天敵外科医さま、いいから黙って偽装婚約しましょうか~愛さないと言った俺様ドクターの激愛が爆発して~【愛され最強ヒロインシリーズ】
私は思わず足を止めた。足元の影が街灯で長く伸び、その先の暗がりと混ざる。
「略奪愛、って……どういうことですか、池崎先生」
「おや」
池崎先生は片方の眉を上げた。
「ご存じなかったのですか? 香月先生には許嫁がいたのです」
「許嫁……まさか、いまどき……」
言いかけて、ハッと気が付く。
先月、宗司さんと温泉デートをしたあの日。たまたま会った宗司さんの同級生だという男性が言っていた――『そりゃ、政略結婚なんかしたくないよな』。
「顔色が悪いですね、吉武先生」
「あ……いえ。そんなことは」
「まあ、政治的なもので香月先生は乗り気でなかったようですが……でも、お相手は本気でした」
池崎先生が歩き出し、私もふらふらと後に続く。
頭がジンと痺れていた。
「香月先生と結婚し、家庭を築くのだと乙女心を膨らませ、その日を待っていたのに――その夢が叶う日があと一歩でやってきていたのに」
大学の門を出て、遊歩道を歩く。街路樹のプラナタスはすっかり葉を落としている。落ち葉さえ残っていない。
「待ってください」
私は誤謬を発見し、池崎先生を睨む。
「私が香月先生と婚約する前、彼は『見合いが持ち込まれる』と不服げでした」
「ええ、自分で言うのもどうかと思いますが、僕の派閥の人間からの見合いですよね」
私は無言で返す。池崎先生は肩をすくめ、再び語りだした。
「本来は許嫁との婚約を発表すれば済んだところでしょう。ですが香月先生はあなたとの婚約を発表した。ですから僕は略奪愛だと予測したわけです」
私はぽつぽつ街灯で照らされた道を歩きながら考える。
宗司さんの祖父、理事長が私と宗司さんを“偽の婚約者”にする提案をしたのは、宗司さんの病気のことがあったから。
許嫁との婚約を発表した後、私と宗司さんに噂が持ち上がれば宗司さんは不貞を働いているのではと名前に傷がつく。
そうなれば後継選にも影響が出ると判断した……と考えるのが合理的だろうか?
あのとき、理事長は何度も『婚約は破棄すればいい』と言っていた。
まさか、私と宗司さんが本当にそんな関係に――まだ正式ではないにせよ――なるなんて、思ってもいなかったのだろう。その後時間を置き、許嫁との婚約を発表する予定だったのか。
私は池崎先生を見上げる。整った細面はいまいち、感情が読み取りにくい。
正直、疑っている。
いきなり言われて、信用できるはずがない。政略結婚云々は、気にかかるところではあるけれど……。
無言の私に、池崎先生はゆったりと目を細める。
「信用していませんね?」
「……そもそも先生が私に近づいたのは、宗司さんの情報を得るためだろうと予想していますので」
「はは、冷静だな。あとは引き離すつもりでしたよ。僕に惹かれてくれればなと……僕の顔、タイプじゃありませんでした?」
「自信満々なんですね」
「比較的、モテるほうでして」
池崎先生は自分の顎に触れながら首を傾げ、「そうだ」と口角を上げた。
「今から会いますか」
「誰にです」
「許嫁さん」