Un BUTTER
「吐瀉物《としゃぶつ》事件ん時、『大人ブルー』歌いながら真っ裸で誘ってきたのはどこのどいつだよ?」
……な、だ、誰だよ、その愉快なやつは。
「俺は少なからずお前を大事にしたいと思ったし、」
私も少なからずそう思ってたよ。
でもあんたがそれを思い上がりだとか言って否定したんじゃん。
「お前と俺の初セックスを覚えてないとか心外だし」
職場でセックスとかいう方が心外だわ!
8階からエレベーターに突き当たって、密室になるのを避けるため非常階段から降りようとした。
ここまで無視ればさすがにもう追って来ないだろうと踏んでいたのに。
それでも六神は、私の腕を掴み私に構おうとするのだ。
「なあって。」
非常階段から、7階へ行く途中の踊り場までなぜか私が腕を引かれて降ろされる。
その踊り場の壁に押しつけられて、無理矢理六神と顔を対面させられて。すぐに顔を反らした。
ずっと悪友だなんて言い方をしてきたけれど、本当はどこかで私よりもずっと前を歩いてるんじゃないかと不安だった。
年上で可愛いド清純の彼女という存在がいてもいなくても、いつだって余裕な六神は、今日も私をしゃくしゃくと見下すのだ。
と、思っていたのに。
私がそっと六神の瞳に自分の瞳を合わせれば、そこには見たこともないような憂《うれ》わしげな表情があった。
私と同じ視線にいるのに、六神がやたら私を見上げているかのような食い入り方で。
「……お前と絶縁なんて、無理だから。」
「……え」
いまのは、このひとの声ですか。
朋政先輩ではきっと出せないであろう、振動を感じさせないハスキーな囁きで。
「ほんと無理だから。お前が俺と関わりたくなくても、俺は関わりにいくし。」
「な、」
「ストーカー行為でもなんでも関わりにいくし。」
「 」
声にならない私の今の状態を例えるなら、間違いなく絶句だろう。
「す、ストーカーは、犯罪でしょ。」
「うん」
「私の知っているすーぱー六神は、そんな粗悪品じゃない。」
「スーパーマーケットみたいにいうな」
私の知らない六神を、また一つ経験してしまった。
私に甘えるみたいに見つめる六神は、私のどこかにある母性をくすぐるもんだから、胸のあたりがむず痒くて仕方がない。
触れたい。そのさらさらな黒髪に。
撫でて、「捨てないから大丈夫」って言ってやりたい。
「……な、に、言っちゃってんの。もう彼氏でもないくせに。」
屈折している私で、ごめんね六神。好きだと言えるほどの自信を持ち合わせていなくて。
「うん。友達でも悪友でもなんでもいいから。」
は??大声で泣いてやろうか??
恋人以外ならなんでもいいから。って、そう言ってるんだよあんたは。
「だめ?」
「………」
ついさっきまで、もう駄目だと思っていたのに。
そんな六神の狡いギャップに、安い女は容易くなびいてしまうから私たちのストーリーは無駄に長くなるのだ。
「だめなら、ストーカーに走るか」
「だめ、じゃない。」
「まじで。」
「……ま、まじで。」
その瞳が、瞬間的に見開いて、あっという間に目尻を下げ細まった。
ポケットから何かを取り出した六神が、それを私の頬につける。
「誕生日、おめでと。」
「冷た、」
COSTAコーヒーを渡されて、私が「ありがとう」とお礼を告げれば、満足そうにまた微笑んで涙ぶくろを誇張させた。
形容しがたい感情が芽生えて、自分の感情を理解できないまま私も六神にゆるく微笑み返した。
「あー、めちゃくちゃ嫌われたかと思って焦ったー」
六神が脱力したように言うもんだから、呆れまじりのため息をついた。瞬間だった。
六神の唇が、私の唇に触れる。
不意をつかれた私。
でも六神は、「昼飯まだだったわ。」と自己中心的極まりない余韻を残し、一段ずつ階段を降りていくのだ。
「あ"〜」と伸びをしながら。
一方の私は、形容しがたい感情がさらにシェイクされて、脳がマーブル状の抽象絵画を描き始めていた。
ただ確かなのは、さっき首まで真っ赤だと言われた時には気付けなかった体温が、豪速に上昇しているということ。
さらに午後、まゆゆが“池駒に謝るべきか”を悩んでいる姿を見て、まずは“彼氏を優先してやれよ”と冷静にツッコミを入れた頃。
六神にも心の中でツッコミを入れていた。
ストーカーもキスも、友達と悪友には普通しないでしょう、と。