甘く香るあなたと、唯一無二の。
* * *
気持ちが晴れないまま残業を終えて帰宅し、一息ついていると、スマホの着信が鳴った。開発部からだ。
電話に出ると、開発部の担当者の切迫した声が聞こえた。
「辻さん! 大変なんです。試作品に重大な問題が見つかって——」
「え!」
「成分の一つが、予定と違うものが混入していたみたいで。このままだと来週のプレゼンに間に合わないかもしれません」
頭が真っ白になった。
「今から、戻ります」電話を切って慌てて上着を羽織り、家を出てタクシーに飛び乗った。
会社のエントランスに入ると、先を行くのは一ノ瀬課長。
「一ノ瀬課長!」思わず声を掛けてしまった。振り返り私の姿を確認すると「ああ、辻も着いたか。ここが、このプロジェクトの山場になるぞ」と真剣な顔で言う。
「はい」神妙に頷き、二人でエレベーターに足を踏み入れた。
無言のまま上昇していく僅かな振動に身を任せていると、突然頭上の明かりが点灯したかと思ったら、ガゴン! と大きな音を立ててエレベーターは急停止した。
そして暗闇が襲ってくる。
「え、やだ」自分がどこに立っているのか分からなくなるような、急激に体中が不安感でいっぱいになる。
――こわい。
じわっと目の端に涙の膜が浮き出し、心臓がドクドクと早鐘を打ちパニックに陥りそうになった瞬間。
「奈々子、大丈夫だ」
力強くて心地良い声が届いた。スマホでライトを照らし、私の手を握ってくれる大きく温かい手。
「落ち着くんだ。今、警備に知らせるから」そう言って緊急ボタンを押しに向かおうとする手に私は思わず縋ってしまいたくなる。
警備員とは運良くすぐに繋がって、早速対処してもらえた。復旧は五分後とアナウンスがあり、ほっと一息つく。
繋いだままの手を離したくなくて、だけど離さないといけないかな、なんて意識を手に集中させていると、一ノ瀬課長が唐突に「この五分間、お前の上司をやめる」と宣言した。
「へ?」
「上司じゃなくてただのお前に恋する男として接するって意味。汲み取れよ」そう言った瞬間、一ノ瀬課長の甘い香りに全身が包まれた。抱き締められている。
「嫌だったら突き飛ばせ」そう言う言葉は弱々しい。それに、ひりひりと焦げ付くような緊張の香りもするし、心臓の音がどきどき鳴っているのが分かる。
「嫌、なんかじゃないです……私、一ノ瀬課長のことが――」
「ストップ。それはプレゼンが無事に終わってから俺から改めて言わせてくれ」きっと私の顔は真っ赤に染まっているだろうが、今は暗闇が隠してくれている。
「一ノ瀬課長。どうして最近、私のこと避けてたんですか?」きゅっと控えめに一ノ瀬課長の背中に手を回した。
「痛いとこ突くな。お前に合わせる顔がなかったんだよ。大人げない態度取った自覚はある。明らかに泣いた翌日って顔してんのに、その理由話してもらえなかったのに拗ねたんだよ」
甘い言葉と甘い香りで酔いそうだ。
「そう、だったんですか。けど、あの時はまだ本当に混乱していて。私、以前家族と折り合いが悪いって話しましたよね?」
「ああ。言ってたな」
「それに少しだけ進展あったんです。妹が来てくれて、一緒に家族を壊そうって言ってくれました。協力するから自分たちの家族の形探そうって。それが嬉しくてわんわん泣きました。まだ根本的に何か変わった訳じゃないんですけどね」
「そうか。これからだな」そう言って私の頭をするっと撫でてくれる。それはどんな言葉よりも応援の意味が込められている気がした。
ずっとこの腕の中に包まれていたい、と思い始めた瞬間、ぱっと照明が点き、機体がもう一度ガコンと揺れた。
五分間の魔法が解ける。
一ノ瀬課長から体を離そうとした瞬間、唇に柔らかいものが触れた。
「悪い。フライング」いたずらっ子のような笑みを零すその笑顔が心から好きだと思った。
気持ちが晴れないまま残業を終えて帰宅し、一息ついていると、スマホの着信が鳴った。開発部からだ。
電話に出ると、開発部の担当者の切迫した声が聞こえた。
「辻さん! 大変なんです。試作品に重大な問題が見つかって——」
「え!」
「成分の一つが、予定と違うものが混入していたみたいで。このままだと来週のプレゼンに間に合わないかもしれません」
頭が真っ白になった。
「今から、戻ります」電話を切って慌てて上着を羽織り、家を出てタクシーに飛び乗った。
会社のエントランスに入ると、先を行くのは一ノ瀬課長。
「一ノ瀬課長!」思わず声を掛けてしまった。振り返り私の姿を確認すると「ああ、辻も着いたか。ここが、このプロジェクトの山場になるぞ」と真剣な顔で言う。
「はい」神妙に頷き、二人でエレベーターに足を踏み入れた。
無言のまま上昇していく僅かな振動に身を任せていると、突然頭上の明かりが点灯したかと思ったら、ガゴン! と大きな音を立ててエレベーターは急停止した。
そして暗闇が襲ってくる。
「え、やだ」自分がどこに立っているのか分からなくなるような、急激に体中が不安感でいっぱいになる。
――こわい。
じわっと目の端に涙の膜が浮き出し、心臓がドクドクと早鐘を打ちパニックに陥りそうになった瞬間。
「奈々子、大丈夫だ」
力強くて心地良い声が届いた。スマホでライトを照らし、私の手を握ってくれる大きく温かい手。
「落ち着くんだ。今、警備に知らせるから」そう言って緊急ボタンを押しに向かおうとする手に私は思わず縋ってしまいたくなる。
警備員とは運良くすぐに繋がって、早速対処してもらえた。復旧は五分後とアナウンスがあり、ほっと一息つく。
繋いだままの手を離したくなくて、だけど離さないといけないかな、なんて意識を手に集中させていると、一ノ瀬課長が唐突に「この五分間、お前の上司をやめる」と宣言した。
「へ?」
「上司じゃなくてただのお前に恋する男として接するって意味。汲み取れよ」そう言った瞬間、一ノ瀬課長の甘い香りに全身が包まれた。抱き締められている。
「嫌だったら突き飛ばせ」そう言う言葉は弱々しい。それに、ひりひりと焦げ付くような緊張の香りもするし、心臓の音がどきどき鳴っているのが分かる。
「嫌、なんかじゃないです……私、一ノ瀬課長のことが――」
「ストップ。それはプレゼンが無事に終わってから俺から改めて言わせてくれ」きっと私の顔は真っ赤に染まっているだろうが、今は暗闇が隠してくれている。
「一ノ瀬課長。どうして最近、私のこと避けてたんですか?」きゅっと控えめに一ノ瀬課長の背中に手を回した。
「痛いとこ突くな。お前に合わせる顔がなかったんだよ。大人げない態度取った自覚はある。明らかに泣いた翌日って顔してんのに、その理由話してもらえなかったのに拗ねたんだよ」
甘い言葉と甘い香りで酔いそうだ。
「そう、だったんですか。けど、あの時はまだ本当に混乱していて。私、以前家族と折り合いが悪いって話しましたよね?」
「ああ。言ってたな」
「それに少しだけ進展あったんです。妹が来てくれて、一緒に家族を壊そうって言ってくれました。協力するから自分たちの家族の形探そうって。それが嬉しくてわんわん泣きました。まだ根本的に何か変わった訳じゃないんですけどね」
「そうか。これからだな」そう言って私の頭をするっと撫でてくれる。それはどんな言葉よりも応援の意味が込められている気がした。
ずっとこの腕の中に包まれていたい、と思い始めた瞬間、ぱっと照明が点き、機体がもう一度ガコンと揺れた。
五分間の魔法が解ける。
一ノ瀬課長から体を離そうとした瞬間、唇に柔らかいものが触れた。
「悪い。フライング」いたずらっ子のような笑みを零すその笑顔が心から好きだと思った。