天敵外科医さま、いいから黙って偽装婚約しましょうか~愛さないと言った俺様ドクターの激愛が爆発して~【愛され最強ヒロインシリーズ】

 私は立ち止まりかけ、グッと足に力を入れる。きっと罠だと思う。
 でも、受けて立とうじゃない。
 頷けば、池崎先生はにっこりと笑い、スマホを取り出した。

「連絡してみます」

 ととと、と画面をタップする池崎先生。すぐにスマホが震えたようだった。

「すみません、本人から電話です。……はい、池崎です。ええ」

 しばらく会話をしたあと、池崎先生は探るように私を見た。

「吉武先生」
「なんでしょうか」
「今日、夕食のご予定はありますか?」




 池崎先生に連れられ、電車で数駅。
 有名私大のキャンパスがある駅は、二十二時過ぎだというのに大学生が頻繁に行きかう。
 たいていが酔っ払いのようだけれど。
 陽気にはしゃぐ声に懐かしさを覚えながら、スタスタ歩く池崎先生についていく。
 ふとスマホが震える。見れば予想通り宗司さんからのメッセージだ。

【気を付けて】

 池崎先生と食事、とは言いづらく、医局で夕食を食べてから帰ると伝えていた。
 まあ、まだ彼も病院にいる可能性はあるけれど、迎えに来たりしたことはないから大丈夫だろう。
 一応彼にも私の仕事の邪魔はしないくらいのデリカシーがあるのだ、俺様だけれど……。

「ああ、あった。ここです」

 池崎先生が指さしたのは、学生街にはあまり似つかわしくない、ラグジュアリーな雰囲気のワインバーだった。
 彼に続いて入店し、納得する。
 ここは学生ではなく、大学教授や大学職員をターゲットにしたバーなのだ。
 煉瓦作りふうの店内には静かなジャズがかかっている。これも本物のレコードだ。

 池崎先生が店員に名前を告げると、私たちは一番奥の個室に案内された。
 そこにはすでに先客がいた。誰か聞かなくてもわかる。宗司さんの許嫁だと、池崎さんが主張している女性だ。

 艶やかでまっすぐな髪の女性が顔を上げる。可憐な人だと、思わず息をのんだ。
 色白で、華奢で、小柄で、……私とは正反対。つまり、守ってあげたくなるお姫様みたいな人。

 たいていの男の人は、私より彼女を選ぶだろう。――宗司さんは?

「こちら、姫内さん。香月先生の許嫁だった方です」

 池崎先生の紹介とともに、長いまつげに彩られた目から、ぼろりと涙が零れ落ちた。

「え、あの」

 思わずおろおろする私を見上げたまま、姫内さんは小さな肩を震わせ、涙をはらはらと流す。

「か、返してください」

 彼女は鈴の鳴るような、か細い声で言葉を紡ぐ。

「わ、わたしは、宗司さんとの結婚を心待ちにしていました……宗司さんは違ったかもしれないけれど、でも、夫婦になればきっと違ったはず。一緒に暮らせば、きっと。情も湧いて……あ、愛して……もらえたんじゃないかって」

 その言葉にぐさっと抉られた気分になる。
 だって実際、私だって一緒に暮らして、そのせいで好意を持ってもらえたからだ。
 目の前に突きつけられた言葉と声と涙に、身体の奥底で、なにかが揺らぐ。

「お願い……」

 はらりはらりと白い頬を涙の粒が伝う。
 池崎先生のことは信用してない。
 許婚なんて本当かどうか今この瞬間だって疑ってる。

 でも、でも……この女性の、宗司さんへの想いは本物だ。
 同じ感情を抱いているからわかる。くしくも、宗司さんがゆーちゃんをそう評したのと同様……。
 じゃあ。
 それなら、池崎先生の言っていることは、本当?
 私は、この人から宗司さんとの未来を奪ったの?
 略奪愛、というおぞましい言葉が脳でリフレインする。
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