Un BUTTER
「だから、お母さんのことも含めて、もう少しゆっくり考えてほしい。」
そう言って先輩は私の頬にキスをして、また頭を撫でてくれた。
結婚となると、もっと現実的に、打算的に考えていかなければならないのだろう。ただ好きだとか嫌いだとかでは済まされない。
もうずっと前から私のことを好きだったと言ってくれている先輩は、私が六神と付き合っていた時、一体どんな気持ちでいたのか。
それを思うといたたまれなくなる反面、事前に結婚を視野に入れて欲しいとあえて告げる気持ちがなんとなく理解できてしまう。
もし先輩の告白をOKするのであれば、もう後戻りはできないのだと。そういうことなのだろう。
農政局と書かれた、古い5階建てほどの建物内に先輩と入っていく。窓口で、警備員さんに訪問時間と訪問内容を書くよう促された。
許可証をもらうと、小さなロビーを抜けた先に、証明書受取の事務所があった。中に入れば入口にはカウンターがあり、奥には20人くらいの職員がパソコンに向かって静かに仕事をしている。
「こんにちは。何かご用ですか?」
失礼ながら、おじさんよりもお爺さんに近いくらいの男性がカウンターの前に来てくれた。
その職員さんに、メールを打ち出した文書と名刺をみせた。
「央海《おうみ》倉庫の実来と申します。代理申請で輸出証明書を受取りにきました。」
「ああ、申請おりてましたね。ちょっと待って下さいね。」
農林水産省管轄である農政局で働く職員は、国家公務員にあたる。
採用試験はとんでもない倍率だから、きっとここで働く人たちは相当優秀なのだろう。
そうこう考えているうちに、職員さんが証明書を出してきてくれた。
「あ、これで合ってます。ありがとうございます!」
受け取った証明書の内容を確認し、職員さんにお礼を告げれば、彼が私の名刺を見つめて言った。
「ああ、央海倉庫さんて。あの横浜港にある、」
「そうです。」
「てことは、もしや六神君と同じ支店かな?」
「………は?」
唐突に出てきたその名前に、先輩と顔を見合わせた。
「違ったかな。確か彼、横浜支店に配属になったって聞いてた気がするんだけどな。」
「六神、って。六神千都世、ですか?」
「そうそう。女の子みたいな名前だから印象深くてね彼。」
そんなけったいな名前のヤツ、男でも女でも他にいてたまるか。と心の中でツッコミを入れて。その間にも先輩が職員さんに聞き返す。
「六神は確かに横浜支店で営業を担当しております。もしかして仕事でよく連絡を取り合っていらっしゃる方ですか?」
「仕事?ああ、仕事でも確かにお宅とは連絡取ることもあるけど。もしかして、六神君にはなにも聞いてない?」
「え?まあ、僕は六神とは話をするほど仲良くありませんので。」
先輩がとびきりの笑顔で職員さんに言い放った。
職員さんが苦笑しながらも、私と先輩を交互に見る。
「六神君、前はここで働いてたんだよ。」
「「………え」」
「せっかく約50倍って倍率の中採用されたのにね。そちらさんに転職するからって、退職しちゃって。」
六神が……?国家のお膝元で?
50倍もの倍率で公務員試験を勝ち抜けたのに?
辞めた――――?
私は絶句なんかよりも、ずっと酷い顔で驚いてしまったらしく、職員さんに、「なんか目が死、据わってるけど大丈夫?」と聞かれてしまった。
ただでさえうちの会社の中途採用で、20倍もの倍率で入社しているというのに。それ以上の狭き門をくぐっておきながら、なぜ辞めてしまったの?
農政局からの帰り道、さっきまでとは裏腹に、急に黙り込む先輩がそこにいた。
一方の私は六神の事実に凝縮して驚愕しすぎたのか、早くも心臓が、「あ、そうだったんだ。」ほどのペースに落ちてきていた。
「……びっくりしましたね。まさかあいつの前職が農政局だったなんて。」
「……だね。」
「なんで辞めたのかな。あ、若くて可愛い女の子がいなかったからかな。」
「てかさ、」
先輩がハンドルを切るタイミングで、一旦言葉を呑んだ。
「付き合ってたのに、なんで実来は六神君の前職知らないの?」
「え、」
「付き合っていなかったとしてもだよ?タメなんだしそういう話くらいはするでしょ。」
「そりゃ私だって何度か聞いたことはありましたよ?でもあいつはフリーター兼Vチューバーっていつも言ってたし。」
「馬鹿なの?」
「馬鹿ですよ、あいつ。」
「そうじゃなくてさ」
はあ、と信号待ちをしながら大きくため息を吐く先輩。横目で私を見る目は、なぜか尖っている。
「実来と六神君て、同じ大学だったんだよね?」
「はい、学部も一緒だったんですけど。でもあの頃は名前すら知らなかったんで。話した記憶さえないですね。」
ただ私は学生時代の事実を述べてるまでで。だからこそ六神が新卒で入社した会社すら知らなかったというのに。
なぜか先輩は、それが気に入らないとでもいうように「ふうん。」などといじけていらっしゃる。
そんな先輩は理解に苦しむので、可愛いなどとは決して思わないよう努めた。
「せめて僕も実来とタメだったらよかったのになー。なあぁ〜〜。」
くう、スパダリの甘えたがどうした実来!
鼻から深呼吸をして、絆されないよう息を整えた。
「春風、まじな話、」
「はい?」
「六神君には気をつけてね?」
「はいい?」
「彼、思った以上にゆがんでるわ。」