Un BUTTER
後期の始まる直前、夏休みの終わり頃。
ゼミの佐渡に呼び出され、再び大学に来ていた俺。午後からバイトがあるっていうのに、朝から直接会ってどうしても話したいことがあると言われた。
「……は、農政局?」
「ああ、僕の先輩が今農政局の局長をやっていてね。斡旋とまではいかないけれどパイプはあるから。優秀な生徒に毎年こうして声掛けをしているんだよ。」
「でも農政局って相当な難関でしょ。いくらパイプといっても最初の試験に通らないことにはどうにもならないと思うんですけど。」
「まあ正直な話、農政局に採用された直近の生徒は、もう4年も前になるんだよ。」
毎年農政局の行政枠(一般枠)の採用人数なんて10人にも満たないし、倍率でいえばとんでもない数字になる。
佐渡は大学の知名度に貢献できるからと言っていたが。恐らく、もし佐渡のゼミから農政局内定者が出れば、佐渡の評判と評価が上がるのだろう。
そこまで読んでいた俺だったが、別に農政局の仕事に興味があるわけじゃないため、その場で断った。
帰り、涼しい法学部棟から外に出るのが嫌になり、一階の自販機で缶コーヒーを買っていると、非常階段から上へと昇っていく眼鏡の生徒が目についた。
手ぶらで、この夏休み期間に何しに来たんだと思いながらも、ロビーの椅子に座りスマホを取り出す。
ここ毎日、ずっと彼女のことが頭から離れず、気付けば画像の彼女を見つめていた。
半ばストーカー行為のようなやり口に罪悪感を持つこともなく、ただ春風の泣き顔に恋をしていた。
非常階段の二階から、さっき上へと昇っていった眼鏡の男がスマホを片手に早足で降りてきた。
忘れ物でも取りにいったのかと見ていれば、今度は非常階段から誰かの叫び声が聞こえてくる。
「ちかんよッ!そいつをつかまえて!!」
女二人組が慌てて降りてきて。逃げようとする眼鏡の男に向かって、俺は咄嗟にまだ開けていなかった缶コーヒーを投げつけた。
「待てッ」
見事そいつの頭にクリーンヒットし、俺は取り押さえることに成功した。
その眼鏡の男はトイレ盗撮の常習犯で、外部からの人間だということが後日判明した。
学生課からは感謝状が送られ、それには春風からのお礼の手紙も添えられていた。
わざわざ手紙を書いてくるなんてマメなやつだな、と末尾に書かれた名前を見れば、自分がスマホに収めた女の名前なんだから驚いた。
それから俺はさらに、春風に恋心を抱いた。と同時に、佐渡への嫌悪をつのらせた。
なぜ泣かせたのかは知らないが、金銭を押しつけるように渡している現場を見れば、当然普通の恋人の別れ方じゃない。
それから後期が始まり、何度か研究室のあるフロアに足を運べば、また違う女生徒が佐渡の研究室に出入りしているのだから、俺は佐渡に嫌悪から憎悪をつのらせるようになった。
だから俺は、佐渡を陥れるために農政局を受けることにした。
内定が貰える確証なんてない。パイプがあるといっても、最終選考までいかない限り有利に働くものでもないだろう。現に内定を貰えた生徒がいたのはもう4年も前の話だ。
それでももし俺が入社できたら、一年で辞めて、佐渡の評判を一気に落とし、パイプごと切ってやろうと考えていた。
どこの企業だって、部下が辞めるのは上司の責任だ。部下がたった一年で辞職すれば上司の評価は当然下がる。その部下が元佐渡ゼミの生徒なのだから、当然佐渡の評価も落ちる。農政局の局長と佐渡との間にあるパイプも弱まるはずだ。
うちの大学には課外講習というのがあって、公務員試験に向けた試験対策を、外部からきた教師がカリキュラムを組んで授業外に行うというものがあった。
当然別料金にはなるが、特に趣味もない俺は、バイトである程度貯金があったため、公務員試験対策のカリキュラムを受講することにした。
その試験勉強中も頭の中には、春風の泣き顔と、佐渡への憎悪しかない。
トイレの盗撮事件の時に居合わせた女子二人組のうち、一人に告白されたが、好きな人がいるからと断った。
そこまで言っておきながら、春風本人には声を掛けられない俺のヘタレさ。
その時に声を掛けられていたなら。こんな面倒な回り道なんてすることもなかったのかもしれない。
農政局内定までの道のりは予想以上に大変だった。
目指している地方農政局の採用人数が、その年に限ってたったの7人で、どれだけストイックに勉強や面接対策をしてたって受かる気はしなかった。やればやるほど足りないと感じる日々。
それでも無事、一次試験である筆記は合格した。
一次試験の倍率は3倍程度だったが、そこから官庁訪問や面接で一気に絞られていくため、そのための対策で4年生の夏休み期間も何度も就職センターに訪れていた。
そこまですることに意味はあるのか、だなんて自問したことは一度もない。自分のためにここまで必死になれたことなんて過去に一度もないというのに。
ただ農政局に入社したとして、辞職理由なんて何も考えていなかった。
「梨添《なしぞえさ~~ん》!わたし、もう一生決まらない気がする!生きてけないっ」
面接対策のため就職センターに訪れていた俺が、カウンターで職員と話している時だった。
就職センターの入口から死んだ魚の目でゾンビのようにふらふらしながら入ってきたのは春風だった。
カウンターにへばりつくように倒れて、梨添と呼ばれた女性職員が春風の元に寄る。