声にならない、さよならを

最終章「再会のあとに残ったもの」

春の風がゆるく吹く午後。
柚李は、買い物袋を片手に商店街を歩いていた。
どこか懐かしい匂いがして、足を止める。
――この場所、昔よく通ったな。
胸の奥が、ふっと疼く。
もう何年も前のことなのに、蒼士の声や表情は
時間の中にうまく沈んでくれなかった。
けれど今は、
その痛みも日常の一部になりつつある。
「……あれ?」
聞き覚えのある声に振り向く。
そこに立っていたのは――
蒼士だった。
時間が止まったように感じた。
蒼士は少し驚いた顔をしたあと、
昔と同じ、落ち着いた笑顔を浮かべた。
「久しぶりだな、柚李」
名前を呼ばれただけで胸が鳴る。
あの頃の痛みが、一気に蘇ってしまう。
「ひ、久しぶり……です」
ぎこちない声に、自分で驚く。
大人になったはずなのに、
蒼士の前だと、昔のままに戻ってしまう。
「買い物?」
「うん……近いから」
会話は短くて、どこかぎこちなくて。
でも、風だけはあの日と同じように二人のあいだを通り抜けていった。
蒼士は少し視線を落として言う。
「……子ども、元気そうだったな」
柚李は一瞬だけ目を見張る。
さっき前の道を走っていた小さな影。
――あれ、蒼士の子どもだったのか。
「うん。走り回って、全然言うこと聞かない」
蒼士は照れたように笑う。
その笑顔は、昔のものと少し違っていた。
大人の、父親の表情だった。
「柚李も……幸せそうだな」
蒼士の視線が、柚李の左手の指輪に落ちる。
柚李は微笑んだ。
「うん。まあ……いろいろあるけど」
“いろいろ”
その言葉には、蒼士と過ごしたあの日々も、
泣いた夜も、全部含まれていた。
蒼士はどこか遠くを見るようにして言う。
「俺さ、あのとき……無理してたと思う」
胸が跳ねた。
「柚李に距離を置くって言ったけど、本当は……怖かっただけだよ。自分の気持ちに負けるのが」
ゆっくりと優しい声で続ける。
「でも……今は思う。あれでよかったって」
風がふっと二人の間を揺らす。
「柚李には、ちゃんと“未来”があったから」
その言葉は、あの頃よりずっと落ち着いていて、
優しいのにどこか寂しさを含んでいた。
柚李は、息を吸って言った。
「私も……蒼士さんが距離を置いたとき、すごく痛かった。でも……あのまま一緒にいたら、本当に壊れてたと思う」
蒼士はゆっくり頷く。
「そうだな。たぶん……そうだった」
沈黙が落ちた。
けれど、その沈黙は昔のような苦しいものではなく、
どこか穏やかで、優しい余白のようだった。
ふと、蒼士が小さく笑う。
「……柚李、大人になったな」
「そっちこそ」
二人は同時に笑った。
その笑い声は、あの日の涙とは違う、
静かで温かいものだった。
蒼士がふと時計を見た。
「そろそろ行くよ。嫁さん、心配するし」
その言葉に胸が少し痛む。
でも、痛いだけではなく、どこか心が軽くなった。
蒼士が最後に言う。
「会えてよかったよ。本当に」
柚李は微笑んでうなずく。
「私も……ありがとう」
“さよなら”という言葉は、
お互い言わなかった。
言わなくても、それぞれがもう前に進んでいるのを
わかっていたから。
蒼士が歩き去り、
角を曲がって見えなくなるまで目で追った。
もう手を伸ばすことも、
名前を呼ぶこともない。
でも不思議と――涙は出なかった。
胸の奥があたたかいまま、風が優しく吹いた。
柚李は小さくつぶやく。
「……さよなら。蒼士さん」
それは別れではなく、
ようやく訪れた
心の中の終わり
だった。
遠くで子どもの笑い声が響き、
春の日差しが二人の過去をそっと照らしていた。
こうして、
忘れられない恋は静かに幕を閉じ、
それぞれの日常の中へ溶けていった。
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