押しかけ婚のはずが――隠れSな御曹司は激愛欲で絡めとる
一、切羽詰まった状況
【愛するユノ。日本へ戻ってしまい、寂しい。会いたい。時機をみて君を第三夫人として迎えに行くよ】
送られてきた英語で書かれたメッセージに、ドクッと心臓を跳ねさせ、すぐさまスマートフォンをポケットに戻す。
どうして……私の連絡先がアフマーン氏の手に渡ったの……?
私、中(なか)山(やま)柚(ゆ)乃(の)は、東(とう)京(きょう)の『リュクス・グランホテル』でコンシェルジュとして勤務する二十七歳。
三カ月前の六月までは、ドバイにある系列の五つ星ホテルに出向していた。
リュクス・グランホテルは新(しん)宿(じゅく)に佇む、都会の喧騒の中でも静寂を提供する特別な場所だ。
一歩敷地内に足を踏み入れると、周囲の高層ビル群とは対照的に、緑豊かな庭園が広がり、鳥のさえずりと水のせせらぎが心を癒やしてくれる。
リュクス・グランホテルは、日本のお客様のみならず、世界中から訪れるゲストにも評判が高い。
モダンなデザインと伝統的な和のエッセンスが融合したインテリアは、上質な空間を演出しており、とくに大きな窓から見える庭園の景色は、忙しい日常からの逃避を感じさせてくれる。
ドバイに住む大富豪のアフマーン氏はリュクス・グランホテルグループの上顧客で、私がドバイでの勤務中にたまたま対応したことからなぜか気に入られてしまい、帰国する二カ月ほど前からふいに現れては口説かれていた。
〝第三夫人〟ということは、第一夫人、第二夫人がいるに違いない。
それにアフマーン氏は、私の父親くらいの年齢だ。
日本人の私が既婚者と結婚するなんて法律的にもありえないと思うけれど、もし彼の国へ連れていかれたら、第三夫人にされてしまうかもしれない。
先ほど届いたメッセージは、背筋を凍らせるに充分だった。
「柚乃、どうしたの?」
以前同じドバイのホテルでフロントを務めていた真(ま)佳(か)奈(な)さんが、コーヒーと焼き菓子をのせたトレイを運んできたところで、私の様子がおかしいと気づいたのか尋ねてきた。今日は仕事の休みを利用して彼女の自宅にお邪魔している。
真佳奈さんと一緒に働いていたのは六カ月ほど。
当時、東京からドバイに出向したばかりで右も左もわからない私に、とても親切にしてくれた。
彼女が帰国してしまったときは寂しかったけれど、半年間教えてもらったおかげでなんとか仕事に慣れることができ、二年間の出向期間を無事終えられた。
彼女は在ドバイ領事館の総領事を父に持つ関係でエリート外交官の月(つき)城(しろ)尚(なお)哉(や)さんと出会い、日本に戻って結婚した。
ふと、彼女も以前ドバイで、王族の親戚だというハーキム氏から病的なほどプロポーズされていたことを思い出す。
「真佳奈さん、じつは……」
ポケットからスマホを取り出し、先ほど受け取ったメッセージを彼女に見せた。
真佳奈さんは英文にサッと目を通し、あきれたように声をあげる。
「第三夫人って、このメッセージの送り主は誰? そう言うからには向こうの人……かしら?」
「アフマーン氏って覚えていますか?」
「……ええ。たしか純金の取引では並ぶ者がないって言われている人よね? このメッセージ、本当に彼からのものなの?」
「はい。帰国する二カ月ほど前、カンドゥーラにコーヒーがかかってしまったところを助けてから、しつこく誘われるようになって。上顧客だからやんわりと逃げていたんですけど、どうやってか私のアドレスを入手したみたいで。このメッセージを受け取ったとき、本当に驚きました。というか、正直恐怖を感じています。ドバイでは悪い噂もあって……父ほど年が離れていますし」
「このメッセージが冗談だったらいいのにね……でも、わざわざ調べて送ってきた以上、本気の可能性は否定できないわ」
真佳奈さんは憂慮の表情を浮かべ、スマホから目を離した。
「普通だったら、解決策は柚乃が結婚するのが……いいかな。でも、考え方が違う人たちだから、一概にはそうだとは言えないけど。私の場合、結婚しているにもかかわらずあきらめなかったくらいだったわ。せめて柚乃に恋人がいれば……」
真佳奈さんは私を見て、ふっと笑みを漏らす。
「柚乃は、誰が見てもかわいいものね。目鼻立ちがくっきりしていて、その黒髪もまるで絹糸のようにつややか。スタイルもよくて、華奢だけど芯の強さを感じさせる。あなたが笑うと、周りがぱあっと明るくなる感じがするの」
「え? そうでしょうか」
「ええ。あなたの明るさが周りの人たちにも伝わってみんなが笑顔になるのよ。まあ、今はちょっと暗い表情だけどね。その件、久(く)世(ぜ)支配人に相談してみたらどうかしら?」
「久世支配人に……?」
我がホテルで異例のエリートコースを走っている、眉目秀麗でものすごく仕事ができる男性の姿が脳裏に浮かぶ。
あまりにやり手だからかどこかのホテルの御曹司らしいという噂があり、女性たちからも絶大な人気を集めている人だ。
「ええ。若いながらも支配人になっているくらいだから、きっといい案を出してくれるんじゃないかしら? たしか……三十代前半だったわよね。六十代の総支配人に相談するには、この手の話は少し難しいだろうし、おいそれと言えないわよね。とにかく、相手が仕事に影響を及ぼすような人物だから、久世支配人が適任だと思うの」
私がリュクス・グランホテルに入社しフロント業務についた当時、久世支配人は副支配人だった。
彼に初めて会ったのは、新人研修のときだ。
リュクス・グランホテルのエントランスは豪華で、威厳ある雰囲気に圧倒され、何度目かの入館なのにドキドキ鼓動を高鳴らせたのを思い出す。
最初の研修日の朝、久世咲(さく)也(や)副支配人が研修担当として自己紹介をした。
彼は若いながらも自信に満ちた態度で、目を引く存在だった。
『ここでは、何事もお客様目線で考えることが大切です。それがリュクスの流儀です』
久世副支配人の声には落ち着きがあり、私たち新人は全員静かに耳を傾けた。
研修の一環として、接客ロールプレイングに移った。
お客様役を演じる久世副支配人が、意地悪なクレームを持ち込む設定で、私は初めて真剣に接客スキルを試されることに。
『中山さん、どう対応しますか?』
久世副支配人に少し冷たい口調で問いかけられ一瞬戸惑ったが、深呼吸して落ち着きを取り戻す。
『お客様のお気持ちをまず真(しん)摯(し)にお伺いした上で、解決に向けた提案をさせていただきます』
そう口にすると、久世副支配人の目が少しだけやわらかくなった。
そして研修が終わった後、久世副支配人が近づいてきて言った。
『中山さん、今日の対応、悪くなかった。だが、次はもっとお客様の表情に注意してみてくれ。なにが言いたいのかわかるようになる。それと、君の笑顔が武器になるはずだ』
久世副支配人の言葉に触れた瞬間、彼の細やかな指導力と鋭い洞察力に圧倒されたのを覚えている。
四年制の外語大学を卒業したばかりの私にとって、研修で学ぶ業務内容はすべて新鮮で、難しくもあった。
そんな中、完璧に教え導いてくれる久世副支配人に対しては尊敬しかなかった。
従業員たちの雰囲気は良好で、日々の仕事が楽しいと思える環境だったが、久世副支配人の存在は特別だった。
彼とはときどき業務内容について話す機会があったものの、新人の私からすると、彼は雲の上の存在に思えた。
スマートにゲストに対応する姿は圧巻で、大柄な外国人とも堂々と向き合うその体(たい)躯(く)と態度は一目置かれるものだった。
しかも、五カ国語を自由自在に操れる語学力は、リュクス・グランホテルグループの中でもトップクラスで、並ぶ者がないほどだ。
ロビーを通るたび、接客中でなければ、彼を目で追っていた。
二年前、フロントの上司から出向の話を聞いたとき、真っ先に浮かんだのは『ここを離れたくない』という気持ちだった。
とはいえ、久世支配人はあくまで憧れの存在に過ぎなかった。
その頃の私にとって彼は、恋愛の対象というよりは芸能人の〝推し〟のような感覚だった。
毎日が慌ただしく過ぎていき、トラブルが発生して大変だったときでさえ、ホテル業務に携わることがつらいと感じることはなかった。
二年半が経った頃、人事部からドバイの系列ホテルへの出向を勧められた。
新宿の職場を離れる寂しさはあったものの、海外で働くことへの興味が勝り、ついに行くことを決めた。
宮(みや)崎(ざき)県(けん)でマンゴー農家を営む両親は心配しつつも、『やりたいことなら応援するよ』と言って快く送り出してくれた。
その温かい言葉に背中を押され、私は新たな挑戦へと踏み出した。
ドバイで働き始め、慣れない環境に戸惑うこともあるけれど、日々やりがいを感じながら業務に邁進する日々。
そして遠い異国の地にいても、久世副支配人の話は耳に入ってくる。
青い空が広がる昼下がり、ホテル内のスタッフ専用ラウンジで休憩を取っていたときのこと。
アイスコーヒーを片手に、日本人の同僚たちが交わす会話に耳を傾けていた。
現地で採用された日本人女性ふたりだ。
『あの久世さん、昇進したらしいよ。副支配人から支配人にだってさ』
そんな会話が聞こえてきて思わず手を止めた。
『え、久世さん? それって、系列ホテルのリュクス・グランホテル東京の久世さんのこと?』
『そうそう。なんか、ホテル業界でも注目されているらしいわね。仕事ぶりがすごいって噂よ。あ、柚乃はリュクスから来ているのよね? 久世さんと話したことがある?』
彼女たちのうしろにいた私の方へ振り返り、話しかけてくる。
『はい。久世副支配人は上司でした』
『噂通りに素敵なの?』
『たしかに、その表現は合っているかと』
そのとき初めて、久世さんが支配人になったことを知った。
あの冷静で完璧主義な姿が頭の中によみがえり、若い彼の出世は驚きではあっても、同時に納得のいくものだった。
「それにしても、久世支配人は驚くほど早い出世よね」
真佳奈さんに話しかけられ、うなずいて同意を示す。
帰国後の三カ月間で真佳奈さんとは何度か一緒に食事に行ったが、彼女の自宅を訪れるのはこれが初めてだ。
東京のシンボルタワーが窓越しに見えるタワーマンションに暮らす真佳奈さんは、幸せそうでうらやましい思いに駆られる。
以前はホテルのフロントでバリバリ働いていた彼女も、今では専業主婦。久しぶりにこうして会って話ができる時間を楽しみにしていた。自宅に誘われた際、来月から旦那様の大使館の海外赴任で渡米するという話をされて寂しさを覚えた。
そのこともあり、今日、彼女の顔を見に来たというのに……アフマーン氏からのメッセージにより、せっかくの気分が台なしになってしまった。
「柚乃は彼の直属の部下なんでしょう? 他愛のない話はしないの?」
気分が下がったままの私に配慮してか、真佳奈さんは話題を切り替えた。
「話といっても、仕事のことだけです。プライベートの話は全然ありません」
「彼ならきっと解決してくれるわよ。アフマーン氏みたいな人物なら、ホテルにも影響を及ぼしかねないんだから」
真佳奈さんはその美しい顔にふっとやわらかな笑みを浮かべた。
「少し考えてみます」
「うん。それがいいわ。東京にいることがバレているんだから、いっそ海外へ異動させてもらうのもひとつの手よね」
リュクス・グランホテルは世界中の主要都市に事業展開している。
アフマーン氏の目が届かない場所で働くのも、たしかにありかもしれない。
でもそのためには、上司、あるいは久世支配人に相談する必要がある。
異動したところで、もしもアフマーン氏が本気なら、またこうして見つけ出されるのではないか。
そう考えると、簡単に決断はできない。
真佳奈さんに必ず連絡する約束をし、その日は夕方に彼女の家を後にした。
真佳奈さんの家からまっすぐ自宅へと戻ってきた。
レンガの外壁が温かみを感じさせる、五階建てワンルームマンション。全五十戸の中で、私は二階の真ん中の部屋を借りている。
ドバイへ異動する前は社員寮に住んでいた。七階建てのワンルームマンションで、立地のよさと利便性から、独身社員たちの間で非常に人気がある住居だった。
一階ロビー横にはラウンジがあり、そこは仕事終わりの居住者たちがのんびりと話をする憩いの場になっていた。同期と帰宅途中にばったり会うと、そのままラウンジで話し込むこともしばしばあった。
その人気ぶりゆえに帰国当時は空室がなく、私はやむなくマンスリーマンションでの生活を余儀なくされた。
待っていても寮の部屋が空くことはなく、一カ月前にようやく、ホテルからふた駅先にあるワンルームマンションを見つけて引っ越した。
部屋に入ると、肩の力が抜けほっと息をつく。
ふと、真佳奈さんのことが頭をよぎる。
ひとつしか年が違わないのに、彼女は愛する人を見つけ、幸せに満ちた生活を送っている。
それに比べて私は大きな悩みを抱えながら、まだ自分の幸せを模索している途中だ。
この部屋は十畳ほどの広さで、小さなキッチンとトイレと独立したお風呂を備えている。
キッチンはひと口コンロだけの簡素な造りで、料理をすることはほとんどない。容量の小さな冷蔵庫には、飲み物と調味料が数種類入っているだけだ。
帰宅途中のコンビニで買ったナポリタンを小さなテーブルに置き、手洗いを済ませて椅子に腰を下ろす。
フォークを手に取り、静かな部屋でひとり食事を始めると、不思議な孤独感がふと胸をよぎる。
三日間くらい休みが取れたら、宮崎の実家に帰ろうかな……。
ドバイから帰国してすぐに仕事だったので、もうずいぶん両親には会っていない。電話ではときどき話をしていたが。
でも、アフマーン氏の件が片づくまでは、行くことも無理ね。
十月初旬にもかかわらず、気温は夏の名残を感じさせるほど高い。
コンシェルジュ業務は二十四時間体制で稼働しており、デスクに常時二名が配置されるよう五人のスタッフが交代で勤務にあたる。
今日の私のシフトは九時から十八時まで。
出勤するとまず、更衣室で制服に着替える。
その制服はえんじ色で、コンシェルジュとしての存在をゲストにすぐ伝えるだけでなく、ホテルの雰囲気とも調和するよう明るく上品な色合いになっている。
更衣室を出てフロント裏のバックヤードに足を踏み入れると、一瞬だけ久世支配人の部屋のドアに目をやり、それからコンシェルジュデスクへと向かった。
昨夜、寝る前にアフマーン氏の件を考えていたら、なかなか寝つけなかった。
真佳奈さんの提案通り、久世支配人に相談するのが一番だという結論に至ったが、彼の忙しさを考えると、私の退勤時間に時間を取ってもらえるとは限らない。
やはり前もって『相談があります。お時間をいただけませんか?』と伝えておいた方がいいのだろう。
心に決めつつデスクに向かうと、同期で去年からコンシェルジュになった石(いし)坂(ざか)亮(りょう)平(へい)さんが丁寧にデスク周りを拭いているのが目に入った。今日は彼と同じシフトだ。
「石坂さん、おはようございます。手伝います」
「おはよう。ありがとう、中山さん。でももう終わるところだから大丈夫だよ」
屈託のない笑顔を向けられて、その親しみやすい雰囲気にこちらまでほっとする。
彼はこの職場で久世支配人の次に背が高い。少しだけ控えめな印象を受けるが、明るく気さくな性格は女性社員からの人気も高い。
同期ということもあり年齢は同じだが、私がドバイに出向していた期間も彼はここにいたので、仕事となると先輩だ。
「ありがとうございます」
デスクの引き出しからタブレットを取り出し、申し送り事項を確認する。
コンシェルジュは二十二時まではロビー中央に設置されたデスクで業務を行い、それ以降はバックヤードで待機する体制だ。
夜の仕事は日によって異なるものの、多忙なことが多い。ゲストの突発的なけがや体調不良、客室設備の不具合への対応、さらには夜遅くの空港送迎やタクシーの手配など、さまざまな依頼が次々と舞い込んでくる。
昨晩、ドアに指を挟んだゲストがいて、夜間診療が可能な病院の案内やエアコンの不具合対応など、計十件ほどの報告があった。
客室設備は頻繁に点検されているため、たいていの場合はゲストの使い方の誤りが原因だ。今回もその例に漏れなかった。
「中山さん、なにか大事なことがあった?」
隣に立った石坂さんがタブレットを覗(のぞ)き込みながら尋ねてきた。
その距離が少し近すぎるように感じながら「いいえ」と短く答えると、タブレットを手渡す。それから、乱れているわけでもないパンフレットを直すふりをしながら、石坂さんから離れる。
彼も画面へ視線を落とし「ま、いつもと同じだな」と言って、タブレットを引き出しにしまった。
石坂さんに先にランチへ行ってもらってから少しして、廊下の端で金髪の小さな女の子が泣いているのに気づき、急いで近づく。
「どうしたのかな?」
私はしゃがみ込みながら、英語で声をかけた。
女の子は一瞬こちらを見てから、「マミー」と小さくうなずいた。その瞬間、背後から落ち着いた声が聞こえた。
「中山さん、どうしましたか?」
久世支配人が隣に片膝をつき、こちらの様子をうかがう。
「迷子のようです。お母さんを捜します」
「では、君は子どものそばにいてください。私は母親を捜してきます」
すばやく指示を出してから、女の子と同じ目線で「君の名前は?」と尋ねる。
「マリアン」
「わかった。必ず連れてくるからここでお姉さんと待っているんだよ」
流暢な英語で女の子にそう言うと、久世支配人は足早に離れていった。
私はマリアンちゃんをコンシェルジュデスクへ連れていき、椅子に座らせ、こういうときのために用意してある折り紙を出して、やってみないか尋ねる。
年齢は三歳から四歳くらいに見える。
小さな女の子だからきちんと折るのは難しいが、彼女が選んだピンクの折り紙を一枚渡して好きなようにさせ、私は風船を折ってみせる。
風船がどんどんできあがっていくのを、彼女は興味津々で見てくれている。
かわいい……。
「はいっ、できましたよ」
開いてそっと息を吹きかけると、一枚の折り紙は風船に変身した。
「すごい! わーい」
椅子から下りると、手のひらでポンポンと上にはじき、楽しそうに笑ってくれた。
ほかにも鶴や船などを折って遊ばせる。
十分ほどして、久世支配人が心配そうな表情のお母さんを連れて戻ってきた。
「マミー!」
マリアンちゃんは母親を認めてから一目散に走って抱きつく。
母親は娘を抱きしめ、私たちに感謝の言葉を何度も繰り返した。彼女も見事な金髪で、母娘が並ぶとよく似ていた。
タクシーに乗ろうとしたところで、マリアンちゃんがいなくなっており、ロビーへ入らず外から庭園を捜しに行っていたと、ふたりが去ってから久世支配人が教えてくれる。
「すぐにお母様が見つかってよかったです。久世支配人、お世話をおかけしました」
館内放送もせずに母親を見つけられるなんて、さすが久世支配人だ。その能力の見事さは、やはり経験のなせる業だろう。
「いや、君が優しく対応にあたってくれて助かった。私は運よく近くで母親を見つけただけだ」
そうだ。時間を取ってもらえるように今聞いてしまおうか……。
「久世支配人」
コンシェルジュデスクを離れようと背を向けた久世支配人に声をかけたとき、数メートル先にいる石坂さんがこちらに戻ってくる姿が見えた。
私の声に振り返った久世支配人は、落ち着いた表情で「なんでしょう?」と問いかけてくれる。
しかし、時間をつくってほしいなどと話しているところを石坂さんに聞かれたら、久世支配人を誘っているように誤解されてしまうかもしれない。
「い、いいえ。業務に戻ります。お疲れさまでした」
軽く頭を下げると、久世支配人は歩き始めた。
すると、石坂さんが隣に立った。
「どうかした? 久世支配人はなんの用事だった?」
石坂さんは去っていく久世支配人の背中をちらりと見てから、デスクの上の折り紙へ視線を落とす。
「迷子の女の子がいたので、私がここで面倒を見ている間に久世支配人が母親を捜してくださったんです」
「そうか。お疲れさま。俺じゃなくてよかったよ。折り紙はどうにも苦手なんだ」
石坂さんは私が折り紙の箱を引き出しにしまうのを見て、やわらかな笑みを向ける。
「では、お昼に行ってきますね」
「うん、行ってきて」
彼に任せてコンシェルジュデスクを離れ、別館にある社員専用のレストランへ向かった。
途中の廊下にはところどころに絵画が飾られていて、中にはリュクス・グランホテルの歴史を語る風景が描かれているものもあった。
別館に入り、奥にある社員専用レストランを目指す。
落ち着いた木材のドアを開けて入ると、ランチを楽しむ同僚たちの談笑が耳に入る。
ガラス張りの窓からは庭園の景色が広がり、涼やかな緑が目に優しい。
社員専用レストランの窓は外から見えない加工がされている。
ブッフェのように好きな料理を選んでトレイにのせていき、最後にIDカードで精算し給料から天引きされるシステムだ。
今日のおすすめは……サーモンのムニエルね。
そのひと皿を取ってトレイの上にのせ、普通盛りのご飯も置き、会計スタッフのいる場所へ向かい精算を終わらせる。
各種のドリンクは自由に飲めるので、水とコーヒーを選んでから席を探す。
そこで窓際にひとりで座れる場所を見つけた。
庭園を眺めながらひと息つけるその席はいつも人気があり、空いているのは珍しい。今日はたまたま運がよかったのか、そこへ腰を下ろし小さく安(あん)堵(ど)の息をついた。
両手を合わせて『いただきます』と心の中で言って、ランチを食べ始める。
今日も青空が広がり、心地よい陽の光が窓から差し込んでいる。
その光景に、ドバイで見た広大な空を思い出し、胸の奥に懐かしさが込み上げる。
リゾート地への憧れがふと浮かぶ。どこか異動できるホテルはないだろうか……そんな考えが頭をよぎった。
ポケットからスマホを取り出し、食事をしながら友人のSNSを眺めていると、同期で総務部に勤務する森(もり)本(もと)麗(れい)子(こ)からメッセージが届く。
なんだろう、と心が弾む。
メッセージを開いてみると、十月の中旬にフロント、コンシェルジュ、総務部を含めた慰労会を予定しているとの内容だ。
勤務の都合もあるので自由参加だが、【都合がつけば参加よろしくお願いします。】と書かれていて、目の前の食事に手を動かしながら、どうしようかと思案した。
スマホでシフトを確認すると、その日は十八時までの勤務だった。
慰労会の開始時間は十九時三十分からだから、参加する余裕は充分にある。
しばらく顔を見ていない同期に会えるかもしれない。
そう思いながら、メールの送付者である麗子に【参加します】と短く返信を送る。
数分後、麗子から個別にメッセージが届いた。
少し驚きながら開いてみる。
【久しぶり。参加連絡ありがとう。ところで今夜は空いている? ドバイから戻ってきて全然会ってないじゃない? 夕食でも一緒に食べないかなと思って】
「今夜……」
口もとで小さく繰り返しながら、少し考え込む。
明日は今日と同じシフトだから、軽く食事に行くくらいなら支障はないだろう。
【大丈夫よ、行ける】とメッセージを打ち、麗子に返信を送ると、ホテルの外で待ち合わせることがすぐに決まった。
退勤時間になり、更衣室で着替えを済ませてから待ち合わせの場所に足を運ぶ。
麗子がすでにホテルの外でスマホを見て待っているのが見えて、歩くスピードを速める。
「麗子、お待たせ」
「ううん。私も今来たところよ。お店を検索してたの。なにが食べたい?」
「なにがいいかな……あ、韓国料理が食べたい」
「いいわね! 電車だと乗り換え多いから、思いきってタクシー乗っちゃおうか」
麗子はそう言って、道路を走るタクシーをつかまえ、乗り込むと韓国レストランに向かった。
彼女のおすすめの韓国レストランで、サムギョプサルをスタッフに焼いてもらっている間にマッコリで乾杯して海鮮チヂミや小皿の料理を食べ始める。
お酒はそれほど強くなく、皆と楽しく飲む二杯くらいが限度だ。
「んー、おいしい」
マッコリを飲んでほっと息をつく。
「ドバイはどうだった? 向こうで彼氏できた?」
「ドバイの景色やホテル近辺の雰囲気はリゾートで最高だったわ。彼氏は……ううん」
「ハネムーンで行きたいな~。素敵な場所よね」
麗子の恋人は二歳年上の山(やま)下(した)さんといって、リュクス・グランホテルの企画部に所属している。
「それはもう。雰囲気は最高よ。ってことは、山下さんと結婚?」
「まだプロポーズされていないんだけど、将来の話は出てるの」
「おめでとう。結婚、いいな~。私たち、もう二十七だものね」
マッコリのグラスを掲げて、麗子のグラスにコツンとあてる。
「柚乃は女の私から見てもお嫁さんにしたいタイプなのに、彼氏ができないなんて信じられないわ。世の男性は見る目がないのね」
「そんなタイプじゃないって。仕事は好きだし、今の自由な時間を楽しんでるよ」
そこまで言って、アフマーン氏を思い出してしまった。
「じつは……せっかく戻ってきたんだけど、異動をお願いしようかと思って……」
「え? どういうこと?」
麗子の表情が困惑に変わる。
状況が掴(つか)めるようにゆっくりとアフマーン氏の話を始めた。
「はぁ? なんなの? その大富豪は! 第三夫人? ありえないっ」
麗子の声が思わず大きくなり、憤慨している様子に、私の胸の中にあったわだかまりが少しずつほぐれていく。
ふいに香ばしい香りが漂ってきた。
「焼けました。どうぞ召し上がってください」
サムギョプサルを焼いていたスタッフの声で、麗子は少し気持ちを落ち着けたのか表情を変えた。
「柚乃、とりあえず食べよう。食べながら考えるっていうのも大事よね」
麗子はサンチュにえごまの葉やキムチ、焼けた豚肉をのせサムジャンという甘辛い味噌をつけて巻き、パクリとひと口で食べる。
「食べながら考える……?」
首をかしげながら麗子の言葉に困惑する。
「そうよ。おなかが空いていたら頭が回らないもの。柚乃はアフマーン氏の自由にならない。いや、ならせるべきじゃないの」
麗子は怒りがぶり返したのか、勢いよくサムギョプサルをもう一枚巻いて口に運ぶ。
「うちのホテルの上顧客ってところが厄介ね」
「そうなの。パリのリュクスではスイートルームに一カ月も滞在していたのを調べて知ったの」
「相当な金持ちってわけね」
麗子の声が少し驚きに変わる。
「想像できないくらいよ」
小さくため息が漏れる。
麗子は目を細めながら箸を置き、まっすぐに私を見つめる。
「一番いい方法って、柚乃が結婚することだと思うな。日本では重婚できないから、さすがにあきらめるんじゃない?」
その言葉でふと真佳奈さんの言葉を思い出した。同じことを言われた。
「相手がいないから難しいの」
「例えば、偽装してくれる人はいないかな?」
「え? 偽装……?」
その言葉の響きに戸惑いを隠せず目を見開くと、麗子はあっさりとうなずいた。
「そう。その男を信用させるには本当に結婚しなければならないけど、それでもいいって言ってくれる男性がいればいいのに。あ、久世支配人ほどの完璧人間なら大富豪を黙らせられるかも?」
「くっ、久世支配人なんて、別世界の人だよ」
「そうだよね、まあそれは冗談としても。柚乃、好きな人はいないの?」
「いるわけないじゃないっ」
思わず声をあげてしまい、動揺した自分を隠すように顔を逸らした。
しかし、久世支配人の冷静で落ち着いた顔が脳裏に浮かぶ。
その瞬間、自分の頬に熱が集まるのをはっきりと感じた。
麗子に気づかれないように視線を落とし、なんとか平静を保とうとする。
「なんだか柚乃が動揺してるように見えるけど? 本当に好きな人はいないのね?」
「い、いないわ」
言葉に詰まりながら曖昧に首を振った。
そして、心の中で『久世支配人なんてありえない。自分には遠い存在の人だ』と言い聞かせ、深く息をついた。
送られてきた英語で書かれたメッセージに、ドクッと心臓を跳ねさせ、すぐさまスマートフォンをポケットに戻す。
どうして……私の連絡先がアフマーン氏の手に渡ったの……?
私、中(なか)山(やま)柚(ゆ)乃(の)は、東(とう)京(きょう)の『リュクス・グランホテル』でコンシェルジュとして勤務する二十七歳。
三カ月前の六月までは、ドバイにある系列の五つ星ホテルに出向していた。
リュクス・グランホテルは新(しん)宿(じゅく)に佇む、都会の喧騒の中でも静寂を提供する特別な場所だ。
一歩敷地内に足を踏み入れると、周囲の高層ビル群とは対照的に、緑豊かな庭園が広がり、鳥のさえずりと水のせせらぎが心を癒やしてくれる。
リュクス・グランホテルは、日本のお客様のみならず、世界中から訪れるゲストにも評判が高い。
モダンなデザインと伝統的な和のエッセンスが融合したインテリアは、上質な空間を演出しており、とくに大きな窓から見える庭園の景色は、忙しい日常からの逃避を感じさせてくれる。
ドバイに住む大富豪のアフマーン氏はリュクス・グランホテルグループの上顧客で、私がドバイでの勤務中にたまたま対応したことからなぜか気に入られてしまい、帰国する二カ月ほど前からふいに現れては口説かれていた。
〝第三夫人〟ということは、第一夫人、第二夫人がいるに違いない。
それにアフマーン氏は、私の父親くらいの年齢だ。
日本人の私が既婚者と結婚するなんて法律的にもありえないと思うけれど、もし彼の国へ連れていかれたら、第三夫人にされてしまうかもしれない。
先ほど届いたメッセージは、背筋を凍らせるに充分だった。
「柚乃、どうしたの?」
以前同じドバイのホテルでフロントを務めていた真(ま)佳(か)奈(な)さんが、コーヒーと焼き菓子をのせたトレイを運んできたところで、私の様子がおかしいと気づいたのか尋ねてきた。今日は仕事の休みを利用して彼女の自宅にお邪魔している。
真佳奈さんと一緒に働いていたのは六カ月ほど。
当時、東京からドバイに出向したばかりで右も左もわからない私に、とても親切にしてくれた。
彼女が帰国してしまったときは寂しかったけれど、半年間教えてもらったおかげでなんとか仕事に慣れることができ、二年間の出向期間を無事終えられた。
彼女は在ドバイ領事館の総領事を父に持つ関係でエリート外交官の月(つき)城(しろ)尚(なお)哉(や)さんと出会い、日本に戻って結婚した。
ふと、彼女も以前ドバイで、王族の親戚だというハーキム氏から病的なほどプロポーズされていたことを思い出す。
「真佳奈さん、じつは……」
ポケットからスマホを取り出し、先ほど受け取ったメッセージを彼女に見せた。
真佳奈さんは英文にサッと目を通し、あきれたように声をあげる。
「第三夫人って、このメッセージの送り主は誰? そう言うからには向こうの人……かしら?」
「アフマーン氏って覚えていますか?」
「……ええ。たしか純金の取引では並ぶ者がないって言われている人よね? このメッセージ、本当に彼からのものなの?」
「はい。帰国する二カ月ほど前、カンドゥーラにコーヒーがかかってしまったところを助けてから、しつこく誘われるようになって。上顧客だからやんわりと逃げていたんですけど、どうやってか私のアドレスを入手したみたいで。このメッセージを受け取ったとき、本当に驚きました。というか、正直恐怖を感じています。ドバイでは悪い噂もあって……父ほど年が離れていますし」
「このメッセージが冗談だったらいいのにね……でも、わざわざ調べて送ってきた以上、本気の可能性は否定できないわ」
真佳奈さんは憂慮の表情を浮かべ、スマホから目を離した。
「普通だったら、解決策は柚乃が結婚するのが……いいかな。でも、考え方が違う人たちだから、一概にはそうだとは言えないけど。私の場合、結婚しているにもかかわらずあきらめなかったくらいだったわ。せめて柚乃に恋人がいれば……」
真佳奈さんは私を見て、ふっと笑みを漏らす。
「柚乃は、誰が見てもかわいいものね。目鼻立ちがくっきりしていて、その黒髪もまるで絹糸のようにつややか。スタイルもよくて、華奢だけど芯の強さを感じさせる。あなたが笑うと、周りがぱあっと明るくなる感じがするの」
「え? そうでしょうか」
「ええ。あなたの明るさが周りの人たちにも伝わってみんなが笑顔になるのよ。まあ、今はちょっと暗い表情だけどね。その件、久(く)世(ぜ)支配人に相談してみたらどうかしら?」
「久世支配人に……?」
我がホテルで異例のエリートコースを走っている、眉目秀麗でものすごく仕事ができる男性の姿が脳裏に浮かぶ。
あまりにやり手だからかどこかのホテルの御曹司らしいという噂があり、女性たちからも絶大な人気を集めている人だ。
「ええ。若いながらも支配人になっているくらいだから、きっといい案を出してくれるんじゃないかしら? たしか……三十代前半だったわよね。六十代の総支配人に相談するには、この手の話は少し難しいだろうし、おいそれと言えないわよね。とにかく、相手が仕事に影響を及ぼすような人物だから、久世支配人が適任だと思うの」
私がリュクス・グランホテルに入社しフロント業務についた当時、久世支配人は副支配人だった。
彼に初めて会ったのは、新人研修のときだ。
リュクス・グランホテルのエントランスは豪華で、威厳ある雰囲気に圧倒され、何度目かの入館なのにドキドキ鼓動を高鳴らせたのを思い出す。
最初の研修日の朝、久世咲(さく)也(や)副支配人が研修担当として自己紹介をした。
彼は若いながらも自信に満ちた態度で、目を引く存在だった。
『ここでは、何事もお客様目線で考えることが大切です。それがリュクスの流儀です』
久世副支配人の声には落ち着きがあり、私たち新人は全員静かに耳を傾けた。
研修の一環として、接客ロールプレイングに移った。
お客様役を演じる久世副支配人が、意地悪なクレームを持ち込む設定で、私は初めて真剣に接客スキルを試されることに。
『中山さん、どう対応しますか?』
久世副支配人に少し冷たい口調で問いかけられ一瞬戸惑ったが、深呼吸して落ち着きを取り戻す。
『お客様のお気持ちをまず真(しん)摯(し)にお伺いした上で、解決に向けた提案をさせていただきます』
そう口にすると、久世副支配人の目が少しだけやわらかくなった。
そして研修が終わった後、久世副支配人が近づいてきて言った。
『中山さん、今日の対応、悪くなかった。だが、次はもっとお客様の表情に注意してみてくれ。なにが言いたいのかわかるようになる。それと、君の笑顔が武器になるはずだ』
久世副支配人の言葉に触れた瞬間、彼の細やかな指導力と鋭い洞察力に圧倒されたのを覚えている。
四年制の外語大学を卒業したばかりの私にとって、研修で学ぶ業務内容はすべて新鮮で、難しくもあった。
そんな中、完璧に教え導いてくれる久世副支配人に対しては尊敬しかなかった。
従業員たちの雰囲気は良好で、日々の仕事が楽しいと思える環境だったが、久世副支配人の存在は特別だった。
彼とはときどき業務内容について話す機会があったものの、新人の私からすると、彼は雲の上の存在に思えた。
スマートにゲストに対応する姿は圧巻で、大柄な外国人とも堂々と向き合うその体(たい)躯(く)と態度は一目置かれるものだった。
しかも、五カ国語を自由自在に操れる語学力は、リュクス・グランホテルグループの中でもトップクラスで、並ぶ者がないほどだ。
ロビーを通るたび、接客中でなければ、彼を目で追っていた。
二年前、フロントの上司から出向の話を聞いたとき、真っ先に浮かんだのは『ここを離れたくない』という気持ちだった。
とはいえ、久世支配人はあくまで憧れの存在に過ぎなかった。
その頃の私にとって彼は、恋愛の対象というよりは芸能人の〝推し〟のような感覚だった。
毎日が慌ただしく過ぎていき、トラブルが発生して大変だったときでさえ、ホテル業務に携わることがつらいと感じることはなかった。
二年半が経った頃、人事部からドバイの系列ホテルへの出向を勧められた。
新宿の職場を離れる寂しさはあったものの、海外で働くことへの興味が勝り、ついに行くことを決めた。
宮(みや)崎(ざき)県(けん)でマンゴー農家を営む両親は心配しつつも、『やりたいことなら応援するよ』と言って快く送り出してくれた。
その温かい言葉に背中を押され、私は新たな挑戦へと踏み出した。
ドバイで働き始め、慣れない環境に戸惑うこともあるけれど、日々やりがいを感じながら業務に邁進する日々。
そして遠い異国の地にいても、久世副支配人の話は耳に入ってくる。
青い空が広がる昼下がり、ホテル内のスタッフ専用ラウンジで休憩を取っていたときのこと。
アイスコーヒーを片手に、日本人の同僚たちが交わす会話に耳を傾けていた。
現地で採用された日本人女性ふたりだ。
『あの久世さん、昇進したらしいよ。副支配人から支配人にだってさ』
そんな会話が聞こえてきて思わず手を止めた。
『え、久世さん? それって、系列ホテルのリュクス・グランホテル東京の久世さんのこと?』
『そうそう。なんか、ホテル業界でも注目されているらしいわね。仕事ぶりがすごいって噂よ。あ、柚乃はリュクスから来ているのよね? 久世さんと話したことがある?』
彼女たちのうしろにいた私の方へ振り返り、話しかけてくる。
『はい。久世副支配人は上司でした』
『噂通りに素敵なの?』
『たしかに、その表現は合っているかと』
そのとき初めて、久世さんが支配人になったことを知った。
あの冷静で完璧主義な姿が頭の中によみがえり、若い彼の出世は驚きではあっても、同時に納得のいくものだった。
「それにしても、久世支配人は驚くほど早い出世よね」
真佳奈さんに話しかけられ、うなずいて同意を示す。
帰国後の三カ月間で真佳奈さんとは何度か一緒に食事に行ったが、彼女の自宅を訪れるのはこれが初めてだ。
東京のシンボルタワーが窓越しに見えるタワーマンションに暮らす真佳奈さんは、幸せそうでうらやましい思いに駆られる。
以前はホテルのフロントでバリバリ働いていた彼女も、今では専業主婦。久しぶりにこうして会って話ができる時間を楽しみにしていた。自宅に誘われた際、来月から旦那様の大使館の海外赴任で渡米するという話をされて寂しさを覚えた。
そのこともあり、今日、彼女の顔を見に来たというのに……アフマーン氏からのメッセージにより、せっかくの気分が台なしになってしまった。
「柚乃は彼の直属の部下なんでしょう? 他愛のない話はしないの?」
気分が下がったままの私に配慮してか、真佳奈さんは話題を切り替えた。
「話といっても、仕事のことだけです。プライベートの話は全然ありません」
「彼ならきっと解決してくれるわよ。アフマーン氏みたいな人物なら、ホテルにも影響を及ぼしかねないんだから」
真佳奈さんはその美しい顔にふっとやわらかな笑みを浮かべた。
「少し考えてみます」
「うん。それがいいわ。東京にいることがバレているんだから、いっそ海外へ異動させてもらうのもひとつの手よね」
リュクス・グランホテルは世界中の主要都市に事業展開している。
アフマーン氏の目が届かない場所で働くのも、たしかにありかもしれない。
でもそのためには、上司、あるいは久世支配人に相談する必要がある。
異動したところで、もしもアフマーン氏が本気なら、またこうして見つけ出されるのではないか。
そう考えると、簡単に決断はできない。
真佳奈さんに必ず連絡する約束をし、その日は夕方に彼女の家を後にした。
真佳奈さんの家からまっすぐ自宅へと戻ってきた。
レンガの外壁が温かみを感じさせる、五階建てワンルームマンション。全五十戸の中で、私は二階の真ん中の部屋を借りている。
ドバイへ異動する前は社員寮に住んでいた。七階建てのワンルームマンションで、立地のよさと利便性から、独身社員たちの間で非常に人気がある住居だった。
一階ロビー横にはラウンジがあり、そこは仕事終わりの居住者たちがのんびりと話をする憩いの場になっていた。同期と帰宅途中にばったり会うと、そのままラウンジで話し込むこともしばしばあった。
その人気ぶりゆえに帰国当時は空室がなく、私はやむなくマンスリーマンションでの生活を余儀なくされた。
待っていても寮の部屋が空くことはなく、一カ月前にようやく、ホテルからふた駅先にあるワンルームマンションを見つけて引っ越した。
部屋に入ると、肩の力が抜けほっと息をつく。
ふと、真佳奈さんのことが頭をよぎる。
ひとつしか年が違わないのに、彼女は愛する人を見つけ、幸せに満ちた生活を送っている。
それに比べて私は大きな悩みを抱えながら、まだ自分の幸せを模索している途中だ。
この部屋は十畳ほどの広さで、小さなキッチンとトイレと独立したお風呂を備えている。
キッチンはひと口コンロだけの簡素な造りで、料理をすることはほとんどない。容量の小さな冷蔵庫には、飲み物と調味料が数種類入っているだけだ。
帰宅途中のコンビニで買ったナポリタンを小さなテーブルに置き、手洗いを済ませて椅子に腰を下ろす。
フォークを手に取り、静かな部屋でひとり食事を始めると、不思議な孤独感がふと胸をよぎる。
三日間くらい休みが取れたら、宮崎の実家に帰ろうかな……。
ドバイから帰国してすぐに仕事だったので、もうずいぶん両親には会っていない。電話ではときどき話をしていたが。
でも、アフマーン氏の件が片づくまでは、行くことも無理ね。
十月初旬にもかかわらず、気温は夏の名残を感じさせるほど高い。
コンシェルジュ業務は二十四時間体制で稼働しており、デスクに常時二名が配置されるよう五人のスタッフが交代で勤務にあたる。
今日の私のシフトは九時から十八時まで。
出勤するとまず、更衣室で制服に着替える。
その制服はえんじ色で、コンシェルジュとしての存在をゲストにすぐ伝えるだけでなく、ホテルの雰囲気とも調和するよう明るく上品な色合いになっている。
更衣室を出てフロント裏のバックヤードに足を踏み入れると、一瞬だけ久世支配人の部屋のドアに目をやり、それからコンシェルジュデスクへと向かった。
昨夜、寝る前にアフマーン氏の件を考えていたら、なかなか寝つけなかった。
真佳奈さんの提案通り、久世支配人に相談するのが一番だという結論に至ったが、彼の忙しさを考えると、私の退勤時間に時間を取ってもらえるとは限らない。
やはり前もって『相談があります。お時間をいただけませんか?』と伝えておいた方がいいのだろう。
心に決めつつデスクに向かうと、同期で去年からコンシェルジュになった石(いし)坂(ざか)亮(りょう)平(へい)さんが丁寧にデスク周りを拭いているのが目に入った。今日は彼と同じシフトだ。
「石坂さん、おはようございます。手伝います」
「おはよう。ありがとう、中山さん。でももう終わるところだから大丈夫だよ」
屈託のない笑顔を向けられて、その親しみやすい雰囲気にこちらまでほっとする。
彼はこの職場で久世支配人の次に背が高い。少しだけ控えめな印象を受けるが、明るく気さくな性格は女性社員からの人気も高い。
同期ということもあり年齢は同じだが、私がドバイに出向していた期間も彼はここにいたので、仕事となると先輩だ。
「ありがとうございます」
デスクの引き出しからタブレットを取り出し、申し送り事項を確認する。
コンシェルジュは二十二時まではロビー中央に設置されたデスクで業務を行い、それ以降はバックヤードで待機する体制だ。
夜の仕事は日によって異なるものの、多忙なことが多い。ゲストの突発的なけがや体調不良、客室設備の不具合への対応、さらには夜遅くの空港送迎やタクシーの手配など、さまざまな依頼が次々と舞い込んでくる。
昨晩、ドアに指を挟んだゲストがいて、夜間診療が可能な病院の案内やエアコンの不具合対応など、計十件ほどの報告があった。
客室設備は頻繁に点検されているため、たいていの場合はゲストの使い方の誤りが原因だ。今回もその例に漏れなかった。
「中山さん、なにか大事なことがあった?」
隣に立った石坂さんがタブレットを覗(のぞ)き込みながら尋ねてきた。
その距離が少し近すぎるように感じながら「いいえ」と短く答えると、タブレットを手渡す。それから、乱れているわけでもないパンフレットを直すふりをしながら、石坂さんから離れる。
彼も画面へ視線を落とし「ま、いつもと同じだな」と言って、タブレットを引き出しにしまった。
石坂さんに先にランチへ行ってもらってから少しして、廊下の端で金髪の小さな女の子が泣いているのに気づき、急いで近づく。
「どうしたのかな?」
私はしゃがみ込みながら、英語で声をかけた。
女の子は一瞬こちらを見てから、「マミー」と小さくうなずいた。その瞬間、背後から落ち着いた声が聞こえた。
「中山さん、どうしましたか?」
久世支配人が隣に片膝をつき、こちらの様子をうかがう。
「迷子のようです。お母さんを捜します」
「では、君は子どものそばにいてください。私は母親を捜してきます」
すばやく指示を出してから、女の子と同じ目線で「君の名前は?」と尋ねる。
「マリアン」
「わかった。必ず連れてくるからここでお姉さんと待っているんだよ」
流暢な英語で女の子にそう言うと、久世支配人は足早に離れていった。
私はマリアンちゃんをコンシェルジュデスクへ連れていき、椅子に座らせ、こういうときのために用意してある折り紙を出して、やってみないか尋ねる。
年齢は三歳から四歳くらいに見える。
小さな女の子だからきちんと折るのは難しいが、彼女が選んだピンクの折り紙を一枚渡して好きなようにさせ、私は風船を折ってみせる。
風船がどんどんできあがっていくのを、彼女は興味津々で見てくれている。
かわいい……。
「はいっ、できましたよ」
開いてそっと息を吹きかけると、一枚の折り紙は風船に変身した。
「すごい! わーい」
椅子から下りると、手のひらでポンポンと上にはじき、楽しそうに笑ってくれた。
ほかにも鶴や船などを折って遊ばせる。
十分ほどして、久世支配人が心配そうな表情のお母さんを連れて戻ってきた。
「マミー!」
マリアンちゃんは母親を認めてから一目散に走って抱きつく。
母親は娘を抱きしめ、私たちに感謝の言葉を何度も繰り返した。彼女も見事な金髪で、母娘が並ぶとよく似ていた。
タクシーに乗ろうとしたところで、マリアンちゃんがいなくなっており、ロビーへ入らず外から庭園を捜しに行っていたと、ふたりが去ってから久世支配人が教えてくれる。
「すぐにお母様が見つかってよかったです。久世支配人、お世話をおかけしました」
館内放送もせずに母親を見つけられるなんて、さすが久世支配人だ。その能力の見事さは、やはり経験のなせる業だろう。
「いや、君が優しく対応にあたってくれて助かった。私は運よく近くで母親を見つけただけだ」
そうだ。時間を取ってもらえるように今聞いてしまおうか……。
「久世支配人」
コンシェルジュデスクを離れようと背を向けた久世支配人に声をかけたとき、数メートル先にいる石坂さんがこちらに戻ってくる姿が見えた。
私の声に振り返った久世支配人は、落ち着いた表情で「なんでしょう?」と問いかけてくれる。
しかし、時間をつくってほしいなどと話しているところを石坂さんに聞かれたら、久世支配人を誘っているように誤解されてしまうかもしれない。
「い、いいえ。業務に戻ります。お疲れさまでした」
軽く頭を下げると、久世支配人は歩き始めた。
すると、石坂さんが隣に立った。
「どうかした? 久世支配人はなんの用事だった?」
石坂さんは去っていく久世支配人の背中をちらりと見てから、デスクの上の折り紙へ視線を落とす。
「迷子の女の子がいたので、私がここで面倒を見ている間に久世支配人が母親を捜してくださったんです」
「そうか。お疲れさま。俺じゃなくてよかったよ。折り紙はどうにも苦手なんだ」
石坂さんは私が折り紙の箱を引き出しにしまうのを見て、やわらかな笑みを向ける。
「では、お昼に行ってきますね」
「うん、行ってきて」
彼に任せてコンシェルジュデスクを離れ、別館にある社員専用のレストランへ向かった。
途中の廊下にはところどころに絵画が飾られていて、中にはリュクス・グランホテルの歴史を語る風景が描かれているものもあった。
別館に入り、奥にある社員専用レストランを目指す。
落ち着いた木材のドアを開けて入ると、ランチを楽しむ同僚たちの談笑が耳に入る。
ガラス張りの窓からは庭園の景色が広がり、涼やかな緑が目に優しい。
社員専用レストランの窓は外から見えない加工がされている。
ブッフェのように好きな料理を選んでトレイにのせていき、最後にIDカードで精算し給料から天引きされるシステムだ。
今日のおすすめは……サーモンのムニエルね。
そのひと皿を取ってトレイの上にのせ、普通盛りのご飯も置き、会計スタッフのいる場所へ向かい精算を終わらせる。
各種のドリンクは自由に飲めるので、水とコーヒーを選んでから席を探す。
そこで窓際にひとりで座れる場所を見つけた。
庭園を眺めながらひと息つけるその席はいつも人気があり、空いているのは珍しい。今日はたまたま運がよかったのか、そこへ腰を下ろし小さく安(あん)堵(ど)の息をついた。
両手を合わせて『いただきます』と心の中で言って、ランチを食べ始める。
今日も青空が広がり、心地よい陽の光が窓から差し込んでいる。
その光景に、ドバイで見た広大な空を思い出し、胸の奥に懐かしさが込み上げる。
リゾート地への憧れがふと浮かぶ。どこか異動できるホテルはないだろうか……そんな考えが頭をよぎった。
ポケットからスマホを取り出し、食事をしながら友人のSNSを眺めていると、同期で総務部に勤務する森(もり)本(もと)麗(れい)子(こ)からメッセージが届く。
なんだろう、と心が弾む。
メッセージを開いてみると、十月の中旬にフロント、コンシェルジュ、総務部を含めた慰労会を予定しているとの内容だ。
勤務の都合もあるので自由参加だが、【都合がつけば参加よろしくお願いします。】と書かれていて、目の前の食事に手を動かしながら、どうしようかと思案した。
スマホでシフトを確認すると、その日は十八時までの勤務だった。
慰労会の開始時間は十九時三十分からだから、参加する余裕は充分にある。
しばらく顔を見ていない同期に会えるかもしれない。
そう思いながら、メールの送付者である麗子に【参加します】と短く返信を送る。
数分後、麗子から個別にメッセージが届いた。
少し驚きながら開いてみる。
【久しぶり。参加連絡ありがとう。ところで今夜は空いている? ドバイから戻ってきて全然会ってないじゃない? 夕食でも一緒に食べないかなと思って】
「今夜……」
口もとで小さく繰り返しながら、少し考え込む。
明日は今日と同じシフトだから、軽く食事に行くくらいなら支障はないだろう。
【大丈夫よ、行ける】とメッセージを打ち、麗子に返信を送ると、ホテルの外で待ち合わせることがすぐに決まった。
退勤時間になり、更衣室で着替えを済ませてから待ち合わせの場所に足を運ぶ。
麗子がすでにホテルの外でスマホを見て待っているのが見えて、歩くスピードを速める。
「麗子、お待たせ」
「ううん。私も今来たところよ。お店を検索してたの。なにが食べたい?」
「なにがいいかな……あ、韓国料理が食べたい」
「いいわね! 電車だと乗り換え多いから、思いきってタクシー乗っちゃおうか」
麗子はそう言って、道路を走るタクシーをつかまえ、乗り込むと韓国レストランに向かった。
彼女のおすすめの韓国レストランで、サムギョプサルをスタッフに焼いてもらっている間にマッコリで乾杯して海鮮チヂミや小皿の料理を食べ始める。
お酒はそれほど強くなく、皆と楽しく飲む二杯くらいが限度だ。
「んー、おいしい」
マッコリを飲んでほっと息をつく。
「ドバイはどうだった? 向こうで彼氏できた?」
「ドバイの景色やホテル近辺の雰囲気はリゾートで最高だったわ。彼氏は……ううん」
「ハネムーンで行きたいな~。素敵な場所よね」
麗子の恋人は二歳年上の山(やま)下(した)さんといって、リュクス・グランホテルの企画部に所属している。
「それはもう。雰囲気は最高よ。ってことは、山下さんと結婚?」
「まだプロポーズされていないんだけど、将来の話は出てるの」
「おめでとう。結婚、いいな~。私たち、もう二十七だものね」
マッコリのグラスを掲げて、麗子のグラスにコツンとあてる。
「柚乃は女の私から見てもお嫁さんにしたいタイプなのに、彼氏ができないなんて信じられないわ。世の男性は見る目がないのね」
「そんなタイプじゃないって。仕事は好きだし、今の自由な時間を楽しんでるよ」
そこまで言って、アフマーン氏を思い出してしまった。
「じつは……せっかく戻ってきたんだけど、異動をお願いしようかと思って……」
「え? どういうこと?」
麗子の表情が困惑に変わる。
状況が掴(つか)めるようにゆっくりとアフマーン氏の話を始めた。
「はぁ? なんなの? その大富豪は! 第三夫人? ありえないっ」
麗子の声が思わず大きくなり、憤慨している様子に、私の胸の中にあったわだかまりが少しずつほぐれていく。
ふいに香ばしい香りが漂ってきた。
「焼けました。どうぞ召し上がってください」
サムギョプサルを焼いていたスタッフの声で、麗子は少し気持ちを落ち着けたのか表情を変えた。
「柚乃、とりあえず食べよう。食べながら考えるっていうのも大事よね」
麗子はサンチュにえごまの葉やキムチ、焼けた豚肉をのせサムジャンという甘辛い味噌をつけて巻き、パクリとひと口で食べる。
「食べながら考える……?」
首をかしげながら麗子の言葉に困惑する。
「そうよ。おなかが空いていたら頭が回らないもの。柚乃はアフマーン氏の自由にならない。いや、ならせるべきじゃないの」
麗子は怒りがぶり返したのか、勢いよくサムギョプサルをもう一枚巻いて口に運ぶ。
「うちのホテルの上顧客ってところが厄介ね」
「そうなの。パリのリュクスではスイートルームに一カ月も滞在していたのを調べて知ったの」
「相当な金持ちってわけね」
麗子の声が少し驚きに変わる。
「想像できないくらいよ」
小さくため息が漏れる。
麗子は目を細めながら箸を置き、まっすぐに私を見つめる。
「一番いい方法って、柚乃が結婚することだと思うな。日本では重婚できないから、さすがにあきらめるんじゃない?」
その言葉でふと真佳奈さんの言葉を思い出した。同じことを言われた。
「相手がいないから難しいの」
「例えば、偽装してくれる人はいないかな?」
「え? 偽装……?」
その言葉の響きに戸惑いを隠せず目を見開くと、麗子はあっさりとうなずいた。
「そう。その男を信用させるには本当に結婚しなければならないけど、それでもいいって言ってくれる男性がいればいいのに。あ、久世支配人ほどの完璧人間なら大富豪を黙らせられるかも?」
「くっ、久世支配人なんて、別世界の人だよ」
「そうだよね、まあそれは冗談としても。柚乃、好きな人はいないの?」
「いるわけないじゃないっ」
思わず声をあげてしまい、動揺した自分を隠すように顔を逸らした。
しかし、久世支配人の冷静で落ち着いた顔が脳裏に浮かぶ。
その瞬間、自分の頬に熱が集まるのをはっきりと感じた。
麗子に気づかれないように視線を落とし、なんとか平静を保とうとする。
「なんだか柚乃が動揺してるように見えるけど? 本当に好きな人はいないのね?」
「い、いないわ」
言葉に詰まりながら曖昧に首を振った。
そして、心の中で『久世支配人なんてありえない。自分には遠い存在の人だ』と言い聞かせ、深く息をついた。


