に移る前に滞在していたリゾートホテルをとおして、フィッシングボートを一日借り切りたい、というオファーが舞い込んだ。
アイドル活動をしている女の子と、その母の、少し遅い夏休みをテーマに、洋上で撮影を行いたい、というものだった。
その依頼を聞いた時、
「僕のボートは、シャチを観察するためのものだ」
と、トムは難色を示した。加えて、トムは普段からカメラの類を嫌い、警戒している。
しかし、リゾートホテルは重要な提携先であり、何かと便宜を図ってもらっていることもあり、無下に断ることもできない。
トムは条件を出した。
撮影の都合よりも常に安全運航が優先されること、航行中はキャビン外での撮影をしないこと、昼食は各自持参すること、野生海獣との遭遇は保証できないこと、トムと海結にカメラを向けないこと、そして、フィッシングボートの情報を公開しないこと、などだった。
条件が快諾された結果、チャーター依頼を引き受けることになった。
船尾のブルワークにもたれかかる、アイドルとその母の姿がある。
撮影スタッフはライフジャケットを着ているが、二人は水着だけだった。
本来なら、ライフジャケットもつけず、ブルワークにもたれかかるのは、海への転落の危険を考えると感心できることではない。
トムと撮影スタッフ側で事前に打ち合わせ、停船中かつ立会の元でなら、ということでトムが許可したものだった。
今日の海結の仕事は、主に撮影の立会、ということになる。異常や危険があればトムに知らせる係だ。
海結は、撮影機材に触れぬよう、デッキ横に立ち位置を定め、撮影の様子を見守る。
アイドル活動をしているという娘のほうは、美琴という名前だった。海結の目には、高校生くらいと映る。ティーンズ向けファッション誌のモデルをしているという。
モデル、というのも納得の美少女だった。
背中まで伸ばした黒髪を海風になびかせ、まだ幼さを残す屈託のない笑顔を浮かべている。
そうかと思うと、ふとした瞬間に、意識まで遠くに放ってしまいそうな、どこか危うい視線を投げる。
パステルブルーのマイクロビキニ上からパーカーを羽織っているが、その体はすでに少女のそれではない。
前を開けたパーカーからちらちらと見える胸は、巨乳と揶揄される海結より豊かなのでは、と思うほどのボリュームがある。しっかり張り出した腰の曲線は、パーカーのルーズなシルエットをもってしても隠し切れない。太陽の下に投げ出した脚は、しなやかで、すらりと長い。
少女のあどけなさと艶やかさ、大人顔負けの早熟な体。奇跡のようなコラボレーションが、美琴というひとりの少女によって成立している。
美琴の隣に立つ女性、美玲は、その母と聞く。三〇代半ばくらいだろうか。華やかで、妖艶な美貌が目を惹く。
全身が黒白とシルバーでまとめられたシックな装いの中に、パールのネックレスが、控えめながら確かな存在感を放つ。
美玲が着る水着は、黒いワンピースタイプだった。深いネックの切れ込みと、美しいデコルテ。胸の谷間も深い。カットアウトされた水着のサイドから、豊かでなめらかな腰回りが見える。
脚の長いその体型は、日本人離れしており、美琴の抜群のプロポーションが美玲譲りだとわかる。
斜にかぶった白いつば広の麦わら帽子の下に、メイクでエレガントに仕上げられた顔がある。アイラインや、グレイッシュなシャドウは、少し陰影を添える程度に留められ、色白の肌と黒髪の美しさを損なわない。
海結は、こんな美の化身のような母娘が現実に存在するんだと、しばし見惚れてしまった。
後部デッキの狭さで、レフ板も大きくは動かせない。カメラマンが動ける範囲にも限りがある。キャビンの入口に背を押しつけ、時に筋肉痛になりそうな体勢でシャッターを切る様子を見ると、仕事とはいえ大変だな、と海結は思う。
カメラマンとは別の、キャップをかぶる太った男がいて、タブレットを見ながら、美玲と美琴、カメラマンに指示を出している。
どうやら、撮影のディレクターらしい。
もうひとり、化粧道具が入った箱を携えた女性もおり、撮影の合間に、手早く母娘の髪とメイクを整える。
写真撮影から動画の録画に切り替わる。
美玲がサングラスをかけた。
母娘が、三脚に固定されたビデオカメラに向かって手を振る。
「こんにちは、美琴です! いつも動画見て頂いて、どうもありがとうございます! 沖縄! に来てます。今回は、ちょっと特別な夏休みを、みなさんにお届けしたいと思いま~す」
「こんにちは、美玲です。今日は久しぶりに、美琴と一緒に出てまーす」
「美玲ママ出て~ってコメントが多かったので、今日はママにも出てもらいました」
「私は裏方なので」
「ええ~っ、そんなことないよ」
「いや、そうなのよ」
裏方という言葉に、海結は、美玲のモノトーンコーデが、撮影された絵の中で美琴が主役として引き立つように計算したものなのだ、と気づく。
しかし、控えめにしていてなお、美玲の大人の余裕、年齢を重ねた女性の深い色気は隠しようがない。
「私もママも水着です。いつもと違う、バカンスみたいな? ものを感じてもらえたらいいなって思います」
「私ももうおばさんなので、ちょっと恥ずかしいんですけどね」
「すっごく似合ってるって。アダルト、って感じ」
「いいから、ほら、ちゃんと実況しないと」
「見て下さい。海! 海です! クルーザーっていうのに初めて乗せてもらってます」
「美琴に一度経験させたくて。ちょっとお高かったですけど」
「そうなの?」
「そりゃそうよ」
「風とか、波とか、伝わりますか? けっこう揺れるんですけど、チョー気持ちいいです。あ、でも、酔わないかな?」
「そういうのはね、余計に酔うから意識しちゃダメ」
「先週はお墓参りだったんで、少し遅い夏休みです。コテージ? も借りてるんですよ!」
「美琴と貸別荘でのんびり過ごす予定です。美琴とお料理作るところとか、後ほどアップしたいと思います」
「お楽しみに~」
再びカメラに手を振る美玲と美琴。
「はい、OKでーす」
という声が響くと、それまでぴんっ、と伸ばしていた美琴の背が丸まる。美玲の姿勢は変わらない。
次の動画撮影までの短い間に、海結はキャビンのクーラーボックスからペットボトルを持参し、母娘と撮影スタッフに差し入れた。
「ありがとうございまーす」
「ありがとうございます」
太陽は真上に近い。炎天下の撮影で熱中症になられてはたまらない。
美琴は喉が渇いていたのか、ごくごくと勢いよくペットボトルを飲み干す。美玲のほうは、ワインでも飲むような優雅さで、口をつける。
これは、母娘アイドル、というものだろうかと、海結は考えた。
美琴は、素の美しさと健康的なみずみずしさにあふれている。昨今のファンに媚びた、作りものの人形のようなアイドルとは、明らかに違う。
美玲は、美琴の黒衣に徹していてなお、周囲の人間が思わず手を止めてしまうようなオーラがある。
母娘が立っているだけで、ありふれたフィッシングボートの後部デッキが、まるで高級クルーザーのように思えてくる。
海結は、ペットボトルを船首へ持ってゆく。
舳先に立ち、首から下げた双眼鏡をさっ、と目に当てながら、油断なく周囲の海を見張るトムの姿がある。
「どうですか?」
「時々漁船を見かけるだけだ。シャチはいない。深いところまで潜っているのかもしれない」
海結が渡したペットボトルを受け取りながら、トムは軽くため息をついた。
「深いところに?」
「ああ。水温が高すぎるんだ。ここのところ、ずっと」
どうやら今日もシャチには出会えそうもないな、と海結は思った。
母娘が、ファンからの質問に答える動画を撮影した後、昼の休憩となった。
美玲は、かなり大型のクーラーボックスをキャビンに持ち込んでいた。
その中から、サンドイッチとオードブルを取り出し、テーブルの上に手際よく並べてゆく。リゾートホテルに頼んで作ってもらったものだと言う。
母娘の分はもちろん、撮影スタッフやトムと海結の分まで、余裕をもって準備してある。紙皿やウェットティッシュ、楊枝の類まで抜かりない。
海結は、美玲の用意周到さに舌を巻いた。
と同時に、少し複雑な思いもある。
今日は、最初から昼をまたぐ運航とわかっていた。管理栄養士の資格を持ち、料理にもいささかの自負がある海結だが、客に食事を提供できない事情がある。
トムは観光船業だ。客に食事を出すには、飲食業の営業許可を新たに取らなければならない。客が各自持ち込むのは良いが、業としては行えないのだ。
悔しさを抱えながら、テーブルの上に並ぶ食事を見ているしかない。
トムは、少し背を屈めて、キャプテンシートに向かおうとする。
その時、ベンチシートに座っていた美玲が、声をかけた。
「船長さんは、普段はシャチの観察をしているんでしたよね?」
立ち止まり、振り返るトム。
「そうですが」
美玲の隣に座っていた美琴が立ち上がり、トムに接近する。
「そうなの? シャチ? このへんにいるんですか?」
「ああ、いるぞ。今日はまだ出てこないが」
美琴がさりげなくトムの背に回り、キャプテンシートに向かうルートを塞ぐ。
その間に、美玲はテーブルの上を整理し、もうひとり分のサンドイッチや紙皿を用意する。
「美琴に詳しく聞かせてやってもらえませんか。美琴、海の生き物にすごく興味があるんです。夏の課題も、まだやってないので」
そう言いながら、美玲は自分の隣、ベンチシートの空いている場所に視線を流した。
「あ、ああ……」
トムは、キャプテンシートと、ナビゲーターシートの海結に目を向けてから、美琴に背中を押され、戸惑いながらベンチシートの美玲の隣に腰を下ろす。すかさず美琴がトムの隣に座る。
母娘にサンドイッチされるトム。
美琴がシャチについての質問をトムにぶつけ、トムはそれに丁寧に答える。美玲が紙コップに水を注ぎ、ささっ、と紙皿にトムの分のオードブルを取り分ける。
美玲と美琴の、見事な連携プレーの一部始終を目撃した海結は、何か怒りのような、得体の知れないものが、体の底から膨れ上がってくるのを感じた。
これまで経験したことのない、衝動にも似た感情だ。
海結が、その感情と、とにかくそれを鎮めようとする思考とに挟まれている間に、美琴がトムに体を寄せ、筋肉質な右腕に絡みつき始めた。
美琴は、自分の胸にトムの腕を押し当て、肌の感触や筋肉を確かめるように、手でなでるように触っている。そのうちに、唇がかすかに開き、頬が赤く染まってくる。
海結は、膝の上に乗せている自分の手を、血の気が失せるくらい、ぎゅっ、と強く握りしめていた。心臓が、ドクン、ドクンと強く打つたび、息苦しさが増す。
抑えきれないものが、気道をとおって喉まで達しかけた時、
「こら、美琴、船長さんが食べられないじゃない」
と、美玲が注意した。
「あ、ごめんなさい!」
美琴は、トムの右腕をぱっと離し、自分の胸に手を当てた。
トムは、何回かまばたきした後、解放された右手でサンドイッチを食べ始めた。
海結は、ふーっ、と深いため息をつく。
何かが、自分の中で暴発しそうだった。すんでのところでそうならずに済んだが、今も、ちょっとした火の気があれば爆発するものが胃袋の中に詰まったままだ。
ナビゲーターシートから、もぐもぐとよく食べるトム、トムを挟んで談笑する母娘を見ながら、名前をつけることのできないその感情に向き合う。
美玲が用意した昼食に手をつける気になれず、海結は、トムと自分のために用意した昼食をひとりで頬張った。
一方、撮影のスタッフ達は、それぞれ別のシートに座り、互いに言葉を交わすでもなく、スマホを見たり、黙々とサンドイッチを食べたりと、終始、撮影以外は我関せず、という態度を貫いていた。
②
食事を挟んだ昼の休憩が終わり、午後からは、美琴単独での撮影となった。
休憩中、トムの隣で赤面し、無邪気に笑っていた美琴。後部デッキのブルワークに半ば座る形でもたれかかり、パーカーのジッパーをゆっくりと下ろしてゆく。
美琴は何のためらいもなく、両腕を伸ばしてパーカーを脱ぎ、カメラの前にその姿をさらけ出した。
パステルブルーのマイクロビキニが、白い肌に溶け込んでいるように見える。
「ちょっと、恥ずかしいけど」
頬をほんのりと上気させる美琴。
色っぽい。
海結は、思わず目を見張った。
午前中の美琴とは、何かが違って見える。幼さの残る顔はそのままに、表情が大人びて、どこか挑発的な色艶を帯びている。
昼休憩の短い間に、蛹から蝶へと羽化したかのような、それほどの変わりようだった。
カメラマンも、他の撮影スタッフの動きも言葉もぴたりと止まり、デッキ全員の視線が、無意識のうちに美琴に惹きつけられる。
後部デッキには、シンクと、清水のシャワーが備えつけられている。
カメラマンが、それを使うことを提案した。
美琴が、少しくすぐったそうな顔をしながら、シャワーを浴び始める。
肌の上を、キラキラと太陽の光を反射しながら、透明な水玉が転がるように落ちてゆく。
細い腰のくびれも、わずかな動きにも追随して揺れる胸も、少女のレベルではない完成度を見せている。
時に少女らしい無邪気さで、時に酔っているような艶やかさで、ポーズを決めながらほほ笑む。
濡れて黒光りする髪を無造作にかき上げ、獲物に狙いを定めたハンターのような目線をカメラに送る。
「いいよー、いい感じ。そのまま、目線だけこっち」
カメラマンの声も弾んでいる。一瞬の美を逃すまいと、シャッターを切り続ける。
ふと気づくと、海結の隣に美玲の姿がある。
豊かな胸を少し持ち上げるように、下手に腕を組んで撮影の様子をじっと見ている。
その横顔には、どこか勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。
「どうかしら、うちの美琴は」
海結は、最初自分が話しかけられていると思わず、返事がワンテンポ遅れた。
「……あ、すごく可愛いと思います。可愛いだけじゃなくて、ええと、色っぽくて。高校生ですか?」
「さあ、いくつかしらね」
美玲は少し口の端を上げた。
「みなさん、芸能事務所とか、そういう関係ですか」
「美琴は芸能事務所なんかに入ってないわよ。これは自主活動。セルフプロデュースのアイドル、そんなところかしら。今日はその撮影なの」
「あれ? そうなんですか?」
「まあ、メインはモデルのほうなんだけど」
美玲はそう言って、鼻から息を吐いた。
「……それにしても暑いわね。おばさんには堪えるわ」
確かに、今が一番暑い時間帯だ。空を見上げる美玲の横顔から首筋へと、汗が流れてゆく。
「ちょっと、涼しいところで休んだらどうですか。炎天下ですし」
「炎天下で立ちっぱなしなのは、あなたも一緒じゃない」
「そうですけど……」
「じゃあ、ここは若い美琴に任せて休憩しましょう。あなたもね」
キャビンの中、後部デッキに近い位置に、海結と美玲は向かい合って座った。
海結は、ペットボトルのさんぴん茶を勧めた。
「ありがとう」
美玲は足を組み、その美脚を見せつけるように座る。ペットボトルに唇をつけて飲む仕草からして、海結のほうが思わず照れてしまうような妖艶さがあった。
胸を持ち上げるように腕を組むのは、美玲の癖らしい。
海結は、自分とは一生縁のない、遠く離れたセレブな世界の住人だ、と思う。
「……彼、セクシーね」
唐突に漏れる美玲の呟き。
海結は、撮影スタッフのことを指しているのかと思ったが、美玲の視線は舳先のほうに向いている。
戸惑う海結に、美玲は、
「あなたのとこの船長さんよ」
と言う。
「本物の野生、っていうのかしら。粗野で乱暴なのとは全然違うの。気高く、誰にも飼われず、自分のルールがあって、知的ですらある。彼は、本物だわ」
「はあ……」
「力強くて、可愛さもある。男の魅力を、全部持ってる……あなたもそう思わない?」
「……」
目の前の美玲も、美琴も、母娘そろってトムに興味を示している。そう知った海結の中に、また得体の知れない感情が生まれる。
「あなたのカレ、かしら?」
美玲の両目が、鋭く光ったような気がする。
「い、いえ、私は……」
海結は、次の言葉を続けられない。
私はいったい、トムの何なのだろう。考えてみるが、答えが出ない。
「……」
「どうかした?」
「……従業員です。アルバイトの」
やっとのことでそう告げた海結に、美玲は何かを含んだような笑顔を見せた。
「そう。彼はどこの人?」
「アメリカ人と聞いてます」
「水泳選手だったのかしら? でも、彼のすごい体を見てると、それだけじゃない気がするのよね」
「海兵隊にいたそうです」
「日本語が達者だから、もう日本に来て長いようね」
「どうなんでしょう。海兵隊をやめてから、ずっと沖縄で暮らしてるようですが」
「ふーん、そう。彼は口が固い?」
「まあ、無口なほうなので……」
なぜ、私はトムのことを根掘り葉掘り聞かれているのだろう。
「タバコ、吸っていいかしら」
「禁煙です」
話がトムのことから外れたのを機に、海結は、美玲と美琴のことへ、話題の焦点をずらそうと試みる。
「それにしても、お母さんも娘さんも、すごく綺麗ですね。親子そろって美人なんて、私とは住んでる世界が違うって感じがします」
「あら、そんなふうに見えてた?」
美玲は、バッグの中からスマホを取り出し、海結に画面を見せた。
とある会社のホームページだった。田園風景を背景に、こじんまりした建物が写っている。玄関の横に、会社の旗と、緑白の安全衛生旗。並ぶ作業服姿の笑顔。
○○土建株式会社、とある。
「私は、ここの事務よ。真ん中の彼女が社長。二代目でね、私の同級生」
社員達に混じって、ごく一般的な事務服姿で溶け込む、地味な美玲の姿があった。
今、目の前にいる、華やかな女性と同一人物とは信じられない。
海結は、先入観で大きな勘違いをしていたことに気づく。
「役者ですね……」
「ふふ、誉め言葉かしら」
「てっきり、セレブみたいな人かと」
「演出上、それっぽくしてるだけよ」
「それにしても、土木の会社に勤めてたなんて……」
「女手ひとつで美琴を育ててた私を、うちに来なよって誘ってくれたのが社長の彼女。芸能界崩れで、水商売で食いつないでた私をね。彼女もそう。ずっと柔道に打ち込んでたけど、大学の時にお父さん、先代の社長が突然亡くなって。今、暮らしも安定して、美琴の自主アイドル活動ができるのも、みんな彼女のおかげ。最後に頼りになるのは、同性の親友かもしれないわね」
海結は、彩夏の存在を思い出す。美玲の言葉がすとんと胸に落ちた。
パンツスーツ姿の、恰幅のよい女社長は、普段は作業着に身を包み、社員の男達とともに油圧ショベルを操っていると言う。
会社の敷地内で、美琴も加わってバーベキューを楽しんでいるところや、女社長がペンライトを振る写真があった。
「彼女が、美琴のファンクラブの栄えあるナンバーワンの会員。彼女と、会社のみんなの理解があるから、私も美琴の活動を支えてゆけるの」
美玲の話しぶりからすると、家族的な温かみのある会社のようだ。海結には縁がないのに、どこか懐かしさを感じる世界だ。
「会社とか、地元のアイドル、って感じで、すごくいいですね」
「それはいいけど、美琴はまだ学校に通ってるから、そこがちょっとね。美琴ひとり成長が早くて、まわりがみんな子供だから、浮いてないか心配なのよ。もっとも、一番警戒しないといけないのは、むしろ先生達」
「あー、最近多いですからね」
「会社のみんなも、自主活動のローカルアイドルから、もっと高みを目指して欲しいって応援してくれてるの。形はどうあれ、芸能界で息の長い活躍をしてくれることを私も願ってる」
「お母さんは、芸能界にいたことがあるんですか」
海結が投げた問いに、美玲の表情が少し陰りを見せた。
「そう。いたわ。若い頃はアイドルになりたくて、ね。今思えば笑っちゃうけど」
「そうだったんですか。だから、娘さんに」
「美琴には同じ失敗をさせたくないの。絶対に」
ふーっ、と息をついて、美玲はキャビンの外に顔を向ける。
「田舎で平々凡々と育った、学も人生経験も、本物を見極める目もない小娘が、きらびやかな世界に憧れて、何も知らずに芸能界に飛び込んだ。それが私。鳴かず飛ばずで終わったわ……事務所にこき使われて、いいように利用されただけで……」
重過ぎる告白に、海結は相槌すら打てず、ただ黙って聞いているしかない。
「その挙句、美琴を身ごもって、あっさり切り捨てられた。男、ってものを知らな過ぎたのね。美琴には、父親のことを話せないでいる、今も」
話を聞いているうちに、海結の中にひとつの疑問が生じた。
美玲は、すべてを話したわけではない。しかし、芸能界の闇の中で辛酸を舐めてきたことは、想像に難くない。
「それだけ苦労されてきたなら、なぜ、娘さんを芸能界へ入れようとされているんですか?」
自分の夢を娘に託す心境か、それとも、自分を足蹴にした芸能界への復讐か。
「あなた、さっきの美琴を見て、何も感じなかったの?」
「……?」
「美琴は、天性のスターよ。そういう星のもとに生まれてきた子なの。私が芸能界で見てきたスター達に引けを取らないわ。最初は、美琴を芸能界に、なんて、考えもしなかった。この子の才能を、埋もれさせておくことはできなかったのよ」
そう言ってから、美玲は小声で、
「父親の血ね、きっと」
とつけ加えた。
キャビンの後部では、まだ撮影が続いている。確かにそうだ。美琴の魅力は、老若男女問わず、万人を惹きつけるものがある。まだ成長の途上だが、その片鱗はすでに見えている。美玲の言っていることは、決して親のひいき目ではない。
「午後の美琴は、私もびっくりするくらい。ここまでのオーラは初めて見るわ。いったい、あの子のスイッチを入れたのは何だったのかしらね」
次に美玲が見せてくれたのが、美琴の自主アイドル活動の動画群だった。
無料の動画サイトにある美琴のチャンネル。動画が数多くアップされている。
その動画は、海結が考えるアイドル的なものとは一八〇度異なるものだった。
盆の墓参り、中華街でフルコース、パワースポットの神社参拝、恐竜の博物館、極寒の流氷見学、スキー初挑戦、さつまいも収穫とスイーツ作り、登山初体験、寄席で落語……などが並ぶ。
美琴の経験と視野を広げることに重きを置いているのはわかるが、中には、発破作業やゴミ焼却場の見学、地ビール工場でママ酩酊、といった、いったい誰得な動画もある。
母娘そろってのサービスショットもちらほら見られるが、過剰なものではない。
投げ銭などはやっておらず、広告収入を得る気もなく、金が目当てではない、と美玲は言い切る。
海結が感心したのは、動画の質の高さだった。
どの動画も、カメラの軸がびしっ、と定まっていて、見疲れしない。画面の切り替えもスムーズで、進行のテンポが小気味よい。余計な音を入れず拾わず、母娘の声が上手にフォーカスされ、明瞭に聞き取れる。
「どれもクオリティ高いですね……」
「プロに頼んでるから。自主活動でも妥協はできないわ」
「今日来てる人達も?」
「そう。動画制作会社の人、個人でやってるカメラマンとメイクアップアーティスト。みんな個別に手配して来てもらったのよ」
まるでプロデューサーのようだ。会社で事務の仕事をしながらやっているのだから、頭が下がる。
しかし、美玲が一から十まで全部手配しなくとも、動画制作やプロデュースを請け負う会社に、企画段階から丸ごと委託すれば楽なのではないか、と海結は思う。
「それでお抱えみたいになったら、もっとキラキラで、ファンに過剰なサービスをして再生数を稼ぐ、そういう内容を押しつけられるに決まってるもの」
「あー、なるほど。そうなっちゃう気がしますね」
「そんな、自分を安売りするような真似を、美琴にはさせられないわ。今は、色々なことを体験させて、将来のために基礎を固める時期。その過程をファンに見てもらえれば十分よ」
「お母さん、さっき、何も知らなかった、とおっしゃってたでしょう。もしかして、そういうことですか」
美玲は、我が意を得たり、というふうにうなずいた。
キャビンの後ろに目をやると、デッキで続いていた撮影が終わったらしく、美琴がパーカーを羽織っている。
トムは、舳先から、キャビン横のサイドデッキへ、立ち位置を変えていた。ちょうど、美玲の頭の向こうに、キャビンのガラスを挟んで佇んでいる格好だ。
美玲は、トムのライフジャケットの背中をバックに、話を続ける。
「色々な経験をして、実際に触れて感じることが大事なの。それが、いずれ美琴の血となり、肉となる日が来るわ。リアルにクルーザーに乗るのと、ただ見聞きしただけでは、雲泥の差がある。美琴には、できるだけ若いうちに、まがいものじゃなくて、本物に触れる機会を作ってあげたいの。一度、本物を知っておけば、それが後々の基準になるでしょ。今日みたいに、借りたっていいの。クルーザーを所有するかどうかは、その人の価値判断だから。でもね、本物というものを知らなければ、その正しい判断すらできないってことなのよ」
そう言いながら、またバッグの中に手を入れ、何かを取り出した。
「これ、開けてみて」
海結は、未開封の小ぶりな箱を手渡される。
金色の封を切って開けてみると、相当に値が張りそうな口紅が入っていた。
特注のような気配がある高級品だ。デパートの化粧品売場でも手に入らないレベルのものではないか。
「私と美琴の肌色には、多分合わないけど、あなたには似合うと思うの。使ってもらえると嬉しいわ」
「いえ、困ります、こんな高そうなもの」
「いいのよ。この前、美琴のモデルの仕事の時にもらったものだから。私と美琴からのちょっとしたお礼よ」
「でも、こういうのは、お母さんとか娘さんのような綺麗なひとが使ったほうが……」
わずかに片目を細める美玲。
「自分のことをどう思ってるか知らないけど、とても綺麗よ、あなた。そこらの女優が霞むくらいにね。今のままでもいけるけど、こういう色を使えば、あなたはもっと素敵になれる。自分の魅力をもっと引き出せるわ」
口紅を手に取ると、指先に重さを感じる。キャップを外す。自然で落ち着いた深い赤茶色が現れる。
その色味を見た瞬間に生まれたときめきのようなものを、海結は知らぬ顔でやり過ごすことはできなかった。
美玲が、にこりと笑う。
本物に触れる、ということの意味を、海結は少しだけ理解できた気がした。
③
水平線に溶け始めた夕陽を背に、フィッシングボートは漁港へと向かう。船底を、凪いだ海面がゆるやかに打ち続けている。
ナビゲーターシートに座る海結の足元、ボートの前方にあるバウバース入口のカーテンが閉められている。
カーテンの向こうから、美玲と美琴の、ぼそぼそとした声が、海結の耳にわずかに届く。
海結は、何か密談めいたものを感じるが、真下から響くディーゼルエンジン音のせいで、内容はほとんど聞き取れない。
やがて、カーテンが開くと、中から母娘が姿を現し、階段を上ってくる。
美玲は、黒地に細かな花柄が散るワンピース。大きく空いた胸元にパールのネックレス。足元は白いエナメルのサンダルで固めている。
右手で軽く髪を整える仕草に、成熟した女性の余裕と優雅さを漂わせる。
セレブの演技もここまで板についてくると、もはや地ではないか、と海結は思う。
美琴のほうは、白地のTシャツに、淡いブルーのショートパンツ。素足にベージュのサンダル。シンプルで軽やかだが、これといった特徴もないスタイル。
それでも平凡な印象に落ちないところが、美琴の素の美しさと、天性のスター性、といったところか。
その反面、撮影時に見せていた勢いの良さがどこに行ったのか、と思えるほど、何かに緊張した様子だ。
唇をきゅっ、と結んで頬を紅潮させ、ちらりとキャプテンシートのトムを見やってから、美玲の隣に腰をかける。その動きは、どこかもじもじとして、ぎこちない。
バウバースの中で母娘が何か話をしていたが、それと関係があるのだろうか。
そうしている間に、ボートは、漁港をぐるりと囲む堤防をくぐる。
トムが、エンジンのスロットルを絞り、ボートを岸壁にぴたりと寄せる。素早くロープで固く舫うと、船上に静けさが訪れた。
最初にボートを下りたのが美玲で、美琴と撮影スタッフも続く。
下ろした撮影機材などを積み込み、手短な挨拶を済ませると、撮影スタッフの三人は、別々のレンタカーで走り去っていった。
漁港の岸壁に、トムと海結、美玲と美琴だけが残される。
「あら、そういえば、ホテルまで乗せて行って、とお願いするの忘れてたわ」
美玲は、突然思い出したかのように、そう言い出した。
今朝、母娘は撮影スタッフのレンタカーに便乗して漁港までやって来た。スタッフ達が帰ってしまった今、二人には足がない。
少し首を傾げてから、トムのほうを向く美玲。
「船長さん、本当に申し訳ないんですけど、ホテルまで送って頂けないかしら。スタッフのみなさんへ、ちゃんとしたお礼もしないといけませんので」
「いいですよ」
トムは短く答える。ホエールウォッチングが終わった後は、必ず客の送迎がある。母娘を送る先も、いつもの提携先のリゾートホテルだ。断る理由もない。
「打ち上げも兼ねて、スタッフのみなさんと一緒に食事をする席を設けているんですが、お二人もどうですか」
「いや、宴席は苦手でね。お構いなく」
軽バンのエンジンが、軽い音を立てて始動する。
陽はまだ沈み切らず、漁港の水面に残光が揺らめいていた。
助手席に海結、後部座席に美玲と美琴が収まると、トムは軽バンをゆっくりと発進させた。
トムの家に着くまでのわずかな時間に、空は暗さを増している。
海結が降りると、トムはハンドルを握ったまま、
「送ったらすぐ戻る」
と言う。
サイドドアの窓から美琴が顔を出した。
「今日はありがとうございまーす!」
ようやく緊張が解けたようで、海結に向かって手を振ってみせる。隣の美玲も手を振った。
海結が見送る中、軽バンのテールランプが、二つの赤い舌のように、尾を引きながら遠ざかっていった。
家に戻った海結は、シャワーを浴びて髪と体を洗い、夕食の支度を始める。
旺盛なトムの食欲に合わせ、グルクンを四尾、から揚げにする。今夜は冷やしで食べる計画のもと、沖縄そばのつけ汁は別に用意しておいた。
二人分の食事がテーブルに並ぶ。
海結は、テレビを見ながら待つが、三時間ほど過ぎても、トムは帰ってこなかった。
ここからホテルまで片道で一時間弱、往復しても二時間半もあれば十分以上だ。
事故にでもあったのではないかと少し心配になる。スマホの類を持たないトムに、連絡のしようもない。
美玲の言葉を思い出す。
撮影スタッフへお礼をするため、宴席を用意してある、と言っていたが、わずかに引っかかる点もある。
なぜ撮影スタッフ達は、各々別のレンタカーで漁港に集合し、帰路についたのか。全員が同じホテルに宿泊し、そこに帰るなら、最初から大型のレンタカーを一台借りれば済む話ではないか。
朝は母娘を一緒に乗せて漁港にやって来たのに、二人を乗せ忘れて帰るようなことがあるだろうか。
それに、美玲と美琴は、ホテルでなく貸別荘に泊まっていると言っていなかったか。
考えてみても答えは出ない。仕事にちょっとした手違いや齟齬はつきもの。多分、トムは宴席を断り切れなかったのだろうと、海結は推測した。
今頃、酒と食事を楽しんでいるに違いないが、この地区に運転代行の業者はあるのだろうか、などと、つらつら考えているうちに、海結はテーブルに突っ伏し、椅子に腰をかけたまま寝入ってしまった。
玄関のドアが開く音で目を覚ました時、午前二時を回っていた。
海結が目をこすって振り向くと、驚いた顔のトムが玄関に立ち尽くしていた。
「まだ起きていたのか……」
海結の意識は、半分以上眠っている。のそのそと椅子から立ち上がり、トムを出迎える。
「……おかえりなさい」
「すまん、待たせた」
トムの体から、タバコの匂いがかすかに感じられる。
「宴会、どうでした?」
「あ? あ、ああ」
「ご飯、どうします? いっぱい食べてきました?」
「いや、食べる。ありがとう……」
トムはライフジャケットを脱ぎかけるが、何かを思い出したようにジッパーを上げ直し、キャップとデッキシューズだけを脱いだ。
目を伏せ気味にして、海結の横をとおり過ぎる時、タバコだけでなく、人からの移り香のような匂いも海結の鼻に届く。
いつもの潮と汗の匂いに混ざって、化粧品の甘い香りと、生肉や体液から発されるような、どこか生々しい匂いがトムにまとわりついている。
刺身などの魚介類や、アグー豚の生ハム、そういったものがたくさんが振る舞われたのだろうか、と海結はぼんやり考えた。
トムは、ライフジャケット姿のまま食卓につき、夕食を食べ始める。
海結は、眠気が勝っていて食べる気が起きないが、明日に響くといけないと思い、一緒に食べる。
食事の間中、トムはほとんど口をきかなかった。何か思いつめたような表情のまま、黙々とグルクンを口に運ぶ。心なしか、肩を縮めて身を小さくしているように見える。
グルクンのから揚げは冷めても美味だったが、沖縄そばはすっかり伸びていて、ぼそぼそした触感だけが残った。
食事を終え、箸を置くトム。その仕草も、どこか固い。
「もう、休んでくれ」
トムは短くそう告げ、ライフジャケットを着たまま脱衣スペースに消えた。
海結も、洗いものを明日に回して、ベッド回りのカーテンを閉めて横になった。
シャワーの音が聞こえ始めた時、海結はすでに眠りの中に落ちていた。
(続く)
海の暗さが増したように思える。
海結は、沖合に停船したフィッシングボートから、海と、遠くにじむ沖縄本島の島影を眺めていた。
水深の浅い場所から深い場所へと、海の色は、エメラルドグリーンから深い群青色へと変化してゆく。
その光景に、これまでと目に見えるような変化はない。しかし、沖縄に来てから、欠くことなく海を見続けてきた海結には、どことなく感じられるものがあった。
それは、光の届かぬ、海の深い場所から来るもの。海面の眩しい照り返しの、ずっと下にあるものだ。
キャビン横の揺れるデッキから海を見下ろしながら、海結はそんなことを考えていた。
首筋に、焼けるような陽の強さを感じ、羽織るシャツの襟を立てた。
太陽光の熱と圧は相変わらずだが、海風の中に混ざる涼しい空気の割合が増したような気がする。
八月の下旬にさしかかろうとしていた。
野生動物のねぐらのようだったトムの家。そこに人間らしい暮らしの形を構築することがひと段落したところで、海結はフィッシングボートの仕事も手伝い始めた。
ひとりでトムの家にいると、どうしようもない不安に襲われる。色々なことを考え出すと、止まらなくなってしまう。
トムとともに海に出て仕事をしているほうが、その点ではいっそ気楽だった。
とはいえ、海結には海事の知識も船舶の技能もない。海結の仕事は、ホエールウォッチングの接客に関するものに限られた。
提携関係にあるホテルや宿側との連絡調整、客からの料金の収受、ボート上で提供する飲料の用意、などだ。
海結は、後部デッキに目を向けた。
狭いデッキ上に、今日の客五人の姿と、撮影に用いる機材が並んでいる。
今日は木曜日だ。通常ならばホエールウォッチングの午前便を運航する日だが、今回は事情が異なる。
先日、海結がトムの家に移る前に滞在していたリゾートホテルをとおして、フィッシングボートを一日借り切りたい、というオファーが舞い込んだ。
アイドル活動をしている女の子と、その母の、少し遅い夏休みをテーマに、洋上で撮影を行いたい、というものだった。
その依頼を聞いた時、
「僕のボートは、シャチを観察するためのものだ」
と、トムは難色を示した。加えて、トムは普段からカメラの類を嫌い、警戒している。
しかし、リゾートホテルは重要な提携先であり、何かと便宜を図ってもらっていることもあり、無下に断ることもできない。
トムは条件を出した。
撮影の都合よりも常に安全運航が優先されること、航行中はキャビン外での撮影をしないこと、昼食は各自持参すること、野生海獣との遭遇は保証できないこと、トムと海結にカメラを向けないこと、そして、フィッシングボートの情報を公開しないこと、などだった。
条件が快諾された結果、チャーター依頼を引き受けることになった。
船尾のブルワークにもたれかかる、アイドルとその母の姿がある。
撮影スタッフはライフジャケットを着ているが、二人は水着だけだった。
本来なら、ライフジャケットもつけず、ブルワークにもたれかかるのは、海への転落の危険を考えると感心できることではない。
トムと撮影スタッフ側で事前に打ち合わせ、停船中かつ立会の元でなら、ということでトムが許可したものだった。
今日の海結の仕事は、主に撮影の立会、ということになる。異常や危険があればトムに知らせる係だ。
海結は、撮影機材に触れぬよう、デッキ横に立ち位置を定め、撮影の様子を見守る。
アイドル活動をしているという娘のほうは、美琴という名前だった。海結の目には、高校生くらいと映る。ティーンズ向けファッション誌のモデルをしているという。
モデル、というのも納得の美少女だった。
背中まで伸ばした黒髪を海風になびかせ、まだ幼さを残す屈託のない笑顔を浮かべている。
そうかと思うと、ふとした瞬間に、意識まで遠くに放ってしまいそうな、どこか危うい視線を投げる。
パステルブルーのマイクロビキニ上からパーカーを羽織っているが、その体はすでに少女のそれではない。
前を開けたパーカーからちらちらと見える胸は、巨乳と揶揄される海結より豊かなのでは、と思うほどのボリュームがある。しっかり張り出した腰の曲線は、パーカーのルーズなシルエットをもってしても隠し切れない。太陽の下に投げ出した脚は、しなやかで、すらりと長い。
少女のあどけなさと艶やかさ、大人顔負けの早熟な体。奇跡のようなコラボレーションが、美琴というひとりの少女によって成立している。
美琴の隣に立つ女性、美玲は、その母と聞く。三〇代半ばくらいだろうか。華やかで、妖艶な美貌が目を惹く。
全身が黒白とシルバーでまとめられたシックな装いの中に、パールのネックレスが、控えめながら確かな存在感を放つ。
美玲が着る水着は、黒いワンピースタイプだった。深いネックの切れ込みと、美しいデコルテ。胸の谷間も深い。カットアウトされた水着のサイドから、豊かでなめらかな腰回りが見える。
脚の長いその体型は、日本人離れしており、美琴の抜群のプロポーションが美玲譲りだとわかる。
斜にかぶった白いつば広の麦わら帽子の下に、メイクでエレガントに仕上げられた顔がある。アイラインや、グレイッシュなシャドウは、少し陰影を添える程度に留められ、色白の肌と黒髪の美しさを損なわない。
海結は、こんな美の化身のような母娘が現実に存在するんだと、しばし見惚れてしまった。
後部デッキの狭さで、レフ板も大きくは動かせない。カメラマンが動ける範囲にも限りがある。キャビンの入口に背を押しつけ、時に筋肉痛になりそうな体勢でシャッターを切る様子を見ると、仕事とはいえ大変だな、と海結は思う。
カメラマンとは別の、キャップをかぶる太った男がいて、タブレットを見ながら、美玲と美琴、カメラマンに指示を出している。
どうやら、撮影のディレクターらしい。
もうひとり、化粧道具が入った箱を携えた女性もおり、撮影の合間に、手早く母娘の髪とメイクを整える。
写真撮影から動画の録画に切り替わる。
美玲がサングラスをかけた。
母娘が、三脚に固定されたビデオカメラに向かって手を振る。
「こんにちは、美琴です! いつも動画見て頂いて、どうもありがとうございます! 沖縄! に来てます。今回は、ちょっと特別な夏休みを、みなさんにお届けしたいと思いま~す」
「こんにちは、美玲です。今日は久しぶりに、美琴と一緒に出てまーす」
「美玲ママ出て~ってコメントが多かったので、今日はママにも出てもらいました」
「私は裏方なので」
「ええ~っ、そんなことないよ」
「いや、そうなのよ」
裏方という言葉に、海結は、美玲のモノトーンコーデが、撮影された絵の中で美琴が主役として引き立つように計算したものなのだ、と気づく。
しかし、控えめにしていてなお、美玲の大人の余裕、年齢を重ねた女性の深い色気は隠しようがない。
「私もママも水着です。いつもと違う、バカンスみたいな? ものを感じてもらえたらいいなって思います」
「私ももうおばさんなので、ちょっと恥ずかしいんですけどね」
「すっごく似合ってるって。アダルト、って感じ」
「いいから、ほら、ちゃんと実況しないと」
「見て下さい。海! 海です! クルーザーっていうのに初めて乗せてもらってます」
「美琴に一度経験させたくて。ちょっとお高かったですけど」
「そうなの?」
「そりゃそうよ」
「風とか、波とか、伝わりますか? けっこう揺れるんですけど、チョー気持ちいいです。あ、でも、酔わないかな?」
「そういうのはね、余計に酔うから意識しちゃダメ」
「先週はお墓参りだったんで、少し遅い夏休みです。コテージ? も借りてるんですよ!」
「美琴と貸別荘でのんびり過ごす予定です。美琴とお料理作るところとか、後ほどアップしたいと思います」
「お楽しみに~」
再びカメラに手を振る美玲と美琴。
「はい、OKでーす」
という声が響くと、それまでぴんっ、と伸ばしていた美琴の背が丸まる。美玲の姿勢は変わらない。
次の動画撮影までの短い間に、海結はキャビンのクーラーボックスからペットボトルを持参し、母娘と撮影スタッフに差し入れた。
「ありがとうございまーす」
「ありがとうございます」
太陽は真上に近い。炎天下の撮影で熱中症になられてはたまらない。
美琴は喉が渇いていたのか、ごくごくと勢いよくペットボトルを飲み干す。美玲のほうは、ワインでも飲むような優雅さで、口をつける。
これは、母娘アイドル、というものだろうかと、海結は考えた。
美琴は、素の美しさと健康的なみずみずしさにあふれている。昨今のファンに媚びた、作りものの人形のようなアイドルとは、明らかに違う。
美玲は、美琴の黒衣に徹していてなお、周囲の人間が思わず手を止めてしまうようなオーラがある。
母娘が立っているだけで、ありふれたフィッシングボートの後部デッキが、まるで高級クルーザーのように思えてくる。
海結は、ペットボトルを船首へ持ってゆく。
舳先に立ち、首から下げた双眼鏡をさっ、と目に当てながら、油断なく周囲の海を見張るトムの姿がある。
「どうですか?」
「時々漁船を見かけるだけだ。シャチはいない。深いところまで潜っているのかもしれない」
海結が渡したペットボトルを受け取りながら、トムは軽くため息をついた。
「深いところに?」
「ああ。水温が高すぎるんだ。ここのところ、ずっと」
どうやら今日もシャチには出会えそうもないな、と海結は思った。
母娘が、ファンからの質問に答える動画を撮影した後、昼の休憩となった。
美玲は、かなり大型のクーラーボックスをキャビンに持ち込んでいた。
その中から、サンドイッチとオードブルを取り出し、テーブルの上に手際よく並べてゆく。リゾートホテルに頼んで作ってもらったものだと言う。
母娘の分はもちろん、撮影スタッフやトムと海結の分まで、余裕をもって準備してある。紙皿やウェットティッシュ、楊枝の類まで抜かりない。
海結は、美玲の用意周到さに舌を巻いた。
と同時に、少し複雑な思いもある。
今日は、最初から昼をまたぐ運航とわかっていた。管理栄養士の資格を持ち、料理にもいささかの自負がある海結だが、客に食事を提供できない事情がある。
トムは観光船業だ。客に食事を出すには、飲食業の営業許可を新たに取らなければならない。客が各自持ち込むのは良いが、業としては行えないのだ。
悔しさを抱えながら、テーブルの上に並ぶ食事を見ているしかない。
トムは、少し背を屈めて、キャプテンシートに向かおうとする。
その時、ベンチシートに座っていた美玲が、声をかけた。
「船長さんは、普段はシャチの観察をしているんでしたよね?」
立ち止まり、振り返るトム。
「そうですが」
美玲の隣に座っていた美琴が立ち上がり、トムに接近する。
「そうなの? シャチ? このへんにいるんですか?」
「ああ、いるぞ。今日はまだ出てこないが」
美琴がさりげなくトムの背に回り、キャプテンシートに向かうルートを塞ぐ。
その間に、美玲はテーブルの上を整理し、もうひとり分のサンドイッチや紙皿を用意する。
「美琴に詳しく聞かせてやってもらえませんか。美琴、海の生き物にすごく興味があるんです。夏の課題も、まだやってないので」
そう言いながら、美玲は自分の隣、ベンチシートの空いている場所に視線を流した。
「あ、ああ……」
トムは、キャプテンシートと、ナビゲーターシートの海結に目を向けてから、美琴に背中を押され、戸惑いながらベンチシートの美玲の隣に腰を下ろす。すかさず美琴がトムの隣に座る。
母娘にサンドイッチされるトム。
美琴がシャチについての質問をトムにぶつけ、トムはそれに丁寧に答える。美玲が紙コップに水を注ぎ、ささっ、と紙皿にトムの分のオードブルを取り分ける。
美玲と美琴の、見事な連携プレーの一部始終を目撃した海結は、何か怒りのような、得体の知れないものが、体の底から膨れ上がってくるのを感じた。
これまで経験したことのない、衝動にも似た感情だ。
海結が、その感情と、とにかくそれを鎮めようとする思考とに挟まれている間に、美琴がトムに体を寄せ、筋肉質な右腕に絡みつき始めた。
美琴は、自分の胸にトムの腕を押し当て、肌の感触や筋肉を確かめるように、手でなでるように触っている。そのうちに、唇がかすかに開き、頬が赤く染まってくる。
海結は、膝の上に乗せている自分の手を、血の気が失せるくらい、ぎゅっ、と強く握りしめていた。心臓が、ドクン、ドクンと強く打つたび、息苦しさが増す。
抑えきれないものが、気道をとおって喉まで達しかけた時、
「こら、美琴、船長さんが食べられないじゃない」
と、美玲が注意した。
「あ、ごめんなさい!」
美琴は、トムの右腕をぱっと離し、自分の胸に手を当てた。
トムは、何回かまばたきした後、解放された右手でサンドイッチを食べ始めた。
海結は、ふーっ、と深いため息をつく。
何かが、自分の中で暴発しそうだった。すんでのところでそうならずに済んだが、今も、ちょっとした火の気があれば爆発するものが胃袋の中に詰まったままだ。
ナビゲーターシートから、もぐもぐとよく食べるトム、トムを挟んで談笑する母娘を見ながら、名前をつけることのできないその感情に向き合う。
美玲が用意した昼食に手をつける気になれず、海結は、トムと自分のために用意した昼食をひとりで頬張った。
一方、撮影のスタッフ達は、それぞれ別のシートに座り、互いに言葉を交わすでもなく、スマホを見たり、黙々とサンドイッチを食べたりと、終始、撮影以外は我関せず、という態度を貫いていた。
②
食事を挟んだ昼の休憩が終わり、午後からは、美琴単独での撮影となった。
休憩中、トムの隣で赤面し、無邪気に笑っていた美琴。後部デッキのブルワークに半ば座る形でもたれかかり、パーカーのジッパーをゆっくりと下ろしてゆく。
美琴は何のためらいもなく、両腕を伸ばしてパーカーを脱ぎ、カメラの前にその姿をさらけ出した。
パステルブルーのマイクロビキニが、白い肌に溶け込んでいるように見える。
「ちょっと、恥ずかしいけど」
頬をほんのりと上気させる美琴。
色っぽい。
海結は、思わず目を見張った。
午前中の美琴とは、何かが違って見える。幼さの残る顔はそのままに、表情が大人びて、どこか挑発的な色艶を帯びている。
昼休憩の短い間に、蛹から蝶へと羽化したかのような、それほどの変わりようだった。
カメラマンも、他の撮影スタッフの動きも言葉もぴたりと止まり、デッキ全員の視線が、無意識のうちに美琴に惹きつけられる。
後部デッキには、シンクと、清水のシャワーが備えつけられている。
カメラマンが、それを使うことを提案した。
美琴が、少しくすぐったそうな顔をしながら、シャワーを浴び始める。
肌の上を、キラキラと太陽の光を反射しながら、透明な水玉が転がるように落ちてゆく。
細い腰のくびれも、わずかな動きにも追随して揺れる胸も、少女のレベルではない完成度を見せている。
時に少女らしい無邪気さで、時に酔っているような艶やかさで、ポーズを決めながらほほ笑む。
濡れて黒光りする髪を無造作にかき上げ、獲物に狙いを定めたハンターのような目線をカメラに送る。
「いいよー、いい感じ。そのまま、目線だけこっち」
カメラマンの声も弾んでいる。一瞬の美を逃すまいと、シャッターを切り続ける。
ふと気づくと、海結の隣に美玲の姿がある。
豊かな胸を少し持ち上げるように、下手に腕を組んで撮影の様子をじっと見ている。
その横顔には、どこか勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。
「どうかしら、うちの美琴は」
海結は、最初自分が話しかけられていると思わず、返事がワンテンポ遅れた。
「……あ、すごく可愛いと思います。可愛いだけじゃなくて、ええと、色っぽくて。高校生ですか?」
「さあ、いくつかしらね」
美玲は少し口の端を上げた。
「みなさん、芸能事務所とか、そういう関係ですか」
「美琴は芸能事務所なんかに入ってないわよ。これは自主活動。セルフプロデュースのアイドル、そんなところかしら。今日はその撮影なの」
「あれ? そうなんですか?」
「まあ、メインはモデルのほうなんだけど」
美玲はそう言って、鼻から息を吐いた。
「……それにしても暑いわね。おばさんには堪えるわ」
確かに、今が一番暑い時間帯だ。空を見上げる美玲の横顔から首筋へと、汗が流れてゆく。
「ちょっと、涼しいところで休んだらどうですか。炎天下ですし」
「炎天下で立ちっぱなしなのは、あなたも一緒じゃない」
「そうですけど……」
「じゃあ、ここは若い美琴に任せて休憩しましょう。あなたもね」
キャビンの中、後部デッキに近い位置に、海結と美玲は向かい合って座った。
海結は、ペットボトルのさんぴん茶を勧めた。
「ありがとう」
美玲は足を組み、その美脚を見せつけるように座る。ペットボトルに唇をつけて飲む仕草からして、海結のほうが思わず照れてしまうような妖艶さがあった。
胸を持ち上げるように腕を組むのは、美玲の癖らしい。
海結は、自分とは一生縁のない、遠く離れたセレブな世界の住人だ、と思う。
「……彼、セクシーね」
唐突に漏れる美玲の呟き。
海結は、撮影スタッフのことを指しているのかと思ったが、美玲の視線は舳先のほうに向いている。
戸惑う海結に、美玲は、
「あなたのとこの船長さんよ」
と言う。
「本物の野生、っていうのかしら。粗野で乱暴なのとは全然違うの。気高く、誰にも飼われず、自分のルールがあって、知的ですらある。彼は、本物だわ」
「はあ……」
「力強くて、可愛さもある。男の魅力を、全部持ってる……あなたもそう思わない?」
「……」
目の前の美玲も、美琴も、母娘そろってトムに興味を示している。そう知った海結の中に、また得体の知れない感情が生まれる。
「あなたのカレ、かしら?」
美玲の両目が、鋭く光ったような気がする。
「い、いえ、私は……」
海結は、次の言葉を続けられない。
私はいったい、トムの何なのだろう。考えてみるが、答えが出ない。
「……」
「どうかした?」
「……従業員です。アルバイトの」
やっとのことでそう告げた海結に、美玲は何かを含んだような笑顔を見せた。
「そう。彼はどこの人?」
「アメリカ人と聞いてます」
「水泳選手だったのかしら? でも、彼のすごい体を見てると、それだけじゃない気がするのよね」
「海兵隊にいたそうです」
「日本語が達者だから、もう日本に来て長いようね」
「どうなんでしょう。海兵隊をやめてから、ずっと沖縄で暮らしてるようですが」
「ふーん、そう。彼は口が固い?」
「まあ、無口なほうなので……」
なぜ、私はトムのことを根掘り葉掘り聞かれているのだろう。
「タバコ、吸っていいかしら」
「禁煙です」
話がトムのことから外れたのを機に、海結は、美玲と美琴のことへ、話題の焦点をずらそうと試みる。
「それにしても、お母さんも娘さんも、すごく綺麗ですね。親子そろって美人なんて、私とは住んでる世界が違うって感じがします」
「あら、そんなふうに見えてた?」
美玲は、バッグの中からスマホを取り出し、海結に画面を見せた。
とある会社のホームページだった。田園風景を背景に、こじんまりした建物が写っている。玄関の横に、会社の旗と、緑白の安全衛生旗。並ぶ作業服姿の笑顔。
○○土建株式会社、とある。
「私は、ここの事務よ。真ん中の彼女が社長。二代目でね、私の同級生」
社員達に混じって、ごく一般的な事務服姿で溶け込む、地味な美玲の姿があった。
今、目の前にいる、華やかな女性と同一人物とは信じられない。
海結は、先入観で大きな勘違いをしていたことに気づく。
「役者ですね……」
「ふふ、誉め言葉かしら」
「てっきり、セレブみたいな人かと」
「演出上、それっぽくしてるだけよ」
「それにしても、土木の会社に勤めてたなんて……」
「女手ひとつで美琴を育ててた私を、うちに来なよって誘ってくれたのが社長の彼女。芸能界崩れで、水商売で食いつないでた私をね。彼女もそう。ずっと柔道に打ち込んでたけど、大学の時にお父さん、先代の社長が突然亡くなって。今、暮らしも安定して、美琴の自主アイドル活動ができるのも、みんな彼女のおかげ。最後に頼りになるのは、同性の親友かもしれないわね」
海結は、彩夏の存在を思い出す。美玲の言葉がすとんと胸に落ちた。
パンツスーツ姿の、恰幅のよい女社長は、普段は作業着に身を包み、社員の男達とともに油圧ショベルを操っていると言う。
会社の敷地内で、美琴も加わってバーベキューを楽しんでいるところや、女社長がペンライトを振る写真があった。
「彼女が、美琴のファンクラブの栄えあるナンバーワンの会員。彼女と、会社のみんなの理解があるから、私も美琴の活動を支えてゆけるの」
美玲の話しぶりからすると、家族的な温かみのある会社のようだ。海結には縁がないのに、どこか懐かしさを感じる世界だ。
「会社とか、地元のアイドル、って感じで、すごくいいですね」
「それはいいけど、美琴はまだ学校に通ってるから、そこがちょっとね。美琴ひとり成長が早くて、まわりがみんな子供だから、浮いてないか心配なのよ。もっとも、一番警戒しないといけないのは、むしろ先生達」
「あー、最近多いですからね」
「会社のみんなも、自主活動のローカルアイドルから、もっと高みを目指して欲しいって応援してくれてるの。形はどうあれ、芸能界で息の長い活躍をしてくれることを私も願ってる」
「お母さんは、芸能界にいたことがあるんですか」
海結が投げた問いに、美玲の表情が少し陰りを見せた。
「そう。いたわ。若い頃はアイドルになりたくて、ね。今思えば笑っちゃうけど」
「そうだったんですか。だから、娘さんに」
「美琴には同じ失敗をさせたくないの。絶対に」
ふーっ、と息をついて、美玲はキャビンの外に顔を向ける。
「田舎で平々凡々と育った、学も人生経験も、本物を見極める目もない小娘が、きらびやかな世界に憧れて、何も知らずに芸能界に飛び込んだ。それが私。鳴かず飛ばずで終わったわ……事務所にこき使われて、いいように利用されただけで……」
重過ぎる告白に、海結は相槌すら打てず、ただ黙って聞いているしかない。
「その挙句、美琴を身ごもって、あっさり切り捨てられた。男、ってものを知らな過ぎたのね。美琴には、父親のことを話せないでいる、今も」
話を聞いているうちに、海結の中にひとつの疑問が生じた。
美玲は、すべてを話したわけではない。しかし、芸能界の闇の中で辛酸を舐めてきたことは、想像に難くない。
「それだけ苦労されてきたなら、なぜ、娘さんを芸能界へ入れようとされているんですか?」
自分の夢を娘に託す心境か、それとも、自分を足蹴にした芸能界への復讐か。
「あなた、さっきの美琴を見て、何も感じなかったの?」
「……?」
「美琴は、天性のスターよ。そういう星のもとに生まれてきた子なの。私が芸能界で見てきたスター達に引けを取らないわ。最初は、美琴を芸能界に、なんて、考えもしなかった。この子の才能を、埋もれさせておくことはできなかったのよ」
そう言ってから、美玲は小声で、
「父親の血ね、きっと」
とつけ加えた。
キャビンの後部では、まだ撮影が続いている。確かにそうだ。美琴の魅力は、老若男女問わず、万人を惹きつけるものがある。まだ成長の途上だが、その片鱗はすでに見えている。美玲の言っていることは、決して親のひいき目ではない。
「午後の美琴は、私もびっくりするくらい。ここまでのオーラは初めて見るわ。いったい、あの子のスイッチを入れたのは何だったのかしらね」
次に美玲が見せてくれたのが、美琴の自主アイドル活動の動画群だった。
無料の動画サイトにある美琴のチャンネル。動画が数多くアップされている。
その動画は、海結が考えるアイドル的なものとは一八〇度異なるものだった。
盆の墓参り、中華街でフルコース、パワースポットの神社参拝、恐竜の博物館、極寒の流氷見学、スキー初挑戦、さつまいも収穫とスイーツ作り、登山初体験、寄席で落語……などが並ぶ。
美琴の経験と視野を広げることに重きを置いているのはわかるが、中には、発破作業やゴミ焼却場の見学、地ビール工場でママ酩酊、といった、いったい誰得な動画もある。
母娘そろってのサービスショットもちらほら見られるが、過剰なものではない。
投げ銭などはやっておらず、広告収入を得る気もなく、金が目当てではない、と美玲は言い切る。
海結が感心したのは、動画の質の高さだった。
どの動画も、カメラの軸がびしっ、と定まっていて、見疲れしない。画面の切り替えもスムーズで、進行のテンポが小気味よい。余計な音を入れず拾わず、母娘の声が上手にフォーカスされ、明瞭に聞き取れる。
「どれもクオリティ高いですね……」
「プロに頼んでるから。自主活動でも妥協はできないわ」
「今日来てる人達も?」
「そう。動画制作会社の人、個人でやってるカメラマンとメイクアップアーティスト。みんな個別に手配して来てもらったのよ」
まるでプロデューサーのようだ。会社で事務の仕事をしながらやっているのだから、頭が下がる。
しかし、美玲が一から十まで全部手配しなくとも、動画制作やプロデュースを請け負う会社に、企画段階から丸ごと委託すれば楽なのではないか、と海結は思う。
「それでお抱えみたいになったら、もっとキラキラで、ファンに過剰なサービスをして再生数を稼ぐ、そういう内容を押しつけられるに決まってるもの」
「あー、なるほど。そうなっちゃう気がしますね」
「そんな、自分を安売りするような真似を、美琴にはさせられないわ。今は、色々なことを体験させて、将来のために基礎を固める時期。その過程をファンに見てもらえれば十分よ」
「お母さん、さっき、何も知らなかった、とおっしゃってたでしょう。もしかして、そういうことですか」
美玲は、我が意を得たり、というふうにうなずいた。
キャビンの後ろに目をやると、デッキで続いていた撮影が終わったらしく、美琴がパーカーを羽織っている。
トムは、舳先から、キャビン横のサイドデッキへ、立ち位置を変えていた。ちょうど、美玲の頭の向こうに、キャビンのガラスを挟んで佇んでいる格好だ。
美玲は、トムのライフジャケットの背中をバックに、話を続ける。
「色々な経験をして、実際に触れて感じることが大事なの。それが、いずれ美琴の血となり、肉となる日が来るわ。リアルにクルーザーに乗るのと、ただ見聞きしただけでは、雲泥の差がある。美琴には、できるだけ若いうちに、まがいものじゃなくて、本物に触れる機会を作ってあげたいの。一度、本物を知っておけば、それが後々の基準になるでしょ。今日みたいに、借りたっていいの。クルーザーを所有するかどうかは、その人の価値判断だから。でもね、本物というものを知らなければ、その正しい判断すらできないってことなのよ」
そう言いながら、またバッグの中に手を入れ、何かを取り出した。
「これ、開けてみて」
海結は、未開封の小ぶりな箱を手渡される。
金色の封を切って開けてみると、相当に値が張りそうな口紅が入っていた。
特注のような気配がある高級品だ。デパートの化粧品売場でも手に入らないレベルのものではないか。
「私と美琴の肌色には、多分合わないけど、あなたには似合うと思うの。使ってもらえると嬉しいわ」
「いえ、困ります、こんな高そうなもの」
「いいのよ。この前、美琴のモデルの仕事の時にもらったものだから。私と美琴からのちょっとしたお礼よ」
「でも、こういうのは、お母さんとか娘さんのような綺麗なひとが使ったほうが……」
わずかに片目を細める美玲。
「自分のことをどう思ってるか知らないけど、とても綺麗よ、あなた。そこらの女優が霞むくらいにね。今のままでもいけるけど、こういう色を使えば、あなたはもっと素敵になれる。自分の魅力をもっと引き出せるわ」
口紅を手に取ると、指先に重さを感じる。キャップを外す。自然で落ち着いた深い赤茶色が現れる。
その色味を見た瞬間に生まれたときめきのようなものを、海結は知らぬ顔でやり過ごすことはできなかった。
美玲が、にこりと笑う。
本物に触れる、ということの意味を、海結は少しだけ理解できた気がした。
③
水平線に溶け始めた夕陽を背に、フィッシングボートは漁港へと向かう。船底を、凪いだ海面がゆるやかに打ち続けている。
ナビゲーターシートに座る海結の足元、ボートの前方にあるバウバース入口のカーテンが閉められている。
カーテンの向こうから、美玲と美琴の、ぼそぼそとした声が、海結の耳にわずかに届く。
海結は、何か密談めいたものを感じるが、真下から響くディーゼルエンジン音のせいで、内容はほとんど聞き取れない。
やがて、カーテンが開くと、中から母娘が姿を現し、階段を上ってくる。
美玲は、黒地に細かな花柄が散るワンピース。大きく空いた胸元にパールのネックレス。足元は白いエナメルのサンダルで固めている。
右手で軽く髪を整える仕草に、成熟した女性の余裕と優雅さを漂わせる。
セレブの演技もここまで板についてくると、もはや地ではないか、と海結は思う。
美琴のほうは、白地のTシャツに、淡いブルーのショートパンツ。素足にベージュのサンダル。シンプルで軽やかだが、これといった特徴もないスタイル。
それでも平凡な印象に落ちないところが、美琴の素の美しさと、天性のスター性、といったところか。
その反面、撮影時に見せていた勢いの良さがどこに行ったのか、と思えるほど、何かに緊張した様子だ。
唇をきゅっ、と結んで頬を紅潮させ、ちらりとキャプテンシートのトムを見やってから、美玲の隣に腰をかける。その動きは、どこかもじもじとして、ぎこちない。
バウバースの中で母娘が何か話をしていたが、それと関係があるのだろうか。
そうしている間に、ボートは、漁港をぐるりと囲む堤防をくぐる。
トムが、エンジンのスロットルを絞り、ボートを岸壁にぴたりと寄せる。素早くロープで固く舫うと、船上に静けさが訪れた。
最初にボートを下りたのが美玲で、美琴と撮影スタッフも続く。
下ろした撮影機材などを積み込み、手短な挨拶を済ませると、撮影スタッフの三人は、別々のレンタカーで走り去っていった。
漁港の岸壁に、トムと海結、美玲と美琴だけが残される。
「あら、そういえば、ホテルまで乗せて行って、とお願いするの忘れてたわ」
美玲は、突然思い出したかのように、そう言い出した。
今朝、母娘は撮影スタッフのレンタカーに便乗して漁港までやって来た。スタッフ達が帰ってしまった今、二人には足がない。
少し首を傾げてから、トムのほうを向く美玲。
「船長さん、本当に申し訳ないんですけど、ホテルまで送って頂けないかしら。スタッフのみなさんへ、ちゃんとしたお礼もしないといけませんので」
「いいですよ」
トムは短く答える。ホエールウォッチングが終わった後は、必ず客の送迎がある。母娘を送る先も、いつもの提携先のリゾートホテルだ。断る理由もない。
「打ち上げも兼ねて、スタッフのみなさんと一緒に食事をする席を設けているんですが、お二人もどうですか」
「いや、宴席は苦手でね。お構いなく」
軽バンのエンジンが、軽い音を立てて始動する。
陽はまだ沈み切らず、漁港の水面に残光が揺らめいていた。
助手席に海結、後部座席に美玲と美琴が収まると、トムは軽バンをゆっくりと発進させた。
トムの家に着くまでのわずかな時間に、空は暗さを増している。
海結が降りると、トムはハンドルを握ったまま、
「送ったらすぐ戻る」
と言う。
サイドドアの窓から美琴が顔を出した。
「今日はありがとうございまーす!」
ようやく緊張が解けたようで、海結に向かって手を振ってみせる。隣の美玲も手を振った。
海結が見送る中、軽バンのテールランプが、二つの赤い舌のように、尾を引きながら遠ざかっていった。
家に戻った海結は、シャワーを浴びて髪と体を洗い、夕食の支度を始める。
旺盛なトムの食欲に合わせ、グルクンを四尾、から揚げにする。今夜は冷やしで食べる計画のもと、沖縄そばのつけ汁は別に用意しておいた。
二人分の食事がテーブルに並ぶ。
海結は、テレビを見ながら待つが、三時間ほど過ぎても、トムは帰ってこなかった。
ここからホテルまで片道で一時間弱、往復しても二時間半もあれば十分以上だ。
事故にでもあったのではないかと少し心配になる。スマホの類を持たないトムに、連絡のしようもない。
美玲の言葉を思い出す。
撮影スタッフへお礼をするため、宴席を用意してある、と言っていたが、わずかに引っかかる点もある。
なぜ撮影スタッフ達は、各々別のレンタカーで漁港に集合し、帰路についたのか。全員が同じホテルに宿泊し、そこに帰るなら、最初から大型のレンタカーを一台借りれば済む話ではないか。
朝は母娘を一緒に乗せて漁港にやって来たのに、二人を乗せ忘れて帰るようなことがあるだろうか。
それに、美玲と美琴は、ホテルでなく貸別荘に泊まっていると言っていなかったか。
考えてみても答えは出ない。仕事にちょっとした手違いや齟齬はつきもの。多分、トムは宴席を断り切れなかったのだろうと、海結は推測した。
今頃、酒と食事を楽しんでいるに違いないが、この地区に運転代行の業者はあるのだろうか、などと、つらつら考えているうちに、海結はテーブルに突っ伏し、椅子に腰をかけたまま寝入ってしまった。
玄関のドアが開く音で目を覚ました時、午前二時を回っていた。
海結が目をこすって振り向くと、驚いた顔のトムが玄関に立ち尽くしていた。
「まだ起きていたのか……」
海結の意識は、半分以上眠っている。のそのそと椅子から立ち上がり、トムを出迎える。
「……おかえりなさい」
「すまん、待たせた」
トムの体から、タバコの匂いがかすかに感じられる。
「宴会、どうでした?」
「あ? あ、ああ」
「ご飯、どうします? いっぱい食べてきました?」
「いや、食べる。ありがとう……」
トムはライフジャケットを脱ぎかけるが、何かを思い出したようにジッパーを上げ直し、キャップとデッキシューズだけを脱いだ。
目を伏せ気味にして、海結の横をとおり過ぎる時、タバコだけでなく、人からの移り香のような匂いも海結の鼻に届く。
いつもの潮と汗の匂いに混ざって、化粧品の甘い香りと、生肉や体液から発されるような、どこか生々しい匂いがトムにまとわりついている。
刺身などの魚介類や、アグー豚の生ハム、そういったものがたくさんが振る舞われたのだろうか、と海結はぼんやり考えた。
トムは、ライフジャケット姿のまま食卓につき、夕食を食べ始める。
海結は、眠気が勝っていて食べる気が起きないが、明日に響くといけないと思い、一緒に食べる。
食事の間中、トムはほとんど口をきかなかった。何か思いつめたような表情のまま、黙々とグルクンを口に運ぶ。心なしか、肩を縮めて身を小さくしているように見える。
グルクンのから揚げは冷めても美味だったが、沖縄そばはすっかり伸びていて、ぼそぼそした触感だけが残った。
食事を終え、箸を置くトム。その仕草も、どこか固い。
「もう、休んでくれ」
トムは短くそう告げ、ライフジャケットを着たまま脱衣スペースに消えた。
海結も、洗いものを明日に回して、ベッド回りのカーテンを閉めて横になった。
シャワーの音が聞こえ始めた時、海結はすでに眠りの中に落ちていた。
(続く)