Un BUTTER
「先輩が部長になったら、皆悪いことできなさそうですよね。」
「なんで?」
「色々見透かされそうなので。」
「部長かあ。組合と敵対するのも大変そうだよね。」
けや木道を通って、農政局の門を通り、大きな木の木陰に車を停車した先輩。パーキングにレバーを入れて、先輩の手がようやく私の右手を解放する。
でも解放されたと思った右手が、再び先輩の手に捕まえられて。そのままさらりと運転席へと引き寄せられた。
「春風、」
寸手のところで、先輩の吐息がかかる。
気付けば、先輩にキスをされていた。
触れた瞬間、驚いて。引き寄せられた体勢から思わず離れかけるも。がっちりと腕と頭をつかまれて、逃してはもらえなかった。
「ん、っふ、」
「口、あけて。」
「ぁ、」
そんな、生易しいものじゃない。朝見た、彼女が六神にしたものとは違う、濃厚で脳が溶かされそうになるキス。
先輩の舌先が冷やっとするのと、喉奥をまさぐられるような生温かさが、交互に私を翻弄する。
慣れてる、とかではなく。どこか動揺をひた隠しにするような劇しい舌先で。そんな先輩を突き放せない私は、されるがままそれを受け入れてしまった。
最後に私の下唇を甘噛みしてから、私を解放する。私を見つめる瞳は、あまりにも真っ直ぐで反らせそうもない。
「好きだよ。」
「っ……」
「めっちゃ好き。」
砕けた言い方なのに、先輩の言葉がすんなりと身体に入ってくる。
こんなに真っ直ぐに想いを伝えられるなんて、やっぱりスパダリのスキルは計り知れない。
「……なんで、わたし、なんですか。」
「え?」
「先輩くらい優秀な人が、なんで私を好きになるのかなって。」
先輩がどこかホッとしたように微笑んで、私の頭をふわりと撫でた。そのまま髪を滑らせて、また私の手に触れる。
「実来はさ、誰にでも突っ込んでいく癖に、その姿勢が適当じゃないんだよ。」
「え?」
「人に対して、ちゃんと誠実な向き合い方してる。」
「そ、そうかな。」
“めっちゃ好き。”という砕けた言葉とは違って、ちゃんと理窟を通した言葉が出てくるもんだから、思わず面食らう。
「前さ、若い事務の子がミスして、部長に怒鳴られてたことあったじゃん。」
「ああ、忘年会で泣いちゃった、彦坂さん。」
「そうそう。」
当時、まだ一年目だった彦坂さんという後輩が、輸出先の港を間違えて船を予約していたことがあり、シップバック(出戻り)になったという事件があった。
部長が彦坂さんを怒鳴りつけ、たまらずその場で泣いてしまい、その後の忘年会でもずっと泣いていたから私がなだめたのだ。
「部長も部下のミスを背負って仕事をしていて、それをさらに背負っているのが支部長でって。実来は上の責任の重大さを彼女に説明してたよね。」
「……そう、だったかな。」
「頭ごなしに怒る部長も冷静になった時、きっともっとこう注意すればよかったと思えるはずだから、彦坂さんが自分の後輩に注意する時は客観的に注意できるといいよねってさ。」
確か三年ほど前の話だったと思う。私もまだ二年目の癖に先輩づらしていて、それが朋政先輩に見られていたかと思うととんでもない羞恥だ。
「慰めるって、その人に同調すればいいって思ってたけど。この先、後輩が厳しい社会でもやっていけるような慰め方してる人、初めてみたんだよね。」
そこまで聞いて、あ、と自分の声が漏れる。
そんなにも私のこと、ちゃんと見てくれていたなんて―――――……
「どう?“めっちゃ好き”になるには充分な理由じゃない?」
先輩は困ったように笑うけど。
私はただ、涙が溢れていた。
ずっとずっと、いつから我慢していたのだろう。
いつから涙を呑むことに馴れてしまっていたのだろう。
六神に彼女ができたと知った時も
六神に、『悔しかったらド清純になってみ。』って言われた時も
六神の家から深夜に一人で家に帰った時も
一人でビール飲みながら愛憎ドラマを見ている時だって。さっさと泣けばいいのに、わざと感動ものを避けるようにして泣くことから逃げていた。
今日も朝から馬鹿みたいに泣きたくなったのに、馬鹿みたいに泣けない私はこのままどうなるんだろうって。
私、強くなんかないよ池駒。
ただ弱い自分を受け入れてもらえないのが怖くて、もしかしたら強い私しか受け入れてもらえないんじゃないかって。意地を強さと履き違えるくらい不器用で。
六神が絶縁したくないのは、強い私なんじゃないかなって。私がすぐに泣く面倒な女だったら、きっと悪友にすらなれていないんじゃないかって。
彼女になれなかった“見合わない”女は、いつだって六神の基準値を下回らないよう必死で。
だって私、六神に“好き”だなんて言われたことがないから。
先輩に身を委ねてしまいそうになるのは、先輩がなんの躊躇いもなく好きだと言ってくれるからだ。
弱さを見せても、きっと受け入れてくれるだろうって。待ち構えるかのように大きな受け皿があるから、私はきっとそこに飛び込めるのだ。