甘く香るあなたと、唯一無二の。
 * * *


 詩歌が帰ってから慌ててホットタオルを目に当てて、何とか腫れは回避出来たと思っていたのに、翌日。

 一ノ瀬課長は出社してきたと思ったら「辻、資料室」と端的に呼び出された。眉を寄せた不機嫌そうな顔で。

 資料室は書類や雑多に物が積まれていて埃っぽい匂いが充満している。

「お前、泣いた?」イライラしたような声色と少しの怒りが混じったスパイシーな香り。いつもの香りがしないことに私は少し焦った。慌てて目線を外したのがまずかった。顎をクイッと持ち上げられて目の端を撫でられる。温かい手。


「隠せてるつもりだろうが、目少しだけ赤いぞ。仕事きついのか?」そう問うてくる瞳は心配の色に染まっていて、鼓動が高鳴る。

「いえ、違います。これは、その」

「何だ? 言えよ」

 どうしよう。昨日の今日でまだ混乱していて上手く答えられる自信がない。おろおろと視線を動かし、やっと私の口から出たのは「プライベートで、ちょっと――」という曖昧なものだった。


 そう告げた瞬間、一ノ瀬課長の怒りと悲しみの香りがより強くなった。


 え? 声色も一段冷たくなって「そうか」と告げると、さっと踵を返して資料室から出て行く。

 待って。そう言いたいのに、言葉が喉に詰まる。広い背中がどんどん遠ざかってゆく。

 私、何か間違えた?

 何が一ノ瀬課長をこんなに?

 呆然と立ち尽くしたまま、私はただ、消えていく背中を見つめることしかできなかった。
< 11 / 15 >

この作品をシェア

pagetop