身代わり王女は隣国の皇弟に囚われる
14
最近の自分は、なんだか様子がおかしいとシルビオは思う。
「あ、あの、殿下」
気恥ずかしそうなエリシアの声に、何を言いたいのかはすぐにわかった。隣国の王女であり、稀代の魔法使いと持て囃される彼女は、表情や声音から考えていることが読み取り易いと気づいたのはいつのことだったか。気づかないふりをして、「なに」と返すと、膝の上でもぞもぞと身じろぐ。
「今日もこの体勢?」
「ああ」
頷いて、腰に回した腕でグッと引き寄せる。シルビオの右腿に座らせているせいで、隣同士で座るよりもずっと距離が近い。日に当たったことがなさそうな真っ白い肌に、赤みが差す。シルビオが鍛えているとはいえ、細っこい体は心配になる程軽い。もっと食わせないと、と思われているとは知らないエリシアは、「重くないですか?」と眉尻を下げている。
「全然」
「で、でも……」
そう言ったきり、エリシアの視線はあっちこっちを彷徨う。言い返したいことがあるけれど、どう言葉にしたらいいのかわからない、と顔に書いているのがわかりやすい。パーティーでのあれこれを謝罪してきたときも、「反省している人の表情」のお手本として出せるような顔をしていた。
押し倒して泣かせたときの一連のやり取りでも思ったけれど、この王女は基本的に根っからの善人なのだろう。打算も目論見もなく、自らの中の正義感に従って行動し、間違っていれば素直に認める。眩いほどのまっすぐさは、彼女が「エリシア王女」でないことの証左に他ならない。腹芸なんて発想にすらないような潔癖さでは、きっと一国の王女なんて務まらないのだ。
「こ、これはさすがに、距離が近すぎるんじゃありません?」
「……そんなことないだろ」
「どうして目を逸らすの?」
ふいっと顔を背けるシルビオに、「私が殿下の膝の上に乗る必要はないのでは」だの、「会話するなら隣同士に座るだけで十分ですわ」だのと言い募る。日課の雑談の時間に、エリシアを抱えるようになったのはここ数日の話。パーティー翌日にエリシアを抱きしめてからだ。別に怒っていないシルビオに、それでは自分の気が済まないと告げたエリシア。じゃあ抱きしめさせて、と言ったのはほとんど出来心だった。断固として断られるかと思っていたのに、そうされなかったことがシルビオの欲を煽った。
「嫌?」
「え」
「どうしても嫌ならやめる」
翡翠の瞳を見つめ、そう尋ねる。真っ赤に染まった頬も、戸惑ったように潤む瞳も、控えめにシルビオの服を掴む小さな手も。ずっと見ていられると思うのはどうしてだろうか。「い、嫌じゃありませんわ。でも……」ともにょもにょ続けるので、「嫌じゃないなら慣れて」と食い気味に告げる。
「ていうか、これぐらいでピーピー言っててどうすんだよ。これ以上のこともいつかはするのに」
「これ以上!?」
「なんで驚くんだよ」
呆れたように息を吐くシルビオ。彼女は、王族が結婚する意味をわかっていないのだろうか。二人の結婚には政略的な意味しかなく、恋愛感情の類は持ち合わせていない。けれど、だからこそ、世継ぎ問題は避けて通れないのだ。首まで真っ赤にしてのけぞるエリシアの腰を抱き寄せながら、そんなことをつらつらと考える。
とはいえ、先代皇帝の喪が明けるまで、兄であるライナスとセレステの結婚は先送り。シルビオとエリシアの結婚はそのあとなので、あと数年は猶予があるだろう。王国での問題が片付いていないことや、目の前の「エリシア王女」の正体も見極められていないことを鑑みれば、世継ぎの話は二の次三の次。ぶっちゃけて言えば、今から慣れてもらう必要なんてどこにもない。
にも関わらず、それっぽく並べ立てエリシアを丸め込もうとするのは、ただただ彼女に触れたいからというだけなのだけれど。シルビオにその自覚は乏しい。以前、エリシアへの感情を、「恋では?」というリオンの指摘に、そんなわけないだろと一蹴したときから変わらないままだと思っている。衝撃を受けている様子のエリシアは、ふと思いついたかのように口を開いた。
「殿下はご経験があるの?」
「はあ? なんの」
「いろいろと……そう、例えば好きな人がいたりとか」
そう言うと、なぜか目を輝かせ始めるエリシア。何を急に聞かれているんだ、と思いながら、「聞いてどうするんだよ」とだけ返す。ぱちり、と目を瞬かせ、「どうもしませんわ。ただ、気になっただけですもの」と返すエリシア。「気になったぁ?」と怪訝そうにするシルビオに、表情を変えずに続けた。
「ずっと前に、お互いのことをよく知りましょうと提案したときに、手っ取り早い方法があると言って私のことを押し倒したでしょう?」
「っあ、あれは……!」
思ってもいない言葉に動揺するシルビオ。「蒸し返して責めようというわけじゃなくて」とまたも慌てて否定するエリシア。ほとんど八つ当たりで押し倒した挙句、泣かせたことに弁解の余地はない。誰に聞いてもシルビオが悪いと答えるだろう。背中に変な汗が滲むシルビオとは裏腹に、エリシアは涼しい顔をして口を開く。先ほどまでの動揺や気恥ずかしさは、もう伺えない。
「あれは、殿下の実体験?」
「は……」
「私にしようとしたことを他の誰かにして、それで仲が深まったことがおありなの?」
なんの辱めを受けてんだよ俺は、と言いたいのをグッと堪える。エリシアにそういう思惑がないことぐらい、顔を見ればわかる。あくまで純粋な好奇心から尋ねていて、それだから厄介なのだ。キラキラと宝石のような瞳を煌めかせ、わくわくとシルビオの答えを待っている。自分が可愛いことを自覚して調子に乗っているとしか思えない、と毎度苛立ちすら覚えるのだけれど、彼女にはその自覚もないらしい。
「さあ、どうだっけな」
「はぐらかした!」
どうしてはぐらかすんですの、とエリシアは柳眉を顰めるけれど。どうしても何も、そんな経験がないからに決まっている。十歳で皇宮に呼び寄せられ、第二皇子としての教育や鍛錬に努めてきたシルビオ。恋愛に現を抜かすような暇はなかったし、興味もなかった。それに、寄ってくる女性を相手にして、うっかり過ちを犯しでもしたらどうするのか。万が一、シルビオと同じような立場の子供を作ってしまったらと思うと、ぞっとする。好色な父のせいで割を食った母を見ての、反省と教訓だ。
そういうわけで、答えは「ない」だ。女性との交際経験も、押し倒したその先を実践して仲を深めたこともない。庭園で酔っ払ったエリシアに口付けていたら、あれがシルビオのファーストキスになっていたことだろう。何かの答えを期待するようなエリシアは、ハッと思いついたように人差し指を立てて口を開く。なんとなくだけれど、ろくなことを言わないのだろうなと予感した。
「もしかして、初恋はセレステ様……!?」
「はあ?」
予想以上にろくなことを言わなかった。言い当てた、とばかりに誇らしげな顔が可愛らしくも憎らしい。ぴん、と立てた人差し指を握ってやろうかと思いつつ、「なんでそうなるんだよ」とだけ返した。「だって、殿下はその……十歳で初めて皇宮に来たのでしょう?」と遠慮がちに尋ねるエリシアに、「別にその話、そこまでタブーでもねえよ」と告げる。皇宮に関わる誰もが知っている事実なのだ。顔色を窺われる方が、居心地が悪い。それを聞いて、エリシアは安堵したように息を吐いた。
「誰も知っている人がいない状況で、あんなに綺麗な人に優しくされたら好きになるに決まってるわ」
「……」
やけに実感のこもった言葉だと思ったけれど、無理もない。王国から連れてこられたかと思えば地下牢に入れられ、偽王女だと疑われ、冷たくされてきたのだから。王国で事件が起きていることや、いまだに正体がよくわからないことなど、どれだけ言い訳を並べ立てたところで、異国からたった一人でやってきた彼女を冷遇したことは紛れもない事実。心細いときに優しくしてくれたセレステに懐くのは当然の成り行きだろう。だからと言って、似た境遇のシルビオの初恋がセレステだと決めつけるのはどうかと思うけれど。
「……悪かったな、冷たくして」
「えっ、急にどうなさったの?」
目を丸くするエリシアから、視線を外す。エリシアのように自らの誤りを言語化して伝えられるような素直さは、シルビオにはまだない。ぶっきらぼうな謝罪を告げるのがせいぜいだ。亡き母や祖父母が見たら、さぞかし呆れることだろう。膝の上で黙り込んだままのエリシアは、「殿下って」と口を開いた。
「多分、根はいい人ですよね」
「はあ? なんだそりゃ」
「ふふ」
楽しそうに微笑むエリシアは、シルビオの膝の上にいることを忘れているのかもしれない。右の頬を緩くつまみ、「可愛いからって調子乗んなよ」と呟くと、「毎回思うんですけど、それってどういう意味です?」と首を傾げられた。そんな仕草一つとっても、シルビオの心臓をざわつかせるのが腹立たしい。
「言葉通りだよ」
「? ありがとうございます」
「褒めてねえ」
むに、と右頬を摘んでいると、「あっ」と思い出したように声を上げる。割とはっきりと、ろくなことを言わないのだろうな、と予感した。
「それで、殿下の初恋はセレステ様?」
「その話まだ続いてたのかよ……」
げんなりするシルビオとは対照的に、瞳の輝きも髪の艶も失わないエリシア。どうしてこんなに楽しそうなのか。「聞いてどうすんだよ」ともう一度尋ねると、「どうもしませんわ」と先ほどと似たような答えが返ってきた。
「こういう話をする相手って今までいなかったから、殿下とできたら嬉しいと思って」
「なんで俺なんだよ」
「最近仲良くしてくださるから」
「……」
そうではなく、どうして婚約者相手に恋バナで盛り上がろうとするのか、ということを聞きたかったのだけれど。あまりに真っ直ぐ答えるので、面食らってしまった。初対面時の最悪な印象とその後の冷遇にも関わらず、最近のシルビオはエリシアにとっては仲良くしてくれる存在らしい。こいつこんなにちょろくて大丈夫かよ、と改めて心配すると同時に、王女でないのだろうという確信を強める。一国の王女であり、稀代の魔法使いが、こんなに人懐っこくてどうするのか。
「そういう話は、侍女とでもすればいいだろ。主君の命令を聞かないわけにはいかねえだろうし」
「それじゃだめなの!」
「なんだよ急に」
唐突にヒートアップするエリシアが膝から落ちないよう、腰を掴む手を強める。力を込めたらポッキリと折れてしまいそうでドギマギしたが、本人は気づいた様子もない。「そんな無理やり聞き出すような真似はできません」と力説している。自分が婚約者相手に、無理やり聞き出そうとしている自覚はないらしい。というか、シルビオの恋バナから当然のように自分を除外している様子が気になった。政略結婚であるこの婚約に、恋愛感情はない。ないけれど、あまりにも最初から可能性を除外されるのはなんだか気に食わない。
「そう言うお前は?」
「え?」
「俺にばっか聞くのは不公平だろ」
そっちの話も聞かせろよ、と尊大に告げる。何気ない様子を取り繕ったけれど、うまくできたかはわからない。皇宮に呼ばれてから身につけたポーカーフェイスだけれど、意外と鈍いエリシアには十分通用したようだ。訝しむ様子もなく、「私の話……」と考え込んでいる。伏せた瞳を縁取る睫毛を見つめ、針ぐらいなら乗りそうだと思った。やがて、ゆっくり顔を上げると、「ありませんわ」と肩を竦める。
「殿下のご期待に沿えず残念ですけれど」
「別に期待してねえ」
そう言いつつ、無意識に胸を撫で下ろすシルビオ。心底では期待していたのかもしれない、話せるような話なんてないと言われることを。「一国の王女ですもの。そんな暇ありませんわ」と胸を張っているけれど、シルビオも条件が同じだと言うことには気づかないのだろうか。「そうだな」とだけ返すシルビオに、「だから、その……これ以上も慣れてみせますわ」と何かを決意したかのようにエリシアは告げる。これ以上、が何を指しているのかはすぐにわかった。今言うことなのか、とは思ったものの。慣れようとするのであれば、それに越したことはない。
「せいぜい頑張れよ」
「もう。またそういう言い方する」
ぷん、と怒ったように膨らんだ頬を、片手で掴む。ぷひゅっと空気が抜けて目を瞬くのがあまりに幼くて、思わず吹き出してしまった。
「あ、あの、殿下」
気恥ずかしそうなエリシアの声に、何を言いたいのかはすぐにわかった。隣国の王女であり、稀代の魔法使いと持て囃される彼女は、表情や声音から考えていることが読み取り易いと気づいたのはいつのことだったか。気づかないふりをして、「なに」と返すと、膝の上でもぞもぞと身じろぐ。
「今日もこの体勢?」
「ああ」
頷いて、腰に回した腕でグッと引き寄せる。シルビオの右腿に座らせているせいで、隣同士で座るよりもずっと距離が近い。日に当たったことがなさそうな真っ白い肌に、赤みが差す。シルビオが鍛えているとはいえ、細っこい体は心配になる程軽い。もっと食わせないと、と思われているとは知らないエリシアは、「重くないですか?」と眉尻を下げている。
「全然」
「で、でも……」
そう言ったきり、エリシアの視線はあっちこっちを彷徨う。言い返したいことがあるけれど、どう言葉にしたらいいのかわからない、と顔に書いているのがわかりやすい。パーティーでのあれこれを謝罪してきたときも、「反省している人の表情」のお手本として出せるような顔をしていた。
押し倒して泣かせたときの一連のやり取りでも思ったけれど、この王女は基本的に根っからの善人なのだろう。打算も目論見もなく、自らの中の正義感に従って行動し、間違っていれば素直に認める。眩いほどのまっすぐさは、彼女が「エリシア王女」でないことの証左に他ならない。腹芸なんて発想にすらないような潔癖さでは、きっと一国の王女なんて務まらないのだ。
「こ、これはさすがに、距離が近すぎるんじゃありません?」
「……そんなことないだろ」
「どうして目を逸らすの?」
ふいっと顔を背けるシルビオに、「私が殿下の膝の上に乗る必要はないのでは」だの、「会話するなら隣同士に座るだけで十分ですわ」だのと言い募る。日課の雑談の時間に、エリシアを抱えるようになったのはここ数日の話。パーティー翌日にエリシアを抱きしめてからだ。別に怒っていないシルビオに、それでは自分の気が済まないと告げたエリシア。じゃあ抱きしめさせて、と言ったのはほとんど出来心だった。断固として断られるかと思っていたのに、そうされなかったことがシルビオの欲を煽った。
「嫌?」
「え」
「どうしても嫌ならやめる」
翡翠の瞳を見つめ、そう尋ねる。真っ赤に染まった頬も、戸惑ったように潤む瞳も、控えめにシルビオの服を掴む小さな手も。ずっと見ていられると思うのはどうしてだろうか。「い、嫌じゃありませんわ。でも……」ともにょもにょ続けるので、「嫌じゃないなら慣れて」と食い気味に告げる。
「ていうか、これぐらいでピーピー言っててどうすんだよ。これ以上のこともいつかはするのに」
「これ以上!?」
「なんで驚くんだよ」
呆れたように息を吐くシルビオ。彼女は、王族が結婚する意味をわかっていないのだろうか。二人の結婚には政略的な意味しかなく、恋愛感情の類は持ち合わせていない。けれど、だからこそ、世継ぎ問題は避けて通れないのだ。首まで真っ赤にしてのけぞるエリシアの腰を抱き寄せながら、そんなことをつらつらと考える。
とはいえ、先代皇帝の喪が明けるまで、兄であるライナスとセレステの結婚は先送り。シルビオとエリシアの結婚はそのあとなので、あと数年は猶予があるだろう。王国での問題が片付いていないことや、目の前の「エリシア王女」の正体も見極められていないことを鑑みれば、世継ぎの話は二の次三の次。ぶっちゃけて言えば、今から慣れてもらう必要なんてどこにもない。
にも関わらず、それっぽく並べ立てエリシアを丸め込もうとするのは、ただただ彼女に触れたいからというだけなのだけれど。シルビオにその自覚は乏しい。以前、エリシアへの感情を、「恋では?」というリオンの指摘に、そんなわけないだろと一蹴したときから変わらないままだと思っている。衝撃を受けている様子のエリシアは、ふと思いついたかのように口を開いた。
「殿下はご経験があるの?」
「はあ? なんの」
「いろいろと……そう、例えば好きな人がいたりとか」
そう言うと、なぜか目を輝かせ始めるエリシア。何を急に聞かれているんだ、と思いながら、「聞いてどうするんだよ」とだけ返す。ぱちり、と目を瞬かせ、「どうもしませんわ。ただ、気になっただけですもの」と返すエリシア。「気になったぁ?」と怪訝そうにするシルビオに、表情を変えずに続けた。
「ずっと前に、お互いのことをよく知りましょうと提案したときに、手っ取り早い方法があると言って私のことを押し倒したでしょう?」
「っあ、あれは……!」
思ってもいない言葉に動揺するシルビオ。「蒸し返して責めようというわけじゃなくて」とまたも慌てて否定するエリシア。ほとんど八つ当たりで押し倒した挙句、泣かせたことに弁解の余地はない。誰に聞いてもシルビオが悪いと答えるだろう。背中に変な汗が滲むシルビオとは裏腹に、エリシアは涼しい顔をして口を開く。先ほどまでの動揺や気恥ずかしさは、もう伺えない。
「あれは、殿下の実体験?」
「は……」
「私にしようとしたことを他の誰かにして、それで仲が深まったことがおありなの?」
なんの辱めを受けてんだよ俺は、と言いたいのをグッと堪える。エリシアにそういう思惑がないことぐらい、顔を見ればわかる。あくまで純粋な好奇心から尋ねていて、それだから厄介なのだ。キラキラと宝石のような瞳を煌めかせ、わくわくとシルビオの答えを待っている。自分が可愛いことを自覚して調子に乗っているとしか思えない、と毎度苛立ちすら覚えるのだけれど、彼女にはその自覚もないらしい。
「さあ、どうだっけな」
「はぐらかした!」
どうしてはぐらかすんですの、とエリシアは柳眉を顰めるけれど。どうしても何も、そんな経験がないからに決まっている。十歳で皇宮に呼び寄せられ、第二皇子としての教育や鍛錬に努めてきたシルビオ。恋愛に現を抜かすような暇はなかったし、興味もなかった。それに、寄ってくる女性を相手にして、うっかり過ちを犯しでもしたらどうするのか。万が一、シルビオと同じような立場の子供を作ってしまったらと思うと、ぞっとする。好色な父のせいで割を食った母を見ての、反省と教訓だ。
そういうわけで、答えは「ない」だ。女性との交際経験も、押し倒したその先を実践して仲を深めたこともない。庭園で酔っ払ったエリシアに口付けていたら、あれがシルビオのファーストキスになっていたことだろう。何かの答えを期待するようなエリシアは、ハッと思いついたように人差し指を立てて口を開く。なんとなくだけれど、ろくなことを言わないのだろうなと予感した。
「もしかして、初恋はセレステ様……!?」
「はあ?」
予想以上にろくなことを言わなかった。言い当てた、とばかりに誇らしげな顔が可愛らしくも憎らしい。ぴん、と立てた人差し指を握ってやろうかと思いつつ、「なんでそうなるんだよ」とだけ返した。「だって、殿下はその……十歳で初めて皇宮に来たのでしょう?」と遠慮がちに尋ねるエリシアに、「別にその話、そこまでタブーでもねえよ」と告げる。皇宮に関わる誰もが知っている事実なのだ。顔色を窺われる方が、居心地が悪い。それを聞いて、エリシアは安堵したように息を吐いた。
「誰も知っている人がいない状況で、あんなに綺麗な人に優しくされたら好きになるに決まってるわ」
「……」
やけに実感のこもった言葉だと思ったけれど、無理もない。王国から連れてこられたかと思えば地下牢に入れられ、偽王女だと疑われ、冷たくされてきたのだから。王国で事件が起きていることや、いまだに正体がよくわからないことなど、どれだけ言い訳を並べ立てたところで、異国からたった一人でやってきた彼女を冷遇したことは紛れもない事実。心細いときに優しくしてくれたセレステに懐くのは当然の成り行きだろう。だからと言って、似た境遇のシルビオの初恋がセレステだと決めつけるのはどうかと思うけれど。
「……悪かったな、冷たくして」
「えっ、急にどうなさったの?」
目を丸くするエリシアから、視線を外す。エリシアのように自らの誤りを言語化して伝えられるような素直さは、シルビオにはまだない。ぶっきらぼうな謝罪を告げるのがせいぜいだ。亡き母や祖父母が見たら、さぞかし呆れることだろう。膝の上で黙り込んだままのエリシアは、「殿下って」と口を開いた。
「多分、根はいい人ですよね」
「はあ? なんだそりゃ」
「ふふ」
楽しそうに微笑むエリシアは、シルビオの膝の上にいることを忘れているのかもしれない。右の頬を緩くつまみ、「可愛いからって調子乗んなよ」と呟くと、「毎回思うんですけど、それってどういう意味です?」と首を傾げられた。そんな仕草一つとっても、シルビオの心臓をざわつかせるのが腹立たしい。
「言葉通りだよ」
「? ありがとうございます」
「褒めてねえ」
むに、と右頬を摘んでいると、「あっ」と思い出したように声を上げる。割とはっきりと、ろくなことを言わないのだろうな、と予感した。
「それで、殿下の初恋はセレステ様?」
「その話まだ続いてたのかよ……」
げんなりするシルビオとは対照的に、瞳の輝きも髪の艶も失わないエリシア。どうしてこんなに楽しそうなのか。「聞いてどうすんだよ」ともう一度尋ねると、「どうもしませんわ」と先ほどと似たような答えが返ってきた。
「こういう話をする相手って今までいなかったから、殿下とできたら嬉しいと思って」
「なんで俺なんだよ」
「最近仲良くしてくださるから」
「……」
そうではなく、どうして婚約者相手に恋バナで盛り上がろうとするのか、ということを聞きたかったのだけれど。あまりに真っ直ぐ答えるので、面食らってしまった。初対面時の最悪な印象とその後の冷遇にも関わらず、最近のシルビオはエリシアにとっては仲良くしてくれる存在らしい。こいつこんなにちょろくて大丈夫かよ、と改めて心配すると同時に、王女でないのだろうという確信を強める。一国の王女であり、稀代の魔法使いが、こんなに人懐っこくてどうするのか。
「そういう話は、侍女とでもすればいいだろ。主君の命令を聞かないわけにはいかねえだろうし」
「それじゃだめなの!」
「なんだよ急に」
唐突にヒートアップするエリシアが膝から落ちないよう、腰を掴む手を強める。力を込めたらポッキリと折れてしまいそうでドギマギしたが、本人は気づいた様子もない。「そんな無理やり聞き出すような真似はできません」と力説している。自分が婚約者相手に、無理やり聞き出そうとしている自覚はないらしい。というか、シルビオの恋バナから当然のように自分を除外している様子が気になった。政略結婚であるこの婚約に、恋愛感情はない。ないけれど、あまりにも最初から可能性を除外されるのはなんだか気に食わない。
「そう言うお前は?」
「え?」
「俺にばっか聞くのは不公平だろ」
そっちの話も聞かせろよ、と尊大に告げる。何気ない様子を取り繕ったけれど、うまくできたかはわからない。皇宮に呼ばれてから身につけたポーカーフェイスだけれど、意外と鈍いエリシアには十分通用したようだ。訝しむ様子もなく、「私の話……」と考え込んでいる。伏せた瞳を縁取る睫毛を見つめ、針ぐらいなら乗りそうだと思った。やがて、ゆっくり顔を上げると、「ありませんわ」と肩を竦める。
「殿下のご期待に沿えず残念ですけれど」
「別に期待してねえ」
そう言いつつ、無意識に胸を撫で下ろすシルビオ。心底では期待していたのかもしれない、話せるような話なんてないと言われることを。「一国の王女ですもの。そんな暇ありませんわ」と胸を張っているけれど、シルビオも条件が同じだと言うことには気づかないのだろうか。「そうだな」とだけ返すシルビオに、「だから、その……これ以上も慣れてみせますわ」と何かを決意したかのようにエリシアは告げる。これ以上、が何を指しているのかはすぐにわかった。今言うことなのか、とは思ったものの。慣れようとするのであれば、それに越したことはない。
「せいぜい頑張れよ」
「もう。またそういう言い方する」
ぷん、と怒ったように膨らんだ頬を、片手で掴む。ぷひゅっと空気が抜けて目を瞬くのがあまりに幼くて、思わず吹き出してしまった。