Un BUTTER


「……じゃあ聞くけど」

「うん、」

「男が女のために転職しちゃだめなんですかー。」

「え?」

「男が好きな女がいる会社に転職して、なにが悪いんですかーー。」

「………」


だって、じゃあ、なんのための公務員志望だったの?

というか、それって、わたしのこと?


「農政局は、まあ俺、成績優秀者だったし?ゼミの教授に薦められて。もし受かればうちの大学の知名度に貢献できるからとか言われて」 

「もしかして、ゼミって、」

「佐渡《さわたり》ゼミ」

「……ああ。」


思い出したくもない名前が出てきて、六神に悟られないよう視線を外す。


佐渡ゼミというのは成績がオールAに加え、何かしら資格なり功績がないと入れないエリートゼミだった。佐渡教授が公務員にコネクションがあるそうで、ゼミに入りたい生徒もそれなりに多かったはず。

自分の瞳が今にも潤んでしまいそうなのを、どう隠せばいいのか。でも六神が私の頬をつねって助けてくれるから、無理に笑うことができた。


「最初は農政局に内定もらって、周りに散々もてはやされて、俺も浮かれてたんだけど。」

「うん」

「仕事で、たまたまお前と電話で話す機会があってさ」

「……うそ、」

「ほんと。ほら、全然覚えてない。」

「え、ええー」

「いつもそう。お前は俺が覚えててほしいこと一つも覚えてない。」 

「……さーせん。」


どうやら私たちは、輸出証明のことで一度だけ連絡を取っていたらしい。六神は代理申請者である私のフルネームを申請データで見て、央海倉庫で働いていることを知ったのだとか。


「って、じゃあ六神は。え?大学の頃から私のこと知ってたってこと?!」

「ほらね、いつも俺だけが俺だけが」

「あーーきこえなーい。」

「あと、あんま、ぶり返すのもよくないと思うんだけど。」

「何?」

「春風、大学ん時さ、トイレで、盗撮されたことあったよね。」

「……ああ、あったね。」
 

大学という世界は広いもので、一時期盗撮事件が相次いだことがあった。私もその被害者の一人で、女子トイレの個室を狙って、頭上から撮られるなんてことがあったのを覚えている。


当時は若いのもあってか、あまりのことにショックを隠しきれず、信頼していた人に助けを求めたけれど。その人はその事件以来、私を面倒だからと邪険に扱うようになってしまって……

正直、盗撮されたことなんかよりも、その人に裏切られたことの方がよっぽど辛く、苦しかった。まさか六神にあの時のことをほじくり返されるなんて。六神には、知られたくない事実だ。 


「俺、ほんとたまたまなんだけど。他の生徒が盗撮されそうになってるとこに居合わせてさ」

「そう、だったの?」

「で、その盗撮者捕まえたんだわ。」

「え?うそ!あれって。六神だったの?!」

「ああ、はは。もう今さらね、なんも知らないのかよ、なんてツッコまないし。」

「で、ですよね。」


六神が冷めた目で私を見上げて、それからすぐに微笑みかけるから、その大好きな顔がどうしようもなく愛おしくて見とれてしまう。


学生課からだだっ広い掲示板に貼り出されたA4用紙には、人目を惹かせるには謙虚すぎるほどの小さな文字で。『盗撮者が無事、学内生徒により捕らえられました。』との報告を見たのを思い出す。


「あの時春風、俺に手紙書いてくれたよね。」

「あ、うん。そう。どこの誰かは知らないけれど、学生課の人から渡してもらうようにお礼の手紙書いたの。」

「盗撮されたやつ何人かいた中でさ、お礼の手紙なんて書いてきたやつ、春風くらいだよ。」

「だって。捕まえられたって知って、安心したし。お礼くらい言いたくなるよ。」

「うん。だから俺は、そんなお前が忘れられなくなったんだよ。」


わずかな隙間に残る、お互いの吐息。この距離感に、私はずっと惑わされてきて。

ずっとずっと前から私を知っていてくれたことに、私を想っていてくれたことに理解が追いつけば。軽いと思っていた私たちの始まりが、途端に鮮明さを伴い彩りを咲かす。

 
「私、手紙の最後にフルネーム書いたのに」

「うん、夜空みたいな便箋でね、背景紺色だからめっちゃ文字が見にくくてね」

「私のこと、知ってたんなら。なんで話しかけてくれなかったの。」

「……笑わない?」

「場合による。」

「当時の俺に、そんな勇気はなくてだな、」

「………」

「むしろ笑ってくれて構わないんだけど」


六神という存在が確かに在籍しているのは知っていて、同じ授業を選択していた友達が六神を見て、「かっこいいけど話しかけにくいオーラがあるよね」と言っていたことがある。

勇気がないとか、今では大手企業を相手にする六神からは想像もつかないけれど。大学生の頃の勇気のない六神を知らないことが悔やまれてしまう。

 
「自分の仕事を放棄してまで、春風に会いにいく俺は、男として駄目な男?」

「だめ、なわけ。ないよ」

「転職したとこで、同じ支部で働けるかどうかも分からないのに。それでも一縷の望みにかけた俺って、軽蔑されない?」

「されるわけ……ないじゃん。」

「重いって思われるのが怖くて、春風には言えなかった」

「重くたって、いいのに」

「やっぱ重いんじゃん」

「………」



「お前と俺の初セックスを覚えてないとか心外だし」

 
会社で言っていたあれは、六神にとってきっと凄く重要なことで。私がそれを覚えていなかったから、吐瀉物事件の時は本気で怒っていたのだろう。

付き合っている時にずっと塩対応だった六神がなんで塩だったのか、分かった気がする。きっと、六神は重いと思われたくなくて。

なにもかも覚えていない塩なのは、きっと私の方だ。


「重いと思われたくないから、あんまメッセージも送れなかったし」

「うん、」

「重いと思われたくないから、電話もあんまできなかったし」

「うん。でも、私は寂しかったし。」
 
「うん。駆け引きしすぎたせいで、お前は今にも課長のとこいきそうだし。」  


六神がまた、縋るようにぎゅっと私を抱きしめる。私はその湿った髪を撫でながら、六神を安心させようと試みた。


「大丈夫。どこにもいかないから。」


さらに強く、抱きしめられる。


「うん、」

「だから、千都世もどこにもいかないで。」

「うん。いかない。」


静まりかえれば、入口の方にある私たちのかばんから、スマホの振動音が聞こえてくるも。

もうどちらも気に留めなかった。


「はるか」

「……なに」

「大好き」


六神はそれだけ言い残して、私の胸の中で眠ってしまった。
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