Un BUTTER
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あの時の春風を、俺は見ていた。
春風を意識し始めてからの経過といえば、水絵との縁を切った経緯よりもさらに深くなる。
俺が吐いた嘘は、嘘よりもずっと執着まみれの醜悪なもので。
そこまで自分を突き動かしたものが、たった一人の春風という同級生でしかないのだから、俺はしっかりゆがんでいるといえてしまう。
春風の最初の印象は、ウザいでしかなかった。なんせ何百人といる生徒の足止めをする質問魔なのだから、迷惑な女以外の何者でもない。
しかも春風は、佐渡教授と関係を持っていた。
法学部棟の最上階にある研究室フロア。たまたま他の教授の研究室にレポートを提出しに行った時。周りを気にしつつも、どこか恥ずかしそうに佐渡の自室に入っていくのを見かけたことがある。
そのドアの前を、息を殺して通れば、男女の息づかいが細くも聞こえてくれば、当然嫌悪を抱かずにはいれない。
第三者の俺からすれば、普段は純粋の皮を被った、教授に取り入る悪女にみえた。
取り入るためにあいつはあんなに質問をしているのかと。授業を中断してでも質問すれば、他の生徒のためにもなるとか、菩薩思考で周りからの評判も上手くかっさらっていって。
コミュ力のない俺には、春風への妬みも入っていたんだと思う。
まだ夏休みに入ったばかりの校内はいつも以上にだだっ広く感じた。
掲示板にはそこらじゅうに痴漢注意の貼紙が貼られていて、喚起を促す原色の色合いがさらに暑さを助長させている。
通関士の試験を受けていた俺は、無事合格し、資格センターから呼び出しを受けていた。なんでも資格援助の一つとして、図書カードが貰えるらしい。それを受け取りに来ていた。
人のいない校内は、閑散としていながらも穏やかな空気が流れていた。
だから、研究室から出てきたゼミの佐渡とそれを追いかけていく春風の姿が目立ってしょうがない。
ただならぬ雰囲気に、ネタを補充するためにも観察することにした暇な俺。
駐車場までついて行ってみれば、セミが騒がしく合唱する中、彼女の必死な声が聞こえてくる。
夏の陽炎に目眩を覚えながらも、佐渡がなぜか金を渡しているのが見えた。
でも春風は躊躇して、一向に受け取る様子はなく。しぱらくして佐渡が何か言ったのをきっかけに無理やり手渡されていた。
その場で立ちすくむ春風は、膝丈のワンピースを着ていた。今思えばあの頃はよくスカートも履いていた気がする。
明らかに悲壮感を抱いている様子の彼女。
足取りがフラついていて、今にも倒れるんじゃないかとまた俺は後をつけた。
法学部は他の学部から棟が離れていて、春風はまた入口から遠い法学部のある方へと戻っていく。きっと目的なんてなかったんだと思う。
法学部まで行く途中、森のような広場にはカフェがある。夏休みのため当然営業はしていなく、気付けば春風がカフェの裏手にあるベンチに座っていた。
あんなに嫌悪感しか抱かなかった女の後をつけるなんて、ただネタだけを求めていたわけじゃないのだろう。その嫌いな女が弱っている姿を確かめたかったのかもしれない。
自分は暑さで汗を掻いているのに、ベンチに座る彼女の青白い顔と佇まいは暑さとは程遠いものに思えた。
このまま見ているのは悪趣味だと感じ、帰ろうとした時だった。
すすり泣く声が聞こえてくる。
振り返り春風の方を見れば、両手で顔を覆い、泣いていた。
最初は微かなすすり泣きだったが、徐々にしゃくり上げるような泣き声へと変わっていく。
目が離せなかった。うしろ髪を引かれるような彼女の泣き声が、耳が記録するかのように耳に残されていく。
いつも周りに明るい表情しか見せない彼女が、今は俺だけに泣き顔を見せている。俺と彼女だけのこの空間で。
抑揚のない言い知れぬ感情が、沸々と音を立て始める。
ギャップに愛しさを感じ始めて、並行して湧いてくる独占欲。俺だけが知る彼女の裏側。
悪女なんかじゃなく、一人の弱い女の姿をただ俺だけのものにしたいだなんて。自嘲癖のある狂った男のような感情を抱いてしまった。
自分の手が勝手にスマホをかまえていて、拡大までしてその泣き顔を画面に収めた。
かわいい かわいそう 美しい かわいそう 俺だけが見ている 俺だけのかわいそうな彼女
正直、その時の俺に彼女を慰めようだなんて頭はなく、ただ聖域のような春風の姿に見惚れるばかりだった。
しばらく泣き続けた彼女は、入口の学生課や教務課のある棟へと歩いて行った。