Un BUTTER
「っ、」
『……実来?きーてる?』
床に敷かれたブルーグレーのタイルカーペットを踏みしめる黒髪の男が。
私の背中へと一歩ずつ近付いてくる。
窓ガラスに映るその風貌だけで、私に威圧感を与えるように。
今の今まで先輩の声音に聞き惚れていたはずなのに。
今日ずっと会いたかったあんたは、やっぱり私にとって特別な男なのだと思い知らされる。
あ、でも超目つき悪い。
多分あれ、めっちゃ怒ってるやつ。
『――――で、だからその時に一緒に、』
「……っえ、あ、すいません!もっかい言ってもらえますか!」
右耳から流れていた先輩の声を聞き逃し、慌てて聞き返した。
本当に、その数瞬くらい窓から目を離しただけ。
「怒ってる?」
左耳から、別の見知った声。
近すぎる声色に、ふと目をやれば、間近に迫る六神の顔。
『え?なに?』
「あ、えっ、」
『誰か、いるの?』
「い、いえっ、いませんっ」
「なあ、怒ってる?実来。」
窓に映る威圧感からは想像できなかったほどの甘い声が、私の左の鼓膜すれすれをかすめる。
六神の近すぎる唇に、自分の身体がこわばるってこういうことかと実感して。心臓が停止しているのかと思うくらいの緊張感で。
右からは朋政先輩の穏やかな声が、左からは六神の甘い声が聞こえるも。残念ながら私の両耳は、両方を聞き取れるほど優秀ではない。
なんでこのタイミングで話しかけてくるかな六神ぃ!
「なあってば。」
「あ、先輩!あの、要因書の件なんですけど、」
「無視るなって」
「税関から、抱き合わせで営業証明も必要だって言われて、」
「みらいー寂しんですけど」
邪魔だじゃま邪魔邪魔!!
なんで、なんだってあんたって男は!
その邪魔なしつこさを、別れる前にしてくれなかったのかなあ?!
とにかくあんたはちょっと黙っててくれと、六神の顔先に左手で待ったをかける。
『……あー営業証明ね〜。ふうんなるほどね〜』
「すいません、お願いします先輩、」
『要因書と一緒にメールすればいい?』
「はい!」
『ふーんふーんどうしよっかなーめんどくさー。』
「えっ?!」
『なんてゆーか実来って、引きが強いっていうか。面倒な仕事に好かれやすいよねえ』
急に雲行きが怪しくなったように、先輩の声色に低さが増す。
内線の時のように、私を馬鹿にしたい欲丸出しの先輩が顔を出し始めた。
なんで、急に。
「俺のこと顔もみたくないくらい嫌んなった?」
まじでさ!あんたはちょっと黙っててくんない?!
私の左手を軽くどかし、尚も耳元に唇を近付けてくる六神。いっそ鼻の穴に指突っ込んでやろうか。
「こ、今回の面倒な仕事は先輩が持ってきたんじゃないですか!」
『ちがうよ?僕が春風に引き寄せられたんだもん。』
「は、」
なんでこのタイミングで春風呼びかなあ、しぇんぱい。
「…………うざ」
六神の小さな暴言が聞こえて、つい私が『ちょっと待ってっていってるでしょ!』と威勢のいい蚊が鳴くような声で反論してしまった。
『ねえ春風、』
「は、はいっ?!」
慌てて先輩の声に耳を傾けるも。
『好きだよ』
――――……私のこの状況を知ってのことか。
なんていじわるなしぇんぱい。
『僕は誰かさんみたいに待てが出来ないほど幼稚じゃないからね?』
「なっ」
『ちゃんとお利口に春風の返事を待ってるよ―――』
異常なくらいうるさい鼓動からの警笛。
なにがなんでどうしてこんな状況に―――。
『またね、未練がましい誰かさん。』
先輩のその一言を最後に、通話は切れてしまった。
そして、私の通話中でも通話後でも平然と話しかけてくる六神は。
「……は?付き合ってんじゃないの?」
などという。
お前の用事なんてお構いなしとでもいうのかこの野郎。
「なあって、付き合ってないの?」
「な、なにが」
「え?は?まだなの?保留中ってやつ?」
「……だ、だったらなんなの。」
「ふうん。」
私の耳から離れた六神が、冷めた目で窓を一瞥する。
で、まるで窓の奥に何かあるのかと思うほど睨みを利かせたと思ったら。
あっという間に、何事もなかったかのように、えらそうな態度で上からものを言う。
「……で?なんで無視んの?俺のこと嫌んなった?」
そっと顔を見上げれば、いつもの六神がそこにいて。
会いたい時には来ないくせに、なんだってわざわざ忙しい時に話しかけてくるのかと反抗の眼差しでお返しする。