甘く香るあなたと、唯一無二の。
* * *
翌朝出社して席に着く。一ノ瀬課長の姿はまだ、ない。
「おう、奈々。昨日の接待飲まされて大変だったんだって?」泉が声を掛けてくる。
「へ? なんで知ってるの?」
「一ノ瀬課長が部長に抗議してるの聞こえてきた。『女性社員を接待に同行させることは撤廃すべきだ』って凄い形相で」
「え――」
「なんか、取引先の態度が酷かったから途中で帰らせたって。で、その後一人で商談まとめたらしい。すげーよな、一ノ瀬課長」
心の奥底がとくんと波打つのを感じた。私が許容範囲を超えて飲まされそうになっているのを、助けてくれた。私が抜けた後、大変だったはずなのに一人であの商品部長と対峙して契約を取り付けたんだ。
「奈々? お前なんか顔赤いぞ?」
「なっ、何でもない!」
慌ててパソコンを起動させながら、昨夜の一ノ瀬課長の背中を思い出していた。そして、あの香り。
お昼休み、私は一ノ瀬課長の姿を探してビルの屋上のドアを開いた。お昼を取った後、午後の始業時間までの十分間ここでコーヒーを飲みながら一服するのを知っていたのだ。
――いた。広い背中を見つけた。
「一ノ瀬課長!」私の声に一瞬驚いたような表情を見せる。
「おぉ、辻、どうした?」
「あの、一ノ瀬課長。昨日はありがとうございました」深々と頭を下げる。
「ん? ああ、気にするな。当然のことをしただけだ」
「でも……お一人で大変だったんじゃ」
「大丈夫だ。ちゃんと契約は取れた。お前が心配することじゃない」
一ノ瀬課長はそう言って、空に目を戻した。会話終了の合図だろう。
だけど、私にはまだ聞きたいことがあった。
「あの……一ノ瀬課長」
「なんだ?」
「その、一ノ瀬課長っていつも良い匂いがするなって思っていて……。失礼だったらすみません。でも、どこの香水を使われてるのかなって」
顔が熱くなる。何を言ってるんだ、私は。だけど――知りたい。
一ノ瀬課長が、意外そうな顔でこちらを見た。
「香水? 俺、香水はつけてないぞ」あっけらかんとそう言う。
「え?」
「柔軟剤も無香料のやつを使ってる。匂いに敏感な客も多いからな。客商売なとこあるし」
じゃあ、あの香りは——。
「もしかして、体臭ですか?」
言ってから、失礼すぎる質問だったと気づく。だけど一ノ瀬課長は怒る様子もなく、少し困ったように笑った。
「多分な。気になるならこれから気をつけるが」
「いえ、そういう意味じゃなくて!」
慌てて首を振る。
「その、いつもとても良い香りだなって思ってて、何の香水か不思議で……」
「……そうか」
一ノ瀬課長の耳が、少し赤くなった気がした。そして花のような香りが強くなる。
「辻、お前、匂いフェチだろ」
「えっ? なんで知ってるんですか?」
「新作の香水、誰よりも早く試してるの見てるからな。それに、いつも何か嗅いでる」
観察されていたことに驚く。
「化粧品メーカーで働いてる以上、匂いに敏感なのは良いことだ。その感性、大事にしろよ」そう言って一ノ瀬課長は私の頭をするっと一撫でした。優しい笑みを携えて。
それから私はどうやって自分の席に戻ったのか記憶が曖昧だった。胸が一杯で。
一ノ瀬課長の香りは、香水でも柔軟剤でもない。あの人そのものの香りだ。
そして——私は、その香りが好きだ。