Un BUTTER
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水絵さんに勝手に連れて来られた小動物カフェを出て、近くの駅まで行けば、そこは東京本部に近い駅だった。
水絵さんから聞いた六神を脅していたという真実に、私はいてもたってもいられなくて。
怖い気持ちは痛いほど分かる。隠したい気持ちは痛いほど分かる。
私も六神に面倒な女だと思われて嫌われるのが怖かった。
水絵さんという彼女がいる手前、自分が少しでも六神に未練を残していると思われるのが怖かった。
その分悲しかった痛みも大きいけれど、それを凌駕するほど今は六神を愛する気持ちでいっぱいだ。
あの時、泣いていた私を見つけてくれたのが六神でよかった。
弱い私に、ずっと前から気付いてくれていたのが六神でよかった。
六神を好きになってよかった。
無駄な時間と水絵さんには言われたけれど、自分の選択は全てが全て間違ったものではなかった。彼女にも、ある意味お礼をいうべきなのかもしれない。
邪魔して頂いたお陰で、私は今こんなにも六神を大切にしたいと思えるのだから。
だから、けじめをつけなければならない。
『はい、』
「あ、先輩、」
『お疲れ実来。そっちから電話くれるなんて珍しいね。お兄さんに会いたくなっちゃった?』
穏やかな先輩の声が胸に染みる。
声だけで呑まれてしまいそうな雰囲気に、私はスマホを持つ手に力を込めた。
「先輩、お話があります。」
東京本部に近い、観光用の港エリアに私は来ていた。
今私の腕には、水絵さんから渡された腕時計がつけられている。
「実来!遅くなった!」
「先輩、お疲れ様です。おつかれのところすみません。」
柵で隔てた海を前に、先輩が私の元に駆け寄ってくれる。
食事に誘うわけでもなく、ただ人の少ない場所に誘って話をするだなんて、勘のいい先輩なら気付いていることだろう。
「……で?話って、なに。」
柵の前に立つライトグレーのシャツ姿は、今さっき仕事を終えたばかりとは思えないほどシワもなく綺麗な状態だ。
今、初めて感じたかもしれない。この人、こんなにも綺麗な人だったんだなと。
新人の頃は、緊張と厳しさのあまりそう思う余裕すらなかった。周りからはスパダリだと言われていても、先輩に近い存在だった私は彼の本質みたいなものばかりに目を向けていた。
「僕と結婚する気になった?」
「へっ?」
「僕にプロポーズしに来たんでしょ?」
今日もいじわるなことを言う先輩の顔は、笑顔でも夜に近い空色のせいか、少し寂しげに見えた。
「先輩、わたし、」
「ん?」
「すみません!」
ほどよく波が立つ中、私は頭を思い切り下げた。
「私やっぱり、六神のことが好きなんです!」
拳の中が汗ばむ中、ゆっくりと顔を上げれば、波風になびく髪が先輩の表情を翳らせた。
「……うん。」
「だから、先輩とはお付き合いできません!ごめんなさい……」
「そっ、かあ。」
笑顔を見せる先輩が、どこか脱力したように肩でため息を吐く。膨らむ喉元が大きく動いて、私に近寄った。
「……六神君のことが好きなのは知ってたけど。ああ、実際に口にされるとこうもキツイかー」
「せんぱ、」
「みらい」
先輩が私を抱きしめる。
細身な身体がもたらす途方もない包容力は、いつだって私を助けてくれた。
「春風……」
微かな吐息を乗せた私を呼ぶ声。弱々しいほどのそれを耳元で囁かれて、どうしようもなく泣きたくなった。
「せんぱい、ごめんなさ」
どんなに厳しいことを言われても泣かなかったのに、彼の優しさに絆されて、あっという間に泣かされた私。
今だって馬鹿みたいに泣いている。
「春風。はるか―――……」
いつも好き勝手に言葉を並べる先輩が、何度も私の名前を呼んだ。もう二度とこの名前を呼べないのかと、惜しむように。
私はいつだってそれには返せなかった。“青司さん”と、名前を呼んで返すことが。
「春風、ちょっと痩せた?」
「え。そ、そうですか?」
「なんか前よりおっぱいの当たりが弱いかなって。」
「……先輩って、ほんとぶれませんよね。」
「春風もね。」
私を離した先輩の口角が、色っぽい狡猾さを見せる。
「ほんとぶれなくて、嫌んなる。」
「え」
「僕に染まらない春風のこと。」
私の髪を手ですくようにしてから、濡れた頬に添えた。
「覚えておいて、春風を3回も泣かせたのは僕だってこと。」
「先輩、2回目は私、味八フーズの堀田さんに泣かされたんですけどね。」
「なら堀田さんは僕のブラックリストに追加しとくよ。」
「いい人なんだからやめてください。」
そんなどうしようもないやり取りの中、乾いた風が吹く。
「愛してるよ。」
風で乾いた唇に、余韻を残すようなキスをされて。
私は先輩から卒業した――――……