大好きだった元彼と再会しましたが、私はもう結婚しています。
「失礼します」
私はノックしてから会議室へ入った。ドアを開けた瞬間、穂高がすでに席にいて、タブレットを見つめていた。
顔を上げると、ほんの一瞬だけ昔の柔らかい目になる。
「どうぞ、座って」
仕事上の声なのにそわそわしてしまう。
落ち着け、これはただの打ち合わせだ。
私は彼の向かいに座り、ペンを握り直した。
「まず、フォレスティアの春の新商品だけど……香味開発が遅れてるって聞いてる。現状どう?」
「はい。フルーツ酢ベースのシリーズなんですが……甘味の調整で苦戦しています。香りは良いんですけど、後味の酸味が立ちすぎてしまって」
「柑橘の天然フレーバー、前の試作品で入れてただろ。これ」
そう言って穂高が小さなボトルを取り出す。見慣れた試作品だ。
「これ、添加量どれくらいだっけ?」
「現行は0.02%です。増量案もあったんですけど、香気が強くなりすぎて……全体が“柑橘だけ”の印象になるというか」
穂高はボトルを嗅ぎ、キャップを外して一口。
それから、少し目を細めてもう一度香りを確認した。
「……なるほどね。だったら――」
ペンを指先でくるくる回し始める。
ああ、あの癖。考え込む時の仕草。昔のまま。
じっと見つめていたら、穂高のペンがふと止まった。
「……レモンじゃなくて、ベルガモットで調整してみるのはどうかな? 香りに丸みが出るし、酸のトーンも柔らぐと思う」
「ベルガモット……確かに。後味の尖りが抑えられるかもしれません」
「あぁ。よさそうに思うなら、ベルガモットのサンプルは俺の方で手配しておくよ」
その言葉に、胸の緊張が少しだけ落ち着いた。
よかった……穂高は今も、すごく頼れる人のままだ。昔のプライベートなことは気にせずこうして相談にも乗ってくれる。
「じゃあ、この件はベルガモットで進めよう。いい方向にいけば、試作の方向性を営業にも共有しておく」
「分かりました。では……」
穂高がタブレットを閉じ、立ち上がる。
「あとさ……今も名字は桐沢だよな。旧姓で勤務してるんだよな?」
「はい。もう会社では旧姓で浸透していましたし」
「夫は……営業部の坂下匡輔、だよな」
「それが何か仕事に関係ありますか」
語尾がつり上がる。穂高が困ったように眉を下げた。
「そんなムッとするなよ。俺も一緒に仕事することがあるだろうし、上司として把握しておくのは普通だ」
「……今のは私が悪いですね。失礼しました」
反論できないほど正論で、私は視線を落とした。
意識しすぎているのは、やっぱり私だけだ。
なのに穂高は、楽しそうにふっと口元を緩めた。
「相変わらず素直だな。……まぁ、そういうところが千紘らしいけど」
そう言って、自然すぎる足取りで部屋を出ていった。
静かな音を立てて、扉が閉まる。
「……って、今ナチュラルに千紘って呼んだよね? ただの上司なのにやめてよ、そういうの……」
本人に言えばいいのに。あまりに自然だったから、咄嗟に言い返せなかった。