甘く香るあなたと、唯一無二の。
 * * *

 夜七時、銀座の高級料亭。

 接待相手は帝都百貨店の商品部長。五十代半ばの恰幅の良い男性だ。艶々とした肌に人の良さそうな笑みを浮かべている。

「一ノ瀬課長、今日はお招きいただきありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそお時間をいただき恐縮です。こちら、営業の辻です」
「これはこれは、可愛らしい方をお連れで」そう言って私へ視線を向け目尻を更に下げる。なんだ、いい人そうじゃないか。一ノ瀬課長が苦戦する相手だからどんなセクハラおじさんなんだろうと身構えていたんだけれど。

 「部長、当社の新作フレグランスなんですが——」

 一ノ瀬課長が話を切り出そうとした瞬間、商品部長が手を上げて遮った。
「仕事の話は後にしましょう。まずは美味しいお酒と料理を楽しまないと。ね? 辻さん」
 そう言って、商品部長は私の隣に座り直した。一ノ瀬課長との距離が開き、私との距離が縮まる。

「辻さん、お酒は強いほうですか?」
「いえ、あまり……」
「そうですか。じゃあ、ゆっくり飲みましょうね」そう言いつつ私のグラスになみなみとお酒を注いでくる。うわ、どうしよう。けど、飲まなきゃだよね。これくらいで潰れたりはしないはずだし。ぐいっと一口で飲みきると、「いける口じゃないですか」と嬉しそうな声が木霊して少し遠くに聞こえる。大丈夫。笑顔を作るのも、適度な相槌を打つのも、お酌をするのも四年間で身につけた処世術だ。そう思いつつ何度かグラスを空けた時、「申し訳ありません、部長。少し席を外させて頂きます」言いつつ、一ノ瀬課長は私の腕をぐいっとつかみ上げた。


「え?」疑問符が口からこぼれ落ちたと思ったら景色は移り変わり、あっという間に部屋の外に連れ出されていた。夜風が火照った頬に当たり気持ちいい。


「辻」 振り返ると、一ノ瀬課長が立っていた。
「悪い、勝手に席を外させて。でも、あれ以上あの場にお前を置いておけなかった」
「え……?」
「さっき言っただろ。俺は女性社員で釣るような営業は好かないって。こんな接待、もう付き合わせるつもりはない。それに、そろそろお前限界だろ?」

 一ノ瀬課長の表情は、怒りで強張っていた。だけど、その怒りは私に向けられたものじゃないことは匂いで分かる。

「でも、仕事が……」
「仕事は俺がなんとかする。お前はもう帰れ」
「でも——」
「いいから帰れ。これは上司命令だ」

 そう言って、一ノ瀬課長は私の肩を軽く叩いた。 その瞬間、また、あの香りが鼻腔をくすぐった。優しく香るフローラルで爽やかなあの香り。不思議と、安心する。

「……ありがとうございます」
「礼はいい。さっさと帰れ」

 一ノ瀬課長は照れたように視線を逸らすと、個室へと戻っていった。
 私は呆然とその背中を見送った後、料亭を後にした。
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