甘く香るあなたと、唯一無二の。
* * *
プロジェクトが始動して数週間。毎日が目まぐるしく過ぎていった。
商品開発部との打ち合わせ、市場調査、試作品のテスト。特に試作品のテストでは、私の嗅覚が大いに役立った。
「この香り、トップノートは良いんですけど、ミドルからラストにかけての持続性が弱い気がします」
「辻さんの指摘は本当にいつも的確だよね」
開発部の担当者が感心したように言う。一ノ瀬課長も、私の意見を尊重してくれた。あの日会議室で最後に「辻、お前の感覚を信じろ。それがこのプロジェクトの強みだ」と言われた。私に期待してくれている、私を信頼してくれている、その実感が私を強くし、前へと進む原動力となっている。
ある日の夕方。残業中、一ノ瀬課長が私のデスクに来た。
「辻、少し休憩しないか」
「え?」
「お前、昼休憩も取らずにずっと働いてるだろ。根詰めすぎ。ちょっと外の空気吸いに行こう」
促されるまま、一ノ瀬課長と一緒にビルの屋上に出た。
晩夏の夕暮れ。空がオレンジ色に染まっている。
「お前、無理してないか?」
「大丈夫です。充実していて楽しいので」
「楽しいのは良いことだが、倒れられたら困るからな」
そう言って、一ノ瀬課長は缶コーヒーを差し出してくれた。
「ありがとうございます」
二人で並んで、缶コーヒーを飲む。沈黙が流れる。だけど、不思議と居心地が悪くない。
「なぁ、辻」
「はい?」
「お前、なんでこの会社に入ったんだ?」
突然の質問に、少し驚く。
「それは……匂いが好きだからです」
「匂いが好き?」
「はい。匂いって、記憶と結びつくじゃないですか。ある香りを嗅ぐと、昔の記憶が蘇ってくる。それが、すごく不思議で、魅力的で。そして――嘘がない」
一ノ瀬課長が、興味深そうに私を見ている。
「私、家族との折り合いがあまり良くなくて。それで、香りに救われたことがあるんです」
「香りに?」
「はい。辛い時、好きな香りを嗅ぐと、少しだけ楽になれました。香りは、私にとって逃げ場所みたいなものだったんです」
そこまで言って、自分が思った以上に素直に話していることに気づく。
「……すみません、変なこと言って」
「いや」
一ノ瀬課長が、優しい声で言った。
「俺も似たようなものだ」
「え?」
「俺の実家が厳しくてな。その上、とんでもなく優秀な兄貴もいて。ずっと親の期待に応えることばかり考えて生きてきた。でも、ある時気づいたんだ。自分の人生を生きなきゃって」
一ノ瀬課長の横顔が、夕日に照らされている。綺麗。
「だから外資系に転職して、今度はこの会社に来た。自分のやり方で、自分の価値を証明したかった」
「一ノ瀬課長……」
「お前にも、自分の価値を証明してほしい。お前は十分、それだけの力を持ってる」
力強い言葉を聞いた瞬間、目頭が熱くなった。一ノ瀬課長は、私を信じてくれている。私の可能性を、信じてくれている。
「頑張ります」
「ああ」
そう言って、一ノ瀬課長は缶コーヒーを飲み干した。その瞬間、風が吹いて、一ノ瀬課長の香りが私を包んだ。まるで一ノ瀬課長に抱き締められているような錯覚に陥りそうで、私も慌てて缶を空けた。
夏の夕暮れ。フローラルで優しい香りに包まれたこの瞬間を、私は一生忘れないだろうと思った。